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2017年5月31日水曜日

スキップが上手に出来ない?楽しそうにしないと!

中学生のOちゃんのプールが終わって、駐車場まで歩きながらOちゃんとお喋りしていたら、スキップの話になりました。

永田「スキップしきる?」
Oちゃん「…。」
しばらく考えて、タイミングを計るようにして、えぃや! という感じでスキップ「らしき」ものをしました。

スキップがどういうものか、イメージは持っている様子でした。
おそらく出来たこともあるのでしょう。
ただ、敢えて言われると 身構えてしまうのでしょうね。

手と足がバラバラ。

永田「慌ててる人みたいやん(笑)」
Oちゃん「永田さん出来ると?」
永田「出来るよぉ、見ときぃ」

もう、それはそれは華麗に楽しそうなスキップを披露しましたよ(笑)

永田「スキップは楽しそうにしないと!たのしそうやったろ?」

Oちゃん(コクッと頷く)

永田「楽しそうによ!どうぞ!」

軽やかなスキップが出来ました♪

永田「ほら出来た!」

満面の笑みを浮かべるOちゃんでした。

上手くやりたいとか、頑張りたいとか、気負いが身体を固くするのはよくある話。

それをほぐすことが必要な時もあるんですよね~。

2017年5月30日火曜日

均衡保つのか、均衡を破るのか

良い状態にしろ、悪い状態にしろ、その場が維持されるということは、「それで均衡を保っている」ということです。

今の均衡を保つのが良いのか、今の均衡を破り新たな均衡を見い出すのが良いのか…。

悪い状態が続くということは、その場を構成している要素が、その地点で均衡を保とうとしてしまっているということでしょう。

均衡が失われたとき、「今の」その場は無くなります。
あるいは変化します。

それを理解しないと悪い場は変わらないし、良い場は維持・向上させることは出来ないと思います。

悪いのも良いのも、「誰か」や「何か」だけのせいではないということ。
それらが均衡を取っているということ。

2017年5月29日月曜日

初めての後ろめたさ

ずっと「お利口さん」だった子。

がんばり屋さんで、出来る喜びも、出来ない悔しさも、場合によっては「もっと良い方法があったんじゃないかな?」という後悔も。
いろんな感情を存分に体験してきた子ですが、「お利口さん」だった故に体験したことのない感情、「お利口さん」故に味わう羽目になった感情があったようです。

「後ろめたさ」

子ども「はぁ…」

何度かため息をついて、「聞いて!」オーラをムンムンと醸しながら、時折こちらを見てきます。

終いには上目遣いしながら、わざとらしいくらいに大きな「はぁ…」(笑)

永田「なんね(笑)?聞いて欲しいことがあるっちゃろ?」
子ども「聞いてほしい、って言うか…」

そうやって「こんなことがあった」と事の顛末を語ってくれました。

とっても仲良しの友達に、ちょっとしたイジワルをしてしまったとのこと。

本人の話によると、「わざと」イジワルをしてしまったとのこと。
まぁ、「魔が差した」ってヤツかもしれません。

それから、これまで「何か」が起こったら、喧嘩になったり、怒られたり、注意されたりしてきたのに、そのイジワルが「ちょっとした」事過ぎた(笑)のかな?
誰も何も言ってこず、外的要因による解消が行われず、自分の中に居座っている様子でした。

こういう気持ちを体験することも大切。

後悔とも少し違う後ろめたさ、か。

後悔と違って避けやすいし、勇気さえ持てれば、解消もしやすいものではあるけれど、なんとも知れないモヤモヤ。

2017年5月28日日曜日

「学びの心と工夫」はコミュニケーションにあり!

