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2017年2月28日火曜日

「責任を持つ」ということは「覚悟」と「防衛」を並行していくこと

昨日、宗像で子育て支援を展開する方たち数名と話をさせてもらいました。

支援者として子どもや保護者、家庭…背景も含めて人と関わろうと思ったとき、半端な覚悟では、支援者も当事者も危険にさらされる可能性があるというような話になりました。

だから、「責任を持つ」ということには「覚悟」と「防衛」というものがセットになっていなければならない、とも。

責任を持って関わるというのは、底無し沼に足を突っ込むのとは違います。
プロとして仕事をするのなら、見極めもして、自身がつぶれてしまわないような「防衛」をしつつ、受け止める「覚悟」を持っていかなくてはならないんです。

それは目の前の人と歩み「続ける」ために必要なこと。
これから出会うであろう人と歩み「続ける」ために必要なこと。

「責任を持つ」ための「覚悟」。
「責任を持つ」ための「防衛」。

巻き込まれず、適切な距離感で支援をしていくために絶対必要。

GAKUねっと座談会の準備中

GAKUねっと主催の座談会の2回目が、3月26日(日)に行われます。

二時間の時間のうち、前半一時間をメンバー持ち回りで、話をしたり、問題提起をしたりして、後半一時間を参加者を含めた座談会にするという本企画。

この2回目、僕の方でお時間を頂戴して、障がい児者の余暇をテーマにお話をしたいと思っています。

今日は、GAKUねっとのメンバーの前で予行練習的に話をさせてもらいました。

その後にメンバーからフィードバックしてもらって、本番までに修正と練習をしていきます。

12月にえるそるさんで頂いたのに続いて、2回目の講演。

前回とはまた違った切り口を、と思っています。
お時間あれば是非お越し下さい。
(これからブログ、SNSでジャンジャン宣伝しながら自分でハードルを上げていきます笑)

皆さんに何かしら伝わる、届くものを用意していきます!

メンバーの皆さん!
今日はありがとうございました!
また本番までにお力添え頂くことも出てくると思いますが宜しくお願いします!

永田、当日まで全力投球で準備していきます!

2017年2月26日日曜日

隔てない言葉が、子どもを育む

小学校の頃って、走るのが速かったり、ドッジボールが上手だったりするだけで、クラスの中でヒーローになれる、みたいなところありませんでしたか?

同じようにプールだと、泳げる(ようになる)というのは、ヒーローとまでいかなくとも、純粋に「凄いなー」ってことに繋がります。

そういうものが「壁」を取っ払うのだと思いながらプール指導をしています。
障がいがあるとか無いとか、そういう「壁」が水泳という共通項によって取っ払われるという実感があります。

共通項のないところ、あるいは人へ理解を求めようとするとなかなか難しいものがあります。
それを押し付けるようにすると「『障がいがあるのに』すごいねー」になって、一線を引かれてしまうのだと感じました。

「障がいがありながらも頑張っている」というのが悪い訳ではなく、そういうのも大切です。
事実としてそういう一面もあると思います。
そういう事を足掛かりに、知っていってもらうということの方が、コミュニケーションの入り口になりやすいのだとも思います。

僕の自己満足かもしれませんが。

ある種の同情のようなものを抜きにして子どもたちの成長を周りの人には捉えてほしいと願っています。

「良いものは良い!」
「惜しいものは惜しい!」
「まだまだなものは、頑張れ!頑張ってるね!」

と本音を受け取った時、子どもたちは良い表情を見せてくれるんです。

僕の活動の中においては、そういう関わりが子どもの「個」を育む大きな力になっています。

2017年2月25日土曜日

そう言えば遊び心を持って仕事をするのが苦手だったな…

今日は、「えるそる むなかた」での学習サポートの日…だったのですが、宗像市内の小学校は出校日で、午前中は子どもは少な目でした。

そんな中、可愛いお客様がいらっしゃいました。
来年度小学校に上がるお子さんが、遊びに来ていました。

その子と遊んで過ごしました。

かくれんぼのような、鬼ごっこのような遊びをしながら。

「どーこーだー?テーブルの下かな?」(ゆっくりテーブルを持ち上げると、その間に別の場所に逃げてます)「あれ?いないぞ、おかしいなー、ならここはどーだー?」…こんな調子で。
たまに捕まえて「捕まえた!」というとキャッキャキャッキャ笑っていました♪

