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2017年12月31日日曜日

支援者は知的労働者であると思う

皆様、明けましておめでとうございます。

さて、今年の一記事目を早速書いていきたいと思います。

僕の場合は、子どもたちと共に遊んだり、学んだり、泳いだりといろんな関わりをしているわけで、確かに身体を使う仕事ではありますが、基本的に自分は知的労働者だと自覚しています。

身体よりも頭の方が断然使う量が多いからです。

子どものことを観察し、分析をして(まだまだですが、していってはいます) 、手立てを考えて、中長期的な見通しをも立てて…

どう考えても知的労働者。

この事実に気付かないと、いくら努力をしても実を結ばないということになります。
やはり職業支援者である以上、それでお金を頂いているわけですから、プロとして成果を得なくてはいけないわけです。

支援者の「頑張っている」だけでは正直足りないのです。

誰のために支援をするのか?
支援者の自己満足ではいけません。

対象児者の生活の質向上、人生の豊かさに繋がる支援でなければなりません。

2018年は、そのことをより一層意識して仕事に向かいたいと思います。

という事で、本年もどうぞ宜しくお願いします。

湧き出るような、熱を帯びたような

半年前には「ゆとり」とか「間」の作り方、持ち方がどこか落ち着かない感じがした女子中学生のYさん。

プールの合間に「一息つく」ということがなかなか出来ずに、常に緊張していて
、間を長く取ろうが、声の強弱や深みを変えてみても、ゆるーい感じの言葉を選んでみても、泳ぐという段になると「あ!あ!」という具合にあわあわしていた子でした。

それから、物理的に距離が空くと途端に泳げなくなるという子でした。

自信の無さ、分離不安、そういうものが見て取れる子でした。
僕はとにかくそういうところに触れて支援をしたいと思ってきました。

そんな彼女との年内最後のプール。

多少人混みになるとドキドキしているようですが、身体の緊張もかなり抜けて、「間」「ゆとり」みたいなものを持つのが上手になってきました。

プールの中では僕と夫婦漫才みたいなやりとりもする余裕が出てきました。

「よーし、次は○○泳ぎいくよー」という声かけにも(さてと…)みたいなテンポで準備をして、合図に備えられるようになりました。

これだけで、彼女とのプールの時間は意味あるものになりました。

泳げるようになる、という成果ももちろん必要かもしれません。
(彼女の場合は、その成果も表れていて今では600メートル程を一時間のうちに泳いで帰ります)

だけど「泳げる」というだけでは、決して彼女(他の子も)の人生が豊かになったり、世界が広がったりすることはないのです。

ツールはなんでも良いのです。
プールでも学習でも遊びでも。
そういうものを通して、「人って悪くないな」とか「世界って捨てたものじゃないな」とか思えたり、意欲とか夢とか希望とか好奇心とか、内から湧き出るような、熱を帯びたようなものが芽生えたら良いと思うのです。

彼女とのプールではそれらが育まれていると手応えを感じられた良いプール納めでした。

2017年12月30日土曜日

「その言い方気にくわないな」

「僕はそういう言い方気にくわないな」

子どもからプールの最中に投げ掛けられました(笑)

ほぉ。
これはこれは…。

永田「そうか、どんな風に聞こえたの?」
子ども「なんだか偉そうだよ」

そうかぁ、それは気を付けないと。

言葉自体は「早くしなくて良いから、ゆっくりでも良いから続けていこう」ということだったので、まさに「言い方」、あるいは僕の「雰囲気」が彼にそう感じさせてしまったのかもしれません。

これは反省だ。

ま、その後にその子から「まぁ、気を使わないで“ずけずけ”言ってくるのが先生の良いところだけどね。遠慮して話す大人も多いのに、友達っぽい時がある」とお褒め(?)の言葉ももらいましたが(笑)

2017年12月28日木曜日

初めてのトランプ

学習サポートとは別でしたが、えるそるむなかたに用件があり、立ち寄ったときにたまたま子どもと支援員がトランプをしているところに遭遇しました。

なにやら面白そうなことになっていたのでしばらく眺めていました。

小学校中学年のS、男性支援員のDさん、女性支援員のTさん、それにこの場面の中心になる小学校低学年のYの4人が“大富豪”をしていました。

要はこの“大富豪”のルールがオーソドックスなものに加えて、えるそるの子どもたちのオリジナルなのか、地域差なのか、ジェネレーションギャップなのかは分かりませんが、僕も?となるほどに細かくルールが設定されていて、Yは着いていくのが大変だったのです。

女性支援員のTさんに聞いたところ「なんかトランプをすることが初めてらしいんです」とのこと。
“大富豪”の前に“ババ抜き”もしていて、それは上手く出来たらしく、他のゲームにもチャレンジしてみたくなって、上級生のSの提案で“大富豪”をすることになったようです。

