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2017年7月31日月曜日

居場所がないから、居場所を探しちゃう

いわゆる「周りから浮いちゃう」子の居場所作り。

これって、とても難しいけれど大切だと思います。

「居場所作り」という言葉が流行のようになっていて、いろんなところで、いろんな人向けの「居場所作り」が行われています。

でも、その多くが「公共の場」的で、「お利口さん」向けな気がします。

例えば、ちょっとヤンチャそうな子が行くと「何しに来たの?」みたいな空気や視線、あるいは言葉が投げ掛けられることもあります。

今、行われている居場所作りって、そういうこと。

ある子には居場所になるけど、別のある子には居場所にならない。

「誰でも来られる場」は「誰でも」の場にはなり得ないんです。

これはハードよりもソフトの問題が大きいと思います。

だから難しいし、大切。

敢えて用意された場に来るということは、居場所がこれまで無かった、ということも含む可能性があるんです。

居場所を提供する側は、それを意識していくことも必要。

2017年7月30日日曜日

電話の「もしもし」、診察の「もしもし」

言葉の少ない子どもたちの言動となると、様子を見ていてハッキリと意味や意図の分かるものもあれば、なかなか分かりにくいものもあります。

その、「なかなか分かりにくい」時には、大人の解釈が求められます。

そういう時のコミュニケーションの在り方が子どもの成長に関わることを知っていなければならないと思います。

障がい、ということに限らず、乳幼児期の子どもたち、というところも含んだ話です。

最近、うちの息子は体調を崩すことが多く病院に通う機会が多かったです。

診察時、先生から「はーい、お腹もしもしするよ」と言われて聴診器をお腹に当てられていました。

この「もしもし」が彼の中で面白い広がりを見せていました。

テーブルに置いていたケータイを手に取り、お腹に当てたのです。

こういう場面で「は?何やっとると?あはは」で済ませることも出来てしまうと思うのですが、電話の応答時の「もしもし」と、診察時の「もしもし」が彼の中で結び着いたのかな?と思うと、関わりが変わってくると思いませんか?

彼の視点や好きなこと、印象に残っている出来事、もっと言えば世界観に近づけるチャンスだと思うのです。

そこで前向きに広がるように解釈して、結びつけるお手伝いをしてあげると、言葉や物事、人への関心を育めると僕は思っています。

2017年7月27日木曜日

子ども理解を深めるって、どういうことやろうか?

敢えて「障がい理解」ではなく「子ども理解」という言葉で。

子ども理解を深めることは、子どもと関わる支援者に必要不可欠です。

「子ども」という存在について、考えないといけないし、目の前の「一人ひとり」について考えないといけません。

支援者の子ども理解が深まってくるとどうなるか?

ちょっと僕なりに考えてみました。

なんと言っても、子どもたちの言動に見通しが持てるようになることは大きいと思います。

子どもに対する「思いもよらない」行動が減り、備えられるようになります。

これによって、子どもたちの安全と安心が確保しやすくなります。

それから、支援の手立ても絞れるようになると思います。

子ども理解が無いと「子どものことが分からない」ということですから、「あぁしたら良いのかな?」「こうしたら良いのかな?」「どうしたら良いのかな?」と、あるような無いような、ぼんやりした無数の選択肢に迷うことになります。

「正解」があるというものではないけれど、その時の、その人のベターな手立てにたどり着くための道筋が、見つけやすくなるように思います。

支援者が困ったり、迷ったりしているとき、間違いなく子どもたちも困ったり、迷ったりしています。
支援者が困ったり、迷ったりしなくなれば、それが子どもたちの安心感にも繋がります。

子どもたちが安心感を抱けるようになると、落ち着いて過ごせるようになりますから、支援者も落ち着いて構えられるようになります。
すると、子どもたちの姿をよく見られるようになって、ますます理解が深まります。

こうやって良い循環を作れると良いのかもしれません。

僕の考え。

2017年7月26日水曜日

似てるけど…。

夏休みに入って、通常とは少し違うタイムスケジュールで、僕も子どもたちも過ごしています。

中学生のOさん。
もう、このブログでもお馴染みですね(笑)

彼女も夏休みタイムで生活を送っています。
プールの時間も30分早くスタートしています。
すると、僕も彼女もどこかゆったりした心持ちです。

彼女のプールが終わり、家まで送り届ける時にふと、「あ、今日少し早いから晴哉(僕の息子)に会っていく?」と尋ねてみたら、「え?いいの?」とノリノリのOさん。

急遽寄り道して、息子と対面してもらいました。

Oさん「わぁ、可愛い!」
永田「そやろ?(ニヤニヤ)」
Oさん「永田さんに似てるね」
永田「そう?」
Oさん「うん、似てる!」
永田「じゃ、僕も可愛い(笑)?」
Oさん「うーん…。」
永田「晴哉は可愛い?」
Oさん「うん!」
永田「僕と似てる?」
Oさん「うん!」
永田「そしたら、僕も可愛い?(笑)」
Oさん「うーん…。まぁまぁ…。」

優しいなぁ(笑)

その後車の中で彼女がボソッ…。
「やっぱり晴哉くんが可愛い」

うん、知ってる。
無理に言わせてすまん!

