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2016年12月31日土曜日

2016年、僕の一文字は「会」

今年はとにかくいろんな方と出会いました。
仕事で、プライベートで。
刺激的な出会いが多かったです。
ありがとうございました。
来年もどうぞ宜しくお願いします。

息子とも出会いました。
2月、陣痛から出産まで、立ち会って息子の誕生の喜びを噛み締めました。
生まれてきてくれてありがとう。
妻にも、素敵な出会いをありがとう。
これからも二人で晴哉を守っていこう。

そして、人との出会いを繰り返す中で、自分の価値と出会いました。

2017年、挑戦的に、謙虚に、堂々と迎え、堂々と歩んでいきます!

皆様、あと数時間、2016年を素敵にお過ごし下さいませ。
2017年、健やかにお迎えください。

急に寝付きの悪くなった生後10ヶ月我が子へ伝えてみたこと

お昼寝の時間はちょっと少なめで、日中にブリブリ活動する息子の晴哉。

その代わり、夜の寝かせ付けで苦労したことはありません。
1度寝てしまうと数時間(日によっては明け方まで)起きません。

でした。

それが、この数日、寝付きは悪いし、夜中にも何度も起きる、という感じでした。

心当たりが無いこともないんです。

実は、段々と寝相が激しくなってきまして、ベッドから落ちてしまいました。
(落ちないように土手を作っていましたし、万が一それを越えて落ちてしまっても怪我しないように布団を下には敷いていました)
寝かせ付けした後に家事をしていたら、落っこちてしまったのが数日前。

そこで、寝室のベッドの下に家族みんなで布団を敷き寝ることにしました。

寝る場所が変わったからでしょうか?
途端に寝付きが悪くなり、夜中にも泣いて起きることが続きました。

で、考えてみました。
彼が何故泣くのか?と。
で、僕の至った考えが以下の通り。

泣き方から不安そうな感じを受け取ったので、「なんで寝る場所が変わったのか説明してあげないといけないかも」と思いました。

10ヶ月の赤ちゃんに説明?と思うかもしれませんね。
でも大切なことだと僕は思いますし、この考え方に妻も賛成してくれました。
だって、生後10ヶ月だって「人」ですからね。
大げさに聞こえるかもしれないけれど、一生懸命生きている彼にも、敬意を持つ必要性を感じています。

話をする役は僕が引き受けました。
大体に於いて、僕が寝かしつけの役目を担っていることもあるので。

で、今夜寝かし付けの場面。

寝室で寝かせたら、また鳴き始めました。
晴哉「うわーーん、うわーーん!」
永田「晴、お話があるから泣きながらで良いから聞いてね」
晴哉「うわーーん!」
永田「晴、寝る場所が変わって驚いたよね?」
晴哉「うわーーん!うわーーん!」
永田「寝る場所が変わったのはね、あなたを守るためだからね」
(この瞬間から急に泣き声が小さくなりました)
永田「何日か前にね、あなた、ベッドから落ちちゃったでしょ?あなたが毎日毎日少しずつ大きくなって、出来ることも増えてきて、身体も上手に使えるようになってきて」
(すすり泣き)
永田「お父ちゃんもお母ちゃんも、あなたの成長をとっても喜んでいるんだけど、少しあなたの成長に追い付いてなかったみたい。それで、『大丈夫』と思っていたら、あなたがベッドから落ちるような状況にしてしまったの。」
(完全に泣き止んでいました)
永田「それで、お父ちゃんとお母ちゃん、反省してね、考えたの。『もうあんなビックリするようなことさせたくないよね、ケガさせたくないよね』って。それで、ベッドの下でみんなで寝ることにしたんだよ。あなたが安心して眠れるように。お父ちゃんとお母ちゃんも安心して眠れるように。そうしたら、昼にもみんなでニコニコ出来るからね。だから、安心して寝てね。寝る場所が変わってもちゃんと側にいるからね。いいかい?大丈夫だからね」
(指をしゃぶって寝入りました)

