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2017年9月29日金曜日

寄り添い「合う」。だって家族だから。

とあるお母さんから、今日はプールをお休みさせてください、とメールが届きました。

お母さん自身が体調を崩して連れていくことが難しいから、とのことでした。

その中で○○(子どもの名前)に申し訳ない、と触れられていました。

「○○に申し訳ない」

温かいと僕は感じました。
お母さんの愛情深さを感じました。

大好きなプールへ連れていってあげられない、お母さんの葛藤や悔しさ…子どもへ寄り添おうとする姿勢が、なんだか嬉しくなります。

僕は思うんです。
「申し訳ない」なんてことは、これっぽっちもない、と。

お母さんも、風邪を引くこともあれば、怪我をしちゃうこともあれば、疲れちゃうこともあるんです。
忙しい時もあるんです。

あるいは、「今日は、なんか分からんけどムリー」っていう日だってあるでしょう。

それでも良いと思うんです。

子どもにはもちろん寄り添っていって欲しいです。
でも、「寄り添う」というだけでなく、「寄り添ってもらう」みたいなことを、お母さんが、味わう時があっても良いと思うんです。

だって家族だから。

親として子に愛情を注ぐ。
とても大切なことです。
子どもからの愛情を受け取り噛み締めることも、やはり同じくらい大切なことです。

そういうことをしながら家族のつながり感を育めば良いと思うんです。

子どもたちも親に寄り添いたいんです。

大丈夫。
お母さんが愛した分だけ、子どもたちもお母さんを愛してくれるから。

慌てなくても、申し訳なさを持たなくても大丈夫。

とは言え、元気が一番ですよね♪
ゆっくり休んで、また元気な姿でプールに来て下さーい、待ってまーす♪
お大事に。

2017年9月28日木曜日

「オッス」「メッス」

結構しょうもない、くだらないことが好きなんですよね。

もう僕の趣味の押し付けみたいな感じはあるんですが、個人的にはとても「良いなぁ」ということがあったのでご紹介します。

毎週プールを頑張っているOさん。
中学生女子なので、更衣は当然別々なので、女子大生のリサ先生にお手伝いしてもらっています。

始まりはどんなだったか忘れましたが、いつの間にか、リサ先生とOさんの、その日の最初の挨拶が「オッス」から始まるようになりました。

寂しがりの僕はそこに入りたくて仕方ないので(笑)

リサ先生「オッス」(元気よく)
Oさん「オッス」(恥ずかしそうに)

こういうやり取りがしばらく続いて、徐々にOさんも彼女らしく返せるようになってきました。

そこで一捻り欲しくなって、

リサ先生「オッス」
Oさん「オッス」
永田「メッス」
Oさん「?」
リサ先生苦笑。

こういうやり取りをしばらくしていました。

すると何回目かで、
リサ先生「オッス」
Oさん「メッス」
大笑い、ということが起こり始めました。

ここのところすっかり、そのやり取りが定着して楽しんでいたのですが、昨日はいつもと少し流れが違いました。

Oさん「オッス」
リサ先生「メッス」
笑い♪

いつもリサ先生が先に挨拶をするところなのに、Oさんの方から先に声をかけるということが起こりました。

目に見えるところでは同じ事を繰り返しているだけのように見えますが、実はそれぞれにいろーんなことを考えて、感じてやり取りは成立しているんですよね。

さぁ、次はどんなことを仕掛けようか。
こういうことがあると考えるのが楽しくなるんですよね。

2017年9月27日水曜日

共感と同調

「そうなんだ」
「そんな風に思っているんだね」

相手の言葉を素直に受け止める、これが共感の始まり。

だから「そうだよね、分かる分かる」と同調することと必ずしもイコールとは限らないんです。

こういう話の度に僕が使う例え話があります。

「もう辛くて仕方ないんだよ!」
「そっか、辛かったんだね。頑張ってきたんだね」
「もう耐えられない!死んでやる!」
「辛い中でがんばってきて、それでも死にたいくらい辛いんだ…でもね…死んでしまってはいけないと思う」(共感出来ている状態)

