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2017年6月29日木曜日

個を見ていく集団作り部会

今日は、と言うか、つい先程まで学習会に参加していました。
保育士さんたちの学習会、「集団作り部会」。

保育士ではないですが、紹介していただいたので、子どもと関わる仕事という共通点だけで、単身お邪魔してきた次第です。

文献に触れ、それを実践と絡めて深めたり、集まった人たちの「悩み」について検討したり…。

「対話」していく学習会。
とても刺激的でした。

僕も飛び込みなのに、エピソードを持ち込ませてもらって、みなさんに話し合ってもらいました。

自分とは別の視点で、意見が聞けるのはとても素敵な時間。

文章に落としたエピソードを細かく見ていく。
「多面的」な視点をもって事例を検討していく。

こういう勉強の仕方、今の僕にはとても必要なのだと思いました。

子どもについて「あれ?」と思うのが、実は子どもの事だけでないかも、という視点は目から鱗でした。

いつもと違うのは僕かも、という。

腕は上げていかなくてはいけない。
でも、煮詰まることも多いんですよね。

それがこういう場に来ると「あ、僕まだまだ腕を上げられるな」という手応えもあります。
単純なんで(笑)

集団は、個の集まり。
個を育む、が集団を育むみたいな学習会になりました。

僕は、基本的に個と個の関わりが多くなります。
それが、僕のもと離れて集団あるいは社会みたいな場に戻す(で良いのかな?)ときの地力になっていれば良いなぁ、と改めて思いました。

みなさん、ありがとうございました。

取り急ぎ感想。

またじっくり今日のことも振り返ります!

そして、宗像で学習会を作っていきたいと思っているところでもあるので、運営も参考になりました。

プールキャップを被れるようになって起こったこと

以前の記事(2017年5月11日の記事)でも紹介した成人男性のプール活動の支援。

プールキャップを外したり、水を口に含んで吐いてしまったり…。

そういう行動が居場所作りの妨げになっている、そういう話を書きました。

その後については、ほとんど触れてきませんでしたが、大きく前進しましたので久しぶりに。

結局プールキャップを取らない、という段階の前に「取ったら直ぐに被り直す」というところから取り組むことにしていました。

それが習慣着いてきたので、「キャップを取らない」ということを少しずつ始めてきました。

やはり上手くいかない、というのが4週間。
平均して1分程度でしょうか?
20~30秒ごとに取ることもあるから、一時間のプール活動の間に、何十回と繰り返し伝えることが続いていました。

もう、こういうときはゴールが見えないから、正直こちらもしんどいんです。

でも、今日!
探していたパズルのピースが見つかったかのように、被れる時間が劇的に伸びました。

最高で15分!

もう、嬉しいのなんの!

そうするといろんなことが起こりました。

まずは、キャップのことに注意を向けなくて済むので、僕が他の面に目を向けられるようになりました。
彼は下半身に麻痺を持っているので、ずっと水中での足の使い方を見たかったんですが出来ませんでした。
これだけ被れたら、そういうところも見ていくことが出来るようになります。

次に「キャップ被って」と口うるさく言われなくなったら、彼ものびのび水中で過ごすようになりました。
そして、キャップのことなのに、水を口に含むこともいきなり減りました。
これは不思議。
別に取り組まないといけないと思っていたものだったので、思わぬ収穫。

それから、以前「正直、不愉快」と仰っていた方が、「今日は随分長いこと帽子被ってたね」と微笑みながら声をかけてくださいました。
認めてもらえるって、やっぱり嬉しい!

他にもあります。
プールを終えて陸に上がってから。
今言ったように、下半身に麻痺を持っているので、歩行の際は介助者につかまりながら歩きます。
介助者の腕にしがみつくように、体重を掛けるような形になることも多いのですが、今日の帰りはとっても軽かった。
歩き方が変わったというよりは、ゆったりと身を委ねて、自分でも歩くという意志が強くなったという感じでした、イメージは。
晴れやかな表情でしたし。

そして最後は自宅に送り届けたとき。
プールして帰って来た直後なのに「プール行く」と口にする方なんですけど、今日はニコニコしながら家に入っていきました。

満たされた、ということかな?

