ページビューの合計

2018年5月29日火曜日

顔浸け出来たよ!

小学校1年生のR君。
彼はとっても慎重で、ちょっぴり怖がり屋さん。
そんな彼とのプールも数か月が経ち、いよいよ水へ顔浸けの練習を始めました。

先週からゴーグルをかける練習を始めて、最初はゴーグルをかけることで変わる視界に少し戸惑っていましたが、今週はその様子もなく、「かっこいい?」と聞いてくるので「うん、かっこいいよ」と答える、そんなやりとりからスタートしました。

とは言え、ゴーグルをかけて、顔を浸けるのにはとっても勇気がいるものです。

まだ小さな身体からありったけの勇気を振り絞るようにして「大丈夫」と自分に言い聞かせていました。

これだけ慎重な彼ですが、僕の中には、「顔浸けは出来る」という、ある種の確信がありました。
何故なら「浸けるのはドキドキするけど、水を頭から被るのは平気」というのを確認していたからです。
シャワーでも、泳いでいる間に押し寄せる波を顔に浴びても…そういうのは平気なのです。
ただ、自分から行くのはドキドキ、という…そういう感じなのです。

だから、後はこちらの運び方次第。

ビート板を持ってばた足をしている彼に向けて波を送って…はしゃいで難なく乗り切る。
(うん、大丈夫)

そこへ「それー!雨が降ってきた!」と水をかけて…まだまだ余裕。
(うん、いけるな)

更に「うわー、雨がひどくなってきて嵐になってきた」と彼のビート板をつかんで揺らし…それも「大変だ~♪」と笑顔で乗り切り余裕。
(よし、いくぞー)

そして「あ、船に穴が開いて沈む~」と彼のビート板を少し下げてみて…。
↑この時はまだ顔が沈まない程度。
ちょっぴり慌てるも直ぐに、「わー!!」と遊びに戻ってきました。

ここまで来て、僕の選択肢は2つ。

1つは僕が先に「穴を見てくるね」と確認して、その後に真似をさせる。
もう1つは、彼に「穴を一緒に見に行こう」と一緒にやる。
このいずれかの方法で、顔を浸けるきっかけが作れたら、と思っていました。

ところが、彼が自ら穴を直す!みたいなことを言って(唐突だったから僕が彼の言葉を忘れてしまいました…勿体ない(^^;)自ら顎を引いて水を覗く素振りを見せました!

惜しい!
永田「ええ?それじゃ見えんくない?」
R「そっか…」
少し迷って、えいや!と顔を浸けました!

永田「どう?見えた?」
R「うん!」
永田「すごいやん!潜れたやん!?」
R「すごかった!?」
永田「すごかったよ!もう一回してみぃ」

えい!出来た!

こうやって、彼は水中デビューしました。

一回経験してしまえばトントン拍子です。
元々が、顔が濡れたりしても大丈夫な子なので。

遊びの要素を減らしても、「せーの」の掛け声に合わせて顔を浸けられるようになりました。

慎重派な彼ですから、恐らく次回の最初は「この前みたいに出来るかな?」みたいな不安を抱えてくるでしょう。
そういう感じの子です。

でも、間違いなく彼自身の経験として積ませてあげられたと思うので、後は少しずつ繰り返していくのみ。

ちょうど、直に始まる学校でのプールに向けて担任の先生から「顔は浸けられますか?」とお尋ねがあったようで。

学校のプールまでに、数回あるから、もしかしたら「他のプールでも出来る」と本人が思えるくらいまでになるかもな、と思っているところです。

2018年5月26日土曜日

運動会の応援に行ってきた2018春

今日は宗像市内の小学校の多くが運動会でした。
その応援に行ってきました。
さすがに教え子たちのいる学校全ては回り切れませんでしたが^^;
朝は雨が降っていて、どうなることかと思っていましたが、どの学校も決行して、途中からは見事な空になって、その空の下で子どもたちは一生懸命に競技に表現に励んでいました。

子どもたちの様子を見に行くこともですが、学校で保護者と会ってお話するのも、こういう日の楽しみなんです。

僕が関わっている子どもたちの多くは特別支援学級在籍で、保護者の皆さんも「上手くやれるかしら」というようなドキドキを行事前には語る方が多いのですが、いざ当日を迎えるとほとんどの保護者が、子どもたちの頑張りに対して本当に温かで柔らかな視線を向けていますし、僕を見つけると「あ、先生!さっきのかけっこ見てくれました?」と笑顔で声をかけてくれますし、「次はこれです」とプログラム表を見せてくれます。

僕は、僕自身が子どもたちと過ごす時間が好きですが、やっぱりこういう親子の絆とか、親心とか、あるいは子どもたちの夢中になる姿とか、そういうものが好きなんだと思います。