「もう辛くて仕方ないんだよ!」
「そっか、辛かったんだね。頑張ってきたんだね」
「もう耐えられない!死んでやる!」
「そうだよね、辛いよね。死にたいよね。それがいいよね」(同調はしているけれど、共感とは言えない)

何が言いたいか。
意見が違う、考え方が違う、同調出来ない、そういうことが必ずしも共感できないということとイコールとは限らないんです。

そこに振り回されなければ、必ず相手とのつながり感は深まっていきます。

2017年9月26日火曜日

きっずクローバー光が丘での挨拶

きっずクローバー光が丘での学習サポート。

火曜日になるといろんなことが起こって、ここのところ行けない日が続いていましたが、久しぶりに行けました。

「あ、先生!こんにちは~。今日は宿題がありません」と笑顔で柔らかく挨拶をぬれるHさん。
そうかぁ、なら今日はゆっくり過ごせるね~。

「ぁあ!会ったねぇ」と先日、別の場所で思いがけず会ったことを(あの時にあったのは先生だよね?)と確認するように声をかけてくるK君。
うん、この前はありがとうね~。

「たがなさん!」と、文字を入れ換えて人を呼ぶS君は、会うなり学校でのことを聞かせてくれました。
セカンドスクール前でドキドキソワソワしているんだね~。

「宿題します」と直向きなM君は、直ぐに学習室に向かい、カタカナプリントを一緒にして、仕上がったプリントを満足気に眺めて「ありがとう」と。
あなたは良い感じで頑張っているよね~。

「先生~、宿題したくなーい。おやつ食べたいけど、宿題しないと食べられないんだょね~。」と、後押しして欲しそうに絡んでくるAさん。
そうか~、なら気持ちが決まるまで少しやり取りしようかね~。

写真で誘導されて学習室に来て、ひらがなのドリルを開き、僕の膝に座ろうとするI君。
君は可愛いよな~、随分甘えるのが上手になってきた。

僕との学習はほとんどしないけど「おぅ、先生。宿題ないからね~。」とすれ違い様に声をかけてくれて、あっという間に自分の世界へ入るY君。
おぅ、それでもいいよ~、声かけてくれてありがとう。

子どもたちがそれぞれ「らしく」アプローチをしてくれます。
今日は、この、子どもたちひとりひとりのアプローチに応えていく。

これが僕の学習サポートの導入。

学習するしないに関わらず。
お互いの様子を味わい合う。

この心地よさ。

2017年9月25日月曜日

「良い話を聞いた」と満足して座り続けるあなたへ

「良い話を聞いた」
「良いセミナーを受けた」

そういう時って妙な興奮状態になって「オレ、変われそう!」とか「私にもできるかも」とか「よーし、やってやる!」とか思っちゃったりした経験がありませんか?

その興奮が危ない!

そうじゃなくて、そういう後だからこそ、冷静に自分を振り返ってみて「何が足りなかったのか」とか「何をするのか」とかを具体的にしていかないと。

勢いに任せても、そんなに続くわけないでしょう?

いや、もしかしたら勢いは大切かもしれません。
踏み切るためには。

で、踏み切った後は冷静に、それを継続するための手段というか方法を考えないと。

でないと、一時したら継続できない、やれていない自分に戻ってしまって、まーた同じ話を聞きに行く、という繰り返しになりますよ。

セミナー中毒ですよね、こういう人たちは。

「セミナー受けてる」「勉強してる」っていう自分に酔いしれているだけ。

何のためにセミナーやら良い話を聞いているのか分からなくなっていますよね?