とにかく今日のプールは良いことづくしでした♪

「ごめんなさい」を言わせているものは何か

ある男の子が先日、一切のやり取りを放棄して「ごめんなさい」しか言わない、ということがありました。

悪いことをしていないのに「ごめんなさい」。

表情を消して「ごめんなさい」。

結局、関わりの時間の中で理由を語ることはありませんでしたが、何が彼をそうさせたのか…。

理由は分からないけれど、「何かあった」であろう事は分かります。

一過性のものかもしれないけれど、ただ見過ごすわけにはいかないから、彼が話せるときが来たら聞けるよう準備はしておきたい。

2017年6月28日水曜日

出来るかも!と思えるようなステップを用意してあげる

いくら「出来るよ」と口にしたところで、「あ、上手くなってきた」とか「あ、なんか良い感じ」とか「出来るようになるかも」とかいう実感を味わえないと、却って「出来るよ」という励ましが辛くなるものです。

その、一歩ずつ足を踏みしめるような確かな実感を用意しながら、あぁでもない、こうでもない、の試行錯誤や工夫をするように仕向けるんです。

それがスモールステップアップ。

ステップアップが小さすぎると実感を味わえません。
ステップアップが大きすぎると、ついていくのに必死で、実感を味わう暇もありません。

「出来るようになるかも」という手応えをしっかりと。

勉強もプールも。

2017年6月26日月曜日

常に視点を更新していく必要性

今日は午後から「放課後等デイサービスえるそるむなかた」さんの事業所内ケース会議にご一緒させていただきました。

対象児について、共通認識を深めたり、支援の方向性を共有したり、スタッフさんの考えや思いを聞かせてもらえる時間です。

僕も自分の考えやアイデアを率直に発言させてもらっています。

僕も「我が道を行く」的な人間なので、会議をかき混ぜてしまっていないか、いつも後から一人反省会です(笑)

でも、そのくらいに地を出させてもらいながらお仕事をさせていただいています。

そして、こういう場を頂くと自分の持つ情報の更新がしやすくなります。

自分の捉え方を疑うような機会にもなります。
「この捉え方、方向性で良いかな?」と。

別に正解とか間違いとかがある話ではないですけど、支援が支援者の独りよがりや、とんちんかんな方向に向かっていないかな…と考える機会は必要ですから。

「今日の捉え方はどうだったかな?」と常に考え、常に更新していくことが必要なんです。
多分。

それに、それぞれに忙しい時間を使うのだから、そういう積み重ねにしないと勿体ないですものね♪

2017年6月24日土曜日

子どもたちに見通しを立たせるだけでなく、支援者自身も見通しを立てながら支援に当たる

発達障がいのある子どもたちに対する支援の中で「見通しを立てる」というものは基本にあります。

これって、基本的には子どもたちに「この後はどうなりますよ~。」っていう告知のようなイメージなんですけど、子どもたちへの一方的な支援として考えるだけでは足りない、と言うか、それだとダメです。
はっきり言って。