本当に解釈のレベルだけど、僕は話したことが伝わったと信じたいです。

よく「この子、よく分かってる」と、赤ちゃんに向けて話をしている大人いますよね?
うちもそうです。
よく夫婦で「本当によく分かってるね」なんて言い合っています。

仕事でも、重度の知的障がいを持っている子相手でも、「よく分かってる」的な話をすることってあります。

なのに、説明をするときになると「言っても分からない」ということを考え出すんですよね、何故か。

「分かってる」んじゃなかったの?と思うわけです。

そりゃ、言葉の一語一語が分かるかどうかは知らないけれど、伝わるものはあるはずです。

それをその時々で「分かってる」「説明してもらうと分からない」と使い分けるのは、周囲の都合で、怠慢だと思うわけです。

僕はこれからも晴哉に対しては、何かあれば説明をしてあげたいし、そうやってやり取りを今のうちから重ねてあげたいと思っています。

今、夜中の2時。
少なくとも昨日よりはよく寝ています。
「親バカ」かもしれませんが、伝わって、幾分か安心してくれたんじゃないかな?と思います。

「親バカ」で良いです。
「バカ親」にはなりたくないから。



2016年12月30日金曜日

桃太郎について考えてみた

今年が申年で来年が酉年、再来年は戌年。
桃太郎のお供の犬、猿、雉、と干支が重なるのは、十二方位の鬼門(丑寅の方位)と対局の位置だから、というのはなんとなく推察できます。
(なんで「鳥」じゃなくて「雉」なのかは分からんですが)
ネットを見ると「キジは岡山の県鳥」なんて話まで出てくるからビックリしました。
県鳥が指定される前から桃太郎の仲間はキジだったでしょうからね(笑)

黍(きび)団子と吉備団子をかけたところから岡山が舞台、という説が出てきたとのことです。

桃太郎の冒頭の、僕の解釈としては「桃源郷から流れてきた仙人の食べる桃を老夫婦が食べて元気になって、子どもを授かる」という中国由来の話だろうな、って感じです。

他の解釈としては「桃=お尻の象徴」で、お婆さんが拾ったのは、実は桃ではなく若い女性で、その助けた女性が子どもを
産んだとか…。

まぁ、いろんな解釈があるようです。

鬼退治も桃太郎が能動的に向かった説、誰かから依頼される受動的な説、とあるようです。

それから、お供の犬、猿、雉の話に戻りますが、それぞれを象徴する文字を名前に含んだ男がお供をしていた、とかいう説もあるようで、僕はこれには結構納得します。

これはまた僕の解釈ですが、お供にこの三匹を選んだのは、犬、猿、雉(鳥)、が持っている病気が人間にとって脅威で、それを鬼ヶ島へ行き邪気(鬼)払いをした、という解釈もある気がします。
因みにその病というのは、今でいう「狂犬病」「出血熱」「鳥インフルエンザ」に類するものかな。
これに近い解釈もネットにはありました。

年末、大掃除に年賀状…。
やらなきゃならないことがたくさんなのに、どうでもいいことを考えて、やらなきゃならないことから目を背けています(笑)

さ、やることやろう。

2016年12月29日木曜日

口癖を取っ払えたら

この一年間、小学生のI君とプールと作文で付き合いを重ねてきました。

「ぁあ!もう!」

これが彼の口癖、でした。

課題に直面する、僕から促される、上手くいかない…。
とにかく、なんてこと無い出来事でもスムーズでなくなると決まって「ぁあ!もう!」と口にしていました。

(あ、来るな♪)
永田・I君『ぁあ!もう!』

と合わせる事が出来てしまうくらいでしたからかなりのものです(笑)

そんな彼の口癖の裏にあるのは、「上手くやりたい」という向上心。
不器用さがもたらす「またか…。」という失敗体験の繰り返しからくる苛立ちです。

僕は前者を後押ししたいと当然思うわけです。

なのに、この口癖を耳から何度も自分の声で聞いてしまうので、行動まで投げやりになってきてしまうんです。

この口癖を取っ払えたらいいなぁ!

