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2016年8月30日火曜日

「勉強は自分のためにするもの」を実行した子の話。

今日、作文指導をした子の話。

夏休みの宿題として「非行や犯罪の無い社会作り」というテーマのものを持ってやってきました。

自分の感想や考えたことをメモにしておくことを伝えていて、バッチリ用意もしていました。

そんな彼の、今日の第一声。
「無くすことなんて出来るんですか?」

ドキッとしませんか?

きれい事のようなテーマに対して率直な疑問を持った彼。
でも、減らすことは出来ると信じている様子。

良いじゃない!

散々考えて、その疑問に行き着いたなら、作文の着地地点を、その疑問にしたら?

と提案したら、書き始めました。

別に賞を取りたいと言うのでなければ、宿題をきっかけに、そのテーマについて考えてみるきっかけにしてしまって、自分の考えの流れを書いていけば良いのです。

賞は取りたい人が狙えば良い。

多分、模範みたいな書き方もあるのでしょう。
でも、そのレールに無理やり乗っかるよりか、自分の考えの流れを、考え自体を深めることで良いんじゃないでしょうか?

どうしても賞を取りたい、っていうなら話は別ですが。

多くの大人が言うじゃないですか?
「勉強は自分のためにするもの」と。

彼の困った作文は、まさにそれを実行したものになりました。

ぐるんぱは、1人1人に合った指導を目指します。
作文をはじめとする表現指導、療育的学習、一般科目指導、療育的ないようを含んだプール指導など…

ご相談お問い合わせお待ちしております。

2016年8月29日月曜日

勘と直感は大違い!

以前にも似たことを書いた気がしますが…いわゆる直感は、バカに出来ないと思っています。

直感は、主に、経験があってこそ働くものです。
経験の無いときには働きません。

言葉にできなくても、自分に注意深くなって、ゴーかストップか位のものは感じる余裕は持ち続けたいものですね。

物事は、論理的である必要は確かにあります。
でも、直感で判断して、後から理論をつけることがあっても良いと思います。
そういうことってあると思います。

経験を重ねて、後から何があったか分析する要領で。

直感と勘は全く違いますから。

直感には、後付けということはあっても、その人なりの論理があることがほとんどです。

勘には、付けるものがない、と思います。

そして、その論理をくっつけられるくらいには経験と知識の結び付けとして勉強が必要だと思います。

子どもには活きた学習、と言いつつ、こちらが勉強しないのは矛盾していますから。

0か1かの違いを子どもは見ている

子どもたちは関わってくれる大人のことを点数をつけて評価したりはしません。

ただ、関わってくれるか否かを見ています。

ついつい大人は「上手くやろう」「上手くしなくては」と思ってしまいますが、よく振り替えって欲しいのです。
子どもたちに対しては「失敗しても良いから」と言いませんか?

あれです。

10点を取ろうとしなくて良いのです。
5点でも1点でも構いません。

でも、やらないで0なのか、何かして1点なのか…この違いはものすごーく大きいと思います。

子どもは、この0か1かだけはよく見てくれています。

この、1をするだけ大人は勇気を持つ必要があります。

上手く出来ないから、手足を引っ込めるのは子どもから評価されてのことではないはずです。

自己評価のような気がします。

子どもからしてみても、「上手く出来ないから」と引っ込まれては寂しい限りです。

それこそ「上手く出来ないと、してはいけない」という姿を見て、子どもたちはチャレンジしにくくなってしまいます。

仕事を始めた頃によく言われました。
「道化になれ」と。

失敗もおどけて見せるくらいが良い。
そうしながら学んでいくのだと。

やる勇気が湧かないなら一度、自分の良さを考えると良いかもしれません。

良さが1つもない訳ではないはずです。

失敗を怖がり出すと、自分の良さすら見失います。
でも「私の良さはこれ!」っていうぶれないものがあればくじけずに、臆せずに0を1にする取り組みがしやすくなるはずです。