支援者自身の側も「見通しを立てる」ことをしながら支援に当たらなくては。

子どもたちに対する「見通しを立てる」とはまた別の視点での話ですけど、表現としては、まさに「見通しを立てる」です。

どういう事かと言うと、「これをしたらどうなるかな?」という見通しの立て方をしていくわけです。

そういう見通しの立て方をしていって、避けられるリスクは避けるし、好ましくない状況になりそうなら、それも避けるし…。

あるいは、もしかしたら、見通しの中でリスクを把握して、それでも尚、踏み込む事もあるかもしれません。

そうやって手立ての選択肢を絞り込んでいくはずです。

「見通しを立てることが苦手」な子たちへの支援なのですから、支援者が見通しを立てて、リードをしていくんです。

仕事として子どもたちと関わるのなら、やはり意図を持たないと。
ただ子どもたちといて、子どもの思いのまま、なんでもアリということでは支援にならないんです。

子どもたちが僕の目の前で取る行動に対しては常に支援の眼差しを向けたいです。

「子どもたちに判断を委ねる」ということがあったとしても、それさえも支援としてでなくてはいけないんです。

一度のリスクを負った場面があったとしても、それを次に繋げるための見通しまで立ててからリスクも負うくらいの慎重さと、大胆さを同居させないと。

僕はそう思って支援に当たっています。

2017年6月23日金曜日

見ることの出来ない場面の子どもを知っていく

僕と子どもとの関わりってなんだかんだ言っても週に一時間とか、放課後等デイサービスとかでも重ねて会う子達もせいぜい二時間とかなんですよね。

週に一時間の子で言うと、1ヶ月で4時間。
半年でようやく24時間なんです。

関わりをしている時間のことに関しては誰にも負けないくらい知っていく、くらいの気概で関わっています。

でも、その時間に限る、というのが現実。

だから、保護者を始めとする関係者から、他の時間については聞いて様子を知っていったり、僕の知っている子どもの姿とイメージを擦り合わせていくわけです。

この、話を聞くのはとても楽しみです。

学校での様子、家庭での様子…。

「へぇ、そんな一面があるのか」
「そんなことも出来るようになってるの?」
「え?もっと出来ると思うけどな」

僕もそんな風に思うわけです。

そこから、子どもの様子を共有して、関わる人が「その子の地力」を知っておくことが大切だと思います。

それを知らなくては過剰支援になったり、支援が不足してしまったりということになって、子どもたちの日常を保障することが出来なくなる気がします。

今日は保護者から、嬉しい成長の報告がたくさん聞けた素敵な1日でした。
また次のステップへの足掛かりになりそうです。

2017年6月21日水曜日

予期せぬことに直面したときの心細さに寄り添っていたい

予期せぬことに直面したときに心細さを覚える事ってあると思います。

そういうときに誰に頼ったり甘えたりしたら良いのか…。

直ぐに誰かの顔を思い浮かべることが出来ますか?

そういうときに思い浮かべてもらえるような関わりをしているのか?

自分の心持ちの1つの指針にしておきたいと思います。

何か具体的にしてあげられることがあるにせよ、無いにせよ、心細さを抱えたときに「あの人どうしてるかな?」と僕のことを思い浮かべてくれる人が、たった一人でもいたら僕のやっていることには意味があり続けるのだと思います。

2017年6月19日月曜日

何かが上達するということは、選択肢が減ること

先日、テレビで将棋の羽生名人が仰っていました。

例えば将棋が強くなるというのは、手数の選択肢を減らしていくことだと話をしていました。

数多くある手の中で勝ちに繋がる手は限られていて、そこに如何にしてたどり着くか、ということは、如何にして選択肢が減らせるかということのようです。

この話、すごく僕は納得しました。

直感のようなことでしょう。

支援の場でも似ているのかな?

「この支援員さんすげーなー」と思う方って、その場での判断とか組み立てが早いんですよね。

考えているというより、感じているというようなスピード感があります。
(Don't think.Feel.というフレーズがつい浮かんでしまいます(笑))

でも、そのスピード感の中でも知識なり経験なりに裏付けされた、的確さが含まれているんですよね。

だから、周りも「すげーな」となるし、「なるほど」と唸るんです。

現場で「あぁしたらいいかな?こうしたらいいかな?」なんて何通りも手立てを並べて考える、なんてことをしていては、間に合いません。

せいぜい「どっちがいいかな?」とか、「『多分』こうだな」というところまで直感的に絞らないといけないんです。

直感的に動けるところを増やしていきたいな。
そして、振り返って支援に理論を紐付けして、自分の支援を確か(正義というよりぶれない芯を作るため)なものにしていきたいです。
それがまた直感というところに返ってくるんです。

そういう循環を自分の中に作りたいものです。

2017年6月17日土曜日

「失敗しちゃった」をいじり倒してみた

今日は、面白いやり取りがありました。

プールの練習中に子どもがちょっとした拍子にタイミングがずれて水を飲んでしまい咳き込みました。

真面目な子で「失敗しちゃった」なんて言い出して落ち込みスイッチが入りそうになりました。

で、僕はどうしたか?