と思ったんですが、「『ぁあ!もう!』禁止」と伝えても言葉を排除するだけで、前述のような内面まで響かせるのはなかなか難しいと考えました。

そこでひたすら茶化すようにして、「ぁあ!もう!」と彼の口癖が出た後に真似をしてみせました。

それから、自分の声でネガティブな言葉を繰り返し聞いたことで行動が投げやりになっていた、という見立てがあったので、反対にポジティブな言葉を口にさせてやろうと思い「出来た」ということを繰り返し確認してきました。

永田「できた?」
I君(うなずく)
永田「出来ましたか?」
I君「出来た」

という具合に。

そうして、付き合うこと数ヶ月。
(数ヶ月、効果らしいものが全く現れませんでした)

ある時、僕がいつものように彼を真似て「ぁあ!もう!」と言った後に「僕って、いつもそんな?」と尋ねてきました!
きたーー!って感じでした。

永田「そうだね、真似してるつもりなんだけど、どんな風に見えた?」
I君「へんなぃ」

と、自分の姿(かなり僕の意図が介入した姿ですが)を省みることが出来ました。

もちろん、「癖」になっているのでなかなか抜けませんが、さらに3ヶ月経って12月に入りました。

今月もいつものように1時間×3回、彼と過ごしましたが、その時間の中で「ぁあ!もう!」は1度も出てきませんでした!

もちろん、僕との関わりがプールか作文という固定されたもので、慣れてきたということと、どちらも上手になってきたということはあるかもしれませんが、どちらも、段階的にハードルも上げてきたつもりです。
そんな中で口癖が出なかったのは、大したものだと思いませんか?

多分これから、彼の行動も変わってくるはず。

僕はめちゃくちゃ嬉しかったし、楽しみなんです。

支援としての仕事は年内は終了。
僕も身体を少し休めながら、今度はそれぞれの子の支援について振り返ったり整理したりして、年明けに備えていきます!

もちろん、ブログも書いていきます!

2016年12月27日火曜日

怖かったし、不安だったし、…。

今日、作文書きにやって来たK君。
好きな事について話をさせると止まらなくなってしまう、と以前の記事にも少し登場した彼との作文の時間。

ところが時間になっても、やって来ません。
電話をしてみようかな、と思ったところへお母さんから着信。

向かう途中、一本筋を曲がり損ねたら、道が分からなくなって、Uターンをしようとしたら側溝に脱輪してしまったとのこと。
現在地を説明してもらうと近くだったみたいなので、永田急行!

僕が到着すると、お母さんとK君が車の前でオロオロ…。
JAFを読んで、到着まで40分程かかるとのことなので、K君を預り、取り敢えずレッスンへ向かうことにしました。

このときのK君、肩が上がって腰の辺りもフワフワしてました。
歩き方が落ち着かないんですね。

でも、「大丈夫だった?」と声をかけると平静を装って「うん」と答えて、状況を話してくれました。

ここで僕の解釈としては、「あぁ、自分のドキドキとか不安に蓋してるな」だったんです。

これはよろしくない、なんとか1度、自分の気持ちを出させないと、自分の気持ちに気付かせないと、と思いました。

永田「よし、今日は珍しい体験したね。今日の体験を記録に残しましょう。作文の課題は『今日の事故について』にします!」(話にすれば状況を上手に説明するだろうけれど、書かせると無理だろうな、という見立てはありました)

K君「うん、出来ると思う」

(ほほぅ、どうなるかな?)

で、部屋に着いていざ、書き始めようという段になったら、固まってしまいました。

永田「まずは、どんなことがあったのか、さっき聞かせてくれたことを書いてみて、その時にどう思ったか、ということを加えたら十分やないかなぁ」

K君「うん…。」

どんどん声も小さくなっていって、50センチの距離にいても聞き取れないことをブツブツ言い始めました。

しばらくは、K君が浮かび始めた感情とどう向き合うのか見守ってみました。
僕は、こういう時、割とゆっくり間を取る方だと思います。
他の作業をするふりをしながら「どんな感じかな~」と呟きながら…。

ここで、直ぐに介入するのは、感情の横取りになりかねないとも思うんです。

しばらく待ってみましたが、一行「タイヤが溝にはまった」という事実を書いたきり止まってしまいました。

涙目になっていて、「書けない、なんて書いたら良いのか分からないよ」と呟き始めました。

永田「よぉし、書くの止めるか。今どんな感じ?」
K君「分からない…。(ボソッ)」
永田「怖かった?」
(K君うなずく)
永田「それに驚いたね」
(うなずく)
永田「お母さんのことも気になるね」
(うなずく)
永田「よし、今日はもう止めてお母さんのところに向かおう」