こういうやり取りが僕は大好きです(笑)

2017年7月25日火曜日

リーダーになる葛藤

今日の記事は完全に僕の主観で捉えた、ある子どもの姿について。

今日も学習とは別の目的で「えるそる むなかた」「いーりす むなかた」への支援に行っていました。

すると、一人の男の子が気になる、と職員さんから報告がありました。

うん、確かになんか気になる。
どことなくピリッとしている感じ。

他の友達にも詰め寄る様子。

うん、いつもと明らかに違います。

さぁ、何が彼をそうさせるのか?

彼の様子をしばらく観察していたら、何がいつもと違うのか見えてきました。

とにかくいろんな子に干渉していました。

彼なりに場のバランスを取ろうと奔走している感じ。
詰め寄るのも彼なりの「正義」があったのかもしれません。

しばらくして、彼が部屋に一人になった瞬間があり、少しお喋りしに行ってみました。

永田「おぅ!夏休みはどう?大変そうやね」
男子「まぁね」(こちらを見もせず)
永田「あなたもここじゃ先輩だから、大変ですなぁ」
男子「?」(こちらを初めて見てきました)
永田「みんなの為に頑張ってますな。ま、ボチボチね」
男子「うん」(少し表情が弛みました)
永田「じゃ!」
男子「それだけ?」
永田「うん、なんか大丈夫そうになったけん。じゃ!」
男子(うっすら笑顔)

リーダーになろうと奔走していたんですね。
彼は「えるそるむなかた」の子どもたちの中でも割と早くから来るようになった子です。
「えるそるむなかた」での2回目の夏休み。
初めて夏休みを「えるそるむなかた」で過ごす子どもたちのために頑張ってくれていたんじゃないかな?
と、僕にはそう見えました。

彼なりの成長の示し方であり、彼なりに見つけた場での役割であり、責任感だったのではないかな?

と、今日はそう見えました。

彼がどんなリーダーシップを見せていくのか見守って、彼の成長に立ち会いたいと思います。

数字とお金は違います!

前にも書いたと思いますが。

数字とお金の概念は別です。

もちろん繋がってはいますけど。

数字が読み書き、足し算、引き算、掛け算出来るとか、買い物で代金やお釣りの受け渡しが出来るとか、そういうことももちろんお金の概念には必要です。

でも、それだけじゃ足りないんです。

「お金って大切に使う」
「お金は働いて稼ぐ」
「無駄遣いはしない」
「オモチャじゃない」

こういうものも含めてお金の概念です。

それをどうやって教えるか。

子ともたちの日常に根差す、というのはそういうことに繋がります。

見通しを立てるのに必要なのが勉強!