「ホントやね~。こんななっとったよ」と言って、子どもの泳ぎのタイミングがずれるところから、咳き込んで「失敗しちゃった」と口にするところまでを、大袈裟にコミカルに、吉本新喜劇さながらに真似してやりました(笑)
(実際に周りの見ている人がクスクスなるくらいに大袈裟にしたんです)

そうしたら、子どももクスッと笑い始めました。

更に重ねて真似をし続けたら「そんなんなってないし(笑)ちょっと苦しくなっただけやし」と自分の「失敗」に対する捉え方が変わってきたんです。

しつこい僕は更に真似してやりました(笑)

そしたら、今度は「もう良いけん、やるよ~。」と子どもから立ち直り宣言を引き出すことが出来ました。

そして泳ぎ終えたら「ほらね」とどや顔(笑)

子どもの「失敗」に対して「大丈夫だよ」と真正面から受けるだけじゃなくて、「いじる」ことでも立て直そうとする気持ちを後押し出来るんだな、と再認識。

今日の子どもの様子から「大丈夫だよ」は違う気がしたんですよね。

たまには「失敗」することがあって、そんなの大したことない、と思えるくらいのタフさを身につけて欲しいと思います。

そうそう。
こういう記事をどうしても書きたくなるから紹介していますが、「あちゃー」とそれこそ「失敗」みたいなことも山ほどありますから!当然。

書くこと、書かないことを選別しているだけですから(笑)

2017年6月16日金曜日

ちゃんと伝えられるかな?

学習で関わっている男の子が「永(なが)ちゃーん?永ちゃんはプールも教えるっちゃろ?俺もしたーい」と言い出したのが2週間前。

泳ぐということがあまり得意ではないらしく「スイミング習いにどっか行くくらいなら、先生との方が、もう仲も良いし、上手くなれそうな気がする」と言い始めました。

嬉しい限りですが、喜んでばかりもいられません。

仕事で関わっている以上、「オーケー、来週からやろうぜ!」とはいきません。

お金の事もあるし、時間のこと、家庭の都合…。とにかくいろんなものが絡み合ってきます。

なので、「分かった、少し考える時間をくださいな」と伝えて保留にしていました。
とても勢いのある子で、一時的なものでないか確かめる必要もありましたから。

でないと、保護者に話をしてから、「やっぱりしない」と言って保護者を振り回す訳にもいかないですしね。

そして、2週間置いて今日、保護者には前もって電話で経緯を話して。

今日も子どもと顔を合わせて確認したところ、時間を置いてもやはり気持ちは変わらないようでしたから、今日の学習の後に宿題を出しました。

「ここにプールをするなら、『こういう感じでなら、僕も対応できる』っていう説明を書いておいたから。それから、実はお母さんに電話でお話はしてみてある。考えてはくれるみたいだけど、あなたから直接話を聞きたいみたいだから、しっかり説明してお母さんを納得させてみてごらん」
と。

とても賢い子です。
ただ、感情が先行してしまうものだから、たまに親子で衝突もしているみたいです。
そんな子に「思いを説明する」という宿題を課しました。
出来るかな~?
がんばれ!