中には「毎年食べてくれないんですけどね」という前置きをしつつ「お弁当に、あの子は好きじゃないの知っているんですけど、私のつくったコレを食べて欲しいと思って、毎年運動会の日にチャレンジしやってるんです」というなんとも温かいエピソードを聞かせてくれた保護者もいました。

なんでもお母さんの得意料理なのに、偏食のために食べてくれたことがない、という一品があるようで、「いつか食べてくれるかも」と、毎年作っているのだとか。

もう、こんなエピソード、聞いているだけで涙出そうですよ。

学校行事って、子どもたちの頑張りを見る機会にもなりますが、同じように保護者の皆さんも頑張っていらっしゃるんです。
頑張っているというか…愛ですよね、愛。

こういうものに触れられるのが学校に行く一番の理由かもしれません。
もちろん、子どもたちもみーんな頑張っていました。

みんなお疲れ様。

具体的でないとスタートを切ってはいけないという思い込みは捨ててみても良い

最近、こういう記事が続いているけれども。

ぐるんぱは立ち上げから2年半。
これまでしてきたことも、今していることも、これからしていくことも恐らくは、2年半前に胸の内にあったものだと思います。

だけど、諸事情で出来なかったこと、出来ていないこともありました。
それに、胸の内に“種”としてあっただけで、上手く表現できなかったこともあったと思います。

それが自分で動き始めて、やってきて「あぁ、そうそう。こういうことがしたかった」とか「こういうことがしていきたい」ということが具体的に、クリアになってきたように思います。

その証拠に、2年半前に比べて「ぐるんぱって何?」「永田は何がしたいの?」」という質問に対して受け答えが上手になってきたという実感があります。

この変化も間違いなく「ぐるんぱのあしあと」なわけです。


このブログの書き方も記事の傾向も2年半前とは違います。
ぐるんぱの名刺も、案内の資料も数回作り直してきています。

コンテンツとしては大きく変わるわけではないのですが、使う、選ぶ文言が少しずつ変わってきています。
デザインも少しずつ変わってきています。

それが「今の」ぐるんぱの姿です。
多分、というかこれからも間違いなく作り直していきます。

それは、ぐるんぱが異質なものへと変わっていくわけでなく、実績や実践からぐるんぱの意義がより具体的にクリアになっていくからです。


最初の頃は諸先輩方から「大丈夫?そんなんで」とお声も頂戴しましたし、「で、何がしたいの?」という顔を向けられたこともありました。
でも、そのころのことを今振り返ってみても恥ずかしいとは思いません。
むしろ「よく踏ん張って始めたな」と褒めたいくらいです。
あそこで、「そうか。もっと具体的に煮詰めてから」なんてしてても具体的にはならなかっただろうと思います。

やりながら多くのことを学んできました。

もしかしたら「見切り発車が、たまたま上手くいっただけだろう?」と突っ込まれるかもしれません。
見方によってはそう言われるかもしれませんが、やってみなきゃ分からなかったことが実に多かったです。
勤めていたころから大きく支援の内容を変えたわけではありません。
勤めながら学んできたことがベースにはあります。
そこに工夫を掛け合わせてきました。

そう、本当に始めてみて見える問題も多かったから。


今まさに、ぐるんぱの資料を作り直しているところです。
最初の頃のものに比べて言葉が具体的になっていることに気が付いたので、そのメモ程度の記事ですが。

2018年5月24日木曜日

点と点が繋がっていく

この2年半くらい、ぐるんぱの活動の他にも地域活動もいろいろとしてきました。
収入になるならない、という事とは別にボランティアもしてきました。

正直、収入が少ない時期には「しんどいな」と感じた日もありましたし、「なんとかしなきゃな」と焦った日もありました。
きれいごとばかりでなくて、食べていくことをしていかなくてはならないし、そうでなきゃ、既に始めている支援も打ち切らなければならなくなりますから…とにかくいろんなことを悩みもしました。

でも、この2か月、3か月くらいでしょうか。

これまで蒔いてきた種が目を出し始めて、今まで点であったものどうしが繋がり始めてきました。
応援してくれる人、認知してくれる人、協力してくれる人、興味を持ってくれる人…とにかくいろんな人と人、事と事、が繋がり始めて、とてもいい流れの中に今いるように思っています。

ぐるんぱは一回り大きくなれるかも。

そういう手応えも感じています。

一層丁寧に歩んでいきます。

出会う子どもや青年たちの生活が地域との結びつきを強くしていくのと同じように、ぐるんぱの活動も地域に根付くのに必要なことだったんだと、改めて感じています。

そう。
道草(に見えるだけなんだろうな)もとても大切。
最短距離でゴールを目指していても、前しか見えなくなるってことだろうな。
道草食いながら、周りの景色も楽しみながらの方が、根を張れるのかも。

