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2020年9月25日金曜日

プール再開します

ずーっとお休みをしていたぐるんぱのプール活動。

プール施設の制限も緩和されてきて、ようやく一部再開。
まだ施設の制限や混雑具合、他のサークル活動との兼ね合いで、まだ出来ない時間帯もあります。

それでも、再開していく旨を保護者に連絡をしていったら、皆さん本当に喜んでくださいました。

正直な話、僕の収入にも直結する話なので、プールを打ち切って他の事業、ということも悩んでいました。

でも、周りの理解や協力や我慢などを頂きながら、ようやく漕ぎ着けました。

さ、久しぶりの子どもたちとの再開、楽しみます!
そして、噛みしめます!

2020年9月17日木曜日

(もったいない)を脇に置いて

小学校低学年の男の子と一緒に、福津市のなまずの郷公園に行ってきました。

鯉のエサを買って、一緒に餌やりをしました。
僕らの他にもう一組親子がいて、同じように餌やりをしていました。

その親子を見ていると餌やりの前にお約束事を決めていました。

お母さん「一回しかエサを買わないからゆっくりあげなさいね」
子ども「はーい」

と。
多分、僕も場合によってはそういうお約束をすると思います。


で、今日の僕らは、と言うと(もったいない)を脇に置いて、彼の好きなようにさせました。

するとバラバラバラバラ~…
と一気に(笑)

100円で買ったエサを一瞬でやり終えました(^^;
正直、思ったよりもずっと思いきりが良かったので…(あ、もっとゆっくり楽しもうぜ)と思わないでもなかっですが(-_-)
本人は満足そうな表情。

大盤振る舞いした池には、大量に鯉が群がっていました!

これはこれで面白い光景でした。

だけどそれで終わりませんでした。

教え子「あ、これ写真に撮る!」と言い出しました。
彼はバッグからカメラを出して…と、構えている間に餌はなくなり、鯉はまた静かさを取り戻して…まぁ、そりゃそうですよね(^^;

永田「よし、そしたらもう一つ買うか。で、僕が撒くから写真に撮りぃ」と提案。

彼がカメラを構えるのを待って、エサを少しずつ…

教え子「もっと一気にしてみて!」と

(マジですか、また一瞬ですな(-_-))

永田「よし、了解!ほれぇ!」


バシャバシャ!!!

教え子「うぉーー、これこれ!よし撮れた!」

とても満足そうな顔をしていました。
そして、帰りに歩きながら、ボソッと「ありがとう」と口にしてくれました。

こちらこそ、そんな嬉しそうな顔を見せてくれてありがとう!だぜ!


とっても良い時間でした。

2020年9月16日水曜日

 学習サポート中における心理的配慮

学習サポートをしていく上で、特性に合わせて教材を提供することはもちろん大切ですが、ぐるんぱの学習サポートの場合、学校外の、インフォーマルなサービスですから、そもそも一緒に学習をする子どもたちが「自信をなくしている」「悲しい体験を繰り返してきている」ということも少なくありません。

なので、彼らの心理面をサポートしていくことがとても大切だと日々感じています。
どんなことを意識的に取り組んでいるのかご紹介します。

1.大人は欲を出さない。

「お、良い感じ!」という手応えを感じるとついつい「もう少しだけ」と欲を出していまいがちですが、それはハッキリ言って邪魔です。
「お、良い感じ」で結構じゃありませんか。
誰のための学習か?ということです。
大人側が成果や満足感を得るための学習機会なんて不要です。


2.話を聞く。

子どもたちの話にはしっかりと向き合います。
これだけで学習サポートは成立し得ます。
だってそもそも「自信をなくしている」とか「悲しい体験を繰り返してきている」とかがあるわけですから。
そういう心のコリを解して、背負っている荷物を少しでも下ろす手伝いをすれば、元々持っていたであろう「なりたい自分」に向かうエネルギーが湧いてくるかも知れません。


3.言葉を掛けすぎない。

子どもと関わる大人の多くが「伝えたい」「教えたい」みたいな思いって、あると思います。
それを言葉にして全て伝えようとするのは、無粋です。
目の前の子どもは、そんなにも鈍感ですか?
まるで「まだ伝わっていない」と思っているかのように、言葉を掛けまくる大人がいます。
信じましょう(笑)
それに教えるというより、子ども自身が考える時間を奪わないことが大切だとも思います。