セミナーや良い話を聞いている。
その段階をハッキリ言うなら「ただ座っているだけ」ですよ。

座っているだけで何故か興奮してしまっていて、「やった気」になっているだけ。

そうじゃなくて、「何が足りない」「何が出来ている」「何をしている」ということを噛み締めて、地に足つけて歩くのが大事。

特に同種のセミナーのことで言えば、ほとんど誰に話を聞いても似たことを言っているだけですよ。
言い回しが違うから腑に落ちる、落ちないはあるかもしれないけれど。

いや、ともすれば「自分の行いの中に上手くいくヒントがある」んです。
自分の生き方なんだから。
自分の働き方なんだから。

それを他人に求めてもずっととなりの芝が青く見える、ということの繰り返し。

座ってないで動く。
聞いて終わらせないで実践。

成功というか、前進するためにはそれしかない。

2017年9月24日日曜日

「お手上げ」なんてことにしない為の準備をしていく

僕の場合、仕事の準備と言えば、「前回の終わり方」の振り返りにかなりの時間を費やします。

それを承けて「さて、今日はどうやって入ろうかね」という導入を考えるわけです。

もちろん、僕の知らぬ間にも子どもたちは様々な経験をするから、単純に前回からそのまま「続き」という訳にはいかないので、「どうやって来ても大丈夫、受け入れよう」というくらいに準備します。

大まかに「こんな感じかな?」という想定はして迎えますが、それと違っても「ほぅ。ならこうしていくか」と、組み立てをその場で変えます。

受け入れるからには、「お手上げ」なんてことにはしないんです。

「良いときにはそれを維持して、悪いときには少しでも良くして」保護者のもとに帰すというのは、とても大切。

僕の基準です。

そのために準備するんです。

2017年9月23日土曜日

(今日も上手くできるかな…)

プールに来るとイキイキと過ごすし、終わった後には楽しかった!と笑顔で答える子が、プール直前に「プールに行きたくない」と言い出すということがたまにあります。

何故か?

(今日も上手くできるかな…)

こんな風に考える子もいます。

上手に出来た、過ごせた自分を思い出して同じように楽しめるかわからないドキドキを感じているのでしょう。

あるいはお母さんの嬉しそうな表情に応えたいけど、(上手くできなかったら…?)と想像を膨らませる子もいるかもしれません。

こういうことって、前情報として「運動が苦手」ということが挙げられる子に多い気がします。

子どもたちは真っ直ぐです。

大人は、何故?と首を傾げるけれど、こういう実にシンプルなカラクリが隠れていることがあるんです。

あるいは、こういうドキドキを紛らわせようとしているうちにすったもんだになってしまうということも。

今日、一件、プールがキャンセルになりました。
先週初めて一緒にプールに入った子です。

彼の中に何があったか分からないけれど。

そういう可能性も含めて僕は、プールに来なかった彼の表情を想像して、来週に備えます。


さて、来週が楽しみだ。
もちろん、来週のプール前にはまた情報を貰ってから入りますよ♪

2017年9月22日金曜日

夜更かししてしまいました

昨夜、深夜にNHKの再放送だと思うのですが、発達障がいを扱った番組を見ていました。

ついつい言葉で一括りにしてしまうけれど、人の数だけ悩み方、考え方、捉え方、取り組み方、困り感、解決法、特性…があるのです。

実践を通して、自分の引き出しを増やしていくことはもちろんですが、こうやって実際に関わるのとは別のケースについて見て、考えてをしていくことでも引き出しを増やしていくことは出来るのです。