2018年5月22日火曜日

「子どもたち」と「いのち」

先日、ある支援者さんとお話をしている中で「『子どもたち』と『いのち』について」話になりました。

詳細についてはここでは書きませんが、その支援者さんと関わりのある子どもたちとの間に「いのち」についての価値観で相違があるようで、悩んでいらっしゃる様子でした。

「いのち」に対する価値観って正直なところ多様で、「これが正しい」という価値観を見出すのは難しいのだとは思います。
ただ、その支援者さんと話してて一致したのは「いのちは尊い」という点。
そのことについて子どもたちに考えるきっかけを作りたいとのことでした。

なんでも、知っている子が虫やらザリガニやらを捕まえてはオモチャの様に扱うのだそうです。
投げてみたり、ブランコに乗せてみたり、滑り台から滑らせてみたり…
(やりますよね、そういうこと。僕も幼稚園の頃とか、アリの巣に水を流し込んでみたり、カタツムリを殻から出してみようとしたり、いろいろした記憶があります)

その支援者さんも子どもがそういうことをして遊ぶということはわかるようなのです。
幼児期には「生き物は死ぬ」ということが上手く思い描けずにやり過ぎてしまったり、遊んでしまったりすることがあるのは分かる、という感じでした。
ただ、年齢(話から察するに小学校の中学年から高学年のようでした)としていつまでもそれを許して良いものか、とか、「生き物が死ぬ」ということを知っている子が、虫やザリガニをオモチャの様にして、「車に轢かれるように道路に置いて、面白がって眺めていて、潰れたら『うおお!!』っと声を上げたりすることに違和感がある」とのことでした。

確かに。
幼稚園児くらいの子がするのとは、少し違う気がします。
僕も話を聞く限り、伝えるというか考えて欲しいなぁ、と思いました。

因みに「ザリガニだって生きてるとよ」と伝えたら「こいつ等は外来種だから、放っておいたらバランスが崩れるとよ」という反論をしてきたようです。
なるほど^^;

でも支援者さんとしては、論点はそこに置きたくないようで、あくまでも「いのちの尊さ」というところなのでしょう。
それはそれ、これはこれ…という訳にもいかないでしょうね。


少し話は変わりますが…
僕は20代前半の頃に、当時小学生だったご近所の子どもから「なんで人を殺してはいけないの?」という、ドキリとする質問をされたことがあります。

ドキリとしたものの、聞いていってみると、その子は「法律があるからとか、そういう事じゃない気がするんだけど上手く説明できない」というところで悩んでいたみたいです。

その時、僕も改めてそんなことを問われたことがなかったものだから、答えに窮しました。
それで、いろんな本を読んでみました。
絵本、エッセイ、小説、詩…
「いのち」をテーマにした作品はたくさんありますが、なかなか「人を殺してはいけない理由」というのをビシッと書いてある作品はありませんでした。

そんな中、故・日野原重明先生の言葉に「いのちは時間」という言葉がありました。
どんな生き物も、時間を持っていて、それがいのちである、という旨が書いてありました。

夢中になるもののため、家族のため、友人のため、恋人のため、自分のため…その生きもの毎に生きていくために時間=いのちを使うのだと。
その時間を奪うということが他の他者によって行われることは、奪われる人にとっては、悲しく、辛く、悔しいものなんだということを感じたものでした。

もちろん、これも日野原重明先生の言葉だし、価値観だし、それを承けて感じた僕の価値観ではあるけれども、僕は少なくともこの考え方が分かり易いし好きです。


その支援者さんと、子どもたちが「いのち」についてどう考えていくのか。

僕も幸い多くの子どもたちと関わる機会がある立場にいます。
自分の価値観の押し付けではなく、子どもたちの「自分育て」「自分づくり」の立ち合い人として、彼らの身近な大人の一人でありたいと思います。

きっと、その支援者さんと子どもたちは素敵な時間を過ごしているのだと思います。
(支援者さんは悩ましいし、つらいこともあるでしょうけれどね^^;)

2018年5月21日月曜日

準備が大切

エイブラハム・リンカーンはこんな言葉を残しています。
「もし6時間で斧を使って木を倒せと言われたら、最初の1時間は斧を研ぐことにつかうだろう」と。

僕も出来るだけ、このスタンスで仕事に向かいたいと思っています。

支援中もそうですが、そもそも日常では不測の事態、というのがあるものです。
そういう「不測の事態」に備える必要があるのです。

その不測の事態に備えるために必要なのが「準備」ということになるわけです。
そういう時にも対処はできるだけの準備は少なくともするべきでしょう。

「不測の事態で、もうどうしようもありません」と投げ出すのでは、話にならないのです。
もちろんパニックなどに陥って、むやみやたらに手立てを打ち出すというのも違います。
却って、事態を悪化させかねません。