今日はGAKUねっとの座談会でした。

運営側として関わっていたのですが、僕もとても楽しみながら参加させていただきました。

今回はメイクハッピー&ピースの仲西さんのお話。

「学びの心と工夫」と題して、二時間みっちりワーク混じりの楽しい勉強会になりました。

実践されてきたことを踏まえてお話を構成されていて、そこには生の声があり、他では学べない貴重な話がたくさんでした。

僕も常々感じていて、ブログでも書いてきたつもりですが、やはり「学びの土台はコミュニケーション」だと改めて感じました。

専門性に秀でていても、コミュニケーションが取れないとそれは活きないし、逆に、専門性がまだ不十分だとしても、コミュニケーションによって問題点を浮き彫りにし、突破口を見出だせることもあると感じています。
それを体系化すれば、専門性に結び付きますし。

厚かましく言わせてもらうなら、「代弁して貰った」という感じすらある素敵な時間でした。

仲西さん、お疲れ様でした。
ありがとうございました。

また仲西さんたちとは、僕も連携をしていきたいと思います。

お互いに高め合えるような関係で!

さ、僕はまた、7月に向けて準備。
その点からも学びになりました!

2017年5月27日土曜日

運動会ってfamilyの行事だと思う

「family」の単語には、いわゆる「家族」というだけでなく「仲間」とか「集合」というニュアンスも含まれます。

便宜上、僕は日常的には「家族」と日本語で使いますが、感覚的には、この「family」という方が好きです。
子どもを守り育む上で、この「family」の存在こそが大切だと思います。


「家族」という言葉には「所帯」とか「世帯」というニュアンスが強く含まれている気がします。
一人でも「世帯」ですし、共同生活をしていれば「世帯」です。


「family」の方が、僕がこのブログでも書いてきている「つながり感」というものを共有できる気がします。


運動会って「family」の行事だな、ってそう感じた一日でした。

2017年5月26日金曜日

5月28日!GAKUねっとの座談会です!

奇数月の第4日曜日。

GAKUねっとでは、座談会を定期開催しています。

毎回メンバーの持ち回りで話題提供として、お話をさせてもらい、その後お時間の許す方はメンバーとテーブルを囲みお喋りをしていきます。

今回は、メイクハッピー&ピースの仲西さんが活動から見えてくる子どもたちの心や、学びの工夫にフォーカスしてお話をしていきます。

僕も楽しみな内容です。

仲西さんもですし、他のメンバーも真剣に宗像の子どもたちのことを考えている人たちです。

そんな人たちとお繋ぎ出来る場にもなっています。

保護者、学校の先生方、支援者、学びを得たい大学生…どなたでもどうぞ!

28日13:30~メイトム宗像の検診室です。

年内の座談会のスケジュールも配布中です。

気になることはお問い合わせください!

遠足に和菓子を持っていっていた男の子の話

小学校の遠足。

「お菓子は300円分まで」みたいな金額設定があることも多いと思います。

そうすると多くの子どもたちは、安い駄菓子をどれだけ買っていけるか、に頭を悩ませて、当日には友達と交換したり、分け合ったりすることを楽しみにしているように思います。