YにはTさんが着き、ルールを説明しながら一緒にやっていっていました。

もう次から次に出てくるルールでYは混乱状態(^^;
Tさんも根気強く説明繰り返します。
(二人の根比べみたいな図も出来てて見ている側は面白かったです)

途中で手札を投げて「もう!」と怒り出すY。
「投げ出さないで」と、一緒にやり遂げて成功体験を積ませたいと願うTさん。
やはりやり遂げたいY。

Yの駄々に面倒くさそうながらも待ってくれているS。
支援員のDさんもSが待てるように合間に声をかけてくれます。

多分、役割は違うけどそれぞれが「一緒にやり遂げたい」という願いを持っていたのではないかな?と思うのです。

なんとかかんとかゲームを進めて終盤に来たところで、Dさんの容赦ない展開でDさんが先に上がりました。
続いてSが上がり…Yはビリになったことで再度立腹(笑)

みんなに「ゲームだからね」とたしなめられてもなかなか納得出来ないY。

Sはもう1ゲームしたいらしく、次のゲームをさっさと始めようとしました。

支援員はYにもう一度するか尋ねていましたが、Yはへそを曲げて別の遊びを始めてしまいました(それでも気になるのか場は離れませんでした)。

Yのことだけを考えるなら、もう少し違う展開があってもよい気もしたけど、場を考えたら、これも良い経験かな(^-^)

独自の世界観とオリジナルの遊びと若干のこだわりのために、なかなか集団遊びの輪に入る機会が難しかったYが、自らトランプゲームに興味を持ち、ドキドキワクワクイライラを抱えながらも1ゲームは「やり遂げた」というのは、とても大切な一歩だったように思います。

永田は何をしていたか?

はい、眺めていただけです(笑)

お父さんの力

実は12月初旬、学習サポートの導入で躓いたケースがありました。

正直なところ「これは、思ったより大変だな」と感じたところもありました。

それから少し間を空けて、作戦を練り、今日久しぶりにその子との時間に臨みました。

その方法として、お父さんの力を借りることをしました。

事前に、お父さんとの関係性についても情報を持っており、お母さんとはまた、一味違う関係性が当然ありますし、お父さんとの面談をした際も「遊び心」とか「のりしろ」的なゆとりとかが見えたので、それらを彼と僕の間のクッションのようにして貰えないかと思った次第です。

快く引き受けて下さり、数回打ち合わせをして、今日を迎えました。

お父さんの声かけの絶妙なこと♪

とても助けられました。

ゆったーりと、冗談も交わしながら過ごして、冬休みの宿題もすこーし一緒にしました。

僕自身もホッとしましたが、帰り際に見せてくれた彼の表情もまたホッとしたみたいでした。

さ、これから一歩ずつ。

2017年12月26日火曜日

「すごい」ではなく「緻密さ」を積み重ねていくことがプロ、か

今日は午前中、ある先生とお話をさせていただきました(お話、なんて言いつつ僕の不安と愚痴が半分以上を占めた相談でしたが)。
子どもたちのことを考え抜いてきた方です。

勝手に「師匠」的に慕わせてもらっています(^^;

知識も知恵も授かりっぱなし。
先生の知識と知恵は、僕に元気と勇気をもたらしてくれるようです。

自分で仕事をしていくようになり尚、こういう方と出会えて学びを得られるのは幸せなことですね。

「汎化」「般化」
この大切さ、分かっている「つもり」じゃダメですね。

これが出来ないうちは、どんなに支援が出来ても「職人芸」止まりなんでしょうね。
「すごい」ではなく「丁寧さ」「緻密さ」「綿密さ」を積み重ねていくことが、専門家でプロなのだと再認識しました。

そこを強化していくことが、僕にも間違いなく必要。
目の前の子どもが良ければそれで良し、とは、どうしても思えないので、やり方、ツールはそれぞれで良いのです。

ただ、専門性のある支援の輪を広げていくことをしていかなくては、「文化を作る」というところには行き着けないのだな、と思います。

今日も具体的な知恵も授かったので、それを永田らしく実行に移せるか、というところです。

2017年12月25日月曜日

支援者も羽休め出来る場が必要か

今夜、ある方と話をしていました。

その方は「なんでこんなことで悩んでいるのだろう。」「なんでこんなことで苦しんでいるのだろう。」「なんだか情けなくなってくる」と話していました。

聞いていて、こちらまで苦しくなってくるような言葉や話ぶりでした。

子どものことを純粋に考えたい、支援のことを考えたい、前向きな学びや繋がりを得たいのに、それが叶わない環境にいることが辛い、と。

子どもたちに子どもたちらしく育っていってもらうことを願うのであれば、やはりそれを支える大人もまた、健全な心持ちでいられる必要があると思います。

障がいがあろうが無かろうが、子どもであろうが大人であろうが、ジェンダーがどうであれ…

その人の興味関心、権利、願い、夢、存在を粗末に扱うことは、虐待だと思うのです。

子どもを守り育てることはもちろん大切だけれど、支援者1人が、生涯に出会える、支えられる人の数は、やはり知れているから、支援者仲間を守ることも大切にしていかなくてはならないことだと強く感じました。