4.楽な姿勢を許容する。

のびのび、これが学習でも大切です。
学校で全てを許容するのは難しいかも知れませんが、放課後の学習でしたらいいじゃありませんか、多少ウロウロしたって、寝そべったって、膝を立てていたって。
それで、その子自身が取り組めるであれば。
そこで大人側の価値観で「行儀良く」みたいにすると、学習とは違うところで問答する羽目になって、「学習“も”コミュニケーション“も”上手くいかない」という結果になりかねません。
姿勢については、その子の感覚や筋力、いろんな要素が影響してきますから、無理強いしようとしても上手くいきません。
子どもによっては「一緒にやろうよ」→「いやだよ」→「そんなこと言わないでさ」と誘いながら取り組むことがあります。
その時にも、今言った、その子の感覚や筋力というものをある程度頭に入れて「これなら出来るよ」とか「これならできるかも」というところに気づいてもらうことを心掛けます。
それまで「出来ない」を積み重ねてきた子どもなら、それでも「気づき」となっていくこともあります。

そもそも子どもたちは、自分の好きなことだと自分の好きな姿勢で、黙々と学びを重ねていくものです。
よくよく見ると大人の求める定型でないにしろ、みんな学びを重ねています。

2020年9月11日金曜日

少しずつ、でも大きな変化。

Eちゃんとの学習で描いたイラスト。
「服をきる」ということを表すために描いたものです。

色を塗ったのは彼女です。

この色使いに僕は彼女の大きな変化を感じました。

彼女はこれまで、こういう絵を提示した場合に着る前と後では洋服の色が変わっていました。
それが今日は、前後で一致した色を塗りました。
これは初めてのことです。

僕の拙いイラストを状況の変化として捉えて、同じ服を身につけたことを言葉以外の色塗りでも表現したのではないかな?と思うのです。

言葉の意味を文字とか音とかではなく、もっと深いところで理解が出来るようになってきた変化ではないか?と僕は学習している間には感じました。

(もう少し時間をおきながら前後の様子も振り返ってより確かなものにしていきたいと思いますが。)

でも、一緒にいる間に感じたのはそういう類いのものでした。

話したい、伝えたい、受け止めたい…つながりたい

小学校6年生の女の子Eちゃんとの学習サポート。
言葉が少ない彼女とは、お絵かきと塗り絵を交えながら、「~する」という表現を一緒に考えています。

僕が絵を描き、彼女が色を塗り、それが何をしているのか?ということを考え、言葉にして、声に出して、文字に書き出していきます。

彼女と過ごす時間は、毎回とても穏やかな時間が流れます。


僕との時間は一週間に一時間ですが、彼女の時間は当然それ以外にもたくさんあるわけで…時には、到着したときにシクシクしていることもありますし、どこかイライラしていることもあります。

それでも一緒に過ごしている間に穏やかさを取り戻していくのが大体です。


彼女と過ごしていて思うのは、「やらせよう」と思っても身になるものはほとんどないよな、ということ。

彼女が「~したい」と思えるようなコミュニケーションや仕掛けを用意していき、彼女自身が言葉を介して他者とつながりたいと感じられるような時間にすることを心がけています。


彼女に限った話ではありません。

子どもが言葉を覚えていくとき、そこには身近な人とつながって、もっともっとコミュニケーションを豊かにしたいという願いがあるからのはずです。

あるいは言葉が必要と感じることもあるかもしれません。
必要で、「なんとか伝えたい」と思うから、生まれ出るものだとも思います。


「これをしなさい」「こうしなさい」「こうですよ」という詰め込むようなものはこの手の学習には無意味です。
試験のためではないのです。
彼女の人生を豊かにするためです。