「俺は、コレとコレ持ってきた」
「いいなぁ」
「俺はこんなの!」
「いいなぁ!分けて!」
…。

こんな感じで。

そんな中、賑わいに混ざらずに和菓子を小さく、少しずつ大事そうに食べている男の子がいました。
彼は小さな和菓子を半分食べたらリュックに入れました。

お友達がいないのかな?と思いましたが、和菓子をリュックに入れたら友達と遊んでいました。

とても楽しそうに。

とても楽しそうではあるけれど、どうも輪の中に入ることを「頑張っている」ようにも見えます。

実は彼、別の県の別の学校から転入してきたばかり。

方言の違いも気にしているようでしたし、友達と仲良くなりたいけれど、歓迎遠足の時期にはまだ、お菓子を分け合えるほどの気心知れた友達がいなかったようです。

それで、和菓子を持ってきて、「頑張って」参加している遠足の合間に彼なりの「休憩」をしていたのかもしれません。

2年目の遠足。
彼は和菓子と駄菓子をミックスで持ってきていました。

きっと、和菓子は本当に好きなんです。
それと友達とも打ち解けられたから、「友達と楽しむ」ためのツールとしての駄菓子だったのでしょう。

久々に夢に見て「彼」のことを思い出した。

「彼」は、今もやはり和菓子が好きで、人も好きで、随分とバランスを取るのが上手になり、「彼」らしく生きています。

そう。
「彼」とは小学生の頃の僕のこと。

居眠りをしていたら、小学生の頃の歓迎遠足の場面を夢に見ました。

かなり鮮明な夢でした。

あの当時のことを眺めるようなアングルでの夢でした。

こういう仕事をして、当時の「彼」を見てみると、なんであのような様子だったのか、僕なりに分析出来るから面白いです。

昔も今も決して器用ではないけれど、昔の「彼」も今の自分のことも好きだと言えるから、それは幸せなことかもしれないです。

2017年5月25日木曜日

試したくなる気持ち

成長と共に様々な経験を、その子なりに積んでいきます。

例えば「何か質問はありますか?」と尋ねられても「何が分かっていないか分からない」ということってありますよね?
「まず、やってみて、分からなければお聞きします」というようなやり取りをしたことのある人は多いと思います。

つまり経験をしてみないと質問が出来ない、疑問が持てない、ということです。

言い換えるなら、経験をすると疑問が沸いてくるということでもあります。

好奇心とか探求(究)心とかとも言えるかもしれません。

こういう気持ちが芽生えたら基本的には育んでいって欲しいし、大人としても必要に応じて育むための手助けをしていきたいものです。

経験と疑問が揃って好奇心が芽生えたら、今度は試したくなるものです。

好奇心を持つところまでは、ほぼ無条件に認められる気がします。
ただ、試すという段階になると、させてあげられるもの、そうでないもの、させてあげたいもの、させたくないもの…と別れてきます。

見通す力が並行して備わっていけば、「想像してごらん」という方法もあります。
ここが難しいところです。

目に見える結果については、経験によって段々と見通しが立つようになりやすいです。

しかし、「感覚」ということについては「自分だけのもの」なので、「他の人も同じか分からない」です。

こういうことへの「試したい」はなかなか厄介です。

自分が嬉しいことが、他の人も「同じように」嬉しいのか?

自分が感じた痛みが他の人も「同じように」痛いのか?

こういうことは、本当に人により反応も異なるので難しいと思います。

周囲から見て好ましくない行為であっても、「試さないと分からない」ということがあるのかもしれません。
でも、試させるわけにはいかないことも場合によってはあります。

「わざと」していても「悪意がある」かは分かりません。

子どもの探求心を抑え込まず、「試す」という以外の方法で理解や納得をさせる方法を考える…

凄い難しさを感じています。

一人一人にあった方法となると尚更。

良い勉強をさせてもらっています。

2017年5月24日水曜日

努力した過程における結果に失敗は無し

僕が高校卒業する際に恩師から貰った言葉です。

これまでも、「自分の」節目には思い出しながら、持ち続けてきた言葉です。

初めて、この言葉が自分の胸の内から飛び立ち、「僕でない人の」元へ届くことを願った気がします。

どんなに知った気になっても、相手のことを知っているのは「ほんの一面」でしか無いわけですが…それでも。

僕が知る限り…

君は良い奴だ!

2017年5月23日火曜日

「出している」のか「出ているのか」

子どもたちと関わっていくと、「何か」が起こります。

気になる行動であったり、お利口な様子であったり、とにかく「何か」が起こるわけです。

関係性が出来ているから上手に過ごせる。
関係性が出来ているから我慢していたものを出せる。

関係性がまだ十分でないから、お行儀が良い。
関係性がまだ十分でないから、落ち着かない。

似たような行動や様子が表出していても、関係性の有無によって、含まれる意味は大違いです。

前向きあるいは、都合良く解釈したくなるところですが(笑)