結局、勉強会の立ち上げがなかなか思うように進まずにいますが、支援者の集える場は必要なのだと思っています。
支援者自身が「ここに来れば羽休め出来る」という止まり木のような場が。

しかもそれが、“紛らわし”ではなく、“前進するため”のものであるものが。

2017年12月23日土曜日

サンタクロースは全ての子どもの幸せを願っているのです

サンタクロースは全ての子どもたちにプレゼント(幸せ)を運びます。

けれど、サンタクロース一人ではとてもじゃないけれど全ての子どものもとへは回れません。

そこでサンタクロースは子どもの中でも特に小さい子を中心にして、自分でプレゼントを運ぶようにしています。

少し大きくなった子どもたちへは、サンタクロースからこっそりお願いをされた大人たちが代わりにプレゼントを配って回ります。

それでも安心してください。
サンタクロースは、みんなのことを見守ることを忘れはしません。

ちゃんと子どもたち1人1人に必要なものが届けられるように考えてくれています。

届けられるものは、もしかしたら本かもしれないし、オモチャかもしれないし、お菓子かもしれません。
あるいは大切な人との時間や思い出を作るお手伝いをしてくれるかもしれません。

届けられたプレゼントが期待とは違ってガッカリしたことのある子もいるかもしれません。

でも、それはサンタクロースから見て、間違いなくその子に必要なものなのでしょう。

サンタクロースも、そのお手伝いをする大人も、子どもたちの幸せを心から願っている人たちです。

クリスマスイブの夜。
「サンタクロースに会う!」と張り切っている子どもたちへ。
ちゃんとあなたたちの幸せを願っているサンタクロースか、こっそりお願いをされてお手伝いをしている大人が、あなたたちの元へも行きますから、安心しておやすみなさい。

2017年12月22日金曜日

「“悲しい”思い」か。

今日、小学5年生のKと学習をするために車で移動している最中のこと。

「明日から冬休みやーん♪」とウキウキ話し始めたのですが、途中で宿題の話になって「冬休みもたっぷり宿題が出た~」と嘆き始めました。

K「今日は冬休みの宿題持ってきたからやっていい?」
永田「もちろんいいよ。」
K「冬休みの宿題はさっさと終わらせるんだ」
永田「やる気満々やね」
K「やる気はないよ。ただ早く終わらせておきたいだけ」
永田「なんで?」
K「夏休みの宿題、オレ、夏休み中に終わらせなかったやん?」
永田「うん、そうやったね。踏み倒す!みたいなこと言ってたもんね(笑)」
K「実はそのせいで2学期の最初の頃に夏休みの宿題のやっていなかったところのコピーをやらされたんよ。20枚もあったんよ」
永田「それはやらな過ぎたね(笑)」
K「でね、オレ先生に言ったんよ「10枚にまけろーー」って」
永田「で、まけてもらったん(笑)?」
K「うん。まけてもらったけど、ああいう言い方したときみたいな“悲しい”思いをしたくないけん、冬休みはとっとと終わらせるん!」

とのこと。

あとから話を掘り下げて尋ねたら、「する時間もあったのに、踏み倒そうとして、踏み倒すのも失敗してやらされていたのに、それすら『まけろーーー』って我がまま言ったのが“悲しい”感じがした」とのことでした。

なんていう健気さ。
「“悲しい”思い」か。
もっと素直にやり取りしたいのだろうな。
担任の先生のこと好きなんだろうな。
普段、文句ばっかり言っているけど(笑)

クリスマスムードを楽しみながらプール(笑)

小学4年生のEちゃん。

今日、プールの前に療育施設でクリスマスパーティーをしてきたそうです。

この時期、クリスマスパーティー続きで子どもたちも楽しみが続きます。

ちょっとした興奮状態になっていることもあります。

でも、今日はそういう時期ならでは、のEちゃんの成長を垣間見ることが出来ました。

少し前までのEちゃんは、イベントとか楽しみとかがあると、ハイテンションになって、調子を崩すとかいうのとはまた少し違いますが、「ちょっぴり○○」ということが顔を出していました。

「ちょっぴりはしゃぎ過ぎる」
「ちょっぴり注意が散漫になる」
「ちょっぴりブレーキがかかりにくくなる」
「ちょっぴり衝動性が強くなる」
という具合です。

そんな彼女が、今日はプールの間、「楽しみ、ワクワクを持ちながら」目の前の事に取り組めるようになっていることに気がつきました。

まるで世の中の「クリスマスムード」に乗っかり、楽しむかのように、ごくごく自然に軽やかな表情と動きで、プールに現れ、いつものように僕にもプールにも向かい合うことが出来ていました。