K君は、帰りの支度をしながら、状況を話始めました。
永田「気持ちに蓋をしない練習やね。僕が作文だけ、教える人じゃないってのは感じ始めてるやろ?これからどんどんうるさいおじさんになって、突っつき回すからなぁ(笑)」
K君「うん」

そうして、お母さんの元に送り届けて、今日の様子をお母さんに伝えて、今日の支援終了。

以下、今日の様子からの僕の考えも。

元々は「自己表現が苦手」として、僕のところにくることになった彼だけれど、苦手なのは「自分の気持ちに共感すること」。
自分の気持ちを味わうことで、苦しくなる、あるいは苦しくなりそうになることってありますよね?
そういう場面に出くわしたら、彼は蓋をして、自分は何ともないことを装います。
一種の防衛です。

彼自身、そのことには気が付き始めている気がします。

蓋をして、平静を装ってやり過ごすから、周りから気付かれない。
気付かれないから、段々と「まぁ、いいや」と、伝えないことが当たり前になる。
けれど、溜まるものは溜まっていくから、ふとした拍子に、本人も予想しないタイミングで、予想しない出方をするものだから、本人も周囲も驚く。
結果、「原因が分からない」「つかみ所の無い子」となる。

そんなことをしてきたんじゃないかな?と思います。

これは本当に少しずつ練習をしなくてはいけないと思います。

気持ちに蓋をして、表出することに慣れていない子の気持ちの蓋を開くと、開き過ぎになってしまいます。
少しずつ開いて、また閉じて、をするイメージを持って働きかけが必要かな、と思っています。
開きっぱなしだと、日常がしんどくなることもありますし。
一気にやると体調まで崩してしまうことがあります。

ちゃんと、関わりの中で、また閉じるところまで、しばらくは付き合っていき、少しずつ意図的に自分の蓋を開く術を身に付けてほしいです。

そうして、新鮮な気持ちを上手に相手に届けることに繋げていってほしいと思います。

こういうちょっといつもと違う過ごし方をしているので、お母さんにも様子と、これから起こるかもしれない、と想定できることをお伝えしました。

びっくりしないように。

ここでお母さんにびっくりさせると、また気持ちを出すことに臆病になっちゃいますから。

子どもの支援をする中で、平行して子どもの変化に驚かせないよう、保護者へのフォローも必要なんだと思います。
それが子どもの支援に繋がります。

「仕事を選ぶ」ということは贅沢でもなんでもない。

この時期になると「来年の目標」「今年一年を振り返って」みたいな話題が多くなってきます。
SNS上でも、実際の会話でも。


「2016年のニュース」的な記事は今年が終わる間際、あるいは年明け直ぐに書くとして…(まだ何が起こるかわからないから)、まずは「来年の目標」的記事から。



「僕でなくても成り立つ仕事は断る!!」


僕は多分、断り下手。
だから、来年はこの目標を掲げながら過ごします。

独立してから1年余り。
いろんな方面から、いろんなお話を頂きます。

それ自体は本当にありがたいことです。
必要とされている、と実感できることは精神衛生上とてもいいと思います。
そして僕は「僕で出来そうなこと」であれば引き受けてきた節があります。


でも、「僕にしかできない」ことのために時間も労力も使いたい、と強く思うようになってきました。


蓋を開けてみたら、人手が必要で「あ、永田がいる!」くらいで求められていたこともある気がしています。

いえいえ、そんなに他の人で大丈夫な仕事を引き受けるほど暇じゃないです。(2016年年明け直後は暇だったかもしれないけれど(笑))