「これやりたい」「あれやりたい」で、与えられるのではなく、自分がしたいのであれば、勝ち取るというか…。自分でモノにする、ということも必要な気がします。

僕も彼とプールをしてみたい。
でも、僕も思いだけで受け入れる訳にはいかなくて。

でも、一生懸命にプールについて考えたり調べたりする彼が可愛くて♪

「彼にも僕から話をしていますが、お母さんも彼の話に少し耳を傾けてみてあげてください」

と若干?彼寄り(笑)の言葉をお母さんに投げ掛けて、今日は退散してきました。

さ、後は親子でじっくり。
良い時間作れると良いな。

2017年6月15日木曜日

ルールについて伝えるとき

「ルールを守らないとここでは過ごせないよ」ということを子どもたちへ伝えることがあります。

これは大切なことです。

それこそ昨日書いた記事ではないけれど、誰であれ守らないといけないルールというものが地域社会の中にはあって、守らないと居場所を作ることは叶いません。

ただし、この「ルールを守らないとここでは過ごせないよ」が先行してはいけないんです。

まずは「ルールを守るとここで気持ちよく過ごせるよ」ということを伝えるのが先でないといけません。

ルールを守らないと云々、という縛りを示す前に、ルールを守ることで得られる喜びがあるはずなので、それを伝えるんです。

そして、実際に「ルールを守らないとここでは過ごせないよ」という話をするときでさえ、常に「ルールを守るとここで気持ちよく過ごせるよ」ということを心持ちとして持ちながら伝えないといけません。

でないと楽しさの見通しも立たず、却って、「こんな場所は嫌だ」となって、わざと「この場にいられないように」ルールを破るようなこともし始めるかもしれません。

ルールは縛るためにあるんじゃなくて、伸びやかに過ごすために必要だと思うのです。

2017年6月14日水曜日

見て見ぬふりはいかん!

どんな背景を背負っていても、してはいけないものはしてはいけないんです。

それに歯止めを掛けるのが周りの役目。

人に向けて言ってはいけない言葉を投げ掛けるのだって、どんな背景があったってしてはいけないんです。

せずにいられない、という子どもの姿があったとしても、それを止めないといけないんです。

見て見ぬふりはダメです。

子どもが孤立に向かいます。

子どもが過酷な背景を背負っているのなら、それも含めて受け入れて、健全は関わりを目指していかないと。

やれSSTだ、やれ療育だ、と言う以前に見て見ぬふりしないで、子どもが孤立に向かうことを止めて、その為の関わりをしていればそこには療育的な要素は含まれるはずなんです。
あるいは、その後に付随してくるものです。

形だけの練習や療育で取り繕う前に、目の前の子どもを1人の人として認めて、真っ向勝負していくことがいかに大切か。

そもそもスカした付き合いをしている人から、いろんなこと教わりたいなんて思わんでしょ?

それなのに厚かましく「教える」なんてするから余計にこじれる。

2017年6月13日火曜日

出来ることはしておきたいけど…。

子どもたちと関わる際、「いつも通り」ということが、とても大切だと僕は思っています。

多少「何か」を抱えて僕のところに来ようとも、「僕との付き合いはいつも通りだよ」というスタンスで迎えるようにしています。

それが子どもたちの安心感に繋がると信じています。
もちろん「何かあったんだね」という点は忘れずに。

「多少の何か」ならそれで良いのですが、「大きな何か」を抱えてきたときにはそうもいかなくて…。

僕なりに必要と思う策を、関わりを展開していくのです。

「出来ることはしておきたい」と思いますから。
だけどこういう時、「いつも通り」とは違うことをしているからだと思うのですが、後から「あれで良かったのかな?いつも通りが良かったのかな」と考えることもよくあります。

もちろんその時の「いつも通りは難しい」との判断なんですけどね。

こちらが意図的に「いつも通り」を一回手放すことで、その後の関わりを「いつも通り」にし、「いつも通りが難しいときには、それなりの過ごし方をしていこうね」ということまでコミコミで「いつも通り」にしていきたいという思いもあるのです。

それでも考えてしまいますよね~。

「いつも通り」することで気持ちに蓋をすることになるのか。
「いつもと違うこと」をして気持ちに蓋をすることになるのか。

その場で結論の出る話ではない難しさ。

自分の関わりが子どもの世界の全て、だなんて厚かましさは持っていないつもりですけど、僕以外の誰かとの世界も思い描きながら、その中でバランスを取りながらしていきたいとは思うのです。

こういうある種の葛藤とは年がら年中付き合ってきていて、それとの同居の仕方も大方心得ているつもりですが、たまーにこうして書かずにはいられないくらいの大きさになるケースにぶつかります。

愚痴をこぼしてバランスを取る感じですかね?