継続的に見ていてなんとなく感じることですから、周りからはピンと来ないかもしれませんが、この成長は間違いなくあります。

お母さん曰く家ではしつこいくらいに「サンタクロースアピール」をしてくるようですが(笑)

お母さんが「おもちゃ買いに行こうか」と提案すると嫌がって、カレンダーに「さんた」と書くらしいのです。

それもまた素敵な子どもらしさです。

そんな素敵なEちゃんの元にもサンタクロースが来てくれますように。

トンネル遊び

未就学児S君とのプール。

ばた足で少しずつ前に進む面白さを実感し始めているS君。

ちょっと冒険心も芽生えてきました。

ばた足で真っ直ぐ泳ぐだけではなく「あっち」やら「こっち」やら「ジャングル」やらに向かいたくなるようです(笑)

それはそれで良いのですが、彼の中に「相手」を意識して欲しいということがあるので、僕の方もいろいろと仕掛けを用意します。

今日用意したのは「トンネル」。

だいたい水の深さが110センチだから、僕の身長で言うと胸から上が水から出ている形になります。

なので腕をアーチ状に伸ばして身体と腕でトンネルを水面に作ります。

そこをくぐってもらうのです。

腕一本で短いトンネルにしてみたり、両腕で長いトンネルにしてみたり、腕を左右にアーチに伸ばして「どっちのトンネルに向かいますか?」と選ばせてみたり…いろんなバージョンを用意していきます。

大喜びで、トンネルをくぐるために足を動かしていました♪
するとグングン進むので、本人も余計に面白いようです。

トンネルって不思議ですよね。

くぐったら別世界にでも出るような気がします。
S君、僕の作る短いトンネルでもそんな風に感じてくれているようです。

「ウルトラマンの家の前でーす」
「夜になりました」
「スシローが見えた」(笑)

僕の作るトンネルを、いろんなところに行き着く素敵なトンネルに「彼が」してくれました。

…いや、「彼と僕」で素敵なトンネルを作りました。
かな♪?

「笑う」ということの意味を考える

「笑う」ということ1つ取ってみても、その要因は様々です。

感情の表れなのか、外からの刺激による反射なのか、あるいは戦略的なものなのか、という具合にです。

こういう風に書いてしまうと無機質感が漂ってしまいますが、こういう大別が出来るように思います。

息子の様子を見ていて思うのです。

遊んでいて面白い、楽しい、という感情の表れとして笑顔を見せることもあります。

くすぐられたことによる反射で笑うこともあります。(勘違いされがちですが、くすぐられて笑うことは、実は不快感を反射的に示した表れです。程よく使えばコミュニケーションとして、楽しみになることではありますが、「楽しいからくすぐって」という大人はほとんどいませんよね?)

周りの人に構って欲しい、あるいは笑顔を向けて欲しい、と思い笑いかけてくることもあります。
大きくなると愛想笑いみたいなことも始めます。

「笑う」ということ1つでも意味があるのです。

もう少し息子が小さい時期には「新生児微笑」なんていう反射もあるくらいです。

「笑う」ということは、あまりに日常的で忘れがちですが、「笑う」ということもまた発達と共に獲得するものなのだと、最近の息子を見ていると改めて感じます。

後からこうやってブログに書いていると「冷静っぽく」映るかもしれませんが、息子の笑顔にはメロメロです(笑)

2017年12月21日木曜日

意欲の源を育てていく、しなやかさを育てていく

僕はプールにせよ、学習にせよ指導的立場を取りながら子どもたちと関わることが多いです。
その中で「泳げるようになった」とか「文字が書けるようになった」という風なことを子どもたちと共に喜びを分かち合うことはあります。
でも、「○○が出来るようになった」というような事だけに焦点を当てることのないようには気を付けています。

そこに焦点を当ててしまうと前進することにこだわってしまいそうな気がするからです。

前進することが成長ではないと思うのです。
時には今の姿をたんと味わうことが必要なのです。

今の姿を味わっていく中で時折顔を出す「挑戦したい」という思いを汲み取って、その時にちょっとしたハードルを用意してあげて、「乗り越える」という体験をさせてあげることが大切だと思います。

そうして子ども自身が成長したり乗り越えたりすることへの喜びに気づけるようにしていくことが大人としては、支援者としては必要だと思えてなりません。


「出来るようになる」ということは「まだ出来ないことへの挑戦」ですから、とっても大きなパワーが必要なのだと思います。
だから子どもたちは「今できること」「今の姿」でいることが多くなるのだと思います。
その姿をたんと味わって、「成長したい」「乗り越えたい」という気持ちが顔を出すまで待つのです。
この意欲の源みたいのものを育てないと、結局のところ子どものしなやかさが育たなくなります。