それを解釈し間違えると、関係性は深まらず停滞したままになってしまいます。

たとえ、表出として似ていたとしても、「どこか」にその違いはあるはず。

見誤りないように気を付けたいものです。

2017年5月22日月曜日

新しいコンパスと「楽しかったぁ」

今日はある男の子と算数の学習でした。

先日、ちょっとした事情で学習が出来ず、振替日として今日を設定していました。
いつもと違う曜日なものだから、最初は少しご機嫌ナナメ(笑)
課題をするのも渋々。

そこで何気ない会話を持ち込んでお喋りをしながら気持ちを解していきました。

15分くらい経って、解れてきました。
すると「先生、実は新しいコンパス買ったんです」と。

彼の部屋に入った時点から、不自然なくらい目に留まるところに置いてあったから気づいていましたとも♪

永田「お!やっぱり?めっちゃきれいやん?いつ買ったん?」
男の子「この前の土曜日です」
永田「そりゃ、ピッカピカなはずやね。ね?使った?」
男の子「少し。先生、後で円の問題出してください」
(お、乗ってきたな。今日はこれだな)
永田「なら、この問題、キリの良いところまでしたらね」
男の子「はい」

そういって、それまで取り組んでいた「平均」の学習を数分で終えて、急遽「円」の学習に。

男の子「半径何センチの丸を書きなさい、っていうの出して」
永田「オッケー…」

数問「半径」や「直径」の指示を出して円を描くやり取りをしているうちに、すっかりご機嫌も治ってきたようなのですが、少し「ハマり過ぎ」な感じ。
自分でサイズを変えて描き出してしまいました。

そこで、主導権をこちらが手放さないように、一捻りして、コンパスを使った幾何学模様を描くことを要求してみました。

男の子「おー、花みたいになった。」

と、すごい食いついてくれて、こちらの言葉にまた耳も気持ちも傾いてきました。
それに合わせて、円周や円周率の確認をしてみました。

この定着が弱いようなので「次回は円の復習をしていこう」と提案したら、「そうだね」と快諾してくれました。

今日はここまで、と挨拶をしたら「楽しかったぁ」と気持ち良さそうに伸びをしていました。

一般的な塾などである「短期集中講座」とかとは違うので、長いスパンで学習をしていくときには、こういう「間」も絶対に必要です。

そして、その「間」を次への足掛かりにしなくてはいけません。

「間」には、休憩でも、遊びの要素でも、その時々で、入れられそうなもの、必要なものを入れたら良いと思います。

「間」にも情報はたくさん詰まっているので、子どもの様子を見ながら、停滞させないような展開を考えていく。

そうすると、「次回」に灯がともるんです。

こうやっていくことで、「間」があっても中長期的に見ていくと「継続できている」という子どもの自信が芽生えていくように思います。

「その時、その場面での最良」を選択出来ていると信じる

子どもにとって明らかに暴力的であるというのはもちろん論外として、そうでなくて選択した行動であれば、それって「その時の、その人の最良の選択」だと思います。

わざわざ最良でない、方法を選択する人はいないと思います。

「上手くいった」とか「上手くいかなかった」とかは、結果論としての話です。

「上手くいった」「上手くいかなかった」に関わらず、後から振り返って「何が」結果をもたらしたのか考えて、また似たような状況というのは、来るはずですから、その時に振り返りを活かしながら「その時、その場面で最良」だと思う選択をし続けていくことに尽きると思います。

僕はそれが支援の質を少しずつでも高めていくと信じています。

それから、親子関係においても似たことが言えると思います。

支援という場面以上に子育てでは、選択を迫られる場面に連続して遭遇します。

そうすると「あー、マズかったなー」「なんであんな言い方しちゃったんだろう」と親の方でも考え込んだり、落ち込んだりしてしまうことがあると思いますが、それは「その時の最良」だったのだと僕は思います。

感情的になってしまうこともあるかもしれません。
それでも「最良」なのだと思います。

妙に感情とか表情とかを圧し殺して、遠慮したような、他人行儀のようなやり取りを親子でやるのは、やはり不自然で、健全とも言い難いと思います。

だってお互いに人間。
いつでも「上手くいく」なんてことはなくて、結果は結果として次から次に出てきますが、それを承けて「あー、もっと上手く関わりたいな。相手のこと分かりたいな」と思いながら日々を送っていくことが、より良い関係へと続く唯一の道だと思います。

「上手くいく」「上手くいかない」という結果と繋がり感が深まっていくかというのは、また少し違う話ですから。

もちろん「上手くいかない」だけが、ずーっと続くと深まりませんが(笑)
「あーでもない、こーでもない」をしながら付き合っていけば、パズルのピースがハマる日というのは、必ず来るものだと思うんです。

極端な暴力を含んでいる訳でないなら、少なくとも「間違い」ではないと思います。
「まー、今日はこれでいっか」と思うことも、日常を続けていくのには必要なんじゃないかな?