楽しい時間を過ごしました。


今でこそ、遊びながら子どもと関わることも出来ているけど、仕事始めたころは、とにかく遊ぶのが苦手で…仕事に遊び心を取り入れて展開することが全くと言って良いほどに出来ませんでした。

今は…8割遊びながらですね(笑)

あまりに遊び下手で、遊びのことを勉強していました。
(今思うと、そこが固いわ!と突っ込みたくなります)

でも、それも必要だったのかもしれません。

元々気質として出来ていたわけでなく、勉強して身に付けたことです。
だから、この手の関わり方には、ある程度の自信を持つことができています。

いつでも遊べば良いってものでもないけれど、必要なときに必要な遊びを、意図を持って展開できる、ということになっている気がします。

もともとの気質、なんかよりやっぱり勉強したものの方が、強みになってきているように感じます。

それを実感出来るから、大人になってからの勉強は楽しい!

2017年2月24日金曜日

作文を「どんな様子で」書いているかに気をつけて見てあげる

作文指導する際、添削のようなこともしていきます。
この表現は素敵だね。
よく気づいたね。
ということがほとんどですが。
知っている漢字は使おうね。
この繋ぎ方でいい?(こちらが文章を作るのではなく、子どもが作った文章ですから、基本は確認です)

文法のようなことに触れることも稀にあります。


でも、こちらが一番しなくてはいけないのは、「書いているときの様子を観察する」こと。

添削なんてしなくても作文指導は出来ます。

課題に直面したときの子どもの様子。
文を書いていくときの様子。
文字の書き方、スピード。
座り方…

そこには必ず「子どもの心の動き、変化」が現れているのですから、それを捉えることをしていきたい。
それが僕の作文指導。

文章の添削をしなくても、子どもの様子を見ながら、課題を出す、これだけで前に進めるんです。

大人っぽい、難しい言葉や表現を使う必要は無いですから。
分かりやすく、読みやすい文章で良いし、書きやすい書き方で良いんです。
だから、添削に重きを置かなくても良いんです。
(もちろん課題によりますが)

それが1番、作文が書けるようになるコツだと、僕は信じています。

書いてて楽しいのが1番。

2017年2月23日木曜日

支援はコミュニケーション

支援はコミュニケーションのためです。
だから、意図を持って行いたいです。

たまに思いがけず上手くいったということもあるでしょうけど、その時には、きちんと振り返りをして、なぜ上手くいったのか?ということを考えなくてはいけません。

まぐれ当たりのラッキーパンチは、そう何度もは出ません。

振り返りをして自分の手札に出来れば支援としては成立いていくでしょうけれど。

同じ上手くいった場合でも、意図して上手くいったときと、ラッキーパンチでは、中長期的に見たときに全く違います。

見通しが全く違います。

「これが出来たら、次はこれかな?」
「お、ここで躓いたか…そしたらこれならどうだ?」

準備が出来ます。

そして「出来た」「出来なかった」をキャッチして、逃さず反応することが出来ます。

対象児者の動作や行動にのめり込めるようになります。
「よしよしよし…!その調子!…よっしゃー!」
「おっ!おっ!…あちゃー(笑)」

「やらせる」のではなく「一緒に」が自然と出来るようになってきます。

自立と「独り」は違います。

仮に出来たとしても「独り」になっていくようなら、それは支援の方向性を見直さなきゃならない気がします。

2017年2月22日水曜日

早く大人になることを求められる子たち

発達障がいの類いを持っている子たち。

彼らの事について話をしたり、勉強をしたりしていると「発達がゆっくり」「発達が遅れている」なんていう言い回しに度々遭遇します。

確かに「発達」はゆっくりかもしれませんが、「大人になる」ということについては、むしろ早い(というか、早さを求められている)気がします。

例えば特別支援学校でも、中学部から就労を見据えた授業、実習が取り入れられています。

僕が中学生の時分を思い出してみると、ぼんやりしていましたよ(笑)
しょーもないことをしているか、好きな子の事を考えるか、たまに勉強をしてたかもしれないけれど…
とにかくそんな感じでした。