2016年8月27日土曜日

なにかが出来るようになる、それは生活が幅を持ち内面が豊かになるということ

最低限身に付けないといけないこと、となると限定的になると思いますが、身に付けた方が良いことというのは、結構幅が出てきます。

保護者さんとかからも「将来使いますかね?」という質問もたまに頂きます。

障がいを持っている子たちは、いわゆる作業所と言われる事業所で就労支援を受けながら生活していくようになる子も多いです。

そういう将来を思い描いたときに必要だと思えないから、練習しなくても良いのでは?
ということだそうです。

確かに作業する上で必要に迫られることは限られると思います。

でも、だからと言って練習を早々に止めてしまうのは勿体ないと思います。

何て言ったって、生活は仕事だけではありません。

余暇の時間。
それをどう過ごすか、どう過ごせるか、というところに関わってきます。

余暇の時間の過ごし方を上手にして、メリハリをつけて、リフレッシュしながら生活していくんです。

多くを身につける必要はなくて「もしかしたら定着するかも」と思えるもの「楽しみにつながるかも」ということの学習については是非続けて欲しいと、個人的には願っています。

2016年8月26日金曜日

相手にマナーとモラルを守ってもらい、ルールを作る

僕は今、場作りということに関わっています。

その中で思うのが、まずは利用する人を信じられるか?ということ。

社会には当然、いろんな人がいます。
いろんな事が起こります。

いろんな想定がされます。
それこそ「最悪の事態」みたいなことも含めて。

でも、その前にこちらから利用する人を信じられるか?ということはとても大切だと思っています。

でないと、場作りなんて出来ません。

マナーやモラルを信じて、こちらではルールを作って…

そうやって場作りはしていくものだと思います。

だって、自分たちのことを信じてくれていない場には寄り付かないでしょう?

信じるとか信じない、っていうのは目に見えないものです。

でも、いろんな動作や雰囲気ににじみ出るものです。

場作りは結局のところ、人なんだと思います。
どんな人が、どうやって訪れる人やモノ、企画を受け入れるのか…それだと思います。

2016年8月25日木曜日

レスパイトが親子の繋がりを深める為のものである為に

今日は宗像の「げんきっこくらぶ ほっぷ」さんの親子料理教室のお手伝いをさせていただきました。

親子の繋がりを感じられる温かい素敵なイベントでした。

ありがとうございました。

さて、こういう様子を拝見するとレスパイトについていろいろ考えます。

レスパイトは必要です。
それは間違いないことです。

でも、その言葉ばかりが一人歩きすることがあるので、個人的には凄く気になります。

僕は(恐らく僕に限らず多くの支援も思っているはず)、レスパイトは親子の繋がりを深めるための支援なのだということはハッキリさせておきます。

いくら金になるからとか、レスパイトとしての役割は?とか言われても、僕自身の天秤にかけてみて「これは親子の繋がりを深まる」と思えないものはレスパイトとしては認められません。

あるいはしっかりと親子が向き合っていることが見えてこそだと思います。
そういうところにこそ、レスパイトとしての支援も提供したいと思います。

言うまでもなく、僕にしろ他の事業所にしろ、子どもを預かる場ではなくて支援をする場なんですね。

僕の目指す、考えるレスパイトの在り方は「お帰りなさい!」と子どもが帰って来たときにはしっかり受け止めてもらえるようなもの。

支援者がどんなに素晴らしく、どんなに努力しても、保護者には敵いません。
だからこそのレスパイトなんです。

脈絡ない感じですが、言いたいことを感じ取ってもらえたでしょうか?

2016年8月24日水曜日

子どもの言葉をまずは信じてから、ズレを伝える

「その子にとっては、それが真実」という視点で子どもを信じることは大切なのかもしれません。

こちらが期待する「成果物」と子どもが「やったこと」は一致しないこともあります。

こちらから見るとしていない。
でも、子どもからしたらしている。

という具合に。

そんなときには、まずは「よく頑張っているね」と認めてあげて、その後にでも「こちらが求めていることとは、まだずれているから」と伝えてあげると良いと思います。

そういう小さなすれ違いを埋めていくのが支援だと思います。

2016年8月23日火曜日

腹を立てても仕方がないから、呟きながら考えてみる。

今日の記事は誰に、ということでもなく、呟くように綴ろうと思います。

多分、一種のパニックなんだろうと思う。
予想していた状況と違ったものだから。

その中で頑張った、ということを聞いてほしかったのではなかろうか?