2017年5月21日日曜日

自分で立ち直るという必要性

昨日も「放課後等デイサービス えるそる むなかた」での学習サポート。

土曜日。
子どもたちは朝からやって来ます。

みんな1日をとても楽しみにしているんです。
たくさん遊べる土曜日は子どもたちにとって1週間の中でも特別な日なんですね。

なので、人数も多ければ、テンションも高めでスタートすることも多いようです。

昨日も朝からとても賑やかだったのですが、一人の男の子が何やらワァワァなり始めました(笑)

どうやら他の子との「すれ違い」がそもそものきっかけの様子です。

つい15分前まで「永田先生、もう少ししたら勉強しに行くね」と言っていたのに(笑)

リビングスペースで、他の子も大勢居る中で、始まったものだから、「あらら」と心配気に見る子もいれば、「またやってる」と苦笑いの子もいれば、「あいつまた泣くぞ」と面白半分になっている子もいました。

一応はその場で「どうしたん?」と尋ねてみましたが、「あいつが…!」と話を始めて、「あいつ」呼ばわりされた方も当然反撃、周りの子達も「こうだったやん?」と乗っかってきて、今度は「お前は黙っとけ」「だいたいお前は昨日…」と他の子の他の場面のことまで取り上げ出してしまいました。
火が大きくなる一方。
(ありゃ、しくじったな。これは場を移さねば、ますます収集つかなくなるな)と思い、彼を部屋から連れ出すことにしました。

「今、他の人まで巻き込みなさんな、ややこしい!取り敢えず学習に行くぞ。ここじゃ落ち着かんやろ!」と僕は彼をまずは一喝。
(言い分を聞き切らないうちに「一喝」と言うと変かもしれないけれど、部屋から連れ出すことが最優先だと思ったんですよね…そして他のやり方もあったろうけれど、「慰める」訳にはいきませんでした。次の展開のために)

半強制的に学習室に誘導(?)して、話を聞きましたが、今度は「なんで強制的に連れてくるの?こんなんじゃ勉強出来ないよぉ!」と大泣きを始めました。

永田「あそこじゃ、落ち着かんやろーもん?それにあなたも今関係ない人まで巻き込んで火を大きくするばかりだったやんね?」

男の子「だからってそれは嫌だよ!」
永田「あの大騒ぎの中で他の人にまで矢を向けるのも嫌だよ!」
男の子「もう、なんでぇー!!うわーーん!」
永田「で、何があったん?」
男の子(泣きながら)「○○がキッ!ってやって来て怪我した!」

見るとちょっとした、引っ掻き傷(ちょっと虫刺されを掻いて肌が白っぽくなりますよね?あのくらい)。
これでも彼の中にはショックとして残ったのでしょうね。
ただ、これであの騒ぎをしていると、そりゃ「大変」になっていくな、というのが僕の率直な感想。

永田「ショックだったのは分かる。でも引っ掻き傷やろ?それであんな騒いだらアカンよ。あなたの年齢的にも(彼は小学校の高学年)。他の方法を取らないと、さっきみたいに、みんなが乗っかってきて大騒ぎになるだけだ」

男の子「でも、人を怪我をさせるのは良くないことでしょ?だから分からせるためにぶっ飛ばそうと…」

(「怪我をさせるのは良くないことでしょ」の後に「ぶっ飛ばす」か(笑))
内心笑いそうでしたが、笑うわけにはいかない。

永田「怪我をさせるのはもちろん良くない、でもぶっ飛ばそうと思ったんやろ?あそこで?それをさせるわけにはいかなかったから、ここに連れてきたんよ」

男の子「なんでぇー!!うわーーん!僕だけいつもこうなのぉ?」

ここに1つ、この子の本音があるように思います。
「なんで僕だけいつもこうなの?」と。
普段は日常の流れの中で紛れがちだけど、ふとした時に感じてしまうのでしょうね。
一方で寂しさというのは感じたくないですから、彼自身で「紛れさせてきた」というところもあるように思います。