彼女が楽しみながら、じっくりと一緒に考えていくことが大切だと思うのです。


心穏やかなときほど、彼女は言葉がスムーズに出てきます。
こちらの意図も伝わりやすくもなります。

これは子どもたちと関わっていく基本かな、と。


仕事でもそれ以外でも。

2020年9月9日水曜日

アピールしなきゃ知って貰えない!という当たり前の事。

僕の場合は、このブログなんかは特に「ぐるんぱのことを知って欲しいから」です。

フェイスブックは、仕事を含めて「僕個人の人柄を知って欲しいから」です。

Twitterは、「フェイスブックとは違う人と繋がりを得たり、考え方を仕入れるため」です。 

こういうのを総合して個人としては仕事を獲得してきました。


ただただ発信しているように見えることもあるかもしれませんが、僕なりの基準をもって使い分けをしています。

趣味とか楽しみだけでこれらを使うなら、垂れ流し状態でも良いのかもしれません。

でも、個人で仕事をしていくという場合は、それでは伝わりません。

「結局お宅は、俺に何をしてくれるの?」ってことになるわけです。

個人で仕事をしていこうと思うなら、そのくらいのことはしていかないといけないと思います。
個人的には。

「なんだか恥ずかしいな~…」という人は、個人では仕事が出来ないです。
そしたら会社員をするしかない、という簡単な話。

会社員なら、会社の担当部署が、あなたに代わって宣伝してくれます。

そういうのも初めは全て自分でしないといけません。

ある程度、仕事をし出すと噂やら評判で人が集まるようになるかもしれません。

それでも新たなニーズを発掘し続けるためには、完全に自身での発信を止めてはいけません。
必要に応じて続けなくては、正確には伝わりませんから。

「あなたのニーズを満たせるかもしれません」という自分の存在をアピールすることが、個人で仕事をする上では最も大切な気がします。

とにかくアピールすること。
正直、独立前と同業種で独立したところで、既存の会社と同レベルの仕事が出来るか?というとそうではありません。
どんなに仕事が出来る、と言われても「会社の看板と規模」によるところは大きいはず。

一からのつもりで、謙虚に誠実にひた向きに発信と受けた仕事をこなしていくという覚悟がなくては個人事業は出来ないと思います。

2020年9月7日月曜日

「大したことなかった」は結果論。次はどうなるかはまた分からない。

 台風10号の被害、この宗像に於いては大したことありませんでした。

「なんだ大したことなかったじゃん」

というように考えている人もいるようです。

でも、それって「今回“は”」なんです。

「今回“も”」大したことなかったのですが、次回は分からないという事を忘れてはいけません。

対策も用心もするに越したことないのです。

あなた自身が何ともなくとも、周囲に危険を及ばせないためにも対策と用心は必要です。

まだまだ台風のシーズンは始まったばかりですし、毎年来るものです。

そもそも日本は地震大国。

加えて近年は、台風や豪雨、暴風などの災害級の天候と気象です。

それらが重なることだってあり得るのです。


「何事もなかったのは今回まで」という心づもりでいないといけません。

神経質に、身動き取れないほどに自身を縛る必要もありませんが、忘れてはいけません。


取り越し苦労、結構ではありませんか。

台風や豪雨…こういう時に必ず「自分だけは大丈夫」と思って安易に様子を見に行く人もいますが、それも「今までは」だという事を忘れてはいけません。

そういう行動で犠牲になる人が少なからずいます。

安易な気持ちで危険を冒すと、周囲も危険にさらします。

訓練をしている消防関係者であったって人間です。

万が一の時に備えて働いている方たちをも危険にさらすのです。


一人一人が自覚と責任ある行動をとることが防災の基本だという事を、この台風が去った今だからこそ今一度考えて見て下さい。

2020年9月5日土曜日

台風10号。未曾有の規模の台風に用心しすぎると言うことはない。

今日までは仕事をしますが、明日と完全に仕事を外します。
どのくらいの規模なのか想像が及ばない感じで、不安ばかり募っています。

ただ、不安を募らせても対策として実務的な作業を積み重ねないといけません。

朝から、買い出しと、庭の片付け、貯水の準備…バタバタとしていました。

近所のスーパーからは、ミネラルウォーターやガスボンベ、パンなどが姿を消しています。
加えて、トイレットペーパーなどを買い込んでいる人の姿も目立ちます。
さすがにこれだけの警戒情報が流れると、数日分の蓄えをする人が増えますね。