準備していて、「万全」ということは案外無いのかもしれません。
それでも、慌てずに「考える」という間が取れるくらいに落ち着いていられるだけの「準備」をしてから場に臨むというのが、良い気がします。


僕の周りにいる仕事のできる人たちは、もれなく準備に時間をかけています。
様々な状況に備えています。

その人たちも不測の事態に見舞われることはあるでしょう。
それでも、少なくとも傍目には、「落ち着いているように見える」のです。
それは間違いなく準備のたまものだと思うのです。

「明日の準備をしてから寝る」
先ずはそこからでいいと思います。

2018年5月18日金曜日

5月度支援者の集い

もうすっかり今回は告知が出来ずでしたが、今週日曜日に14時~17時、「放課後等デイサービスいーりすむなかた」をお借りして支援者の集いを行いますので、ご都合のつくかた、興味のある方は是非おいでくださいませ。

今回は告知不足もあるので、来られる方も少ないかもしれませんね^^;

申し訳ありません。


行ってみようかなぁ、と思われた方は永田まで一報くださいませ。
よろしくお願いいたします。

2018年5月17日木曜日

忘れ物が減った件

ちょっと前の記事で忘れ物の多い子のランドセルに仕掛けを用意したという話を書きました。

その記事はこちら

その後の様子を保護者と子ども本人に確認し続けています。
保護者からは、今のところ忘れ物もせずに行けているとのことでした。
よしよし。

子どもからは「ちょっと邪魔なんよね」と(笑)
それはそうかもなぁ。

それから、これは嬉しい言葉も。
「実は3回宿題忘れたっちゃんね」と言い出したので、え?と驚いて聞いてみたら、宿題を終わらせて、持っていくのもバッチリ、だけど朝、自主的に提出することを忘れてしまって、先生に「出してない人いない?」と聞かれるまで出すのを忘れていたとのことでした。

そのくらい良いじゃないのぉ♪

そういう日もあるよ。
それに聞いてみたら、その日は荷物が多く(運動会の練習もあるし)、机に整理するのに時間がかかってしまい、ランドセルから出した宿題を他のものと一緒に誤って机に入れてしまったとのこと。
カバンから出す段階では覚えていたらしいのです。
それをどうしたら良いかな?と尋ねてくるのですから、すごいぞぉ。

良いじゃないのぉ♪

「別に忘れ物しても良い」くらいのニュアンスの話をして開き直っていた子が、自分の癖に気が付いて、3回のミスを気にして「どうしたらいいかなぁ」と考え始めているというのは、個人的には良い兆しじゃないかと思っています。
忘れ物をしたことを別に必要以上に悲観するわけでもなく「先生が来たときに相談しようと思っててさ」と打ち明けてくれたみたいです。

状況を聞けば聞くほど、彼自身も工夫を重ねているようだし、そもそも自分の持ち物、忘れ物への向き合い方が変わってきているのが目に見えて分かるので、あの仕掛けをしてみて良かったなぁ、と改めて思っています。

一緒に学習しているときに見せる彼のものの扱い方も変わってきています。
「手の届くところにないなら借りてしまえ」くらいのところがあったのですが、自分のものを「ほらぁ」と誇らしげに見せてきますし、モノへの愛着が育っているように思います。

もうしばらく様子を見つつ、あの仕掛けを外す段取りも趣味レーションしていきたいと思います。
忘れ物が減って、彼自身が気づけるようになっていく段取りを。

2018年5月16日水曜日

プールの水が少なく感じるよ

毎週プールを頑張ってきているOさん。
ブログでの登場は久々ですね。

ここ最近の彼女の泳法の獲得は目を見張るものがあります。
特に平泳ぎ。

これまでなかなか息継ぎが上手くいかず、あの平泳ぎ独特の動きで水をかくことも上手くいかずで、多分、彼女自身も「上手くいかないなぁ」ということは感じていたと思うのです。

それがひと月前くらいから新しく息継ぎだけの練習を取り入れました。

そうしたらみるみる内に息継ぎを覚えてきました。
どのくらいの息の吐き方、どのくらいの息の吸い方が自分にとって程良いのかが、つかめてきた感じです。

そうすると余分な力が抜けて、必要な時に力を入れて、が上手になって、進むし、息継ぎも上手くいくようになってきたし。
とにかくそういう感じなのです。

今日なんか平泳ぎで10回は息継ぎを繰り返して、足をつかずに15メートルほど泳ぎました。
これまで2、3メートル泳いでは足を着くということを繰り返していたので大進歩です。
これにはもう、感動しました。