男の子はしばらく「なんでぇー!!」とある種の自問自答を繰り返して泣き続けていました。
これは、この子にとって大切だと思いました。
何かに紛れさせて「コロッ」と泣き止むのではなく、しっかりと消化していく必要が。

しばらくして、別の「出来事」が起きて、それが彼の耳にも届きました。
すると「ケロッ」と泣き止み、「見に行く!」と。

出たな(笑)

永田「行かんで良い、ここであなたは落ち着きぃ」
男の子「なんでー!見に行ったら落ち着くよ」
永田「ここでこれだけ騒いでいる人が、ワァワァなっているところに行って落ち着けるものね!」
男の子「そういうものなの!…なんでー!」
永田「そうやって紛らせるんじゃないの。」

また火が着いたように大泣き。
ここではまだ彼の準備が出来ていないので、僕は着いていきます。

永田「なんでー!!なんでー!!助けてー!ドラえもん!道具出してぇ!僕を落ち着ける道具出してぇ!」

僕に見える彼の様子を言語化と代弁。

チラッと彼はこちらを窺ってきていました。
(そう、自分の様子を見てみぃ)

「なんでー!」が減り始めました。
(よしよし…)

そうこうしているうちに別の女の子が学習室にやって来ました。
(ナイスタイミング!)
女の子「先生、勉強に入っても良いですか?」
はい、もちろん。

多分、この子も外で聞き耳を立てていたんだと思います。
そろそろ良いかな?と思ったのでしょうね。

そうやって部屋にはパニックを起こしている子と、冷静な子が一緒になりました。

男の子は、女の子に矢を向け始めたけど、彼女は相手にしません。
僕も彼の思う通りにはならない。

他の「紛れさせ」を探して、シクシクしながらも部屋の入り口にイタズラを仕掛け始めました。
襖を少し開けて筆箱を上方に挟み込んで、古典的なイタズラをセット完了。
内の人間が駄目だと知り、外に紛れさせを求め始めました。

それを僕は淡々と阻止。
「なんでー!」と再燃(笑)
でもこれで、紛れさせるものは無くなりました。
自分の中で、自分で抜いた刀を納める練習が始まります。

うわーーん!が、シクシクに変わり、しばらくしたら服の襟で(笑) 涙だらけの顔を一拭き。
ゆっくりと勉強を始めました。
拗ねてパーティションを立てて、視界から僕を外そうとしたりしながら(笑)。
他に求めるのではなく、自分の中で消化しようとする行為だと思ったので、黙認。

計算ドリルをしていたのでしょうね。
さらに数分経ったら、「自信が無いから1問目、答え合わせして、やり方が合っているか確かめてから、次にいこう…合ってた、これで良いんだな」とつぶやき始めました。

これまで直ぐに「先生、見て、これで合ってる?」と尋ねるだけ尋ねて、僕が確認中には、自分は他の事を始めて「人任せ」だった彼が、そういう行動を取ったので、作戦成功だったのかな?と、思った次第です。

更に数分経って、傾向の違う問題に出会って「先生、ここからがやり方が分かりにくいので教えて下さい」と。

よしよし。

妙な意地を張って甘えなくなることも無し。

更に「今は取り敢えずここまでやって、残りはまた後でします」と、僕に伝えて部屋を出ていきました。

僕は女の子との学習をしばらく続けた後、男の子の様子を見に行きました。
そしたら、他の子達と共に「落ち着いて」過ごしていました。

泣かせないのが良し、直ぐに泣き止ませるのが良し、ということでは無いように僕は考えています。
もちろん、時と場合によっては、泣き止ませる必要性がありますが。

でも、その「泣き止ませる」にしても、蓋をして、「見ない振り」を子ども自身にさせるのではなく、「今は納める」という感覚を持たせながら、してあげたいな、と僕は思います。
「自分で『刀』を抜いて、自分で納める」ここまでをセットにして考えないと、いけない気がします。