まずは例えば、の話。

ある程度の見立ては当然するのですが、子ども向けの道具を作る際に、思ったほど上手くいかなくて、改善が必要になることもあります。

そういう時にどう改善すれば良いのか、その方向性であったり、根拠であったりになるのは、やはり子どもの発達段階だと思います。

特に集団保育の現場では、その集団の概ねの段階を見て道具を作ることと思います。

それで合わない子が出たときに、何故合わないのか、が見通せるか?ということです。

現場の子どもの様子を見ていくのですが
、その様子は、性格や発達段階、特性が複合的に絡み合っているわけです。

それを整理するために必要なのは、やはり勉強。

支援には、やはり一貫性というものが必要な場合も多くて、知識も目の前の子どもの事も勉強していけば、支援者それぞれを合意を作り、納得して支援をしやすくなるはずです。

やり方、の部分では支援者のカラーが出ても良いですが、外してはいけない、共通化していかなくてはいけないポイントがあります。

その共通化が出来るかが、事業所の質、というところになってくるのかもしれません。

でないと「あの先生は良い」「あの先生はイマイチ」という風になってしまいます。

2017年7月23日日曜日

子どもたちの進路を真剣に考えていくこと

子どもたちの進路の選択肢としてどんなものがあり、それぞれにどんな生活が待ち受けているのか…。

これを考えていくこと、向き合っていくことは、支援者として、保護者として、避けては通れない部分です。

現状、日本のいわゆる「特別支援教育」を受ける子の、ほとんど多くが高校あるいは特別支援系の高等部を卒業後には就労をしていきます。

「発達がゆっくり」とか「マイペース」とか言われがちな子ほど、早くに進路設計を求められる矛盾があります。

もちろん、そういう風向きが、これから先変わっていくことも考えられますが。

その風向きを決めるのはやはり現場の声であるべきだと思います。

それについて真剣に考えていくこと。

なかなかまとまって、そういうことにまで意識を利かせて過ごすのは大変です。

それを形にしたのが、今日の「GAKUねっと ディスカッションミーティング」だったように思います。

今、「あしたのつばさ」の針池代表が、高校通の信制サポート校を、来年度に開校すべく奔走されています。

その動機と経緯、想い。

たくさん学びました。

僕は、対象年齢を制限することなく幅広い年代の人たちと関わっていて、それぞれの成長に立ち会う立場に有ります。

そういう立場としてもやはり、この問題は無視できません。

僕自身も社会も課題山積。
何からすべきか。
何をして何をしないのか。

子どもたちの選択肢に気づく為に、まずは自分の選択肢の洗い出しをもう一度。

そんな思いで帰ってきました。

針池さん、GAKUねっとのみなさん、お疲れ様でした。

2017年7月21日金曜日

川遊び、療育のヒントがたくさん!

今日から多くの小中学校が夏休みに入りました。

子どもたちには楽しい楽しい夏休み。
保護者、支援者には長い夏休み、という感じですかね(笑)

僕自身は、と言うと、概ね通常運転です。
ただ、学習サポート以外にも「えるそる むなかた」に入る時間も出てきていてるので、その分「通常」の在り方が変わってきているのは確か。

今日は、早速、えるそるの夏休み企画「猪川へお出かけ」にご一緒させていただきました。

これまで学習が中心で、時間的にも、内容的にも限定的な関わりだったのが、こうしてお出掛けに加わる日も出てきたのは、僕にとっても嬉しい限りです。

子どもたちのいろんな姿を見ることで「日常に根差した学び」をより実践しやすくなります。

特に今日は終日川遊びだったので、食事、更衣、遊び、運動…。

本当に子どもたちのいろんな姿を見られました。

今日の姿は、夏休みの支援のヒントになります。
せっかく子どもたちとたくさん過ごすことの出来る夏休み。

療育の視点を持って、「楽しかった」だけでなくて、「充実してた」っていう夏休みにしたいですね。
子どもにとっても、支援者にとっても。

今日も「夏休みの間にこんなこと取り組めないかな?」という子どもの姿を見ることが出来ました。

えるそるのスタッフさん♪
提案しますのでご検討を!
と言うか取り組めたら、絶対に仕事が面白くなると思いますので、一緒に出来たら嬉しいなぁ(笑)

余談。
今日スピード違反で久々に捕まった(笑)
実は一番浮き足立っていたのは僕なのかも(笑)

気を付けて安全運転します!
白バイのおっちゃん、ありがとう。

2017年7月20日木曜日

356人の子どもたち

NHKのニュース7。

治療が終わったにも拘わらず退院できずにいる子どもが、昨年までの二年間に少なくとも356人いたそうです。

どういうことか?

虐待の疑いがある子どもが、病院で治療を受けても退院後に家庭には帰せないと判断になった際、施設への預け入れになるわけです。

しかし、児童虐待が急増し、受け入れ出来る施設が不足しているという現状だそうです。

そうすると、治療が終わっても尚、病院で過ごすことになるのです。

病院はあくまで治療を目的とした施設ですから、そういう子どものために、ずっと人員を配置することも出来ません。

人との接触が、どれだけ子どもたちの発達に影響することか。
こういう仕事をしていようが、いまいが想像は容易いはずです。

今の日本が、そういう社会であるということ、忘れてはいけないと思います。

地域差があるとしても、平均して各都道府県7人強という数。

社会不全のしわ寄せが、子どもに向くのは辛い。
(子どもでなくとも、あってはならないことだけど。)

2017年7月19日水曜日

「いつもと違う」は、意図的にしてこそ意味がある

当然のことですが、無意識に意図せずに「いつもと違う」ことをしてしまうと、子どもたちは混乱します。

「いつも通り」というのも、何から何までと言うのではなく、「やり取りの根っこ」みたいな「外せないポイント」を「いつも通り」にするということです。

その「いつも通り」を意図的に外して「いつも違う」と何が起こるのか、ということはたまにしてみます。

外すときには、基本的に「子どもにとって面白みを持たせる」ことが大切だと考えています。
(その子が「面白み」を感じるポイントを知っていくためにはやはり「いつも通り」が大切になってきます)