パニックも表現方法の1つだとは思う。
だから、僕なんか子どもと関わるときにはパニックを起こさせないように、なんてことは、限定的にしか考えない。
パニックを起こしたら対応に困るとか、僕との関わりのあとに尾を引く可能性があるだとか、そういうときにはパニックも避けるけど。

そういう観点から行くとパニックを起こしたら、ガス抜きになるから、まぁ良いかくらいのもの。

ガス抜きしてスッキリして、建設的になれるのなら、尚良い。

そうなることを期待したい。

もう少し別視点から起こったことについて考える。
目的が同じでも、それに向けた目標設定が違う、ということは大いにあり得る。

立ち位置、立場が違うから仕方ない。

その為に自分の歩もうとしている道の弊害になりはしないか?と警戒しているのかもしれない。

「目的はこうですよね?」
「それに向けて、私たちはこうしていきます」
「あなた方はこうですね?」

という確認とすり合わせがもっと必要だったのかもしれない。

チーム内での役割確認のようなイメージであるべきところを、何を感じ取ったか敵味方、あるいは使える使えないという線引きをしてしまったか…


気持ちは分からないでもない。
けど大人気ない。

もう少し慎重に距離を測るべきだったか。

あるいはもっと丁寧に立場の確認をしていくべきだったか…

反省が残る。

大人気ないとか書いたけど…
…こんなことをわざわざ綴る僕も同種か。


補足。
パニックは起きても良い、というようなことを書いたけど…
パニックとは別に「調子が悪いなら、少しでも良く」「調子が良いなら維持しながら」という関わりは大前提です。
それに必要なら、パニックも臆さないという話。

2016年8月22日月曜日

ハード面ばかりでなく…

わざわざ福祉トイレを作っているのに、半自動で閉まらない扉。

車イスのターンもしにくい廊下。

リモコン操作で水洗できるとか、そんなのばっかり。

形ばかりの設備の多いこと。

きめ細かさがない。

施設、設備…ハード面ばかり「バリアフリー」とか言ってるからこういうことになる。

内面にバリアがあるから、こういうことが起こる。

工夫とかそんな話じゃなくて、気配り、心配りの話。

想像力の話。

2016年8月21日日曜日

ニーズに応えることは、誰にでも合わせることではないから、ブログも等身大でいく!

「本当にいろんな記事の書き方をしますね」とある方から言っていただきました。

その方と話す中で、愚痴っぽい事を書くことや「バカタレ」的な記事を書くことはイメージの低下に繋がらないか?

という話になりました。

ごもっともだと思います。

でも、僕はイメージの低下だとは思わない、とハッキリ答えました。

綺麗なことばかり書いて「非の打ち所のない人」と思われることこそイメージの低下、というか実際の僕とのギャップを読み手に抱かせることになると思うからです。

また、仕事をする上でも「誰にでも合わせる」という気はサラサラありません。
自分の価値観と芯を持って仕事に当たり、「永田らしさ」の中でぐるんぱの活動を展開したいとも思っています。

「ニーズに応える」は「誰にでも合わせる」ではないと思っています。

既に関わっている保護者さんからは「安心する」という事も言って頂いてもいます。

「愚痴りながらで良いんだと思える」
「我が子がどんな人と関わっているのか見えた方が良い」

そんな声も頂きます。

思ったこと、感じたこと、考えたこと、したこと…

ありのままに綴る事が大切だと思っています。

ブログはイメージ作りです。

自分を聖人君子のように作りたければ、そういう記事の書き方もあると思います。

でも実際に、会った時に「イメージと違う」と相手に思われるのは、どう考えてもよろしくないと思うわけです。

僕自身の事を、ぐるんぱの事を知って欲しくて書いているブログですから、誰かに気を使うつもりもありません。

そして9ヶ月毎日更新出来ているのは、ありのままに綴るからだとも思っています。
自分らしくない記事は続かないです(笑)

これからも等身大の記事を書いていくので、どうぞよろしくお願いします!

夏休みの宿題、答えを写させるのも場合によってはアリ。何を目的にしているのか、ハッキリさせながら活用してください。

夏休みの宿題が終わらずに焦っている人も出始めているころですね(笑)

夏休みの宿題は、答え合わせまでして提出というものも少なくありません。

そうすると手元に答えがあるものだから「写せば良い」と言う子もどうしても出てきます。
僕もそのクチでした(笑)