そして彼女自身も手ごたえを感じて、達成感も感じていたのでしょう。
とても素敵な表情で、自分の泳いだ距離を振り返って満面の笑顔を見せてくれました。

その時に出たのが「なんか今日、プールの水が少なく感じるよ」という言葉。
どういう事?と尋ねたら、「なんかいつもよりプールが小さく感じる」と。

泳げるようになってきて、「こんなに長い距離、泳げるかな?」だった心持が「もうすぐ泳げるようになるかも」という心持に代わってきたのでしょうね。
あるいは、「もっともっと泳ぎたい」とか。
とにかく今までと見える景色が変わってきたのは間違いなさそうです。

とっても嬉しい一時間でした。

彼女と並んで泳ぐ日が近づいてきている、そんなワクワクが、僕の中にも溢れています。

さ、明日もボチボチといきますよぉ。

2018年5月15日火曜日

「止めさせる」前にちょっと立ち止まって

気になることを「止めさせる」ということだけでは、解決にはならないと思います。
「止めさせる」前にちょっと立ち止まって、方法を考えたり、そもそも「止めさせる」必要があるのか?ということを考えたりすることは大切です。

気になることをするということは、それなりに理由があるはずです。
それを考えていくことが先ずは大切な気がします。
その理由へのアプローチが大切だと思います。

「何を」「どんな風に」感じているのか?を推測していくことが一歩目だと思います。

その上で、実際的な手立てを考えていくことが必要なように思います。

そもそも何かを「止めさせる」というのは大変なことです。
的外れな推測をしたり、あるいはただ行動や様子にだけ着目したりして「止めさせる」というのは根本的な解決にならないのですから。

例えば何か行動を「止めさせたい」と思っても、欲求を満たせていなければ収まらないでしょうし、他の、もっと気になる行動へと移行することだって考えられるのです。

まず、思い付きで手立てを講じるのではなく、よくよく考えてから手立てを講じていくべきです。


2018年5月13日日曜日

話が「どう聞こえるか?」

相手と話をするとき、話の内容と同じくらい大切なのが「話し方」だと思うのです。

どんな口調で、どんなテンポで、どんなトーンで、どんな視線で…そういうことを丸ごと受け止めて、「どう聞こえるか?」というところはとても大切にしたいと思うのです。
その「どう聞こえるか?」が聞き手、僕に対するメッセージだと思うのです。

ただ聞いて欲しいのか。
相談に乗って欲しいのか。
意見を言って欲しいのか。
慰めて欲しいのか。
励ましてほしいのか。
嬉しいのか。
寂しいのか。
楽しいのか。
悲しいのか。
悔しいのか。

どんな風に聞こえるか。

それを無視して相手の話に耳を傾けようとしても、なかなか相手の欲求は満たせず、聞き手の役割としては不十分なように思います。

例えば、彼氏の愚痴を言う人がいたとして、それを聞いて「そんなに嫌なら別れたら?」というのは簡単ですが、その人の愚痴は「別れたい」というように聞こえるのか?ということです。
話をしていて愚痴のはずなのに「あぁ、この人、彼氏さんのこと好きなんだな」と感じる話し方をしている人って会ったことがありませんか?
結構いると思います。
彼氏に限らずです。
夫婦であったり、友人であったり…人の文句や愚痴を言っているようで、実はその人のことが好きで好きでたまらないという雰囲気を醸し出す人。

他には、仕事とかでもありますよね。
職場の愚痴やら文句を並べつつも、仕事が好きで好きでたまらなくて、職場の人たちとそれを作っていくことに情熱を燃やしている人。

子育てなんかもそうですね。
大変だ、ということを言っていても我が子が好きでたまらない人がほとんどですし。
あるいは「もう投げ出したい!」という言葉の裏返しで、なんとかしたいという話をしている人も多いです。

目の前の人が話す時には言葉だけに引っ張られず、「どう聞こえるか?」をしてみては?