「永田らしい」仕事、「永田だから出来た」仕事。
僕の視点、僕の思考で、行える仕事に専念したいです。


「仕事を選ぶなんて贅沢」と言われそうですが、選ばせてもらいます。
引き受けるもの、引き受けないもの、自分の中で天秤にかけ、線引きをして。


だって僕は、無価値な人間ではないから。

この一年、駆け出したばかりではありますが、自分自身に価値を見出すことはできました。
自分の仕事にも価値を見出せました。

誰かの代打で「よし、永田でも当てておけ」くらいの仕事を引き受けて、自分の価値を下げるようなことはやめます。


自己肯定感云々、「自分らしく」云々と言ってきた僕自身が、そういう人混みに紛れて、自分の価値を見失うようなことをしていてはいけないな、と思っています。


「仕事を選ぶ」ということは、本当に贅沢なことではなくて、自分を大切にするということなんだと、かみしめながら2016年末を迎えています。
そして、その思いを表出する2017年にしたいと思っています。

2016年12月26日月曜日

「やってみたい!」を引きだしてあげたい

この仕事、やっぱり「人と人」の関係性の中で成り立つことが多くなります。

でも、その関係性から抜け出したところでも実力が発揮出来ればそれに越したことはありません。

僕は今、文字をキレイに書けるようにしてあげたい子がいます。
恐らくその子には、字をキレイに書く習慣が身に付くだけで味わえる成功体験がたくさん待っています。

文字が暗号みたいになっていることもあります。
僕はもう、その子の字に慣れて読めますが、それではダメです。
字はやはり、読めてこそ字ですから。

ひどい時には、自分の書いた文字を読み間違えます。
自分すら読めない、読みにくい字を書いてしまっているんです。
算数も見にくい数字が原因で計算ミスをしています。

字をキレイに書く必要性が彼の中にまだ無いように見えます。
僕が「これじゃ、読めない」「あなたのことを知らない人には読んでもらえない」と伝えても、本人の必要性にはなかなか結び付いていません。

…。

「成功体験が待っている」と書きましたが、恐らく彼は書字に絡んでは「必要性に繋がる失敗体験」も積めていません。

「解いた問題を×にされた」とか「読めない、と指摘された」くらいのところなんだと思います。

字が汚いからといって、でっかい雷を落とされる程ではなく、小言を言われるくらいでしょうし。
(僕も雷を落とすようなことでは無いと思っているし)

でも、なんとかキレイに書く習慣を身に付けてほしいと思っています。

字が汚いということに関連する失敗体験を重ねることで、本人も自覚がないくらいの細やかな「僕は勉強が苦手」という思い込みを積んでしまっています。

その思い込みを取っ払えたら、ぐんとお兄さんになる気がするんです。

どうやって本人の必要性に繋げるか…。

このケースに限ったことではなく。
それを考えて支援をしていきたいです。

押し付けるようなことではなく。
本人の「困った」から、「できるようになりたい、ならなきゃ」という気持ちを引き出したいです。

2016年12月25日日曜日

自分の基地を持つということもまた自律、自立

息子が耳掃除、鼻掃除なんかを嫌がります。
顔を背けて逃げようとします。

「ぎゃー!!」
ってなりながらも、こちらにしがみついてくるんです。

僕が耳掃除、鼻掃除をしているにも関わらず。
綿棒から逃げても僕の方に来ます。

まだまだ狭い世界で生きている息子にとって、助けを求められる相手は少ないんでしょうね。

息子にとっての基地であったり、避難所であったり…

上手に助けを求めていることに感心します。

成長するにつれて、助けを求めることが下手になっていく気がします。

もちろん、出来ることが増えて、助けが必要になる場面が少なくなってくることもあるからでしょう。
成長と共に、プライドも育ってくるということもあるでしょう。

必要ないときに人の手を借りることはないけれど、必要なときには「助けてー」が言えた方が絶対に良いと思います。

意固地になっても物事は解決しませんから。

道に迷っても、「自力で到着してやる」なんて意固地になって遅刻しては意味がありません。

道に迷ったら「どうやっていけば良いですか?」と尋ねれば良いんです。

困ったことがあれば、困ったと手を挙げて、上手に甘える、そういうことも含めて自立、自律だと思います。

そういう意味で息子なりに自立、自律に向けて準備を既に始めているのだと思うと凄いなー、と思います。

彼の基地であり続けたいと思う次第です。

2016年12月24日土曜日

メリークリスマス!ってだけでワクワクするじゃん!大切な人と楽しく過ごしたいじゃん!