いざ、学習支援という立場で子どもたちと関わり始めてからは、やはり答えを丸写しということには抵抗がありました。

多分、多くの保護者がそうではないでしょうか?
「自分のためにならないでしょう?」と投げ掛けながら格闘していらっしゃる方も多いと思います。

でも、この夏、「答えを見せるのもアリなんだ」と気付きました。

僕が学習サポートをしている子たちの多くが、学習について苦手意識を強く持っていたり、実際問題として障がい特性としても定着の弱かったりする子たちです。

そういう子たちには場合によっては「答えを見せるのもアリ」なんじゃないかと。

例えば漢字の定着が弱い子に漢字のプリントをやらせようと思っても、本人でも「僕は漢字は苦手」という意識を持っています。
すると解ける、解けない以前に「嫌だな」という葛藤が始まってしまうのです。

そうすると当然周りは「頑張って」の一色になるんですね。
でも、応援されようが、嫌なものは嫌だし、大変なものは大変で、自分の中では葛藤し、応援団とは問答しということになって、「やっぱり漢字は大変」という体験だけが残ってしまう気がします。

それよりかは、「問題にチャレンジ」ではなく「漢字の定着」に着地点を設定して「答えを見て良いから、よく見ながら丁寧に書いてごらん」と促して、正確な文字をかけることを目指した方が建設的だと思うわけです。

すると子どもの方でも「きれいに書けた」という達成感を味わいます。

宿題で苦労すること自体を目的にしないことです。
日常生活であったり、試験であったりで活かせるように、本当に定着を図るために学習はあるべきだと思います。

だからと言って、端から答えを渡して「丸写しで良いよ」とはなりません。

「この子には何が必要なのかな?」と見極めて、あるいは設定して、その目的に合わせて、必要とあれば答えを写しながらでも良いんだ、ということです。

答えを渡してほったらかし、では、寂しさだけが募ります。
答え渡すなら渡すで、その活用を周りは見ながら「そうだね」と共感してあげたり、「ほら、しっかり見て」とか「そこは自力でやってみよう」とか、バランスを取って上げる必要はあります。

課題と真っ向勝負することで、却って学習の定着が妨げられるとか、ガミガミ言うことが続いて親子関係がしんどくなる、という現状があるなら、答えの使い方をコントロールして、写させるのもありなんじゃないかな?

そんな気付きがありました。

忙しい保護者も多いですが、夏休みは学校が無い分、子どもと共有する時間も体験も増えるという人も多いでしょう。

それが宿題が理由でガミガミ、怒られてシュン…ということばかりでは勿体ないですよね。
答えを上手く活用して、親子の関係も深まることになれば良いし、子どもの地力に繋がれば、それは「良い夏休みだった」ということになるんじゃないでしょうか?

2016年8月20日土曜日

事業所のスタッフさんとも良いお付き合いをさせていただいています

今日は午前中は「えるそる むなかた」さん、午後からは「といろ」さんで学習サポートでした。

お世話になりました。

どちらの事業所さんも、来ている子どもの様子を僕にも分かるように近況含めて伝達を丁寧にしてくださるので、僕自身も助けてもらっています。
ありがとうございます。

僕は、ぐるんぱの活動自体は個人でやっていますが、関わる人とのチームワークは欠かせないんですよね。

支援に関する打ち合わせは言うまでもなく必要です。

それ+αで、時間のあるときには、どーでも良いことを含めてざっくばらんにお喋りする時間を取ります。

これが本当に大切です。

支援ということ以前にどんな価値観を持った人で、どんな考え方をしていく人なのか、ということを知る機会になります。

自分がどんな人たちとチームワークを組んで仕事をしているか、知らないと足並みはなかなか揃いません。

両事業所で、スタッフさんとはそういうお付き合いも出来ているので、僕も責任を持って子どもたちとは関わっていきます。

ぐるんぱの活動を始めてから本当に良い出会いに恵まれています。
仕事も頑張れます♪

2016年8月19日金曜日

離れることは、心配かけることではないんだよ

母子分離云々、なんて言葉を使う程ではないけれど、お母さんから離れることにドキドキを持っている、ある男の子とのやり取りで、「僕がいなくなるとお母さんは心配する」という言葉を聞きました。

なるほど。

確かに心配性な感じのお母さんではあるけど…

だけど、その気遣い方はすこーし方向性が違う気がしますよね。

離れても自分らしくいられるようになる、というのは頼もしいことです。

親も子も、少しずつ気持ちの準備をしていくべきことです。
お互いに
「僕は少しずつお母さんの手から離れる準備をしていくから見ていてね」
「お母さんも、あなたが私の手の中から離れていくのを見ていくね」