今日は、「外す」をしてみました。

中学生のOさん。
プールの支援で送迎をしています。

その道中、ワイワイとお喋りするのが楽しみになっています。
(彼女も楽しんでくれていると思うし、何より僕がとても楽しいです。)

その場面で今日は、僕が「ピエロ」のような役を演じてみました。

言葉を極力省き、パントマイムさながらにジェスチャーと表情だけで、彼女の投げ掛けに応じたのです。

そこで何が起こったか?
(というか見えたか?)

彼女の想像力の奥行きを見た気がしました。

初めは笑いながら「なん、それ~?」とか「なぁがぁたぁさん!ってば!」という感じで「僕の知る」Oさん的な反応でした。

それを更に続けたら質問の方向性が変わり始めました。

「喋れんくなったと?」
(僕は、ニヤニヤしながら首を傾げるだけ)
「お猿みたいだよ?」
(ニヤニヤ)
「水の中にいるみたいになってるよ?」
(「おっ!少し変わったかな?」ニヤニヤ)
「宇宙に行ったらこんなかな?」
(「おーー」ここで、僕も通常運転)

面白い風に捉えられたね、という旨を伝えたら「そう?」と本人はあっけらかんとしていましたが、僕にとっては、彼女の想像力に感心したところでした。

これでまた次回からのやり取りも奥行きが増すんです。

それがお互いに楽しみ「続ける」コツな気がします。

停滞ほど面白くないものはありませんからね♪

2017年7月18日火曜日

子どもの命の為に出来ること

本日(2017年7月18日)のNHKのクローズアップ現代の冒頭で聞こえてきました。

昨年1年間で14人の子どもが自ら命を絶ち、これはいじめ防止対策推進法の施行にもかかわらず、過去10年で最も多い数字だそうです。


いじめが認定されたり、されなかったり、「やっぱりありました」だったり…



法によって守れる命、守れない命があるということでしょう。

法とはまた違ったステージで子どもたちの苦悩と葛藤があるということでしょう。


子どもの様子を冷静に見守る観察眼と、子供の成長を温かく見届ける眼差し。

これを持ち続けること、磨くことが僕ら支援者の役割かもしれません。



少し話は変わりますが、医師の日野原重明先生がお亡くなりになりました。

生前、晩年、命の授業に熱心に取り組まれていましたね。


日野原先生の「命は時間」という言葉が僕は大好きです。

お風呂に入ったり、爪を切ったりするのは「自分のために使う時間」。

「命を誰のために使うか、段々と大きくなるにつれて考えなくてはいけなくなってくる」とも仰っていました。



命(時間)を誰のためにどう使っていくか。

「誰か自分以外の人のために命を使うことで、君たちの命は意味を持ち始める」
これも日野原先生の言葉。

僕は妻や息子、愛犬、家族、出会う子どもたち、まだ出会っていない子どもたちのために、丁寧に使っていきたいです。

それを考える喜びや尊さを手放さざるを得なかった子どもたち。




子どもを守れるのなら法制度は整うに越したことはないけれど、子どもたちの命の上に法律が整う、というのはこの上ない矛盾。

いろんなことを考える夜です。

善意だけでは足りない

善意ってありがたいし、思いの外、世の中にはあふれていて「世の中捨てたもんじゃないな」と思うことも多いのですが、「それだけじゃ足りない」と感じることも多いのも事実です。