さて、これからまた支援。
「いつも通り」の永田的関わりをしてきます!

2017年6月12日月曜日

7月9日に向けて

7月9日の「えるそる むなかた」主催の発達障がいを知る講座に向けて準備中です。

今回はスライドも用意しようかな…と思って、慣れない作業に悪戦苦闘しています…。

少しずつお話の内容も固まってきていますが、見直せば見直すほどいじりたくなって…。

この作業自体は僕の勉強にもなっていて、楽しみながら取り組めているのですが、ゴールが見えないのに着地地点を探すという難しさ。

話慣れないくせに「少しでも上手に話したい」なんてちっぽけなプライドばかり立って、邪魔するから厄介。

僕なりにいろんな失敗もしてきて、自分の作業の邪魔になる、この手のプライドは手放すことに慣れていたつもりでしたが…このプライドは向上心ともまた違う「見栄」に近いもの。

うん、邪魔だ。

持っているものは実践しかないのにねぇ…。

自分で笑えてきます(笑)

さ、頑張りましょ。

2017年6月11日日曜日

大人の選択は子どもに代わって行うものであるという自覚を持つ

例えば怪我をして運動が制限されている子に対して「運動を控えた方がいいね」と声をかけたとしても、実際に運動をするかしないかを決定する権利を持っているのは子ども。

もちろん大人の方が長期的な見通しを立てるのが上手なことも多いから、実際には子どもの自由とか権利を守っていくために「運動をしてはダメ」と禁止してしまうこともあるかもしれませんが、子どもにも権利があり、子どもに代わって選択をしている、というくらいの意識を持てるか?というのはとても大切な感覚だと思います。

大人の身勝手で、禁止をしたり振り回したりするのではなく。

子どもが納得できるものを持ちながら選択を代行するのです。


誰かの権利のために誰かの権利を侵害することもあってはいけないのです。


そういうことを生活に根差したところで学べる場を作る、そういうことが必要なんだと思っています。

地域で実を結ぶ

とある小学校の校内掲示物に「家庭で芽を出し 学校で花を咲かせ 地域で実を結ぶ」とありました。

僕の活動は、最後の「地域で実を結ぶ」ためのパイプ役みたいな位置付けになるのかな。

大切なことの土台は家庭や学校で学ぶのだと思います。

その学んだことを定着させたり、確かめさせたり、あるいは検討させたりしながら、子ども自身が地域を「自分の居場所」にしていけるように、働きかけをしていくのが、僕のしていることなのだと思っています。

子ども自身に対して「やる事、やっていこうぜ」ということもするし「そうかぁ」と耳を傾ける事もあるし、地域側に求めることは求めていくこともあるし、地域の声を承けて、子どもたちへ伝えることもするし…。

こう言うと「きれい」に聞こえるかれないけれど、実際的に日頃していることと言えば、実に生活じみていて、華の無い草の根的なことが大半。

ここまでが支援の話。
ここからは、僕の話。

でも、僕にも野望(「夢」という言葉で納まるようなキラキラしたものではなく)はあって…。

地域とか社会とか、人とかに考え続ける文化であったり、選択出来る文化を作っていきたいと思ったりはしていて…。

子どもたちの学びが「地域で実を結ぶ」ためのことと、僕自身の野望が「地域で実を結ぶ」ためのことと、別に考えてアクションを起こしていかないといけないんだよな、と思うようになっています。