就労のことなんて、ほとんど「将来の夢」的なフワッとしたものでしたし。
そもそも「高校進学が前提」のような進路指導を受けていましたしね。

高校に入ってようやく「さぁ、お前らどうする?」と考える機会を真剣に与えられたように思います。

それを思うと、彼らが如何に早く、大人になるための準備をしているのかが見えてきます。

「ゆっくりで良いからね」「無理しなくて良いからね」と目の前の作業については、そう声かけをされていても、成長とか自立とかに繋がる概念の部分では、ものすごい「早く大人になる」ことを求められているんですよね。

こういうことに思いを巡らせるだけでも、支援者として彼らとどう関わるかという糸口、足掛かりにはなる気がします。

そういう現状を見ながら、僕はどう関わるか?
目の前の子が、どんなとこに悩み思いを馳せているかを細かくキャッチしてあげたいものです。

2017年2月21日火曜日

子は親を見ています、だからこそ仲直りまで

「夫婦喧嘩をして、その後から子どもの様子が変なんです」

これまで何回か、そういう話を聞いてきました。

そういう話に対してまず尋ねるのが「喧嘩の中身については解決しているんですか?」ということ。

解決していなければ、それをまず解決させてください、ということになります。

当然ですよね。

親が落ち着かない中、子どもに落ち着けと言っても無理な話です。

次に、既に喧嘩の原因が解決している場合。

「仲直りは出来ましたか?仲直りするところを子どもは見ていますか?」ということを尋ねます。

つい、「親の問題だから」で自分達だけで解決して、一件落着にしていませんか?
普通に会話もするし生活もしているとしても。

子どもからすれば「この前、喧嘩してたのはどうなったのかな?」と気にしていたり、「僕の前で無理して仲良しのふりしてるんじゃないかな?」と想像したり…。

それで落ち着かなくなっているかもしれません。

子どもに夫婦喧嘩を見せたなら、仲直りするところまで見せてください。

握手でも良いし、「この前はごめんね」でも良いし、なんだったら抱擁でも、可愛らしくフレンチ・キスしたって良いじゃないですか。

子どもの分かりやすい方法で「もう仲直りしてるからね」を是非伝えてあげてください。

きっと安心しますよ。

2017年2月20日月曜日

「生活綴方」と言うものを勉強してみようと思います

僕のブログ記事を読んで、ある方が「生活綴方(せいかつつづりかた)を勉強していますか?」と尋ねてくださいました。

恥ずかしながら「生活綴方」なるものを、その時まで知りませんでした。

そこで「生活綴方」をネットで調べてみると、自身の生活の中で見聞きしたり、感じたり、考えたりしたことを自分自身の言葉で表現する、あるいはそうして生み出された作品、またはこういうことを生み出す前提における指導などを「生活綴方」と言うそうです。

うん、勉強になる(これまでが勉強不足だっただけかもしれませんが)。

というか、勉強の入り口ですね。

そして、ネットに記載されていることを見ていくと、僕が実践してきたこと、あるいは考え方に近いものも多く、興味が湧いてきました。


やはり、子どもたち、あるいは青年たちには僕との関わりもそうですが、日々の生活の中で様々なことを、その人自身の実感として味わった上で、自分自身の存在を確かめながら、歩んでほしいと願っています。


自分の考え方に近いものが、こうして体系立てて整理されているとするなら、それは勉強していかなくてはいけないのかな、と思います。
自分の考え、意見、感性…そういうものを客観的に見つめてみて、育てるということ、その先にある支援を、出会った子どもたちに確か(支援者としてぶれない様な確かさ)なものとして届けていけるようになるために。


気になるものは調べてみて…いろんなものの良いところ(良し悪しというより自分の納得できるもの)をチョイスしていくことで、「永田らしさ」「ぐるんぱらしさ」を作っていけたら、と思います。