僕自身も善意というものを立てて、何かに取り組むこともあります。
でも、善意のままに任せて何かに足を突っ込むということは、まずありません。


その物事について「覚悟を持てるか」ということは、一旦考えます。

この「覚悟」には備えとか、リスクとか、責任とか…そういうものを含んでいます。

それらを持たずに、取り組むのはかえって足を引っ張ったり、失礼であったり、あるいは危険であったりします。


僕も仕事柄、善意にあふれた人に会う機会はとかく多いです。

「ボランティアでも手伝いますよ」という声を頂くこともあります。

ありがたい言葉ではあります。

でも、そういう時には「いえ、お手伝いいただくからには、費用弁償程度はお支払いします。」と申し出ます。

それがある種の篩(ふるい)になっています。

無礼なことであるというのは百も承知です。

ただ、この申し出をすると相手の「覚悟」が見えます。

「いや、そんなお金もらうほどには責任持てません」なんて言葉が返ってくることもあります。

いやいや、金銭が発生しようがしまいが、責任感は持ってもらわないと困ります。
だから、そういう言葉が返ってくるときにはお断りをします。




被災地支援でもそう。

この場合、有償ということはありえないのですが、それでも「覚悟」は持たないと。

何を目にするか分からない。
汚い。
危険。
被災者の思いに触れる。

こんなものが付きまとうのが被災地でのボランティア。

「覚悟」がないと、迷惑になったり、自分自身が傷ついたり、誰かを危険にさらしかねないんです。


「今から被災地にボランティア行ってきまーす、イェーイ」なんてSNSに投稿している場合じゃないんです。



もちろん、投稿者の心のうちは分からないけれど、覚悟を持っているのかもしれないけれど。
「被災地がボランティアを受け入れを開始しました」というニュースが流れると決まって、「イェーイ」する人がSNSに現れる。

その投稿を見て「俺も行ってみようかな」という輪を広げるきっかけにはなるかもしれないです。
でも、「気軽に誰でも行ける」というニュアンスは排除しないと、被災地支援に行くということは自分もいつ「要救助者になるかわからない」ということ。

善意は大切。
それが第一。

でもそれとは別の次元で「覚悟」を持っていかないと。

「善意」とか「ボランティア」という聞こえの良いフレーズに乗っかった自己満足じゃダメ。



2017年7月17日月曜日

「我慢」と「ブレーキ」

「我慢」をさせることと、僕が言う「ブレーキ」を掛けさせるのとは、意味が違います。

「我慢」って、「やりたいのにやらない・やらせない」ことだと思います。
それに対して「ブレーキ」って言うのは、「おっと、やり過ぎた!という気付き」を出来るようにすることです。

このニュアンス違いを意識して声かけするだけでも支援は変わると思います。

納得できているか?という違いです。

あるいは腑に落ちる、という感じですかね。

そう思えるように働きかけをしていくのが支援。

そのためには根気強く、きめ細かく、ブレない支援をしていかないと。

粗い支援をして、ダメだった~、無理かもしれない…。

これじゃプロじゃない。

天狗になるではなく、プロ意識と覚悟はしっかりと持って。

2017年7月16日日曜日

宗像の日常が変わるかもしれない、という話

ある方が聞かせてくださいました。

「私の会社が観光客向けのまとまった仕事を請け負うことになってしまって、勤務体系を変えないといけなくなりそう。
そうなると子どもたちの事もあるから、今までと同じようには働くのが難しくなりそう。」

と。

神宿る島の世界遺産登録が決まり、宗像や周辺地域に観光に来る人が一時的にでも増えることは、ほぼ間違いなくて、「社運を賭ける」という程でないにしろ、この機を活かそうとする企業が出てくるのは当然のことです。

それ自体が悪いことではないのですが、住民の日常にも影響が出ることがあるんですね。

さぁ、支援者のみなさん。
どう考え、どう動きますか?
あるいはどう備えますか?

僕もいかに子どもたちや、その家族の日常(やむを得ず変わっていってしまうことも含めて)をサポートするか、考えていきたいと思います。

2017年7月15日土曜日

「リンゴのことを考えるな」と言われてリンゴを思い浮かべてしまうように

例えば「リンゴのことを考えるな」と言われたら、嫌でもリンゴが頭に浮かぶと思います。

一度知ってしまった情報を切り離して、マッサラなところから物事を考えたり、検討したりするのって、かなり難しいと思うのです。

でも、支援をしていく上では「積み重ねていく」ものと、「都度マッサラにして捉えていく」ものとを整理していかないといけないと思います。

「その子」としての面と、「子ども」という面の違いみたいなところですかね。

練習練習。

「競争」が意味するもの

プールをしている小学5年生のM君。
最近、ちょっぴり気になっています。
そんな彼とのやり取り。

「先生、競争しよう」
何かにつけて「競争」にしたがる彼。

泳ぐときにも「競争」を通して練習したがります。
泳ぎの合間にも潜ることで「競争」したがります。
着替えの時にも。
送迎もしている子ですが、車とプールの歩いて移動する場面でも「競争」したがります。

「競争」に乗っからないと、あの手この手で誘いをかけてきます。
「タッチ」と鬼ごっこにしてみたり、「僕の方が速く着替えられるよ」と挑発らしいことをしてみたり、「先生はどのくらい速く出来る?これより速い?」と伺うようにしたり…。

彼の生活、背景を聞いている分、僕自身が「気になる」という気がしているのか…。
いや、でもそれがあるから見過ごせない、というアンテナが働いている気がしています。
待てよ…彼なりのやり取りの発展か…?
(そういう様々な疑問を持ちつつですが…一応、僕としては彼からの「サイン」として受け取ろうと思っています。)