このしなやかさを育てるために具体的な日々の指導的かかわりがあるということを僕自身、忘れたくありません。

2017年12月19日火曜日

思い込みを取っ払って

「僕はこういうタイプ」
「彼はああいうタイプ」
「これは○○だ」

…。

見渡すと思い込みの落とし穴がたくさん。

経験は間違いなく強みになっていくと思うのですが、過去の経験は、過去の経験でしかないとも思います。

「前回、こうだった」が「今回もこうなるだろう」は、危険です。
「かもしれない」という程度に留めておくことは結構大切かな、と思います。

見通しを持つことは大切ですが、思い込みにならないよう注意は払いたいものです。

まっさらな目で毎回、目の前の出来事に向かって、正確な情報を取っていく、ということが。

思い込みは気付きを奪います。

そもそも自分が目にしているものは、物事の一面に過ぎないという点は忘れたくないですね。

同じモノを他の人も同じように見ているとは限りませんから。

2017年12月17日日曜日

アウトプットまでが学び

何かを学んだら(インプットしたら)、その後にアウトプットするまでがワンセットだと思っています。

こういう仕事のことで言えば、見聞きしたことを自分の実践に落とし込もうとするところまでが学びではなかろうか?と。

得たばかりの知識を使うと「付け焼き刃」なんて批判されそう?

そんなこと言っていたら、いつになったら使えるのですか?

使わずに一年経って「そろそろ使ってみるかな」なんて出来るわけがありせん。

実践にしてみて、そこから試行錯誤して自分の実践に合う形にしていくのです。

言いたい人には言わせておけば良いのですよ。
学んだことを活かそうとすることは、恥ずかしいことではないです。

時間も労力も使って学びを得るのだから堂々と使っていきましょうよ。

使わなければただの錆です。
工夫をして自分のものにしていかないと。
インプットしている段階ではまだ、それはアウトプットした他の誰かのものでしかないです。

えぇっと…自分へ向けて。

今、保育士の資格取得に向けて勉強しているのですが、法律やら権利やら難しいことがいっぱいです(^^;

そういうものも自分の実践に落とし込むことや活動に活かす方法を、考えて見ています。
自分の子どもへの向き合い方、手立ての方向性…

資格は資格で必要性を感じて勉強しているのですが、試験勉強とはまた別の、自分の栄養にしていきたいと思います。

1円でも貰ったらプロ意識を持てよ!

先日、このブログの中で「実はバイトをしています」ということを告白しました。
それは今現在も進行中のことです。

今日は、働くことに対する意識について。
少し「働く」ということについて考えていただきたい人がいまして…。
あわよくばその方がこの記事を読んで、何かを考えるきっかけになれば、と思って書いております。


今、僕は日中にぐるんぱの活動をして、その日のすべての支援を終えてからバイトに行っています。
(23時という時間から開始なので余程でない限りぐるんぱのことでは、その時間に連絡等もないし、短時間ですので、翌日の仕事についても影響はありません。)


僕はぐるんぱの活動としてはもちろんプロ意識を持って取り組んでいます。
まだまだ脇が甘いところはあるかもしれませんが、支援の質もそれ以外のことも高めていきたいと思っています。

もう一つ、その夜中にやっているというパチンコ店の清掃業務のバイトについてもですが、その時間についてはやはりお金を頂いている以上は、プロ意識を持って取り組むことを心掛けています。
自宅を掃除するのとはわけが違います。

会社がクライアントから業務を委託されていて、アルバイト社員らを使いながら、契約内容に沿って職務を履行するのです。
僕は、その時間に関しては、その会社の、組織の一員なわけです。

自分の本業であろうがなかろうが、働く理由が何であろうが、です。

クライアントからクレームが出ないように、満足してもらえることを目指して誠意をもって業務に取り組みます。
クライアントは「清掃業者」に「清掃のプロ」として依頼をしていますし、短いとは言え会社で研修もしてもくれますし、働き始めてからも現場指導のようなものは行きわたっています。
その中で働いている以上、その時間はアルバイトであったとしても「清掃のプロ」として振舞うべきなのです。

よくアルバイトだと「どうせ時給制で、頑張っても給料が変わるわけではない」なんて横着なことを言い出す輩がいますが、それは違います。
楽できるわけがないのです。
「忙しくて、社員だけでは人手が足りない」からアルバイトを雇っているのですから。
社員に比べて給料が安いのは当然。
負う責任も業務量も違います。

