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2017年5月16日火曜日

「好きかな?って思ったの」の時の観察的側面

先ほど書いた「好きかな?って思ったの」と同じ場面の話。

さっきの記事は子どもの言葉に着目した記事。
こちらはちょっと学習に近い視点。

フェルトでスイーツマスコットを作る為の本を嬉しそうに見せてくれた女の子。

僕の「クッキー」というリクエストに一生懸命「14ページ」を探しています。

このクッキーを選択したのも、彼女のページのめくり方を見るため。
最初や最後、あるいは比較的開きやすい真ん中を避けて、「たまたま」は開きにくい辺り。

ケーキも捨てがたいチョイスではありましたが…ケーキは最後だったから仕方ない(笑)

さて、その「14ページ」を目指して本をめくり始めた女の子。

まず開いたのは「34ページ」。
決して辞書のような薄いページではないのです。
1ページが厚紙になっている本で、この差はなか大きいです。
(彼女の「14ページ」という感覚はこのくらいか)と、この時点では思うのです。

女の子「あれ?違うなぁ」と、ページを確認して一旦閉じて、開き直します。
次に開いたのが「22ページ」。
(よし、近づいたね)
女の子「まだか…」

次に開いたのは、「43ページ」。
(おっと、適当に開いているのか?)

もう一度やり直して、今度は「11ページ」
(かなり近いぞ、どうする?)

ここまで来て彼女は残りの数ページを1ページずつめくって「14ページ」に行き着きました。

彼女は、例えば「12-4」とか「8+4」とか繰り上がり、繰り下がりのある計算も少しずつ出来るようになってきています。

ですが計算というところから離れ、実際的な数に触れたときに予測、見当、大小ということが、学習内容から引っ張って来られないということが見て取れます。

あるいは「22ページ」と「14ページ」は近いと感じず、「11ページ」と「14ページ」は近い、と認識することが出来るという捉え方も出来ます。

計算を繰り返していくことで、その辺りの概念を獲得できるのか、あるいはもう少し数について話をしていく必要があるのか…観察していく必要があります。

それを考えていくのが学習サポート、学習支援。

まぁ、今日の一場面だけでは確かなことは言えませんが、可能性の話、一側面の話。

心の交流を図る面と、ドライに観察する面。
この二面について書き分けてみました。

好きかな?って思ったの

小学4年生の女の子が、スイーツマスコットをフェルトで作る為の本を持って駆け寄ってきました。

女の子「先生は甘いもの好きですか?」
永田「うん、甘いもの大好きだよ」
女の子「良かったー!これ見て!」
(本の表紙を指差しながら)
女の子「これ、美味しそうなのないっぱいでしょ?」
永田「本当だね。これ、作るの?」
(今度はもくじを開いて)
女の子「どれが好きですか?」
永田「クッキーかな」
女の子「14番ですね(14ページのこと)?少々お待ち下さい。…お待たせしました!(そのページを開きながら)召し上がれ!」
永田「ありがとう…ところで、急にどうしたと?」
女の子「好きかな?って思ったの」
永田「そうか、ありがとう」

最後の「好きかな?って思ったの」に、この子らしさを感じずにはいられませんでした。
相手のことについて知りたい、仲良くなりたい、そういう想いのぎっしり詰まった一言。

この一言で、がんばれちゃう!

2017年5月15日月曜日

三人よれば文殊の知恵

今日は午後から、学習サポートでお世話になっている「放課後等デイサービスえるそる むなかた」のケース会議に同席をしてきました。

今日はスタッフさん6名と僕の7名でテーブルを囲み子どもの様子について、情報共有と意見交換をしてきました。

もちろん、子どもの特性についても確認していくところからなのですが、やはりそこは現場のミーティング。
次第に「こういう事があった」「こういう一面がある」「前はこうだったけど、こんな風に変わってきた」という日常的な子どもの姿について話が及んできて、当然、それぞれに違った関わり方があり、立ち会う場面も違うので「へぇ~、そういうこともあるんだ」と、僕も子どもの新たな一面を知る機会になりました。

もちろん、僕から見た子どもの様子についてもお話をさせていただきました。
これがまた、スタッフさんの中に意味を持ち始めてくれたら幸いです。

お互いに出した意見やアイデアが、それぞれの中に落とし込まれて、支援者の個性が加えられて、活用されていって、子どもたちが、その子らしく過ごせるように場が作られていく…。