でないと幼い内は「可愛らしい」で受け入れられますが、成長と共に「いつまでやってるんだ」と、次第に輪からはみ出てしまうこともあると思うのです。

誰かに、何かに解決を求めなくてはいけない問題もあります。
でも、自分で消化をすることも練習していかないと。

僕も「良いときには出来るだけ維持を」「悪いときには少しでも良く」という支援を心掛けてはいますが、その土台を作っていくのが学齢期。

練習出来る子には練習をして欲しいのです。

2017年5月20日土曜日

性について考えることは、文化について向き合うということ

昨日は、「放課後等デイサービスえるそる むなかた」主催の講演会&座談会&個別相談会でした。

講演会は、大和先生からの「性」をテーマにしたお話でした。
一般的な性教育の話から、子どもたちの特性に合わせてどう伝えるのか、ということまで話は及んで、僕自身も「なるほどー」の連続でした。

その後の座談会は、大和先生の話を承けて、スタートしたわけですが、実にいろいろな話題に及びました。
性のこと、生活のこと、学習のこと、特性のこと…。

この講演会から、座談会にかけて感じたことを少し。

座談会の話が生活全般の話題にまで及んだことからも分かるように、障がいの有無に関わらずですが、性について考えるときには、生活を見ていかないといけなくて、その生活というのは、各家庭、地域、時代という、その人の文化を捉えていくことに他ならないという風に思います。

大和先生の話の中にも出てきましたが、欧米と日本で同じ感覚で性教育をするわけにもいきませんし。

男女間でも、知識としてはお互いの身体の仕組みや成長、性徴について知っていくにしても、心がけというか、準備の仕方は違ってきます。

各家庭でも生活習慣、生活基盤が違います。

それらの違いを無視して、均一に馴らされた教育、話をしても意味がないのです。

文化は人の生活であり、個性であり、習慣です。
つまり、生きているんですよね。

だから性について考えるとき、その人に合わせた生きた話をしていかないといけないんだと思います。

この手の話は、1度じゃ無理だし、それこそその時々でも書きたいことは変わってくると思うので、たまーに触れていくことにします。

まだ、書けるほど整理できていない、というのもあるけれど(笑)

2017年5月18日木曜日

秘密で作る思い出

昨日の「放課後等デイサービスえるそる むなかた」での学習サポート中。

学習室に一人の低学年の男の子が入ってきました。
どうやら勉強ではない様子。

部屋の角にある棚の下を覗き込み何やらゴソゴソ。

棚の下から出てきたのは「手作りのコマ」。
子どもたちに人気の「ベイブレード」を模して、レゴブロックで作ったオリジナルの「ベイ」。

どうやら棚の下が彼のコマの隠し場所のようです。

男の子「ねぇ、ここの部品が無くなっているんだけど、知らない?」
永田「うーん…知らないなぁ。」
男の子「そっか、継ぎ足してこよう」

そういうとプレイルームに行きレゴブロックの山から部品を探して「修理」してきました。

そしてまた、棚の下に隠しました。
男の子「他の子に、ここに隠したって言わないでね」
永田「オーケー」

彼は、これで学習室を出ていったのですが…僕と学習している子が部屋にいて既に秘密になっていないんです(笑)