時給は、僕らの持つ時間を「会社のために使う」その対価として会社が保証してくれているものです。
会社は僕らに賃金を支払い、僕らは時間を会社のために使うのです。

手を抜こうとする人に支払うお金などどこにもありません。
それはどの企業でも同じ。


僕は、夜はそうやってアルバイト社員となって働きますが、日中はぐるんぱの主宰です。

今、女子大学生に女性の更衣のサポートを依頼しています。

そこにも謝礼としてお金を僅かばかり支払っています。

彼女たちの時間をぐるんぱの活動、生徒のために使ってもらっている対価として当然です。
「勉強だから」と言って受け取ることを躊躇する謙虚な学生さんもいらっしゃいますが、無償ボランティアは求めていないんです。
責任感を持って子どもと関わって欲しいのです。
いえ、もちろんそんな大した額ではなくて、申し訳ないのですが、それでも謝礼が有るのと無いのとでは絶対に違います。

そして幾分かでも彼女たちには学んでほしいという願いも持っています。

まず、無責任に休まれることは依頼してから一度もありません。
もちろん、彼女たちがお金だけでそうしているわけではありません。
生徒との関わりを楽しんでくれているから、というのがあるのは言うまでもありません。
(自分で言うのもなんですが、彼女たちが「来るのが楽しみ」と思えるような準備もしています)

特にこちらから注文したわけでもないですが、彼女たちが感じたこと、気になること、「更衣室でこんなことがあった」ということ…丁寧に報告してくれます。

彼女たちもあの時間は間違いなくプロ意識を持って携わってくれています。

そしてその意識がそうさせるのでしょうが、彼女たちの中には就職を控えた子もいます。
「だれか後輩とかで良い子がいたら紹介して」とお願いしたら、これまたとても素敵な子を引っ張ってきてくれます。

その紹介された子もまたプロ意識を持って向き合おうとしてくれています。
実に頼もしい。


ちょっと話が横道にそれましたが、無償ボランティアとは違う、という意識が彼女たちの中にはあるのです。
間違いなく。

もちろん無償ボランティアを否定するわけではありません。
そういう力が大きいこともよく知っています。
そういう力に助けられることもありますし、これからもあると思います。

ただ、お金というものに価値がある以上、支払う方にも受け取る方にも責任とか覚悟とかが生まれるのは間違いない事実だと思うのです。

自分が受け取っているお金が何に対する対価なのか、よく考えなくてはいけません。

ここまで拘束時間の話を中心にしているように映ったかもしれませんが、もちろんそれだけではありません。
仕事に丁寧に、向き合うためには準備も必要です。

それも含めた対価であることが大半ではないでしょうか?


働いて受け取るべきものは正々堂々と受け取ればいいのです。
別にお金は汚いものではないですから。
ただし、受け取ったら誠意を持って仕事に向き合うべきです。
それは金額ではありません。
例え、1円でも10円でも受け取ったらプロ意識を持たなければ。

そういう覚悟とか責任感が負えないというのであれば、自分の気分次第で出入りできるような仲良しこよしの集まりを作ればいいのです。
(そんなところに人は集まらないでしょうが。出来たとしても直ぐに空中分解ですよ…対価が「お金」以外である場合ももちろんあるでしょう。そこに価値があればもちろん続いていくものですし、それは単なる「仲良しこよし」ではない集団へと育っていきます)


僕の知る「プロ」の人たちは、いつでも正々堂々としています。
お金も受け取るし、それに見合った、あるいはそれ以上の仕事をしていきます。

僕は少なくともそういうところを目指したいですし、そういう人たちと付き合っていきたいです。

2017年12月16日土曜日

来年の目標!

新年明けてから「今年の目標は…」って考えていたら遅いんだな、と気づいたので、早めに宣言をします!

2018年永田の目標は…ダララララララララ…ジャン!

「思ったことは伝える!」

これにします。

結構自由に「言わせて」もらってはいると思います。

でも「伝える」ことをもっともっと大切に考えていきたいです。
相手に伝わる術を考えて、思ったことを包み隠さず伝えていきます!

これでも我慢したりオブラートに包んだり…しているんですよ。
それで察してくれる人も幸い僕の周りには多いです。
でも、それに甘えてはいけないな、と。
伝えるべきことはハッキリと自分の意思で伝えていく必要を、この一年たくさん感じました。

それから、察してくれる人ばかりでもないことにも正直なところ気がつきました。
僕は気が長いタイプではないのです。
頭の中では随分「このバカタレー!」と叫んでいましたが、伝えられていないのがアカンのだな、と。

(僕自身も相手のことを察するという練習はまだまだ必要でしょうが…)