「競争」。
文字通り競い争うもの。
相手がいないと出来ないもの。
勝ち負け(引き分けもあるけど)が着くもの。
目標が立てやすい。

場面から想像出来る、彼の言う「競争」が含み得そうな意味としてはこんなところでしょうか…。

さらに状況を細かく振り返ると、「相手がいないと出来ないもの」というところにやはり落ち着きそうではあります。

さぁ、そうだとして、僕は、彼の「相手」として何をすべきか。

乗っかるのが良しか、乗っからないのが良しか…。

僕自身の思いとしては、「競争」じゃないやり取りをしたいし、「イケイケどんどん」な感じになりがちで、その反動が彼の負担になっているという面も目にしてきた経緯もあるので、むしろブレーキを上手に使えるようになって欲しいという思いもあります。

その思いを一旦、脇に置いて「競争」というものを真っ向から受け取って、付き合う、ということをして本音に近づけるのか。

「競争」で、彼の抱える「問題」をすり替えているのであるとすれば、「競争」を外すことで本音に近づける気もしています。

乗るか、乗らないか…。

今日は、「どちらか」ということではなく、探るように乗ったり、乗らなかったりをしてみました。
薄皮を剥ぐように少しずつ、慎重に。

「何か」が出てくるとすれば、結構な本音に直面することになる予感がしますので。

乗るにしても、乗らないにしても、注意喚起行動なのは間違いないから、丁寧に対応はしていきたいと思います。

久しぶりに僕自身、大きな課題を課せられた気がしています。
「彼らしさ」に繋がるやり取りを展開していけるか、腕の振るいどころ。

2017年7月14日金曜日

意欲を掻き立てるような研修をしたい

僕が仕事を始めた頃、右も左も分からず、子どもとどんなまなざしで向き合うのか、どういう捉え方をするのかも分からなかった頃。
(今も勉強中ですけどね)

一つずつ、「こんな捉え方があるよ」と教えてもらった、と言うよりは、学ぶためのヒントをたくさん落としてもらって、自分に合うものを探していくこと、自分に合ったものを選びとりながら、学んでいく術を習いました。

自分のペースで、自分の選んだものを学んでいくので、とってもゆっくりとしたペースだったと思います。

でも、徐々に「ただ大人として子どもを知っている」という枠から「支援者としての子ども理解を深めていく」というところへステップアップしていくのが、面白かったです。

今回、縁あって、若手を含めて職員さん向けの研修をさせていただけるようになりました。

お伝えできることはお伝えするのですが、やはり「知っていくって面白い!」「もっと知りたい」「私はこんなこと知っていきたい」と意欲を掻き立てるような研修をしていけたら、と思っています。

2017年7月13日木曜日

子ども目線の成功体験でないと意味がない。

例えば学習。

問題が解けるようになった。
問題が解けた。
取り組めた。
一定の時間、座っていられた。
…などの段階があったとします。

大人は「問題が解けるようになった」を求めていて、そこに到達しないと成功体験と認めない。
子どもは座っていることに、そもそも頑張る必要がある。

この差があるときに大人目線の成功体験を押し付けてもすれ違いになるだけです。

子どもがどの時点に達成感を感じているのかキャッチして、一緒に喜びを分かち合えるか、という点は子どもと関わっていく以上、とても大切で必要な部分だと思います。

大人の満足度で成功か失敗かを捉えていては、子ども理解は深まりません。

それを歯痒いと感じる大人が多いけれど、それが実は子ども理解を深めることと、子どもの自尊心を守り育むための近道だったりする気がします。

2017年7月12日水曜日

僕の専門って

今月から新しい、今までとは少し質の違う仕事を頂くようになりました。
支援の延長線上にあるようなお仕事です。

これは僕にとっても、大きな機会になりそうです。

これまでとは違う準備、勉強の仕方をしています。
そしてそれが面白くて仕方ありません。

自分のしてきたことを普遍化して誰かに伝える。
これまでの僕の大きな課題でした。
「永田だから」という枠が取れずに随分とあがいてきましたが、その突破の糸口になりそうです。

僕がどういう専門的領域で仕事をしていくのか、ということを固めていくための一歩目になっています。
間違いなく。

仕事を絞る、ということではなく。
これまで通り実践としては、いろいろなことをしていきたいと思います。
そこに「僕はこういう領域で子どもたちを捉えて、支援をして突き詰めていきます」と言えるようになることを目指していきたいと思います。

領域という言葉を今使いましたが、それが適切かはまだ分かりません。

でもこれまで僕は「視点」というところで子どもを捉えてきた。
その視点が悪かったとも思いませんが、研ぎ澄まされているという感じには程遠いという自覚がありました。
そこを一歩上がれるような機会を頂いたと思います。

精一杯やっていきます!