久しぶりゆっくりと時間があると、いろんなことを考える。

元気の源

義父の話。

4月に妻が仕事復帰してからと言うもの、妻の実家にはとても助けられている我が家。

平日の保育園の迎えから、僕が届けた夕食を食べさせるところまでしてもらったり、土日も僕や妻の仕事の都合によっては義理の父母が預かってくれたりしています。

頼りっぱなしで、(ご負担かけてるな)と思いつつも嬉しい、不思議な話を聞きました。

4月以降、義父の薬が減ったとのこと。
健康診断でも悪玉コレステロールやら、血圧やらが改善されたとのこと。

孫のために、散歩するようになったり、あやす為に動いたりしているのが良いみたい。

孫は元気の源のよう。

休日家族で過ごしていても「今日は来ないのかな?」と孫に会うことを楽しみに、孫と遊ぶことを生き甲斐にしているじぃじとばぁば。

ずっと元気にいてほしいものです。

2017年6月9日金曜日

情報に置き換える

何気ない会話、仕草、様子、やり取り。

日常ってそんなものです。

それらを「情報に置き換えられるか」で支援の質は大きく変わってきます。

支援に限らず仕事、という括りで良いとも思います。

面談等をして得られる情報というのは、「私、こういうものです」という名刺代わりのようなもの。

改まって提供された情報ももちろん無視はできませんが、日常の支援で本当に必要なことって、改まって提供されたものではないんですよね。

対象児者の何気ない様子の中に滲み出てくるような姿をボーッと眺めていてもダメ。
それらを「情報」と思っていかないと。

言葉使い、語気、会話の内容や傾向、顔色、表情、化粧、姿勢、仕草、立ち居振舞い、服装、匂い(臭い)、触れられる相手であれば体温…

何もかも、情報と思わないと!

でないと見落とす。
絶対。

2017年6月8日木曜日

マザー・テレサの言葉に励まされて

マザー・テレサの言葉です。

「人は不合理、非論理、利己的です。気にすることなく、人を愛しなさい。あなたが善を行うと、利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう。気にすることなく、善を行いなさい。目的を達しようとするとき、邪魔立てする人に出会うでしょう。気にすることなく、やり遂げなさい。善い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう。気にすることなく善を行い続けなさい。あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう。気にすることなく正直で誠実であり続けないさい。助けた相手から恩知らずの仕打ちを受けるでしょう。気にすることなく助け続けなさい。あなたの中の最良のものを世に与え続けなさい。気にすることなく、最良のものを与え続けなさい。」

https://grapefruitmoon.info/マザー・テレサ.htmlより

この言葉が僕にはスーっと入ってきます。

調べものをしていたら、どういう訳かマザー・テレサの言葉に行き着きました。
行き着いたこと。
そして、その言葉が僕の中に入ったということ。
今の僕に必要なことなのかもしれない、と思っています。

隣人へ微笑みを携えた愛を与え続けることが必要だというのが、マザー・テレサの残した多くの言葉に共通することです。

本当に、本当にそう思います。

そして、数多くの言葉の中でも、この言葉に魅力を感じたのには理由があります。

隣人へ愛を与え続けることは、ある意味では簡単であり、ある意味では難しくもあります。

この言葉には、「隣人へ愛を与え続けようとする人」を 孤立させない、そういう優しさと強さが含まれているように感じられて。

たまらなかったです。

言葉と行いで、人を寂しさから守るといえば良いのかな?

こういう言葉があると、凛と歩き続けられる気がします。

2017年6月7日水曜日

好きな物は自分で育てる

夢中になっているものって、やっぱり上達したいですよね?

プールを頑張っているOちゃん。

今日は途中で横のレーンを泳いでいる人を急に意識し出していました。
というのも、横で泳ぎ始めたのが、彼女と年のさほど変わらない中学生か高校生くらいの女の子が練習を始めたから。
その女の子も、決して上手ではなく、「練習中」という感じで頑張っている姿に共感したのかもしれませんね。

そうやって意識し始めたところにまた、年頃の変わらない女の子が二人入ってきました。
今度は水泳部らしき二人組。
身体もしっかり水泳体型。

とても上手に泳ぐので、今度は見とれる感じでしばらくOちゃんは眺めていました。

そして、比べちゃったのかな?
練習に戻ったと思ったら、妙な力が入っていてカッチカチ。

永田「Oちゃん、オリンピック目指しているの?」
Oちゃん(首を横に振る)
永田「そうよね、まずは気持ちよく楽しく泳げるようになるの目指してきたんだよね?気持ちよく泳げるようになって、あなたがもっと早く泳ぎたい、って思った時には、もちろんちゃんとまた別の泳ぎ方を教えて行ってあげるけどさ。楽しもうね。でないと早く泳ぎたいって気持ちも長く続かないからね」
Oちゃん「うん。」