2017年2月19日日曜日

「話を聞いて!」にどこまで耳を傾けるのか

昨日も「えるそる むなかた」での学習サポートでした。

S君とのやり取りは、僕にとっても、学びの多い時間。
考えることの多い時間。

最近の様子から、個別に近い体制で学習を見たい、という旨をスタッフさんにお伝えして、昨日はガッツリとS君と向き合ってみました。

「聞いて聞いて!」という想いをたーくさん持っている彼。

その溢れんばかりの想いを聞いて、パンパンに膨らんだ風船のような彼の気持ちを少しガス抜きすることから、入りました。

話が出てくる出てくる(笑)

また、自分の話だけでなく、周りの様子を逃さず反応する反応する(笑)

目の前の僕を含めて誰かが何かを発すれば、それをキャッチして、持ち前の明るさとユーモアで、サラダボウルでサラダを作るようにサッと和えて、寿司職人さながらに「へい!お待ち!」という具合で反応を返す。

そんなイメージのやり取りをしていく彼。

学習を初めても、その調子だからなかなか進みません。
時間ばかり流れ、本人も「あぁ、疲れた」「量が多い!(これは話していて進まないことによる錯覚ですが笑)」と、楽しそうに話している割りに困り感を滲ませ始めました。

「そうなんだ」「へぇ」と、身を乗り出すような姿勢で僕も話を聞いていました。
「聞いているよ」「ちゃんと見ているよ」を彼にも分かりやすく伝えたくて、そういう姿勢を取ったのですが。

「話しやすさ」というところでは、そのくらいの姿勢を見せることは成功でした。
ただ、「話させ過ぎた」感が出てきてしまった訳です。

お喋りのブレーキが掛からなくなってしまった感じでした。

さて…どうするかな…

ここでちょっと発想を変えてみました。
「話したいことが溢れている」のではなく「お喋りが止められない」「落ち着けない」という困り感なのでは?と。

で、それまで僕も机に肘を着くようにして話を聞きながら、時折「口だけ動いて手を動かさないから、進まないんじゃん(笑)」とやること、やっていることを指差しで示す、という手段を取っていました。
それを僕が正座をして背筋を伸ばして彼との距離も数十センチ離れ、手も膝に置くように座り直しました。
それでも話を急に打ち切るのは乱暴な感じがしたので、相槌は変わらず打ち続けました。

すると少しずつ、彼のトーンが落ちてきました。
それまで3文字書いてはお喋り(笑)くらいだったものが、室内に鉛筆の筆記音だけが聞こえるくらいに変わってきました。

するとあっという間に課題を終えて「終わったー!」と満面の笑みでガッツポーズをS君は見せてくれました。

「すごい集中だったやんか!カッコ良かった」とバックしてあげたら「えっへん」と胸を張っていました。
彼の成功体験として返せてあげたかな?

子どもの話を聞いてあげることは、大切なこと。

でも、子どもによっては話すことが止められず、しなくてはいけないことに向かい切れずに困り感を抱えている子もいるのです。

愚痴を話し出して止まらなくなる、ということをご自身で経験したり、他の人の愚痴に延々と付き合わされたことのある人は多いでしょう。
それに近い感じです。

そういうときには、ブレーキをかけさせる、というのも支援としてはあり得るのではないでしょうか?

今回の彼の場合は結果、「すごい集中して、学習出来た」という体験を残せましたし。

さて、次の一手を準備始めますか♪

2017年2月18日土曜日

お互いに知っていくことが「地域」である

金曜日の夕方は、小学校3年生Eちゃんのプールの日。

毎週同じ時間にやっていると、他のお客さんも顔ぶれがある程度決まってきます。

毎週毎週の小さな積み重ねを見守ってくれる、ちょっとした応援団です。

彼女の苦手な泳ぎで、ゆっくりと進んでいると「ごめんね~横通るよ」「頑張って」と声をかけてくださる方々が出てきました。

彼女が得意な泳ぎでスピードが早い時には、「お、早いね~」「上手になったね」と声をかけて進路を譲ってくださいます。

彼女も周りの人への興味が出てきました。

声をかけてくださる方にニコッとしたり、何らかの反応が返ってきたら、僕の方を見て(仲良くなったよ)とでも言うように、嬉しそうな表情を向けてきます。

動作的にはピョンピョン跳ねるような動きも多くて、言葉も少な目で発せられた言葉も明瞭じゃないものが多いから、僕の要求を掴もうとしていたり、泳ぎを獲得していく姿が周りの人には驚きらしいです。
「この子も泳げるようになるんだね」
「こちらの言っている事がちゃんと分かっているんだね」