それからスーパーで段ボールを持ち帰る人の姿もちらほら。
窓ガラスの強化でしょうか?
我が家はシャッターを閉めて、シャッターのないものにはテープを貼るということを行います。

それから冷凍庫の整理も少しずつ行っています。
万が一停電になってしまったら、冷凍庫の中が溶けて大変ですからね。

そんなこんなしていたら時間もあっという間で、天気予報に目を向けるとゆっくりと着実にこちらへ向かってきています。

どこまで用心すれば良いか分かりませんが、用心のしすぎと言うことはありません。
どうぞみなさん、ご無事にお過ごしください。




2020年9月4日金曜日

驚きがあっても拒否だけで終わらせない。

先の記事で相手に拒否感だけぶつけても勿体ない、という記事を書きました。

言葉が多くなって見えにくくなってしまったかも知れません。

簡潔に言います。

「相手の信じてきたものを否定した先に、自分の信じるものを押し通す」それでできあがるものの品位というのは底が知れているという気がするのです。

閉鎖的で内向的で、他者を受け入れない文化。
そうなるのは自明の理です。

そうしないために、頭と心を柔らかくしていきたいものです。



あるいは相手のことがどうしても理解できないこともあるかも知れません。

そういうときには「なんでこんな考え方をこの人はするのだろう?」と考えることからです。
興味を持つことです。

興味を持つこと、それって大げさに言うなら、相手に愛を示すことです。


愛という言葉を乱用するとチープに聞こえるかも知れませんが、愛のある場を実現しようと思ったら、愛を示していく、興味を持っていくことしかないと思うのです。
その積み重ねです。

時間がかかっても、非効率だと言われても、僕はこういうことを実践していく実践者でありたいと思います。

相手に寛容さと興味を持たなくては、その先にできあがるのは閉鎖的なものでしかないでしょう?という話。

こういう仕事の仕方と業種の中に身を置いていると、いろいろな価値観を持っている人と出会います。

「子育て観」「教育観」「子ども観」「社会観」…

福祉と教育では取る立場と専門性が違います。
医療と福祉も、福祉と保育も…どれもこれも微妙に違います。

その上、「ここからここまで」っていうような線引きが学問と違って、現場にはなくて、狭間のような位置に身を置いている人もいます。
一人一人の価値観でその場で判断をして動くと言うこともあるかも知れません。

僕なんかはまさにそんなイメージかも知れません。
基本的には今ぐるんぱは一人でやっていますし、対象にする子どもも多様ですし、福祉の立場を基本的には取りながら“学習サポート”を提供したり、余暇活動の一環としてプール活動を提供していたりします。
隙間を縫うイメージですので。


“活動”とするか“仕事”とするかでもスタンスは変わるでしょう。

もちろん仕事以外でもプライベートな生育歴や自身の子育て、そういうものでも価値観は変わってくるでしょう。

一人として全く同じ価値観を持っている人はいないと言うことです。

活動や事業に「共感する」ということを言ってくださる方は、僕の周りにもたくさんいます。
それでも“全て”ではないはずなのです。

共感してくださる方であっても、僕の取る行動の中で、(今のはどうなの?)と思う場面はあるかも知れません。
逆も然りです。

僕が共感する人の行動でも、その人の全てを盲信的に観ることはありません。
「いいなぁ」と「そうかな…?」と思うことがあるわけです。


価値観が重なるところは良いのです。
問題は「そうかなぁ?」となったときです。

そのときに「信じられない!」という拒否感だけで相手を批判しても勿体ない訳です。
(僕だって「信じられない!」と思われることがあるだろうし、誰かの話や行動を観て「信じられない」と思うことはあるにはあります)

驚きつつも「ほぉ、そういう考え方もあるのか」「あなたはそういう学びをしてきた人なのね」と言う具合に、驚きの後には相手に寛容さを示すことが必要なのだと、個人的には思います。

もちろん、議論は起こって良いと思います。
そこで相手をコテンパンにするのではなく、相手の意図するところの本質を探るような配慮をしていかなくては、相互理解は深まりません。

相手の価値観や学び、専門性、立場を否定するだけでは、差別と変わりません。
多様性だとか個性だとか、そういう言葉を大切にするってそういうことからなのではないかな?