2018年5月11日金曜日

虫の居所

昨日は木曜日で、木曜日は50歳の青年とのプール。

いつも彼の通所する作業所に迎えに行き、プールを行い、ご自宅へ送り届けるということをまるっと請け負っています。

昨日、作業所に迎えに行くと支援員さんから「今日は午後から少し機嫌が悪いようです」と報告がありました。
理由は分からないとのことで、「昼頃から数回急に怒り出していた」ということです。

確かにイライラしているようで、指を噛んでいました。
彼がこれまでにも怒り出すという場面は見てきましたが、指を噛むというのがイライラの消化の手段の一つになっているようです。

ただ、「プール行く」ということは言っていて、恐らく行けると思うということでしたので、取り敢えずは向かってみることに。

彼が車に乗り、支援員さんとちょっとした引継ぎをして出発。

車を走らせて30秒くらい…作業所の敷地を出るくらいの頃に、気持ちが溢れるようにして足を揺らし始め、次第に強くなり「うーーー!!あーーー!!!」と声を上げ始めました。
2、3分、そうして何かを発散していたように見えました。

プールまでの移動時間は約10分なのですが、その間に、このようなことを2回繰り返していました。
プールの駐車場に到着し「プール行けそうですか?」と尋ねると、やはり「プール行く」と応えてくれたので、車を降りプールへ向かいました。

歩いているときにも声を荒げることがあり、足取りも踏み鳴らすようにしていました。

受付を済ませ、更衣室内で着替えているときにもずっと声を出していて、周りの彼を知っている方たちも「今日はどうしたんだろうね?」と声をかけにきてくださいました。

プールに入水して水中歩行している間(昨日は40分くらい入っていました)にも、複数回声を上げて、水を叩いて水しぶきを上げる場面がありました。

この頃から、怒っている時には目に見えて顔色が悪くなるので、「上がりましょうか」ということを提案するも全力で拒否。
やはり2、3分すると治まり、顔色も戻るのです。
そして40分くらい経ったら、自分でプールから上がることを選びました。

プールサイドを歩く時も、更衣室に戻ってからもイライライライラ…

更衣室ではまた随分と大きな声を出していました。
本当に何があったのだろう。


帰りの車の中でもやはり、声を上げ、足を鳴らし、終いには車の前列シートを掴み(彼は後部座席に座っています)激しく揺らしてきました。
これはさすがに運転に危ない、と思い車を止めて「それは危ないです!」とさすがにこちらも全力で伝えます。

彼は言葉が少なく、身体にも麻痺があり、表現の方法が少ないので、いろんなことを溜め混んでしまうのでしょう。
その発散は必要です。
しかし、車の運転中に、運転手にまでその影響が出る出し方は、本当に危ない。

真剣に伝えました。
しばらくして彼の気持ちの波が1つ過ぎたところで運転を再開しました。

すると直にまた出始めました。

ただし、さっきまでとは出し方が違いました。
溢れる気持ちはどうしようもないけれど、その表出の仕方をなんとかしたい、という葛藤が窺えました。

何が正しいのかは分からないけれど、伝えないのは失礼だというのが僕の、ある種の流儀。
僕はこう思います、と。

そこからやり取りが始まると思うのです。


彼もくたびれたでしょう。
いやぁ、僕も短い時間だったけど、あの時間はしんどかった(笑)

でもきっと次につながる、そう思える時間でした。
いえ、そうしたいのです。

彼に何かあったのか、それとも体調のためなのか、生活リズムのためか(どうやら眠りは浅いようです)…
虫の居所が悪い、ということってありますよね。
そう、決して特別なことではないのです。
彼の表現の手段が限られていて、“目立つ”表出だというだけなのです。

次までに考えに考え抜いて、彼の気持ちがどうあったのかもう少し近づけたら…

「心」って例えばこういう見え方をするのだと思う、という話

僕は、子どもを授かってから明らかに変わったということがあります。

いくつかあるけど、自覚として強いものの1つが道選びです。

僕、面倒臭かったり、気が急いていたりすると近い、あるいは早い道を選びがちなのですが、子どもを授かってから、リスクの低い道を選ぶようになりました。
これは間違いありません。

例えば、「ここを突っ切れば3分早いけど、少し細い道」より「見渡しが良い、信号がある道」を選ぶようになりました。
例えば、「下道で行くとギリギリかな」という距離を移動する際も、ギリギリになって気が急いて注意が散漫になるくらいなら、有料道路の料金を払って余裕のある運転を心掛けるようになりました。

これって僕の中では、「僕に何かあっては子育ての責任を果たせなくなるという責任感」とか「子どもと永く時間を重ねたいという想い」とかのような親「心」だと思います。

他にも仕事に夢中になれるのも、それに伴う勉強もしているのも向上「心」だろうと思います。
子どもたちとふざけ合って支援の時間を持つのも遊び「心」です。


「心」は間違いなく「行動」に現れるのだと思います。

支援をしていく上では、子どもたちの「行動」を観察して「心」を察し、温もりのある関りと支援を考えていきたいと思います。

2018年5月9日水曜日

なんて読むの?