そういう言葉を掛けて貰ったら彼女の特性を少し交えながら「こういう理由で、こういう言葉を選んでいるんです、こういう方法で練習しています、そうするとちゃんと伝わるし、ゆっくりだけど出来るようになってきます」と説明をします。

「出来るだけ地域で」と思ったとき、特別支援とか障がい福祉に携わる人たちだけでなく、それまで縁の無かった人たちも意図を理解できるような手段を取っていく、共感してもらえるような説明をしていく、ということもしていかないと、地域は広がらないし、「共生」みたいなことにはならないと思います。

2017年2月17日金曜日

暴力への向かい方。

暴力は、何も生まない。
それどころか様々なものを奪う。

これは絶対。

多くを奪う暴力。
一番怖いところは、振るう者からも、振るわれる者からも「暴力の認知」を奪うところにある。

突発的な暴力には、反応はしやすい。
ビックリするから。

でも「突発的」だから「今回だけだろう」という根拠の無い感覚だけを残して、危機感は残さない。

これが危険。

ビックリしつつも「今回だけだろう」と思い込み、誰にも打ち明けない。

そしてほとぼりが覚める頃にまた、顔を除かせる。

またビックリするだけで、終わらせてしまう。

これを繰り返すうちに「またか」と驚きが麻痺して、「何ともない」「いつものこと」になってしまう。

そうして暴力は、その認知を人から奪う。

それから暴力には、荒ぶる暴力と静かな暴力がある。

目に見える肉体的にダメージを与えるもの。
精神的に人を消耗させるもの。

悪気の有無には関係なく。
悪気のないところにも、傷つけられたり消耗させられたりしていると感じるのであれば、間違いなくそこに存在している。

先に書いたように当事者から存在の認知を奪うから、端から見て教えるのは難しい。

北風と太陽の話のように、ストレートに伝えても頑なになることが多い。

でも、「危険だ」という認知も奪っているから必ずといって良いほどに「こんなことがあった」という世間話くらいの具合で外には漏れ出てくる。

その時に、聞いた人はいわゆる「ドン引き」をすることがまずは大切なこと。

「あれ?なんか変な話だった?」と当人に思わせられたらしめたもの。

本人が違和感に気付いたら相談に乗る。

必要なところへ伝達。

僕の暴力への向き合い方。

2017年2月16日木曜日

家でも気軽に出来る作文練習

発達障がいの有無に限らず表現、作文の苦手な子や、作文が嫌いな子は多いものです。

僕は作文指導も請け負っていますが、学校からの課題について取り組むこともあれば、「せっかくだから学校とは違う作文書こうぜ」というオリジナル作文に取り組むこともあります。

そして作文の練習にどんなことをしていけば良いのか?という質問もたまに受けます。

その答えは書きたいと思う環境を作ってください。

ということです。

これは場というよりネタの話。

ネタが無いのに「書きなさい」と言われたら、苦痛でしかありません。

そのネタに困っているんです!

親子、家族での会話はありますか?
あるならそれが作文のネタになり得ます。

「今日、学校でこんなことがあった」と話せたら、その子はその事については書けるということです。

子どもは伝えたいものをたくさん持っています。

それを紙に書き起こしていくのが作文です。

文学作品を書き上げるわけではないので。

要はそういうことです。

いきなり特別なことを書こうとするから行き詰まります。

ラフなもの、生活感あるもので良いんです。

くだらない冗談について書いていっても良いんです。

「昨日のお父さんのオナラ臭かったよね(笑)」みたいなことでも全然オーケー。

そのくらいのものから書く練習に繋げれば良いんです。

それでもなかなか取っ掛かりにくい、という人もいるでしょうから、いくつかアイデアを。

・「もしも」作文。
「もしも~だったら」というテーマで書いてみる。
「もしも空が飛べたら」「もしも1億円あったら」という具合に自分の「もしも」から始まって、どんどん自分からかけ離れたものにしていきます。
「もしも僕が犬だったら」「もしも異性に生まれていたら」「もしも木だったら」「もしも僕がオモチャだったら」「もしも風だったら」…という具合に。