(言葉にしてしまうとニュアンスが曲がってしまうようですが)手はかけずに、目をかけるという親子関係に向かっていく必要はあります。
特に精神的な面では。

親子のケースにもよりますが、「お母さんから離れることは心配かけることじゃなくて、役に立つことに繋がるよ」ということを子どもに伝えることが僕のスタートになることも多いです。

そうして練習を重ねて、子どもの変わっていく姿を見ながらお母さんには納得してもらうのです。

多くのお母さんが「頭では分かっている」ことですから、頭で分かっている点まで、子どものイメージを追い付かせて上げる感じですね。

多分、こんな話を1回したくらいでは子どもも3歩進んで2歩下がる感じでしょうが、子どもの背中を押すことをしばらくしていきたいところです。

2016年8月18日木曜日

「分からないから出来ない」と言い訳するのを止めたら分かるようになってくる

「やり方がわからない」から端から試してもいない、という人がいますがもったいないと思います。

「分からないから出来ない」のではなく、「やってみないと分からない」こともあるじゃないですか。

失敗することが恥ずかしいのか、怖いのか…

「失敗したって良いじゃん」
「失敗は成功の素」

みたいに失敗を許容することを他人には言うのに、自分は失敗したくないがために手を出さない。

それはよろしくないでしょう。

失敗するかもしれないし、本当に出来ないことなのかもしれないです。

それでもしてみないと分からないです。

まずはやってみましょうよ。

今日はそれだけ言いたいです。

僕なんか、仕事で新しく出会う子とは、手探りしながら歩調を合わせていく感じです。

上手くいかなくても、「この方法じゃ上手くいかない」という積み重ねで、上手くいく方法に辿り着くのです。

だから、「分からないから出来ない」なんて言わずに「やってみて分かること」に目を向けてください。

2016年8月17日水曜日

自分の言葉を探す

3月から作文指導をしている子と、今日は外に出て活動しました。

作文で外?
しかも活動?
どういうこと?

そう思った方もいらっしゃることでしょう。

子ども本人も頭に大きなクエスチョンマークが浮かんでいました(笑)

僕の作文指導は、「綺麗な文章を書く」なんてのは二の次なんです。
自己表現と綺麗な文章は、必ずしもイコールではないんですね。

僕は「自分作り」のための作文をして欲しいと思っています。

「綺麗なお花」と言うのは簡単です。
「他の人にはなんともないものに自分の視点で良さを見つける」ということをして欲しいのです。

その一環として、言葉探しをするんです。
自分の気持ちや考えに出来るだけ近い言葉を探すんです。

今日は外に出て「色を探す」ということをしました。

一緒に歩きながら僕が唐突に指差しながら、「これ何色?」と尋ねるんです。

外には人工色、自然色、たくさんあるので最適です。

例えば葉っぱ。
一口に葉っぱと言っても、色は様々です。

緑の葉を伝えるにしても葉の数だけ色もあるので、あの手この手使うようにして、自分の持っている語彙を総動員して表現してもらいます。

最初のうちは良いんです。
「濃い緑」「明るい緑」という具合で。

でも、次代に一般的な形容から、少しずつ離れないと表現出来なくなってきます。
するといろんな言葉を引っ張り出してくるようになります。
一見、色とは結び付きにくい言葉も使いながら。
「すりつぶしたような」「汚れた」…

言葉から離れて、日常体験から形容するようになります。

僕はこういう作業が「自分作り」になると思っています。
机上での学習に留まらず、机上で学習していても、必要に応じて自分自身の体験を引っ張り出して、結びつけをしていくんです。

「はい、学習ですよー!」なんて日常から切り離してしまうと、「自分作り」は進みません。
いろんなものに、まみれさせるのではなく。
「個」を意識して取り組んで欲しいと思います。
学習にしても作文にしても。

言葉にせずににじみ出して伝えてみる

コミュニケーションを取る際に、言葉を選ぶということは当然すると思います。

それと同じか、それ以上に大切にしたいのが、言葉にしない部分です。

どういうことか?というと「大丈夫です」という言葉を使う際に(なんとかなる)と信じながら言うのと(まぁ、無理やろうな)って思いながら言うのとでは、相手に伝わるものが全く違ってきます。