「放課後等デイサービスえるそるむなかた」に来ている5年女子RとY。

R「先生~、学習サポートしてるから読めるよね~?」
そう言って「向日葵」と書かれた本を指差して“お誘い”をしてきました。

彼女が持っているのは「向日葵ってなんて読むの?」という本。
中身は漢字で花の名前が随分とたくさん書かれているようでした。

R「ねぇ、読めるよね~?」

同室にいた他の子達も興味津々です。
永田は読めるのか?という空気が部屋に満ちていました。
「読めて!」「先生でも読めないかも」という2つの期待をひしひしと感じました。

永田「あぁ、それは『ひまわり』やろ?」

R&周りの子「ぉお!さすがやん」

永田「こんなんチョロいチョロい」(鼻高々♪)
↑これがまずかった(笑)

R「ま、これは読めて当然だよね。じゃ、本番ね」
と言われ引けずに「かかってこい!」なんて言ってしまいました(笑)

彼女が適当に開いた見開きに書かれている花の名前を10個読めという挑戦状を叩きつけられました。

(まずい、これはまずい)

見たことない漢字の並び…いや、そもそもこんな字、見たことねぇし(汗)というものがズラリ。

R「あ、今焦ったろ?」
(見抜かれてる(^^;)

永田「んなことないよ、読めるよ!…多分」

男児Y「じゃ、読めなかったら学習サポートやめてね」

はぁ!?なんじゃそれー!?

永田「うん、いいよぉ。余裕よ」
(ヤッベ…。)

R「でも、これかなり難しいから3問合えば良いことにしちゃあ!」
(ナイス!)

永田「いいとぉ、そんな緩くて」
(僕はバカだ(^^;)

R「いいよー、じゃ、いくね」
(ありがとう、君は天使だ)

Y「ええ!?それ甘くない?」
(お前はだまっとれぇ!)(笑)

R「いいけん、いくよ!これ!」
(そ、いいけんいこう(^-^)/)

永田「読めん」(即答)

R「自信もって読めてないやーん。これ、ヒヤシンス」
(むっず!当て字か!ヒヤシンスだと?カタカナたい、そんなんは!)

R「はい、次!」

永田「読めん」(即答)

R「これはパンジー」
(パンジーもカタカナ!次!)

永田「へぇ、そんな書くんか」
↑もう完璧に忘れた(笑)

Y「本当に先生、仕事無くなるっちゃない?」
(お前はだまっとれぇ!)2回目(笑)

そのあと、4つは読めて、ギリギリでノルマクリア(^^;

Y「いぇーい、先生無職!」

永田「残念!ね?R?」

R「うん、4つ読めたけんね」

永田「ほらー!うぇーーい!」

Y「つまんなーい」

フフフ♪楽しかった。

その後はどの子も落ち着いて宿題をこなしていきました。
永田をやっつけた満足感を抱えながら。

2018年5月8日火曜日

笑い声たっぷりの打ち合わせ

今日の午前中はメイトムで顔合わせ&打ち合わせでした。

「手をつなぐ会」の役員さん3名と6月に行われる「手をつなぐ会」の総会についての話し合いでした。

と言うのも、総会の後にプレ勉強会なるものがあるらしく、その場でお話をする機会を頂きました。
今年度は、約30分永田から話をして、その後に質疑応答ということになりました。

ぐるんぱの活動のこと、子どもたちのこと、支援のこと…リクエストをたくさん頂きました(^^;

30分かぁ…。
何をどう伝えるのが良いのか…あるいは、話せない分資料で補うか…。
しっかりと練りたいと思います。

やっぱり、せっかくだから、僕だから話せることということにはこだわりたいし…。
この妙なこだわりが面倒くさい(笑)

「手をつなぐ会」では7月にも「まなぼう」という企画を用意していて、そこでも恐らく永田が今年度は時間を頂けることになりそうなので着地せずに「To Be Continue」にしてしまうか(笑)

という具合の話し合いをしておりました。

打ち合わせした3名の役員さんの内、お二方は顔見知りの方だったということもあり、笑いの絶えない打ち合わせでした。

しょっちゅう脱線してあれやこれやと笑いながらで、「こんな感じでお願いしま~す」みたいな雰囲気がクセになりそうなメンバーでした(笑)

いえ、当日は「こんな感じでお願いしま~す!」に毛を生やすくらいの準備はさせて貰います。

ただ、打ち合わせでこれだけリラックスさせてもらえると準備もしやすいです。
きっとそういうお心遣いだったのでしょう。

ですよね(笑)?
いずれにしても、よろしくお願いします!
素敵な機会をありがとうございます。

そんなこんなで1学期は忙しく終わりそうです。

プールの仲間が増えました。

先週土曜日、中学生の男の子S君とプールをスタートしました。

初回のプールは、まさに『自己紹介』といった感じでした。

初めての場所で慎重に覗き込むような仕草で周囲を観察していたと思ったら、のびのびとした姿を見せてくれる瞬間もあり、僕自身も朗らかな心持ちで過ごせた素敵な初回でした。