・「~のその後」作文。
童話や映画、アニメ、マンガ…なんでも良いけれど、話が終わったものの「その後」をテーマに自由に書いてみるのも楽しいものです。

・「こんちくしょう!」作文。
子どもだって子どもなりに大変さを抱えていたり、体験したりして、腹を立てます。
そういう文句たらたらを作文でどーん!と書いてしまったってオーケー!

因みにこの課題をしたら一度「永田先生の家、うちから遠すぎる!引っ越してこい!ちくしょう!」と書かれたことがあります(笑)

・「今日の◯◯」作文。
日記というとダラダラなってしまうから、今日は◯◯について、と絞り込んで書くことを決めてしまう方が書きやすい子も多いです。

・新聞の四コママンガを文章化!
これは少し難しいかもしれないけど、起承転結の練習にはちょうど良いです。

こんな感じで、日常の中にあるものを使ってちょっとずつ作文に取り組むと「原稿用紙イヤイヤ病」が克服出来るかもしれません。

ご質問もどーぞ。

息子が一歳に。パパママも一歳に。

今日は完全にプライベートな記事。

夕べは、仕事から帰ってきてから妻と二人で家の飾り付けをしていました。

(ブログ更新出来なかった言い訳?…笑)

息子が今日で一歳になりました。

その為に家を飾り付けです。
ちょっとした保育園なみに賑やかな室内になってしまいました(笑)

一年前より今がかわいくて愛しいです。


正直に白状すると、「息子として可愛い」と思えるようになるまで、僕は若干のタイムラグがありました。

もちろん赤ちゃんとして可愛いとおもっていましたし、出産直後は涙が止まらないほど嬉しかったです。

でも「妊娠から始まり、お腹を痛めながら出産を頑張った」とか「授乳」とかが出来るわけではないので、「繋がり感」を味わうのが難しくて…

それでいて、産後の妻のケア、慣れないオムツ替え、なぜ泣くのかなど、分からないことだらけで…

「さぁパパになったぞ!子育てするぞ」という張り切りと、「分からないだらけでする『世話』のような日常」というギャップにかなりへこんでいました(笑)

それが1ヶ月ちょっとしてきたら、余裕も出てきて、もう少ししたら表情も出てきて…少しずつ「世話」から「子育て」という感じに移行してきたことで、家族としての生活を楽しむことが出来るようになってきました。

今は「昨日より今日の方が可愛い」というくらいに思えて、「今日は何が出来るようになったかな?」と思えて…「繋がり感」もしっかり得られていて楽しいばかりです。

息子がどんな風に成長をしていくのか、僕ら夫婦がどんな親になっていくのか…

これからも僕ら家族を宜しくお願いします。


2017年2月14日火曜日

永く見守る

良いとか悪いとかいう話ではなくて、家族以外で、数年間に渡って子どもの様子を見守り、成長を見届けられる大人って案外少ない気がします。

ぐるんぱは、そこを担っていけると思っています。

行政と連携をしながら紐付けられる、いわゆる福祉サービスとは違い、習い事のような位置付けで僕自身の判断の中で、関わりや活動を展開できますから。

その時々で、責任というのはもちろん生じますが、もう少し大きな枠で考えたとき、「年齢に左右されず、成長や様子を見届ける」というところは、僕の負うべき責任だと自覚しています。