メリークリスマス!

僕はクリスマスという行事がかなり好きです。
「クリスマス」ってだけでワクワクします。

クリスマスもぐるんぱのあしあとは、ぐるんぱのあしあとらしく更新していきます♪

今言った「ワクワクする」というのは「楽しみ(楽しい)」という「感情」だと思います。

じゃあ、「クリスマスを大切な人と楽しく過ごしたい」ということは?
便宜上、「想い」とさせてください。

いろんな方と仕事で話をしていると「感情」については話題に上り、あれこれと議論をしますが、「想い」みたいなことになると話の流れの中に紛れてしまうことが多い気がします。

話している人は、「想い」も含めて「感情」について話しているつもりなのかもしれないけれど、僕には物足りなさが残ります。

クリスマスパーティーのような企画を用意して、子どもたちは「楽しんでいる」ということは様子から分かります。

普段は1人でいることを好む子が、パーティーの時にはみんなと同じテーブルを囲んで、大皿から食べ物を取る姿を見て、周囲は驚きつつも「楽しんでいるんだね」くらいで済ませてしまおうとすることが多い気がしています。

そりゃ、「楽しんでいる」でしょう。
でも、それだけじゃなくて「みんなと楽しみたい」という想いがある、と僕は捉えたいし、「クリスマスはみんなで過ごした方が楽しい」ということを知っていて、その「想い」が表出したんだ、というところを見て、「想い」や「願い」を満たしてあげるということも出来たり、考えられたりしたら良いのに、と思います。

「感情」と「想い」

書いていても、僕自身もごちゃごちゃしてきていますが(笑)

人の内面に階層があるとするなら、それぞれ別の階層にあるものだと思うので、それぞれに考えたいものなんですよね、僕にとっては。

この後は、ややこしいことを考えず、家族でクリスマスを祝います♪
息子はまだ分からなくても「初クリスマス」ですし、僕も我が子のために、初めてサンタクロースのお手伝いです。

「楽しい」という感情も「大切な人と過ごしたい」という想いも、育んでいって欲しいと、親として願っています。

2016年12月23日金曜日

1つ1つの動作がどういうことか?と考えていく

立つ、座る、歩く、飛ぶ、物を持つ、食べる、着替える…

日常の動作や作業に対して、どういうことか?とか、どうやっている?

という問いを持つことは支援の足掛かりになりやすいです。

その動作なり作業をすることが難しいのであれば、その動作なり作業を行う過程で、どの要素が欠落して、あるいは負荷が大きすぎて、苦手で困難さを生んでいるのか?と考えていきます。

まずは難なく行えている動作を振り返って、分解して見ていくんです。

それから、対象者のつまずくポイントをあぶり出していくんです。

日常生活の動作や作業のほとんど全部が、異なる運動の組み合わせによって出来ていますから。
だから、分解していくんです。

例えば「コップを持つ」という動作1つを取ってみても、「目で見る」「腕を伸ばす」「指を曲げる」という大きく見ていっても、そんな動作が含まれていますし、更に感覚的なことまで見ていくと、「コップまでの距離感」「コップの固さ」「コップの重さ」「コップの形」なんかを捉えながら、力加減や身体の各部を動かさなければなりません。

そういう風に見ていって、「ここが苦手」という部分に働きかける…。

意識的にそういう視点を持って仕事をしていきたいです。
まだまだ僕もそういう視点を養っていかなきゃならない。

2016年12月22日木曜日

感情を追いかけられるか?