「バイバイ」(顔だけ笑顔で内心は、もう会いたくない)
「バイバイ」(本当にまた会いたい、と思いながら)

違います。
理屈じゃないけど、肌感覚での話ですね。

今日は、「お邪魔しました」(また会える日を楽しみにしています)

を届けてきました。

今日は、それが出来ただけで十分。

2016年8月16日火曜日

蝶結びの練習

あくまで一案ですが。

「蝶結びを出来るように」という要望が届きました。

手先が不器用だとやはり一緒に練習する必要が出てきますが、紐が交錯すると目で追いかけるのも大変になってきます。

その補助として、僕は紐の色を変える、ということを提案することがあります。
同じ色だから、どれをどこに潜らせるか、などが分からなくなるのです。

紐の色を両端で変えてみるだけで、しやすくなるかもしれません。

取り組まれている方もいらっしゃるかもしれませんが、こういうお尋ねを頂いたということは、同じような壁にぶつかっている方がいるだろう、ということで、敢えてブログに上げさせていただきました。

こういうのもぐるんぱでは、学習の一環だと思ってください。

プールなどでは、更衣を通じて練習してもらうこともあります。

2016年8月15日月曜日

平等にすべきか?均一にすべきか?

子育てでも、仕事でも、日常生活でも…とにかくどんな場面に於いてもですが、「今この場面では平等にすべきか?均一にすべきか?」という検討はどんどんしていかないといけません。

その判断を間違えてしまうと、不満が溜まったり、納得してもらえなかったり、あるいは自分自身が上手く立ち回れず行き詰まったりするわけです。

僕の場合は「均一」で思い浮かぶのはやっぱり100均です。
「同等程度の商品を100円で取り揃えています」ということですよね?

100均の良さは何か?

ズバリ!システムの分かりやすさ。
これに尽きます。

均一であるということは、目に見えて分かりやすい、ということです。

じゃあ、「平等」ってどういうことか?

100均の例で言うと「商品を選べる」という点です。
「同等程度の商品を100円で取り揃えています」の後に隠れている「気に入ったものをお買い求めください」というところです。

選択して納得した上で買い物できる部分です。

「平等」で大切なのは、全部か一部かというものを含めて納得できることです。

ペンを買う人もいればメモ帳を買う人もいて…それで良いんです。
それが平等というもの。

ケーキ屋で値段の違うケーキがショーケースにたくさん並んでいます。

あれは値段は均一ではないけれど、それぞれの値段で提供できる質は、ほぼ均一です。

そして、客が欲しいものを必要な数だけ買っていく、というのが平等。

大皿から料理を取り分けるとき、食べるものは均一(同じもの)です。
でも、食べる量は人それぞれです。
食べられる量、好き嫌い、色々あります。

食の細い人に「平等に」といって同じ量を食べさせることは平等ではありません。
食べ物の話で言うとアレルギーの人に同じように食べさせるなんてあり得ないでしょう?
「じゃあ、あなたは代わりにこれをどーぞ」となるわけです。

残ったものをたくさん食べられる人、食べたい人がもらうはずです。
それが平等。

平等というのはもしかしたら、分かりにくいかもしれないけれど、それぞれが納得していくということだと思っています。

均一も平等も、どちらも大切な考え方です。

今、均一にすべきか?平等にすべきか?

その使い分けで、楽になることって多い気がします。

因みに僕の仕事は、料金という部分は基準を設けてほぼ均一。
支援内容は平等を目指していきます。
僕の目から見て必要だと思うところには入り込みます。
その一方で、必要ないところには手はかけません。

サポートが不足すると、前に進むための力が湧かなくなります。
サポートが過剰になると、人任せになってしまいます。

その子、その家族に必要と思うものを提供するのが僕の仕事に於ける平等。

2016年8月14日日曜日

数や数字の学習を日常に活かすというのはどういうことなのか

今日はちょっと日常生活に結びつける数と数字の話。

数字とか数の概念というのは、日常生活に於いても必要に迫られることも多いし、理解することで生活の幅もぐんと広がります。
その為か、学習サポートをしていても数や数字あるいは算数についての支援はニーズが高いと感じています。