その時々で、身近な存在というのはたくさんあると思います。

学生の先生をはじめ。

もっともっと長い目で見たときに家族から見て、「一緒に成長を見てきた」存在として自然に、馴染むように、居られたら良いのかな。

だから、子どもや家族の日常を支えるような、決して「特別」な支援ではないものを考えていきたいと思います。

2017年2月13日月曜日

「自分の意見を育てる」という言葉が素敵過ぎる

フェイスブックで少し前から繋がらせてもらっている大瀧冬佳さんが書いた記事自分の意見を育てる-100年続く組織を目指して-」が僕の中にすごい印象深く残っています。

「自分の意見を育てる」ということは今の僕にもすごく必要なこと。


この一年、「自分の意見を持つ」とか「ブレずに貫く」とかいうことは意識しながら仕事をしてきました。

「さぁ、次の段階」と思っていたところへ「自分の意見を育てる」という言葉。

僕のやってきたこと、考えてきたこと、守ってきたこと…

それらを「育てる」。

「膨らませる」のではなく「育てる」。

もしかしたら「同義」じゃん?って思う人もいるかもしれませんが、言葉が違うので、やはりそこに含まれるニュアンスは異なるものなのだと思います。

僕自身は「膨らませる」という感じで自分の思考に向き合ってきたのですが、「育てたい!」って思うようになりました。


「育てる」方が広がりに幅や奥行き、あるいは選択肢があるように聞こえます。
「膨らむ」はその方向性のまま、という感じがします。


そういう意味で自分の意見や価値観、思考をタフにしていくために「育てる」ということを意識的に持ち続けてみようと思います。


呟きのような記事ですが。

2017年2月12日日曜日

それでどういう感じがしたの?

子どもと話をしていると、まずは「出来事」を話し出すことが多いです。

学校でこんなことがあった。
友達とこんなことがあった。
こんな体験をした。

という様な「出来事」で話題の大部分が構成されています。

成長するにつれて「どう思うか」という内面にも触れた話し方が出来るようになってくるし、徐々にそういう表現も増えていきます。

だからと言って、子どもが「思う」ことを表現出来ないかと言うとそうでもなくて。

泣く、笑う、怒る、などの動作や表情を伴いながら話をして、「思っている」ことを伝えようとしてくるわけです。

嬉しそうに話をしたり、悲しそうに話をしたりして、それを大人が汲み取っていくことが、多いわけです。

その汲み取ったものを子どもにバックしてあげることで、子どもは「自分の感じていること」と「表現」を少しずつ紐付けしていくように思います。

そうやって子どもは表現を増やしていっているのだと思うのですが、このコミュニケーションが案外難しいのです。

例えば小学校1年生の時に「友達にからかわれた」という体験をして「悲しい思いをした」とします。

その時に問題を解決して一段落。

時間が経って、小学校2年生の時に再び「友達にからかわれた」体験をしたとして、前のときと同じように「悲しい思いをした」かどうか、は別物なんです。

もしかしたら、やっぱり「悲しい思いをした」かもしれませんが、「『またか』と呆れた」かもしれませんし、「腹が立った」かもしれませんし、「笑い飛ばせた」かもしれませんし、「『あぁ、確かに』と納得しちゃった」かもしれません。

あるいは、以前は何ともなかったことに傷つくこともあるでしょう。

「同じような出来事」があったからといって、「感じる」「思う」というところまで同じとは限らないということです。

子どもは子どもで、日々いろんな体験をして「揉まれて」います。

別人になるわけではないけれど、昨日とは違う、その子です。

そうそう!

成長というところに話が傾倒している感じがしますが、「体調」ということだって「感じ方」には影響します。

だから、子どもの話を聞くときには、表現を持っている子には「それでどんな感じがしたの?」と尋ねてあげることは大切だと思います。

まだ感情表現を持たない、あるいは少ない子の「出来事」を聞くときには、都度、「話し方」を受けて「今日はこんな感じだったんだね」とバックしてみて本人の「出来事」と「思い」を結びつけてあげることが必要だと思います。