入水してからも何をどんな風にやるの?ということをしきりに気にしていて、それに応えると「あ、分かった。ありがとう。ちょっとね、気になったから聞いてみたんだ」という具合にまた返してくれます。

他にも「こんなことが出来るよ」と泳ぎを披露してくれました。
クロールも平泳ぎも盛大な水しぶきを上げながらでしたが、これも含めて彼の「自己紹介」だと思います。

それから僕の印象は、とても丁寧に人と接する子、という感じでした。

「分かったかな?」「分かってくれるかな?」「伝わったかな?」という相手を思い図るようにして確認しながらコミュニケーションを進めていくのです。

これは僕ら大人も見習わなければ。

相手に触れるときにも、何故触れるのか?ということを伝えてくる子です。
実に丁寧。

それに対してこちらは、彼が伝えてくることの中身と、何故そういう伝え方、表現、表出なのかということを考えていき、支援の方向性を見出だしていきたいと思います。

さ、これから楽しもう!
よろしく!S君!お母さん!

2018年5月7日月曜日

何をどのように残すのか

絵本作家のかこさとしさんがお亡くなりになりました。

「だるまちゃん」シリーズは僕も大好きだし、子どもにも何度も読んであげた絵本です。

こういう方がお亡くなりになるのは残念ですが、紡がれた作品はずっと子どもたち親たちに読み継がれていくのでしょうね。
こういうことを思う度に、作家のようなものを、自己表現を形に残していく仕事というのはとても素敵だな、と感じるものです。

僕自身も何をどのように残していくか、そういうことを考えながら仕事をしていきたいと思います。

少しずつ、いろんなものが動いている4月、5月。

ぐるんぱの3年目。

気持ちを込めて、気持ちを引き締めて、明日も仕事をしていきます。

2018年5月2日水曜日

失敗はしても良い。でも…

失敗はしても良いし、失敗してこそ学べるものもあると思います。

僕も基本的にはそう考えていますし(だから取り敢えずはやってみるんですが)、一般的にもそういうことをよく言われているのを耳にします。

ただし、子ども(とは限らないけれど)の中には「失敗をトラウマとして抱えていってしまう」子もいるという事実を見落としてはいけないと思います。

そういう子が失敗を重ねていくと、物事に取り組むための意欲や勇気が育たなくなるのでは?という危機感を覚えます。

そういう子への配慮として「上手に失敗を体験させる」ということが必要だと思います。
失敗も“経験”であることには変わりないですから、そもそもの経験を奪わないように、こどもがくじけてしまわないようなサポートをしながら、“経験”を積ませていくのです。

これって結構僕の中では大切。

話して一発で頭で理解できるというものでもないから、地道に子どもとの関わりを通して伝え続けていかないといけないものです。

そうして「意外と取り返しのつかない失敗ってそうそうないんだな。ならやってみよう」っていうような意欲とか勇気が持てるようになれば良いのかな?なんて思ったりします。

「一緒にしてるっちゃろ?」

僕と学習している子どもたち、「準備不足だろ^^;」とツッコミたくなる子が実に多いのです(笑)

「消しゴム貸して」
「鉛筆貸して」

と、当たり前のように言ってきます。
中には机の上にペン立てがあり、そこに自分の鉛筆があるにもかかわらず、そういうことを言ってくる子もいます^^;

一応は「えぇ~また?準備しておきぃや」「そこにあるやん」とは言うし、あるものは自分のを使ってもらうものの、その実、内心ではこの手の一言をとても愛おしく、嬉しく受け取っています。

ある子に尋ねてみました。
「なんで毎回僕からツッコまれるのに鉛筆とか消しゴムとかを僕から借りると?」と。

すると、その子の回答はこう。
「いや、別に理由はないっちゃけどさぁ。一緒にしてるっちゃろ?そしたら別にいいやん?」だそうです。

そうか。
“一緒に”ね。
その通りだ。

多分、“一緒に”学習して、“一緒に”過ごしているうちに、境界線みたいなものが曖昧になるのでしょうね。
その子にとって僕と一緒にする学習は「僕の勉強」だけど「僕“だけ”の勉強ではない」ということなのでしょう。
だからモノの所有に関しても境界が緩くなるのでしょうね。

学校の教室でも子どもたち同士の消しゴムなどの貸し借りを目にします。
もしかしたら、これも子どもたち同士の間で“一緒に”学んでいるという意識が育っている証なのかもしれませんね。

個別あるいは少人数で行うぐるんぱの学習サポートですが、その中で子どもたちと“一緒に”を作ってこれていたのかな?と、子どもから随分と励まされました♪