画面の向こうの誰か、かもしれないけれど、支援のヒントはあるかもしれないのです。

年がら年中肩肘張って頑張る必要もないです。
僕はながーく仕事をしていくために、支援中に肩肘張らずに済むように、勉強しているのです。

頑張るというのは、肩肘張るのではなく、早くするのでもなく、続けることです。

2017年9月21日木曜日

障がい児者の道徳観について学びを深めたい

以前から「宗像で勉強会を開いていきたい」ということは申してきました。

ただ、何を学ぶ場にするか?ということを絞りきれずにいました。

今日、ある方と話をしていて、一つ朧気ではありますが「学びたいこと」の方向性は見えてきた気がします。

今、一緒にやっていく仲間に投げ掛けて叩き上げてもらおうと思っているのですが…難しいです。

その方向性というのが「障がい児者の道徳観について」です。

プールでも学習でも子どもたちの道徳観みたいなものに触れることは多いし、大切に育みたいと僕自身が思っていることです。

教科化で問題になっていますが、学校の道徳の授業で僕自身は学んだ部分も多かったと思っています。

けれど…

例えば学習障がいがあると「努力しても実を結ばない」という経験を積み重ねている子も多いのです。

例えばADHDだと、注意が足りない、あるいは多動的だと「丁寧さとか誠実さ」みたいなものが不足していると捉えられていることもある気がします。

例えば自閉傾向のある子だと「人の気持ちに気付きにくい」と言われることも多いです。

知的に重度の障がいがあると「そもそも道徳観を、獲得できるの?」みたいな言われ方をされることもあります。

極端なことを書きましたが、そう捉えられがちな子達だって「道徳観は獲得、成長できる」と僕は確信に近いものを持っています。

それを勉強会で勉強し直したり、実際に支援の事例を通して、その変容が見られたのかどうか、ということについて検討したり出来はしないものだろうか?

と思って手伝ってもらっています。

ワクワクもしつつ、難しいので頭を抱えてもいます(笑)

「あら、来ていたんだ」

このブログでも何度も取り上げている「プールキャップを脱いでしまう」青年とのプール。

今日のプールは、とてもとても穏やかな時間となりました。

キャップを脱いでしまうことも少なく、水を口に含んで吐くということもせず、普段奇声に近いような声を発することも多いのですが、それも少なくて。

僕自身も終始微笑むような表情をしながら過ごせていたな、と振り返っているところです。

恐らくこれは彼自身の心持ちの他に、僕の心持ちも影響していたと思います。
導入が穏やかに行えたのだと思います。

そしたら、プールの水から上がったときに周りにいた方からお声かけ頂きました。

女性「あら?今日来ていたんだね」

と。

永田「こんにちは。はい、来ていたんですよ~」

女性「いつも声出したり、帽子取ったりして目立つのに、全然気付かなかったわ」

と。

場に馴染めていたのかもしれません。
嬉しいですね。

存在感を消すというのではなく、場に馴染む。
一体感を得る。

そういうニュアンスで声かけを受け取ったけど良かったんですよね?
多分。

お父ちゃん奮闘紀

朝、妻は4時代からリビングで仕事の準備。
息子晴哉5時15分お目覚めするもお母ちゃんの姿が見えず泣き、お父ちゃんに助けを求めに来る。

そこから僕の奮闘が スタート。

朝食まで一時間半。
妻はまだもう少し仕事をしたい。
晴哉は寝ない。
愛犬とわも、この騒がしさで起きる。

こうなったら、もう始まっちゃうよね、1日が。

お父ちゃんは知恵を絞ったんだ。

一時間半。
いつものように近所を回る散歩だと、歩く量が多すぎる。
とわは喜ぶけど、途中で晴哉はグズるのが目に見えている。
歩くのと抱っこを繰り返すにしても長いな。

ポン、ポン、ポン(考え中)…ポーン!(閃きました)

お父ちゃん、眠い頭をフル回転させて閃きました。

そうだ!
海にいこう!

今から支度をして15分で出発。
片道20分弱。
砂浜を40分ほど歩く。

うん、いける!