今日はK君との作文。
彼とは一回90分という枠で、レッスンを続けてきています。
90分、本人の希望もあって最初は60分だったものを延ばしてやっています。

ただ、90分書き続けるなんて大変な話です。
なので、彼との作文では随分会話(8割僕が喋っている気もしますが(笑))をします。
あるいはワークみたいなこともしてみます。
遊びもいれます。

それらを全部含めて作文指導です。

彼の課題は感情を表現すること。
例えば「楽しい」ということも「楽しさ」ということも、なかなか文章に表れてきません。

凄く敏感で、繊細で、鋭くて…人の様子はよく見ているけれど、自分の感情については、上手に追いかけられていない気がしています。

なので、今日はお喋りしているところから、急にこちょこちょ!と、いじってみました(笑)

で、「話しているときから、こちょこちょ急にされて、どうだった?」と投げ掛けてみました。
「暑くなった」と。

うーん…状況の変化に近い表現だ。

永田「どんな感じがした?」
K君「驚いた」

うん、ちょっと近づいた。

これをアレンジも入れながら20分、似たような事を繰り返しました。

永田「どんな感じ?」
K君「また来るなと、ドキドキした」

永田 「どんな感じ?」
K君「ほら、きたー!って。」

永田「どんな感じ?」
K君「ちょっと疲れてきた(笑)」

永田「どんな感じ?」
K君「まだやる?って」

似たようなやり取りを繰り返していくうちに、気持ちが移り変わる感覚を感じ取ってくれたらな、と思ってしてみました。

たったこれだけでも、毎回感じ方は違うんです。
それを自分の口で、声で確認させる。

自分がどんな風に感じているのか知るために、自分にベクトルを向けるために。

…正直効果がどれ程のものかは分かりません(笑)
ただ、彼は同じことの繰り返しでも毎回感じ方が違うというのに気がついて驚いたみたいでした。

彼に限った話ではなく、子どもは周囲に気を使い、大人は自分の事にいっぱいになっている、そんな傾向がある気がします。

子どもたちには、子どものうちに自分に注意深くなれる技術を身に付けてほしいと思います。

自分に共感する。
作文の基本。
いえ、自分らしくいる基本。

2016年12月21日水曜日

速くなくっていいとー?

今日はOちゃんとのプール。

彼女とは、今日で4回目。
順調にやり取りを重ねられていると思っています。

僕にはOちゃんが、ものすごいがんばり屋に映っています。
僕の話も耳だけじゃなくて五感を思い切り働かせて理解しようとしている、そんな感じです。

そんな彼女だから、比較的泳ぎに関しても覚えるのが早いですし、1週間あるいは2週間という時間が空いても、前回のレッスンでやったことをしっかりと頭も身体も忘れずにいて、積み重ねも出来ています。

ただ1つ、プールの事で言うと初回から感じていたけれど、同じ事を続けるということが課題かな、という節がありました。

そこで今日は意識的に「ゆっくりで良いから続けてね」ということを言ってみました。

するとゆっくり続けられます。

ところが「もう少し!最後までがんばれー」と声をかけると、ばた足がバーッ!と速くなってしまうんです。

永田「Oちゃん、最後まで同じ事を続けてね、ゆっくりで良いから」

Oちゃん「うん」

で、また同じやり取りになります。

なるほど。
「頑張って」いるな。

永田「Oちゃん、先生の言う『頑張って』は同じ事を続けることだから、速くなくても、力を入れなくても良いからね」

Oちゃん「速くなくてもいいとー?」

永田「うん、速くなくて良いとよ。同じ事を続けるのが、上手になる近道だよー」

Oちゃん「ふーん…」

そう言うと、すこーし続けられる距離が延びました。

子どもたちは、大人から、友達から「頑張れ」って言われることも多いです。

でも実はその「頑張れ」っていう言葉自体が「どうするのか」を具体的に示してくれるものではありません。

だから、頼りにやるのはイメージになってしまうんです。

「頑張れ」「頑張る」という言葉にセットになる画がありませんか?

力こぶをモリッとしている画ですか?
汗をかきながらせっせと作業をする画ですか?
歯を喰いしばりながら走る画ですか?