こういうやり取りをして、またいつものOちゃんに戻っていきました。

この後は、楽しくおしゃべりをしながらやり取りをしました。

Oちゃんは着実に、本当に一歩ずつ自分でプールを楽しめるようになるための階段を上っています。
本当に楽しみ。

「上達」と言ってもその形も様々。
自分なりに深めていくというのもまた間違いなく「上達」。

Oちゃんが自分のプールをどのように育てていくのか。

雷の後は晴れ模様

先週「雷を落とした」という話を書きました。
その対象児と1週間ぶりに会いました。

先週の事があったからでしょうか?
最初は、こちらの様子を見るような距離感で視線を送ってきていました。

でも、こちらとしてはもう終わったこと。

何気なーく、「お帰りぃ」くらいに言いました。

そうしたら、今までに無い柔らかさを見せてくれました。

「うん、ただいま」と小声で返してくれました。
彼が僕の「お帰り」に対して返事してくれたのは初めて。

続いて鞄を所定の場所に片付けるよう伝えると、「はーい」とのびやかに返事してくれました。
そして片付けました。

これまで何か注文を出すと「は?なんで?」と突っ掛かって来ていた彼と、コミュニケーションのキャッチボールが始まりました。

名前を呼んだら「ぁあ?なぁん?」だったのが、「なに?」になったし。

そもそもコミュニケーションを取る際、目が合わせられるようになりました。

しっかりと落ち着いた視線を送り返してくれます。

ご機嫌を伺うようなことではなく、必要なことは遠慮せずに伝えて距離を詰める。
僕は不器用だから、こういうやり方が多くなるけど、ハマるととっても嬉しいです。

「様子」の背景にある「気持ち」を慮(おもんぱか)る

僕は今でもそうだけど「クソ」が付くほど歌が下手です。

子どもの頃からそうでした。

音楽の授業は嫌で嫌で仕方ありませんでした。
クラスメイトからも「下手」だの「音痴」だの言われたし、家族からも「歌は上手くならないねぇ」と言われていました。

だから授業では歌いたくなかったです。
でも歌わなくてはならない。

でも「授業は受けていた」のです。
授業をサボれば「きっと歌が下手で嫌だから逃げたんだよ」と言われるのが嫌だったからです。

指先が不器用で、鉛筆の持ち方が独特な子がいたとします。

それでも「字が書けている」のです。

その背景には、「字が書けるようになりたい」という思いと、もしかしたら訓練による獲得があるかもしれないのです。

人と違ったやり方でも、「出来る」を得るための努力があるかもしれないし、「それでも良いんだよ」という救いがあったのかもしれません。

そういうことを慮ってから支援に当たりたいものです。

僕は歌が下手だけど、授業で歌うのも嫌だったけど、「歌自体」を嫌いになったことはなかったし、鼻唄もよく歌います。

そう居られたのは小学校の時に音楽の先生が「歌は好き?そう、好きなら良かった。歌っていいからね」と励ましてくれたから。
家族が「上手くならないねぇ(笑)」と言いながらも、僕が家で下手っぴな歌を歌い続けるのを止めずにいてくれたから。

「出来る」は自信になるけれど、「出来る」「出来ない」にこだわり過ぎず、背景にある気持ちを慮ることが、支援の土台です。

2017年6月6日火曜日

子どもを死へ追いやる大人

中学生が自殺し、後の調査でいじめの実態が明らかになる。

ここまではよくある話。

対象生徒に対して担任も体罰を加えていた、だと?

文部科学副相も「隠蔽」という言葉を使って学校の対応を指摘していました。

いじめた、いじめられた、っていう構造じゃない。

これは大人が子どもを死へ追いやった話。