自宅から車で20分弱の宮司浜へ。

愛犬はお気に入りの砂浜です。
晴哉は歩けるようになって、初めての海に大興奮です。

その愛犬と息子の様子に嬉しくなった父ちゃんも興奮(笑)

実に楽しい朝でした。
お父ちゃん、昼過ぎなのに少し眠くなってきたよ。

2017年9月20日水曜日

実際的な避難訓練をしてみる必要性

先日の放課後等デイサービスえるそるむなかたでの報告に引き続き、今日はCoCokaraひのさとにて朝倉へ絵本を届けてきた件について報告をさせてもらいました。
経緯、様子を中心に話をして、その後参加者で議論をする、という形でした。

僕の報告の着地点について。

「実際的な避難訓練をしてみる必要性を感じている」

これが僕なりの着地点。

非常ベルが鳴る。
机の下に隠れる。
安全な場所へ移動する。
消火器の使い方を学ぶ。

この辺りは割りと知られている避難訓練だと思います。
これはこれで必要です。

ただ、今日の僕の話の中では、また別の切り込み方をさせて貰いました。
先日のえるそるむなかたでの企画で叩き上げてもらったところも大きいのですが。

例えば…

非常食を食べてみる。
電気を使わずに生活してみる。
布団やベッドではなく、床に雑魚寝をしたり、寝袋で寝てみたりする。

避難するまでではなく、避難してからのことを訓練することも大切なのでは?という話です。

特に僕は特性ある子どもたちに関わる仕事をしていますから、その視点は欠かせませんでした。

偏食やこだわりも強い子もいます。
そういう子らが避難生活をしていくことが大変になるのは想像に容易いです。

いえ、むしろ子どもも大人もみんな大変なんです。

そういうときに備えて、経験を作っておくことはとても意味のあることだと僕は思います。

非常時、いざというとき、出来ることといったら日頃からしていることです。
特別なことをしようと思ってもなかなか出来ないものです。

実際的な避難訓練を体験して、経験を作る事が出来ると良いですね。

家庭でも出来ることはあると思います。
コミュニティ、事業所で出来ることもあると思います。

そういう話をしました。

そこで早速、話題に上がったのが、CoCokaraひのさとで一泊してみる、という企画です。
直に形に出来ると思います。

あと復興ということを考えるときには如何にして地元愛、郷土愛を育めるかが鍵だと思います。
「被災してもなお、この地で暮らしたい」と思えるような郷土愛が復興の原動力になります。
それが無ければ人は離れ、過疎化してしまいます。

地元を知り、地元を愛し、実際的な避難訓練をする。
これが大切。

2017年9月19日火曜日

お父ちゃんだってダメな日がある。それでも好きなんだ。

何をやっても上手くいかない日というのが何故かあるものです。

今日は僕にとってそんな日でした。

これでもかー!ってくらいに(笑)

今日は息子の体調がいまいちで、保育園はお休みさせて、僕も午前中は、仕事を空けさせてもらい、家で我が子の病児保育でした(^^;

と言っても、咳と鼻が出るくらいで元気元気!

病院受診後は、どうしてもしておきたかった用事だけ済ませ、家で遊んでおりました。

息子の昼ごはんを作っている最中に事は起きました。

料理が出来て、食卓に運んでいる最中、炊飯器から出る湯気に興味を持った息子が手を出してしまったようで、掌を火傷をさせてしまいました。

そんなこんなで午後も仕事を空けさせてもらい、急遽皮膚科へ。

今までの「痛っ!」っていうのと違って、ジンジンと痛みが続くから泣き止まない様子は、たまらなく可哀想で申し訳なかったです…。

父凹み(笑)

そんなんで申し訳なさを抱えながら過ごしたのが、更に良くなかったです。

夕方までいまいちリズムが作れないまま来て、夕方僕がトイレに入っているときにまた、息子のギャン泣きが聞こえてきました!