2017年7月10日月曜日

「振り返り」に留まらない「分析」の必要性

えるそるむなかた主催の発達障がいを知る講座のシリーズの一環として、昨日は僕がお話をさせていただきました。
お越しいただいた皆様、ありがとうございました。
自分の中でも反省等もあります。
実践家としても、話し手としても、勉強していきたいところです。

この半年で、人前でしゃべる機会を3回ほど頂きました。

その都度、準備をしていくわけですが、自分の実践と理論の紐づけの弱さ、と言えばいいのでしょうか?
いえ、実践自体は手応えとして積み上げていけているところも多いのですが、それを裏付ける理論、自分以外の人も納得させられる理論、そこへの紐づけや導き、自分の支援に対する分析力…そのあたりはまだまだ甘いということを痛感させられます。



「振り返り」ということは、常にしてきています。
ただそれが「分析」という段まで落とし込めていなかったのだということは反省であり、これから理論と結び付けて「分析」ということまでしていけるようになれば、僕自身まだまだ成長していける、という可能性も感じてワクワクもします。

書籍も読んで、自分の支援に「何故?」を持ち、人の支援にも興味を持ち、勉強していきたいと思います。


仕事やそれに伴う勉強は、大変なことも多いから、決して楽しいものではないけれど、「面白い」と思えて仕方ありません。

僕を客観的に見てくださっている皆さん!
「お前、もっとこんな面を勉強した方がいいよ」というご指摘大歓迎ですのでよろしくお願いします!

2017年7月8日土曜日

泳ぐことを目的にしないプール

泳げるようになる、ということを目標に据えることはあっても、それ自体を目的にしたプール指導はしません。

子どもたちの心身の発達であったり、余暇の確立であったり、あるいは自己の確立であったり…やはり僕は、そういうものを目的に据えて子どもたちと関わっていきたいです。

泳げるようになることを目的にしたら、僕は、恐らく全く違う手法や手立てを使っていきます。

そうしないのは、ある種の信念のようなものかもしれません。

早く速く泳げるようになることを目指すのが悪いことではありません。

ただ、そういう役割を担う場所は、僕でなくて良いと思っています。

ここのところ、自分や自分の活動の役割や立場についてよく考えます。

ブレるとかではなく。

今、僕の背中を押して応援してくださっている方たちが、僕の何を応援してくれているのか。
それを見失わないために考える時間をたくさん作っています。

2017年7月7日金曜日

息子の遊び方

息子の遊び方も日々変化を見せています。

最近は、受け身一方ではなくなってきて、自分も何か「一枚噛んだ」遊び方が大好きです。

少し前は「あやす」ような遊び方で大喜びしていたのですが、最近は自分で何かアクションを取り、その結果がどうなるか?というところまで含めて遊んでいるようです。

彼なりに「面白いと思うこと」「大人が喜ぶこと」をして見せようとします。
それに対して、リアクションを取ってあげると大喜び、という具合です。


思い通りにいけば喜ぶし、いかなければ怒るし、どうやれば良いのか考えるし…

見ていて本当に面白いです。

こちらも遊びの考え甲斐があります♪


やはり父親目線になって、子どもとの距離は近くなります。
でも、せっかく子どもと関わる仕事をしているから、子どもの発育、発達の様子は気にかけて、遊びも関わりもその時に適したものを「ある程度」は考えながら子育てをしていきたいと思います。

2017年7月6日木曜日

見せかけに振り回されずに

雑踏の中にいると、大勢の人が周りにいるのに却って寂しさを覚えることありませんか?

そういう雑踏の中で耳を塞いだり、「うるさい!」って言ってみたりする子がいると、聴覚過敏という話になりがちだけれども、よくよく観察していくともっと賑やかしい場所で普通であったり、むしろ自分がその賑やかさや騒がしさを作る中心にいて楽しんでいることがあったりします。