ぐるんぱも立ち上げて丸2年になります。
3年目突入です。

伝えて、伝わって、動いて、動かして…輪を作る、輪を広げるための一年にしていきます。

自分の立場をしっかりと理解して、宗像で出来ること、すべきことを見失わず。

ミミズク博士の特技

9月から一緒にプールをしている小学校高学年の男児T君。

彼はプールの時にぬいぐるみを持参してきます。
見ているとぬいぐるみを自分の代弁者にしているようです。

例えば。
彼は前回、体調不良でプールのレッスンをお休みしていました。
そしたら、今日は「ミミズク博士の特技を見つけたよ!」とお話を始めてくれました。

永田「へぇ、どんな特技?」
T君「それはねぇ、救急箱を作れるんだよ。中の薬もね、作れちゃうんだよ。傷薬から解毒剤から鎮痛剤までなんでもだよ!すごいでしょ?」
永田「それはスゴいねー」

こんな調子で今日は、ミミズク博士の薬箱ネタを随分と話していました。

開口一番、その可愛らしい話が出てきたし、表情を見る限り元気そうだし、お母さんからも万全だと伺っていたこともあり、僕の方でも「よし、久しぶりにプールだけど、ボチボチ行くよー」くらいでレッスンに入りました。

でも、なかなかミミズク博士のネタが終わる気配がなく…この話で彼が言いたいことは何だろうか?と考えた末…

永田「ミミズク博士のお陰で元気になったんだね。あなたの周りには風邪を引いても側には心強い仲間がいっぱいだね」

T君「そう!そうなんだよ。すっかり元気になったよ」

そう言って満足そうな表情を見せてくれました。
すると途端にミミズク博士の話は終わって、他の話題へと移って、今日もいろんなお喋りをしながらレッスンをしました。

もちろん泳ぎだってバッチリ取り組んでいました♪

彼の「仲間」は、「ミミズク博士」の他にも「パンダのパン太」「ジンベエザメのジンジン」などがプールに連れてこられます。
どの子もとても可愛い彼の「仲間」で「応援団」です。
見ているとぬいぐるみごとに役割を担わせているようだから、毎回面白く見ています♪

彼が泳いでいる間は、ロッカーの中で「瞑想している」そうです(笑)

2017年12月14日木曜日

子どものことを信じて…

多分、僕もそうなんでしょうが…支援をしていると、いざというとき、咄嗟のときって、自分がどのように育てられたか?みたいな所謂「地」みたいなものが顔を出すことがあると思います。

それはそれで「味」があって良いこともあるのかもしれません。

でも、それだけじゃ支援は間違いなく行き詰まります。

もしかしたら行き詰まっていることにすら、最初は気がつかないかもしれませんが。

そこを解消するために勉強も準備もするのではないかな?

子どものことを信じて、自分の支援、選択については「これで良いかな?」と疑うくらいで良いと思うのです。

2017年12月12日火曜日

指が使えるようになると

指が使えるようになると出来ることはぐんと広がります。

未就学児のCちゃんとのプール。

彼女とのプールでは今、どうやったら指先を使うことを促せるか?ということが1つテーマです。

更衣の場面(幼いということと、ご家族の同意もあり女の子ですが、更衣のサポートも僕の方で請け負っています)でも、衣服の着脱がなかなか上手くいきません。

掌や指の腹辺りまでを使ってモノを持とうとするのですが、指先で摘まむような動作が苦手なのが原因のように見えます。

(衣服の着脱全般を見ると、目を使うということの苦手さも困難さに繋がっているようですが、見るということと並行して指先を使うことを促しています)

ビート板を持つときも掌を丸めるようにして持ち、小さな体で抱えるようにするときもあります。

自然に浮かぶだけであれば、それだけでも良いのですが、指先を使うことを考えたら少し物足りない感じがありました。

そこで泳ぐときに少しビート板を突っついて負荷を加えてみました。

するとあっという間にビート板が手をすり抜けて、手を離れていってしまいました。

それを数回繰り返すうちに、彼女なりに工夫を始めました。

少し持つ場所を変えて指先が、ビート板に引っ掛かるような持ち方に変わってきました。

よしよし。

直ぐに見える結果には結び付かないかもしれませんが、これで恐らく数ヵ月したら更衣の場面で大きな変化が見えてくる…はず。

自分の身の回りのことを出来るようになる、そういう喜びを彼女にも是非体験して欲しいですから。

着替えが自分で出来るというのは家族にとっても負担が減るということです。

指先が使えたら、鉛筆の持ち方だって変わります。

表現の幅が広がってくる…はず。

彼女のニッコリ笑顔を思い描きながら、一緒にじっくりと過ごしていきます。

2017年12月11日月曜日

SNSで小銭を稼ごうとするなんて勿体ないですよ!