先入観というのは怖いですね。

昼の火傷があるから、慌てて扉を開けてしまったら、扉の前にいる息子に扉が当たって、足の指を「いたいいたい」してしまいました。

父凹み2(笑)

こういう日もある、大ケガにならずに「いたいいたい」「熱い熱い」も学べたと、言い聞かせながら夜を迎えました。

そういう事があっても子どもは親へ無償の愛を向けてくれるんです。

僕も彼に絶え間ない愛を向けたいと思います。

妻が帰ってきたので、これからバトンタッチで、これから一人、支援してきます。

2017年9月18日月曜日

なんで地域なのか?

数日前にある方とのやり取りをしてから、改めて僕が「出来るだけ地域で」という事を掲げて活動しているのは何故か、について考えを巡らせる時間が増えています。

憲法にもある「健康で文化的」に生きていく権利を、みんな持っているんです。

その権利の保障に向けて、出来ることをしていきたい、というところかもしれません。

いろんな事業所、施設もこれまでに見てきて、話にも聞いてきて、世界の広さというものを感じてきました。

それこそ地域で生活することに困難さがあり、医療施設、福祉施設での生活が良いというケースがあることも承知しています。

そういう施設の必要性も感じています。

「文化的」ということの前に「健康」が来るのです。
命を繋ぎ止めるという事が最優先で行われて、本人や周囲の身の安全を最優先にして…
そういうこともあるのです。

そういう事を知って、僕は地域で生活することを大切にしたいという思いをより強くしてきました。

仕事を始めたときにはあまり考えていなかったかもしれません。
地域共生、みたいなことは。

いろんなことを見聞きして、実際に本人や家族の思いや想いに触れて(正確に受け取れている自信はないけれど、僕の感じるところで)、家族とか家庭とか地域とかに触れながら生きていくことを、ほとんど多くの人が願っているように感じています。
繋がっていたい、のだと。

孤立させない(物理的にも精神的にも)ということが大切なのだと感じています。
これが僕のしたいことかもしれません。

その為には福祉、教育、医療が連携して横断的な支援を提供していくのです。

その一端を担うという自覚を持ちながら仕事に向かいたいと思います。

もう少し。

僕の日常の支援は地味で華もありません。
僕のこと、僕の活動のことなんて宗像という狭い範囲で見たって、知らない人の方が多いんです。

啓発、ということで言えば実に地味です。
ゆっくりです。

テレビで取り上げられるような「周囲を」感動させるような話には到底なりません。

でも僕が今関わっている子どもや青年たちもそうだし、僕自身もそうですが「周囲を」感動させるためにしているのではないんです。
「彼らの日常」としての支援です。

僕と彼らの間には、それはそれは小さな感動があります。

時には周りにも与えられるかもしれませんが、自分たちの中で味わうことが第一です。

特別なものにしない、ということが大切。

出来事も、想いも、思いも。
そして存在も。

2017年9月16日土曜日

自分の状態を知りセルフケアを行う

「あぁ、疲れてきてるな」
「あぁ、ストレスが溜まってきてるな」

自分で敏感に感じられる人は良いんですが、そうでない人も結構いると思います。

疲れとかストレスに鈍感?で、体調を崩して初めて気付くという人もいると思います。

「休まざるを得ない」というところまで頑張ってしまう人たちなんです。

そういう人たちには是非、基準になるような、目印になるような、そういう自身の傾向を見つけて欲しいと思います。

僕の場合は食欲が抑制出来なくなる(普段から食べる方ですが、更に食べるようになったり、自制が出来なくなったりします)、甘いものを異常に欲する、という感じで食に出ます。

良いときは良いときで食については顕著に出ます。

他にも基準になるようなものがあります。

そういう自身の「パンク寸前の兆し」を知っていると働き方を変えたり、休みを意識的に取ったりして、セルフケアが行えるようになります。

これって実はとても大切です。

セルフケアが行えないと何に於いても継続していくことが難しくなってきます。

そして、それを知ることで、より相手に敏感にもなれるというものです。

自分を大切にしないと、他者を大切には出来ません。

「上手くなったよね?この子」

子どもたちとプールをしていると、周囲の方々が声を掛けてくださることがあります。

「頑張れ」
「頑張ってるね」
と。

今日はたまーに会う小学生の女の子(3~4年生くらいかな?)が、声を掛けてきました。

「上手くなったよね?この子」
と。

嬉しいじゃないですか?