いろいろあると思います。

それが、その人の「頑張り方」に繋がっているように思います。

Oちゃんにとっては(少なくともプールという場面に於いては)、「頑張る」=「速くする」ことだったように見えます。

傾向として、のんびり屋さんは「頑張る=速くする」と思っている人が多いと思います。
力を入れるのが苦手な人は「頑張る=力強く」と思っている人が多いと思います。

極端な言い方かもしれないけれど「頑張る」が「苦手なところを隠す」ような捉え方をしている子が多いんです。
それは「頑張れ」という言葉を掛けたくなるのが、苦手な事に取り組んでいるときだからなのかもしれません。

「頑張れ」という応援の言葉も気をつけて使いたいものです。

僕はプールであったり、学習であったり、子どもたちと同じ事を通して継続的に関わっていくことがほとんどです。

なので「頑張るは、続けること」というスタンスで伝えるようにしています。
僕自身もそういう意識で、仕事を「頑張って」いきます。

どういう意味で言葉を使うか、その擦り合わせを行うことが足並みを揃えることに繋がります。

さ、擦り合わせも少しずつ進んできて、今後ますます楽しみです。

それから擦り合わせと言えば。
Oちゃんは、更衣の大学生サポーターの先生とも「りさ先生」と呼ぶほどに仲良くなってくれています。
呼吸も前回よりか合ってきて、スムーズに更衣が出来ていました。
するとプール内での過ごせる時間も長くなってきます。

更衣も1つ、やり取りです。
更衣自体を見なくても、上手に関わってくれているのが伝わってきます。

りさ先生も今週もありがとうございました。

2016年12月20日火曜日

見えないお手紙

キッズクローバーひかりが丘での学習サポート。
そうです、マイケルジョーダン先生の学習サポートです。
今日が年内最後のサポートでした。

K君「マイケルジョーダン先生、何しよーと?早く行くよ」
と、職員室で打ち合わせしていたところにお呼びが掛かりました。

で、学習室に張り切って向かった割には学習へ向かないK君。
他の子のお邪魔虫まで始め、僕に「せんでも良いけど、他の子の邪魔をしたら僕は怒るよ」と牽制される始末(笑)

それでも尚、イタズラが止まらず「一旦学習室から出なさい」とまで僕に言われ、ちょっと大人しくなる(笑)

この時点で、なんでこんなに落ち着かないのかはまだ分かりませんでした。

その後、他の子達が学習を終えて部屋から出た途端にスイッチオン。
スイッチが入ったら、あっという間に宿題を終えたK君。

今日は彼までで失礼する予定だったので、「よし、片付けて遊び行ってよぉし。先生も帰ろう」と言うと、今度は僕のお邪魔虫。

ほぅ、おもしろいタイミングだな。

永田「なんしよーん?」
K君「別にぃ」
永田「片付けて行くよ」
K君「うん」
僕が立ち上がるとまたお邪魔虫(笑)
遊びながら笑いながら、こんなやり取りを飽きもせず5分も繰り返しました(笑)

そろそろ良かろう(笑)
永田「どしたん?何か話があるっちゃろう?」
K君「手紙があります」
永田「え?僕に?」
K君「はい…」(ランドセルから何やら取り出そうとしてゴソゴソ)
出てきたのは、何か申し込みをするために切り取り線から切られた申込書(それ…学校に出さんで良いんかなぁ)

(クシャクシャになった紙切れを広げて)K君「来てくれてありがとうございました。また来て下さい」

ズッキューン♪

読み終えたら、また丸めて照れて慌てるように鞄に押し込んでいました。

永田「ありがとう、また来年も宜しくね。僕も楽しかったからまた来るね」

K君「ん?また来るん?最後じゃないん?」

永田「うん、年内は最後だけど年が明けたらまた来るよ」

K君「そうなん!?最後ってそういう意味やったん?なぁーんだ」

…。
お別れの手紙のつもりだったようで(笑)

永田「で、来年も来ていいんよね?」
K君「よかったー、でも恥ずかしい思いして損したやん?」

永田「また来年もよろしくね(笑)」
K君「はーい」

普段はひねくれさんのK君が勇気を出して本音を投げてくれたんだと思うと嬉しいです。

こういう事がたまーに起こるから、この仕事は止められないんですよね。

今日は、少し素直になってくれたK君が、僕が車に乗り込むまで盛大にお見送りをしてくれました。
K君「しばらく会わんでも忘れんように、砂場に先生のお墓作っとくから!」
永田「勝手に死なすな!化けてでるぞ」
K君「骨はいらんから、歯を置いていきぃ」
(歯を折って、投げる仕草)永田「ほれ」
K君「キャッチ!じゃーねー」

いやー、マイケルジョーダン先生、感動しました。