先日、Facebookで「保育士の資格を取ります!」と宣言したところ、いろんな方からエールが届いています。

今日はある保護者からテキストをたくさん頂きました。

つい数日前も別の方が、試験について情報を提供していただいたり、経験談を聞かせてくださったりしました。

おかげさまでFacebookでもたくさんの方と繋がれています。
だけど残念かな。

稀に友達になってから直に「お誘い」のメッセージを送ってくる方がいます。

「ビジネスパートナーになりませんか?」
「○○体験しませんか?」
「副収入に興味ありませんか?」
などなど。

これって凄く勿体ないと思うのです。
こんなやり方だと「応援してくれる人」が増えないと思うのです。

それだと広がりを見せないと思うのです。

せっかくの思考を視覚化する場で、応援して貰える人を、共感してくれる人を増やせるチャンスを捨てているようなものです。

じっくりと読み手とコミュニケーションを図るような場を作って応援して貰える人を増やす方が絶対に良いと思いますよ。

あ、ついでだから言っておきます。

顔も知らない人をビジネスパートナーを組もうとする神経は理解できません。
そんな仕事であれば僕でなくても良いですよね?

○○体験しませんか?
しません。
本当に自分にとって良いと思うものは、誘われなくても体験してみる質です。

副収入に興味ありませんか?
必要なお金は、自分の納得した方法で労働をして得ていきます。

本当にいつもたくさんの方に応援してもらっていることを実感しながら日々を過ごしています。
ありがとうございます。

2017年12月10日日曜日

チヂミに縮み上がった話

ある男の子の話。

放課後等デイサービスで、土曜日にはお昼が提供される事業所もあります。
そこで、お昼御飯にチヂミを作って貰えると、思い違いをしていた彼。

メニューが他のものだと知った途端、大泣き(^^;

なんでも、他の支援員とずいぶん前に会話の中で「お昼に何が食べたいか」という話をしていたようで、その時に「チヂミ」をリクエスト(少なくとも彼は注文したくらいの気持ちでいた)していたようです。

土曜日に利用するのが一ヶ月以上ぶりくらい。
お話したのも2ヶ月位前。

そこへ他の子どもたちとの兼ね合いもあり、昼御飯はチヂミではなかったのです。

状況的には「仕方ない」のかもしれませんが、彼は納得がいかないのです。

「僕はチヂミが食べられると思ってきたのに~!」とまで(笑)
(チヂミも幸せやろうなぁ、なかなか食事で主役を張って「子どもたちの好きな食べ物アンケート」的なものにも出てこない食べ物なのに、これだけ愛されて)

あまりに「チヂミ」を連呼するものだからつい笑ってしまったら、「何がおかしいんだよ!」と怒られてしまいました(笑)

しかも合間に周りの様子を伺うために目をキョロキョロさせるものですから可愛くてたまりません♪

他の子たちも、だんだんとおかしくなってきたのか彼を眺めるような図が出来てきたら、周りの子にも「チヂミ愛」をぶつけ始めて、周りもタジタジ(笑)

永田も子どもたちも、チヂミの件でチヂミ上がりましたとさ。

肩の力を抜いて

「ボチボチ」

この言葉が好きなのに、どうも最近忘れていたような気がします。

どこか気負って、どこか意固地になって、頭がカッチカチになっていたのかもしれません。

ちょっぴり肩の力を抜いて、味わいながらで良いじゃないか。

昨夜、ある方からのメールでふとそんなところに帰ってきました。

メールの文面自体は、とある支援について相談したことへのお返事だったのですが、僕には先に書いたようなことが響きました。

活躍されている先輩、先生方についていけ!
自分の役割を考えろ!
自分なら出来る!
なんとかせねば!

なんだか勝手にいろんなものを背負い込んで、おごっていた気がします(お恥ずかしい)。

「あなたはあなたのままで良い」

子どもたちへ向けていた言葉を自分が忘れてはいけませんよね(^_^;)

僕がしていくのは、余暇の時間のサポート。
もちろんプールや学習を通して、ということになるのですが、「せねばならぬ」ということって意外と少ないんですよね、多分。

「僕との時間をどうするか」というよりも「僕との時間を通してどうなるのか」の方が大切なように思うのです。

よーし!と思いつつ、少しホッと出来た朝です。

2017年12月7日木曜日

子どもにとっては「今」しかない

今日から学習をスタートした子がいます。
だけど今日は、なーんにも学習をしませんでした。
(というより出来なかった)

お話をして終わり。

いえ、お話というには厚かましいかもしれません。
貝みたいに閉じ籠る彼へ、僕が話かけて、「出てきてよ~」と思いを込めて突っついてみたり、待ってみたりするというだけ。

「だけ」ではないのですがね。

よく分かりもしない、確定もしていない「先」のことを理由に(僕も含めた)大人から説得をされる辛さに悩んでいます。

いかに彼の「今」に寄り添えるか…

いえ、僕が寄り添うというより、彼の周りに「彼の今」に寄り添える体制を作れるか、そこに注力していかなくてはいけないのかもしれません。

次は1週間後。

彼も考えるでしょうが、僕も考え抜いて彼との時間を迎えられるようにしたいものです。