相手に寛容さを示しながら自分の歩みを進めていかなくては、結局その先に出来るものは閉鎖的なものでしかないと思うのです。

2020年9月3日木曜日

本当に言いたいことは…?

中学生の男の子。
先月から久々に学習を一緒に再開した子です。

今日はお父さん向けの愚痴が止まりませんでした^^;

「ゲームをしたい」本人。
「ゲームを少し控えさせたい」父。
そのすれ違いに対する「なんでなん!?」

このよくある構図でけんかをしているようですw

…と、これが話題の表面に見える訴えです。

ですが、話を掘り下げていくと別のものが見えてきます。

お母さんの存在、です。

どちらもお母さんが好きなんです♪
お母さんを自分のそばに、というのをお互い持っているように僕には聞こえました。

「我が子に関わる姿を見せて妻の気を引きたい」父。
「そもそも大好きなお母さんと結婚していることが信じられない」子どもw

子どもの話を聞く限り、そんな姿が目に浮かんで仕方がありません。

そりが合わない、と言いつつ、素敵な家族なんだろうな、という感じがしています♪

2020年9月1日火曜日

“一通り”“ある程度”って大変なんだよ、この野郎!的な話

いろんな子どもたちと学習をしていて思うのと、自分が子どもの頃を振り返っても思うのだけれど…

高校くらいになると進路選択の兼ね合いで「文系」とか「理系」とかで分かれるけど…

その前の小学校くらいから既に「文系」「理系」の得意不得意はあるよね、と。

小中学校が大変なのは、“一通り”“ある程度”っていうことを求められるからだな、と。

可能性を広げたり、気づいたりするためには、この“一通り”が必要なのかもしれないけど…

大人になって、専門的に好きなことを学んだり、仕事のことを深めていったりする勉強の方が、子ども時代の“学習”よりも楽なんだ、多分。

子どもの“学習”に伴走するときに、それは忘れちゃいけないな、と最近よく思う。


ちょっとした息子の言葉を拾う

4歳の息子。
恐竜、虫、花、石、天体…博物学に夢中になるお年頃ですよね。

ちょっと前に恐竜図鑑をせがまれて買いました。
その付録でDVDが付いてきました。

もう何度か見ているのですが、これまで「恐竜のDVDが観たい」といってDVDの再生を要求してきていた息子が、ここのところ「恐竜のことを知りたい」と表現するようになってきました。

多分彼の中で「見方」が変わったのだと思います。

こういう変化も気をつけて見てあげたい。

完全に職業病w


僕が生きているのは「生きるべき」ではなく「生きたい」から

自分でこうして仕事をするようになってまもなく5年になります。

一時期は僕もToDoリストを作って仕事をしていましたが、最近はそういう作業を止めました。

リストまでは作っていませんが、「すべきこと」ではなく「したいこと」にフォーカスして、自分の行動を選択するようにしています。

というのも「すべき」とは言うものの、“本当に”「すべきこと」の少なさに気がついたからです。
僕が“本当に”「すべきこと」は「したいことをする」なのだと気がつきました。

「したいこと」に向かうときの方が、「すべきこと」と“思っていた”ものに追われている時よりもずっとエネルギッシュで、パワフルにスムーズにものごとに取り組めます。

そして、そもそも、その“思っていた”ものに時間と労力を割いていくと、死ぬときに後悔しそうでw

やりたい仕事、会いたい人、一緒にいたい人、食べたいもの、行きたいところ…そういうものを頭に置いて、何をするのか選択をすると、自分がとってもエネルギッシュにいられます。

僕はいろんな人から「タフだよね」といわれます。
(口内炎が出来たり、ちょっと肩が痛かったり、ギックリ腰をしたり…ちょいちょいあるから家族は「また?」と思っているかもしれませんw)

でも、そういうことがありつつ、ほとんど自分の歩みは止めません。

だって「したいこと」があるから。

休むのも「休みたい」時です。

そういう風に生きているから、「タフ」だと思われるような生活が出来ているのだと思います。

なので胸を張って言えます。

「僕はいつ死んでも後悔しない生き方をしています」
と。

生きることも「生きるべき」ではなく「生きたい」からです。