そうすると「うーん…聴覚過敏?いまいちピンと来ないな…」という違和感を覚えることがあります。

もちろん体調や音の好き嫌いもあるでしょうけれど。

それを差し引いても感じる違和感と直面したときのこと。

そういう時には冒頭に書いた寂しさや孤独感から来ている行動かも、とも考えたりします。

耳を塞いだり、「うるさい!」という言葉…見せかけに振り回されずに、いろんな情報を整理していくと、そういうところに行き着くこともあります。

騒がしさから自分を切り離して、自分という存在を確認しているような気がするのです。

それを含めて聴覚過敏、と言うのなら、そうかもしれません。

でも、理由によって手立ては全く変わるんですよねぇ。

呟きでした。

2017年7月5日水曜日

相手がいるから育つもの

相手がいるから「違い」に気付いて、立場や存在感というものを考えられるようになります。

この「違い」が「すれ違い」を招くこともあって、喧嘩やトラブルに発展することもあります。

それでもやはり、学びの機会ではあります。
喧嘩は自己主張のぶつけ合いと価値観のすり合わせです。
そうやって相手との「違い」を認識して、自分の事も知っていくのです。

だから周りの人間はまずは見守ることが大切。
(この「見守る」というのが難しいけれど)
直ぐに仲介して、喧嘩やトラブルを鎮めようとしても、子どもの学びにはならないです。
もちろん、発達段階にもより見守り方も変わってきます。

また、ただ相手がいれば良いというわけでもありません。
相手との交流が活発でないと、そういう学びにはなりません。

交流を促して「違い」に気付けるような見守りをしていくのも大人の役割の一つ。

やり過ぎ、にはならないようにしないといけないけれど、グッと堪えるときも必要。

2017年7月4日火曜日

人の話には「主観」が含まれている

ありがたいことに、本当にたくさんの出来事、悩み、愚痴、相談として話を聞く機会に恵まれています。

僕にかぎらず人と直にやり取りをする仕事をしている人たちは、同様ではないでしょうか?

ただ、話を聞く際に気を付けたいことがあります。

それは人の話には「話し手の主観が含まれている」ということです。

支援者として、その一点は外さずに人の話には耳を傾けたいと思います。
そうでないと、最善の道筋には行き着かないです。
偏った聞き方をすると、気付かない選択肢があるということになります。

もちろん話し手にとっては、話していることが「その人の世界」ですから、共感は示していかないといけません。

それでも「その人の世界」に巻き込まれない聞き方をしていくのです。

巻き込まれてしまうと、それが揺さぶりとなって支援者自身が「らしく」いられなくなります。

すべきこと、すべきでないことの判断だって狂ってきます。

例えば構造化なども誰でも一様な支援が出来るようにするための支援の手立てですが、肝心の活用する支援者の方が立場やスタンス、心持ち、芯、などがブレていては、その手立ても生きません。

支援の質を安定的にして、高めていくためには必要な技術。

2017年7月3日月曜日

息子の姿を見ていて思う

あと2週間程で1歳5ヶ月になる息子。

直向きに生きています。

愛情を真っ直ぐに受け取ってくれ、愛情を真っ直ぐに返してくれます。

僕は、彼がとても愛しいです。
健やかに朗らかにしなやかに成長していってくれることを、誰よりも強く願っています。

きっとほとんど多くの保護者が同じように願っているんです。
子どもと関わる仕事をするということは、そういう愛を目一杯受けて、精一杯の愛で応える子どもたちを、預かるということなんです。

だからこそ、丁寧に、真剣に、雑じり気ない人間付き合いをして、細やかな支援を目指したいです。

僕に出来ることは、それくらい。
でも、それで十分だとも思う。

2017年7月2日日曜日

7月9日えるそるむなかた主催講演会の講師を務めさせていただきます

日時  7月9日(日)10時~12時
場所  宗像市河東地区コミュニティセンター
参加費  500円

テーマ「子どもの主体性を育むための大人の主体的関わり~夏休みを迎えるにあたって~」

という内容です!

興味とお時間のある方は是非いらっしゃってください!

午後は座談会形式の交流会になっています!

2017年7月1日土曜日

落ち着いて日常を送るということは抑圧することではない

「ああしなさい」「こうしなさい」という抑圧的な関わりだけだと、落ち着いた生活を得ることは出来ません。

これは、まず間違いないです。

ルールを決めて過ごしやすくしていくことと、縛っていくことは違います。

「ああしなさい」「こうしなさい」という言葉には(今は出来ていないよ)というニュアンスが含まれることが多いです。

伸びやかに過ごすためのルールを作って、過ごし方の指針を示して、それをベースに具体的な取るべき行動に気付けるような関わりを目指したいと、僕自身は思っています。

もちろん口調としては「こうしなさい」という風になることもあるし、必要なときもあります。

でも、その先に伸びやかさを思い描きながら、そういう言葉も使いたいです。

「優等生」っていう肩書き作りをするための関わりなんていらない。