「上手くなった」ということは、以前の姿を覚えていてくれるということです。

地域の中に点でなく帯状で子どもの様子を見てくれている人がいる。

しかも、それが僕の関わっている子と同年代なんです。

大切にしていきたい、育みたい、広げたい「まなざし」です。

2017年9月15日金曜日

2つの狙いを込めて

最近どこかトゲトゲしい五年生男の子。
一緒にプールをしています。

このトゲトゲしい感じをプールでのやり取りを通して緩和出来ないかなぁ、と思っていました。

改めて話すと説教臭くなる気がしたので。

今日はちょっとした試みをしてみました。

クロールの練習時にどうしても背筋や肩周りの動きが固くなる癖のある子です。
その辺を利用してみようと。

永田「背中とか肩の辺りの動きが固いんよねぇ」

男の子「何でかねぇ」

永田(よし、乗ってきた!)「それはね、顔に力が入っているからよ。顔に力が入ると首が固くなるやろ?首が固くなると肩が動かしにくくなるやろ?」

男の子「あぁね」

永田「やけん、ここをほぐしてあげるとよ」

頬をマッサージ。

男の子「ふーん、なんか気持ちいいね」

(泳ぎ以外にも効果があればいいなぁ)

クロールを泳ぐ。

男の子「あ、なんか動かしやすい気がする」

可愛いでしょ(笑)
でも、実際に動きがスムーズになっていました。

その後のコミュニケーションにも面白いことが見られました。

お喋りに間が出来たり、口調も柔和になったりし始めました。

動きと気持ちと両方をほぐす。
スキンシップの機会というのもいろんな作り方がある、再確認出来ました。

2017年9月14日木曜日

「習慣」に対する思い

多分僕は、「習慣」ということにある種の信念みたいなものを持ちなが仕事をしているのだと思います。

生活習慣、学習習慣、余暇の習慣…

そういう「習慣」の定着ということが日常生活に思いの外影響を与えているとも考えています。

良いと思う習慣は維持して、うーん…と唸りたくなる習慣は取り除いたり良い習慣に転換することを目指したり、必要と思う習慣の定着を目指したりしていくことにかなり重きを置いているように自覚しています。

この「良い習慣」「悪い習慣」。
僕の主観と言えば主観なのかもしれないけれど、子どもたちの困り感に繋がるかどうかは一つ基準にしているつもりです。

食事をするときには座る。
テーブルに座らない。
片付けをする。
手洗いをする。
この時間には宿題をする。
…。

大人から、特に保護者から見て「身に付けさせたい習慣」はいろいろあると思いますが、「僕や他の支援者の元を離れても孤立しない」ために必要な習慣を身に付けて欲しいと思っています。

食事のマナーが悪ければ「あいつとは一緒に食事したくない」と言われます。
片付けることを知らずに出しっぱなし、散らかしっぱなしにすれば、危険も出てくるし、結局本人が「どこに何があるか分からない」という困り感を持つかもしれません。
身だしなみを整える習慣が無いと小さいうちは「可愛い」だったのが、「あいつとはいたくない」になり得ます。

そういうことです。

宿題をしない、提出しないと場合によっては「どーせアイツは言ってもしない」と、信頼感を失うかもしれません。

そういうことです。

僕の支援の仕方の事に話を移すと、プールの利用マナーやルールを守ることも習慣にしなくては、居場所になりません。

学習も「永田となら出来る」というところからスタートでも良いですが、目指せる子であれば、「自分で向かう」が習慣になるように家庭学習の仕方を提案していきたいと思います。
一生付き合っていくような関係を築けたとしても、一生一緒にするということは無理ですから。