そうすると聞く方も大騒ぎせずに落ち着いて、話が聞けるようになる気がします

すれ違い、とまでいかなくても、子どもの期待しているものと違う反応や対応をすると、日常がざわざわしてしまう引き金になりかねない、という気がします。

そこが整うと親子の繋がりも深まる気がします。

2017年2月11日土曜日

素敵な高校生活が待っているはず、応援しているよ

中学3年生のYさんとの学習。

スケジュールの関係で3週間ぶりに彼女と顔を合わせました。
その間に、高校入試を終えて、無事に合格した旨を報告してくれていました。

なので、「おめでとう!」から今日の時間はスタート。

「ありがとうございます」の声の穏やかなこと。

安心しました。

今日は前半ゆっくり使って、入試から今日までの出来事、これからの僕との時間の使い方についてお喋りをしていました。

表情や身ぶり手振り、動作、所作…柔らかな彼女を見て、嬉しさと驚きが入り交じった不思議な感じでした。

「こんなに柔らかな子だったのか」と。

いろんな事に真剣に真っ直ぐに向かって、背負い込んでいたのでしょうね。

それだけ自分のいく先に向き合おうとしてきた彼女。
きっと素敵な高校生活を送ってくれることだと思います。

残りの時間、彼女にとって必要な時間を組み立てていきたいと思います。

2017年2月10日金曜日

夢は現実の中にある!

今月から個別の学習を始めることになった小学生のK君。

彼とのやり取りの一幕をご紹介。

今日、途中でお喋りをしていたときに、思わず唸ってしまいました。
彼の思考は、本当に真っ直ぐに先を見ているのだな、と。

K「クラスの○○って子がさ、NARUTOの九尾みたいな生き物は夢があるっていうっちゃん」
永田「Kは、そう思わんの?」
K「全然思わん」
永田「なんで?」
K「だって、現実にないことやん!面白いかもしれないけど、夢とは違うよ。僕がイルカのトレーナーになりたい、って思うのとは違って、自分に繋がらんやん?」

ほー…自分たちの先に繋がるものに夢を持ったり託したりする、その大切さや尊さを彼なりに感じているんでしょうね。

面白いことと夢があることは別物、か。

確かにそうかもしれないです。

「夢がある」と表現して言い回すことはあるかもしれませんが、そう感じるものってやはり自分に繋がるものかもしれませんね。
自分の中に平穏をくれたり、想像力を刺激してくれたりするものの気がします。

面白いアニメなんかでも、「夢がある」と感じるものとそうでないものがあります。

何らかの形で自分に良い刺激をくれるものが「夢がある」んだな、とK君から学びました。

僕の仕事を見て、「大人って夢がある」と子どもたちに思ってもらえているだろうか?

そんなことを考える夜。

ケの日に生きているということを忘れずに

ハレの日、ケの日という日本人の文化的時間の価値観、言い回しがありますが、ご存知でしょうか?

ハレの日は、儀礼や祭事、年中行事などの非日常の日のことを差します。
要はイベント事のある日です。

対して、ケの日は、日常のことを差します。

僕自身、お祭り騒ぎも大好きだし、旅行なんかのハレの日も好きです。

ですが、大切にしたいのはやはりケの日。

気分転換、リフレッシュ、というとハレの日的に過ごそうとする人が多いですが、その方向性に傾倒している人は却ってリフレッシュ下手な人が多い気がします。

「あぁ、また明日から仕事(学校)だ…」と目一杯楽しんだ直後にボヤいている人を見るとリフレッシュ出来てないじゃん!とツッコミたくなります。

リフレッシュ方法が合っていないというか…

休まず働け!勉強しろ!ということではなく。
思い出や体験を作る、という意味でハレの日的に過ごすことも大切です。

ただ、日々の疲れなりストレスなりは、ケの延長線上にある方法で発散出来た方が良いということもあるのです。

そういう習慣が身に付くと、ハレとケの落差に振り回されることも少なくなるはずです。

ケの日を上手に過ごすことが日常を整える一番の近道だと信じています。

僕が提供する学習もプールも子どもたちの日常となるような時間になることを目指します。

ありがたいことに、学習にしてもプールにしても楽しみにしてくれている子どもたちがいます。
でも、彼らが舞い上がるようなことのない地に足の着いた時間を作って過ごしたいと思います。
僕との時間が終わった後も穏やかに日常生活を継続出来るような送り出し方をしていきたいと思います。

ハレを用意したら、如何にケに戻すか、まで考えてあげないと子どもたちは、気持ちがジェットコースターのように浮き沈みして疲れてしまいます。

余暇ってそういう側面があります。

僕らは、みんなケの日の中で生きていますから。