今日の会議が子どもたちに還元されていくのが楽しみです。

僕個人としても「そうだよな」と納得する話が大いにあったので、自分の子どもとの関わりは常に振り返りながら、また丁寧に日々を過ごしていきたいと思いました。

そして、そもそもなかなか「他の事業所のケース会議」に参加する事って無いと思うんです。
他の事業所と「合同」ということはあっても。

これは仕事上、立場上の僕の役得な気がします。
会議の在り方が違えば出てくる意見や、議論の方向性も変わりますから、やはり会議にも「事業所らしさ」があるのです。
そこに参加できるのは、ものすごい勉強になります。
振り返りの視点が、それだけ増やせるということ。

厚かましく、しばらくは継続的にケース会議に同席をさせていただきます!(笑)

2017年5月14日日曜日

優しさで包み込んでくれたあなたの背を見ながら、僕は歩いています

大卒直ぐ、僕はずっこけました。
それはそれは大きく。

自分に自信を持てなくなり、自分の事が大嫌いな時期もあり、毎日が不安で、必要以上に人と比べて、焦って…。

本当に死ぬかと思った日もありました。

そんな日々と時期がありました。

そんな最中に母が言ってくれた言葉があります。
余りに自然な会話の中で出された言葉で、母自身は覚えているか定かではないけれど、間違いなく、今の僕のタフな部分を作ってくれた言葉。

「若いうちの苦労は買ってでもしろ、と言うし、この大変さくらいまでは私も一緒に買ってあげるから。不真面目に生きてきた訳じゃないから大丈夫よ」

と。

そう言って、家に戻ってきた僕に、時間と優しさをくれました。
さらーっと言ったけど、母の僕に対する覚悟を聞いた気がしました。
守るというか、立ち直らせるというか…そういう覚悟を。

あれから9年。
結婚もして、子どもも授かり、あの時には想像しなかった、想像出来なかった、考えたくもなかった「未来」を今歩けています。

相変わらずマイペースだし、他にお手本の無いような生き方をし始めた僕の人生や生き様に、やはり今も立ち会ってくれている母。

本当にありがとう。

まだまだ母の背中は大きく遠いけど、あの優しさと覚悟とタフさと気高さを追いかけながら、僕は仕事にも家庭にも向かえています。

このブログまではさすがに見ていないだろう。

まだ面と向かって言う気概は持ち合わせていないけれど。

本当にあなたの息子でよかった。
ありがとう。

僕も、あなたの息子らしい愛情を持って晴哉を守り育んでいきます。
あなたに恥じない生き方をしていきます。

人の欲求を満たすことが仕事ということだけど、その先に依存を生まないために心掛けていること

人の欲求を満たすことが仕事、ということは言うまでもありません。

もちろん、僕もそういう意識を持ちながら仕事をしているわけですが、1つ心掛けていると言うか、気を付けていることがあります。

それは「○○して欲しい」とい欲求にはストレートに応えないようにする、ということ。

これに1度応えてしまうと、依存関係を生みかねないと思っています。
経験的に言って。

じゃあ、どこに応えるのか?

「○○したい」という欲求に対しては、「どうやったら満たして上げられるかな?」と考えます。

微妙な違いですけどね。

「○○して欲しい」というのは、端から他人に頼ろうという意識が全面に出ていますから。
自分で動かない、人任せにする人は、こういう欲求を表出してきます。

「○○したい」という欲求には、自分でもなんとかしたい、という意識が含まれます。

例えば「美味しいものを食べたい」と「美味しいものを作って欲しい」では、違いますよね?

そういうこと。

「美味しいものを食べたい」と思う人は自分で作るなり、食べに行くなり、自分で動くことが前提なんです。

「美味しいものを作って欲しい」と思う人は「誰かやって~」の姿勢なんです。

だから「○○したい」は満たして上げても良いけれど、「○○して欲しい」には、慎重になって、ストレートに応えることはせず、その中にある「○○したい」を掬い上げるような聞き方をしていく必要があるんです。