そういうところでは、妥協したくないと思っています。

「まぁいっか、他の誰かが言うだろう」にはしたくありません。
他の人も「まぁいっか」と思って学びの機会を得られなかったら?
そう思うと怖くて仕方がありません。

気になるけど言わないのは見て見ぬフリのことです。
そうするくらいなら関わりを止める、くらいに思ってもいます。

必要な時に思い切った踏み込みが出来るかは、日頃の関わりに依るところです。
普段言わずにいて、大事になったときにだけ出しゃばるのは、お互いに傷つくだけですから。

何でもかんでも習慣化するというのではないけれど、習慣があることで解消出来る困り感も実は多いのです。
それが豊かな人生に繋がる可能性もあるのです。

そうそう、忘れそうになったけど、子ども達の習慣だけじゃなくて、大人が「溜め込まない習慣」を身に付けることもとても大切です。
こういう風になったらヤバイな、こうなってきたら疲れているんだな、と自分にベクトルを向けて「気づく習慣」も、そうなったときに愚痴をこぼしたり、運動したり、歌ったり…「発散する習慣」も必要かもしれません。

僕自身はそういう習慣が身に付いてきています。


妥協しないとか、丁寧に関わりを持つとか、気づくとか、動くとか、溜め込まないとか、ブログを更新するとか…こういう働き方、支援の仕方も「習慣」次第。

2017年9月13日水曜日

打ち明け話

子ども本人にその意識があるのか無いのかは分からないですが、時折「ここだけの話」的な話を打ち明けてくれることがあります。

これが可愛くてたまらないんです。

「うん、うん、そうか、そうか」
存分に話をしなさい♪と思いながら、彼らの話を聞きます。

恋の話、まだバレていないイタズラについて(笑)、サプライズ…「黙っておけなくなった」素敵な素敵な「ここだけの話」です。

そういうものが学習サポートのお楽しみ。

2017年9月12日火曜日

発達障害を見つめなおす

昨日、福岡市民会館で開かれた講演会を聞きに行ってきました。

スケジュールの都合もあり午前中のみ参加だったのですが、「発達障害の最新の知見」というのが午前中のテーマでした。

様々な領域に及ぶ話で、少し難しい感じもありましたが(笑)
どれも興味深いお話でした。

子どもたちを見ていく観点が広がりそうです。

発達障害、という事が話の軸にはありましたが、障害の有無に関わらず子どもたちの成長、あるいは子育て、教育全般にも通じる話だったように思います。

2017年9月10日日曜日

何故?支援にきめ細かさが必要な理由

きめ細かさを欠くと、対象児者やその家族らが孤立に向かってしまいます。

支援が粗いと「クレーム」みたいなのはあるかもしれません。
でも、それは支援を受けるための本来の要望とも困り感とも違います。

そこには「やり取り」があるようですが、実は無いに等しいのです。

粗い支援が続くとどうなるか?

相手は諦め始めてしまいます。

そうやって上手に甘えることを忘れていってしまいます。

きめ細かい支援が出来ていると、コミュニケーションも円滑になり、いろんな話が出来るようになります。

そういうところに支援を継続していくための、困り感を解消するための、あるいは「実はこういうことで困っています」が引き出すためのヒントがあるのです。

そうやって人と繋がり感を持っていくことの大切さをお互いに体験していくのです。

支援の本質は自立と自律を目指すことにあります。
でも、それは「自分で立てよ」と突き放すことではありません。
自立や自律は「なんでも自分でしなくてはいけない」ではありません。

自分で出来ることは自分でして、分からない、困ったときには上手に甘えて「ここを教えて」「ここを手伝って」と言えるようになることが大切です。

そのために、必要な時に大いに上手に甘えて自己肯定感を育んでおく必要があるのです。
その自己肯定感を育むために必要なのが、きめ細かさ。