僕と一緒に学習していたのは高学年の女の子。
「わたしには分からんけど、あれがとっても大切なんだね。宝物みたいなものなのかな?」と。

永田「多分ね」
女の子「私、黙っとくね」
永田「ありがとう」

なんか良い。
男の子の無邪気さと、女の子の寛容さが、なんか良い。

こういう秘密も後から「思い出」になっていくのでしょうね。
思い出がたくさん出来てきて、それが居場所ということなのかもしれません。

ブログは手紙だと思って書くと続けられる

「この記事、『あの人』に読んで欲しいな」という感覚を持つことがブログ更新継続のツボだと思います。
手紙のように。

今日の、この記事だって「ブログ、続けるのが大変!」とぼやいていた知人に向けたものです。

手紙のような意識を持つと、まず、書くネタに困らなくなります。

不特定多数の「誰か」に読んで欲しい、なんて思って無難な事だけで書き続けようとしても、そりゃ限りがあります。

ネタも切れるし、そもそも書いていて詰まらない。
そりゃ、継続できないでしょ。

例えば、書籍を出版する、というなら場合によっては普遍化した文である必要があるかもしれないけれど(それでも「こういう人に読んで欲しい」というターゲットはいるものです)、日常的に更新していくことに意味があるブログで、「今日の出来事を分析して普遍化して…」なんてやってたら面倒です。

面倒なことをしようとするから続かないんです。

どうせ読み手に解釈は委ねられるのだから。
頭の中に浮かぶ「あの人」向けに手紙を書くようにしてサラッと書けば良いんです。
「あの人」に伝わるように、ということだけ。

1日のうちに「『あの人』に伝えたい」ということの1つや2つは、浮かぶはずです。
むしろ、それが無いと言う人はブログが向いていない気がします。

「『誰か』に伝われば良いや」くらいのぼんやりしたものは、誰にも伝わりません。

「『あの人』に!」というものの方が、ハッキリして読みやすくなります。

そして「あの人」は一人でも、「『あの人』と似た状況の人」はたくさんいます。
だから結果、たくさんの人にも読まれることに繋がる気がします。

ネットで検索をすると予測キーワードが出てくるのが良い証拠。
人類史上初の悩み、人類史上初の発想なんて、そうそう無いんです。
だいたい書き尽くされています。

だから「あの人」とのコミュニケーションだと思って書きやすいように書けば良いんです。

それが書き手オリジナルの記事になって、価値を持ち始めるんです。

そこにブログの意味があると思うんです。

どうせブログは更新をしていかないと検索に引っ掛かるようにはならないんですから、続けないと。
続けられる方法を採らないと。

読んでくれるかは、その次で良い。
(読んで欲しい人は概して読まない、というのも、よくある話。それに対する免疫も少しずつ作れば良い)

話が行ったり来たりしたけど、そういうこと。

2017年5月17日水曜日

「嬉しい!」という気持ちが引っ張ってくれる

Oちゃん、プールを頑張っています。

クロールがなかなか本人も思うように体が動かせず歯痒い思いもしながら、頑張っています。

そんな中、今日、途中で自分でうつ伏せで浮かんで手を閉じたり開いたりし始めました。

これは!と思い、「平泳ぎもしてみよっか!」と提案。
Oちゃんも「やってみる」と、勇気を出してくれました。

さぁ、いざチャレンジ!

うつ伏せになって手を閉じたり開いたり…先ほどと同じように動かし始めました。
でも、当然それだけでは進みません。

どこからどこまで手を動かせば良いのかも曖昧ですし。

なので、ルールを決めました。

・「1」で合わせた手を伸ばす。
・「2」で手を開く。
・「3」で、手を胸の前で合わせる。
・「パッ」で息継ぎをする。

この4つの流れでいけるんじゃないかな?と…

結果、まだ体の動かし方としてはぎこちないものの、順番に出来ました♪

これだと4拍子になるので、後々は「パッ」を「2」の中に組み込んでしまって3拍子で平泳ぎが出来ることを目指したいと思います。

で、面白かったのはここから。

平泳ぎが初回にしては、とても上手に出来て、本人もその手応えを感じることが出来たら、嬉しかったのでしょうね。

今までどうしてもクロールの時に上がらなかった腕がきれいに回り始めました。

嬉しい、という気持ちが体を動かしたんだと思います。
「やらなきゃ!」という力みを取り、「してみたい!」という冒険心のような感じに僕には見えました。

顔を上げたときのOちゃんの表情。
にっこー♪って、とってもキュートでした。

楽しみながら、頑張ろうね♪