そうすると、誰かに誰かに振り回されて悩むことは大いに減ると思うんです。

2017年5月12日金曜日

言葉ひとつ、見せ方ひとつ

ほんのちょっとの言葉、見せ方の違いで、全く違ったことにモノゴトが転がっていくことがある。

それを上手に受けたり、流したり、避けたり、返したり…。

そうやって実績や実践を積んでいく。

そういう紙一重のやり取りに大切なものが含まれているということはよくある話。

こういうことがあると建前というのはつくづく邪魔だと思う。
建前が作り出す便利さがあることも知ってはいるけれども。

中身。

僕は、建前よりも中身を作っていくことに注力したい。

ただ、自分はそうあったとしても、相手の建前、面目を立てないといけないこともある。

受益者負担が多いと、ということになると「営利」か。

受益者負担でなくとも、活動を広げているということは、そのための蓄えが出来ているなり、出所が違うというだけの話なのだけれど、それは「非営利」とされるのか。

改めて突き付けられると、頭使うな。

2017年5月11日木曜日

周りの人も認めてくれてこそ「居場所」

ある重度の知的障がいを持つ成人男性とのプールの件について。

随分長いこと家族でプールに行って、楽しんでいたようですが、本人も40代後半になり、ご両親もそれなりの年齢になり、家族だけでプールの活動を維持、継続していくことが段々と難しくなってきたということで、僕の元に依頼が来た、というケースです。

ご家族で取り組まれてきた歴史が長いので、それを引き継ぐという意味が強く、本人も泳ぐことは出来ず、水中歩行と少し潜るくらいしか出来ないので、プール指導というよりかは、プール活動という感じになっています。

それはそれで、本人のリフレッシュになっていて、余暇として成立しているので、却って妙な指導感を出して、プールが嫌になってもいけないので、本当にゆっくりとした付き合いを重ねてきています。
(少しずつビート板の使い方は教えていて、それはそれで楽しめているのです。あくまでも「楽しめる」やり取り。指導と言うには程遠い感じです)

唯一、「指導的」に伝えているのが、入水中にプールキャップを取らないということ。
プール施設を利用する上でのルールでありマナーです。
これが守れないと本来、プールは利用出来ないというものです。

ですが、この男性は入水中にプールキャップを外してしまいます。
長く被れて2分と言ったところでしょう。
その都度、歩くことを中断して被る、ということを繰り返してきています。

関わりがスタートして、3ヶ月。

施設の職員さんは寛容さを持って見守ってくれています…。
利用歴も長く、男性がどんな人かも知っている故の事です。
でも、キャップを外すこと自体は気にされているはずなんです。
プールキャップ着用をルール化している立場ですし。

一般の利用客の方々は、というと決して寛容さを持ってくれているとは限りません。
「見て見ぬふり」をして「我慢」している人も明らかにいます。
冷たい視線を投げてくる人もいます。

これじゃいけないと、率直に感じて「キャップを被りましょう」「被らないとプールも利用出来ません」「みんな被っているでしょう」と、本人に伝えてきましたし、周囲の人にも「ルールを守ることの必要性をちゃんと伝えています」ということが分かるよう、聞こえるように働きかけをしてきました。

でも、ある種の癖のようにしてキャップを外すことをしてしまうので、なかなか変わりません。

そこで、今日は、30分程度で水から出ることにしました。
普段50分程、水の中で過ごすようにしているのですが。

途中で「キャップを被れないなら今日は本当に上がります」ということを予告として伝えました。
本当に真剣に。

さすがにいつもと雰囲気が違うことを察したようでした。

まずはこれが必要でした。
本人にも真剣に向き合ってもらわなきゃいけない問題ですから。

でも、彼はキャップを外してしまいました。
なので、予告通りに「はい、もう今日は上がります」と伝えて上がる準備に取りかかりました。

すると、「プール入る」と主張を始めて、プールサイドへ上がるための階段部分でしゃがみ込んで、抵抗を示しました。

永田「キャップを取ったら上がる、って言いました。」
男性「プール入る」
永田「今日は上がります」
男性「プール入る」
永田「本当に上がります」
男性「プール入る」
永田「上がります」
僕が折れないと知り、諦めて立ち上がりました。

こんな問答をしてプールから上がりました。

本当にプールが好きならキャップを被ることも含めてしていかないといけないんです。
とても大切なこと。
でないと「居場所」になりません。
ただ「来れている」というだけで。

そして、更衣室でもまだ「プール入る」と繰り返し主張を続けていましたが、着替えをどんどんとさせていきました。

そうしていると、後から更衣室に戻って来た年配の一般の男性客が声をかけてくださいました。

男性客「これまでも、この人と同じ時間に居合わせたことがあって、これまでいろんな人が引率してきて、お兄さんと同じように『キャップを被らないと入れない』って話をしている人は見てきた。でも、本当に水から上げた人は初めて見たよ。大切だと思うし、正直、今まで不快だったんだよ。でも、大変だろうけど頑張ってな。」

こんな言葉を頂きました。

と言っても、彼の「楽しみ」とのバランスも取らないと継続できないし、その辺りは上手くやっていこうと思います。

少し彼の「居場所」になったのかな。
ちょっぴり前進。
とっても嬉しい出来事。