0~9の数が、どういうものか理解をし、数字について理解をし…。

場合によっては計算もし。

でも、それ以上にここからが大切だと個人的には考えています。

数や数字について理解したら、目の前の物の数を数えたり、時間やお金と関連付けもしなくては、日常に活きた学習とは言えません。
時間やお金の別に概念が必要です。

数字や数を理解し、時刻を読めたり、金額を見たりすることが出来るだけでは、それぞれの価値を知る、概念を知ることにはなりません。

例えば、お店でお買い物をして、お金の受け渡しが店員さんと交わせたとしても、お金の価値を理解しているとは限りません。
買い物が出来る、と知っているだけです。

面白がって無駄遣いするなら、それはその子にとって「お金はオモチャ」になっているだけです。
大切に使うことも、湯水のように湧くものでもないということを知らなければなりません。

そういうものも含めてお金の価値であり概念です。

時刻が読めても、時間を意識して行動できなければ、意味がありません。

時間を守る、時間を意識して生活する、ということが出来てこそです。

つまり、一口に「理解」と言っても度合いがあります。
数についてどのくらい認識しているのか、数字の認識は、時計は読めるのか、時間を意識出来るのか、お金を使って買い物が出来るのか、その大切さを知っているのか…

細かく分けて、見ていかないといけません。

その辺りをごちゃごちゃにしてしまったり、一括りにしてしまうときにきっと、「机上での学習では問題が解けたのに、日常生活の深みが増さない」ということになってしまうのだと思います。

そういうところをしっかり見ながら、子どもたちの生活に直結したサポートを目指したいと思います。

2016年8月13日土曜日

謙虚にバカタレ!と言っていく

タイトルの通り。

仕事に限らず、人付き合いや社会との関わりをしていく中で、「傲らず謙虚に」という姿勢は絶対に大切だと思っています。
(傲りというのは、知らず知らずのうちに忍び寄ってくるので、本当に注意が必要だと思います)

ただ、謙虚さは示しても、おかしいものにノーを突きつけられないようではいけないとも思います。

そのノーの言い方をあからさまに「バカタレ」なんて言っていても、却って相手を意固地にさせるし、そもそも大人気ないです。
何より、それでは解決に向かうものも向かわなくなります。

かと言って、おかしいもの(納得できないもの)を突き付けられてしょげていてもいけないわけです。
なぜか?
しょげていても何も変わらないから。

おかしいもの、納得できないものには謙虚さを持ってノーを言わなければなりません。

おかしいものを突き付けられて、腹を立てたり、しょげたりするのは芯がないから。

自分の信じるものに向かおうと思うのなら、どうしたら向かえるのかを常に考えなくてはいけないと思います。

「それで何か変わるんですか?」と問いを持って。

謙虚にバカタレを伝えるんです。
「それでは何も変わらないと思います」
「あなたは何がしたいんですか?」
という意識を持って。

そのやり方自体は様々です。

言葉で以て伝える方法もあれば、行動で示すことも出来るでしょう。
あるいは沈黙で以て伝えることも。

喧嘩にならない、水掛け論にならない、前に進むための方法を考えていくことが何より大切です。

そのための方法が「謙虚にバカタレを伝える」ということです。

「バカタレ」と直接的に相手に向かって投げるのはそれこそバカタレ。
でも、「バカタレ」を、腹に据え置いて、目の前のバカタレを納得させるための方法くらいは考えて良いと思います。

いやー、これだけ文章の中にバカタレを使うと自分はスッキリします(笑)

こう見えて、結構、頭の中では「バカタレー!」を連呼していたりします(笑)

…。
お上品に頑張ります(笑)

2016年8月12日金曜日

「出来る」ってどういうことか知らないとサポートは出来ない。

父親になって約半年。

息子の成長に、驚きと喜びと納得の日々を送っています。

前職場で、子どもの発達を勉強しなさい、と言われて勉強をしてきたつもりだったけれど、こんな間近で見られることはなかったから、本当に文字通りの活きた勉強をしている感じがしています。

昨日出来なかったことが、今日出来る、という場面もたくさん目にします。

すると、いろんな動作なり作業がどうやって出来るようになっていくのかが、よく分かるし、どんな働きかけをしたら手助けになるのか、ということも考える機会に繋がります。

苦手あるいは出来ない、というところを支援するときには、「出来る」がどういうことか知らないといけない、そのことを強く感じています。

子育てを楽しみながら、息子にはいろんなものを学ばせてもらっています。

我が子の子育ても全力でして、自分もパワーアップしていきたいです!
人として。
親として。
支援者として。