ページビューの合計

2017年3月31日金曜日

プール指導番外編~Eちゃんと家族の繋がり感を深めるために~

今日は、このブログでも時折登場するEちゃんのプール指導の番外編的記事。

前回のレッスン時にお母さんとお話をしていたら「いつでも同じじゃないとダメ」という話が出てきました。
どういうことか?
人へのこだわりで、「これをする時にはこの人とじゃなきゃ嫌だ!」という主張が強くて困る…ということだそうです。

たとえ家族でも、それぞれの生活や事情があります。
だけど、こだわりの強さ故に、彼女に合わせた生活をしなくてはならない、のだと。

子どもも大きくなってきて、お姉ちゃんも合わせるのが大変になってくるだろう、という見通しの中での相談でした。

そこで、今日はゆっくり時間を取って「いつもと違うメンバーでプールに行こう」という練習をすることにしました。

お母さんとEちゃんでプールに行くということが出来るように、今日はお姉ちゃんはお留守番。

その練習の為にご自宅までお邪魔してきました。

到着したらEちゃんは既に「お姉ちゃんが行かないなら私も行かない!」と言うようにして大泣きしていました。

永田「こんにちは。今日はお姉ちゃんはお留守番しててもらうから、お母さんとプールに行こう。そのお手伝いに僕も一緒に行くからね」

Eちゃんは、事情を察知して更に大泣き。

永田「あなたのプールだから。お姉ちゃんにもいろいろとやることがあるんだよ。何でも一緒に、って訳にもいかないんだよ。その練習をしよう」

そう言ってお姉ちゃんの部屋に立て籠ろうとするEちゃんを部屋から連れ出してリビングでやり取りスタート。

もう一度彼女にお姉ちゃんが行かない理由と、練習が必要な理由を話してプールに向かうことを促しました。

大泣きしながらも納得しようと葛藤している様子は身支度を少しずつ進める様子から見て取れたので続行。

さすがに着替えの場面だけはお母さんにお願いして、頑張ってもらいました。
扉越しにお母さんとEちゃんのやり取りを聞きながら…お母さんもEちゃんもすごい頑張ってるんですね。

着替えがある程度終わった時点で僕も入って、まだまだ泣きじゃくる彼女の背後から、腰の辺りと右手を持って「行こうね」と(右手は進む方向に指さしをさせながら)。

なんとか車に乗っても不安で仕方がない(怒っているというよりは、ドキドキしているの!出来るか不安なの!というように見えました)彼女は、車が走り始めても大号泣。

車に乗ってから15分くらいして、少しずつ落ち着き始めました。

僕は、というと泣き止むまでの間、彼女の背中にずっと手を当てながら、これまでのお母さんの思いを聞いていました。

Eちゃんも、泣きながら、でも耳はダンボにしてお母さんの言葉を感じていました。

一緒に頑張って来たんだね。

プールに着く頃には、腹を決めたようで、Eちゃん、凛として良い表情でいられるようになりました。

もちろんプールでも絶好調。

終わりも良い表情でした。

これで、「いつもと違っても出来た」という体験を彼女に残してあげられました。

もちろんこの1回で全ての場面で、もう大丈夫ということにはならないでしょうが、プールはメンバーのこだわりが外れる可能性は出てきました。

そうすると、家族も本人も「他でもできるかも」という希望が持てると思うんです。

子どもの事も家族の事も、孤立させない環境を作るためには、こうやって入り込まないといけないこともあるんだと思っています。

泳げるようになっていって、プールで上手に過ごせるようになることも大事。
それだけじゃなくて、他の場面でもその子の良さを発揮していかないと勿体ない!と思っちゃうんですよね(笑)

これからのEちゃんが楽しみです♪

まだまだプールも生徒は募集していますが…こんな風に泳いでなんぼのプール指導でないことだけ、改めてお知らせしておきます。


2017年3月30日木曜日

声を使う、という意識

少なくとも2~3ヶ月に一度は、自分の声を録音して聞くようにしています。

よく「自分の声は、自分に聞こえているものと他人に聞こえているもので違って聞こえる」と言いますよね。

動画で自分の声を聞いて違和感を覚えたことのある人は多いと思います。

なので、自分の声がどんな風に聞こえているのかを知っておくために、そういうことをしています。

声も有効に使いたいものです。

声色、ボリューム、スピード。

言葉を選ぶのと同じくらいに意識的に使い分けたいものです。

こういう書き方をすると語弊があるかもしれないけれど、好きな声と耳障りな声って正直ある思います。
声質なのか、間の取り方なのか、場に合う合わないということなのか…それは分かりませんが。

自分の中にそういう感覚があるということは、相手にもそういう感覚があるかもしれないということです。

そしたら、仕事で声を使う以上、意識的に使い分けをしていくことは有効だと思います。

例えば支援の記録を書面に残すとして、ポイントになった言葉は記しやすいかもしれませんが、声の質は書面に残しにくいですよね?

でも、実際の支援には声色、声質などの要素も含まれる訳です。

上手くいったケースを情報共有しましょう、といって資料を基に関わりを取っても上手くいくときと、そうでないときがあるのは、そういう書面に落ち込んでいない要素もあるからなんだと思います。

支援が上手くいく、いかない、というのは対象者と支援者の関係性、というものもあるかもしれません。

でも、その関係性を作る要素として、声などにも気を配れるか?というのは大きいと思うんですよね。

2017年3月29日水曜日

気持ち良く駄々をこねさせる

駄々をこねさせるのもバランスが大切だと思います。

綱引きのように真正面から引っ張り合うような付き合い方をしたり、躊躇する背中を押すような付き合い方をしたり。

そのバランスが取れていると、気持ち良く駄々をこねることが出来ると思います。

僕自身、駄々をこねさせるのはあまり上手ではない気がしていますが、今日は子供の表情を見る限り、気持ち良く駄々をこねさせてあげられたかな、と。

傍目には揉めているように見えたかもしれませんが…。

一段落したときにニヤッと「先生、遊ぼう!」と切り替えを出来た様子から、間違いないかな、と。

じっくりと一時間付き合った甲斐がありました。

2017年3月27日月曜日

支援の方法を探すこともまた支援

ケースによっては、問題の根っこが見えにくいこともあります。

方策が直ぐに見つけられないこともあります。

でも、一旦関わり始めたら「わかりませーん」なんて投げ出したくはありません。

そういうときには、日々の関わりは対処療法的になってでも、関わり「続ける」ことに拘りたいと思います。

問題、課題が可視化されるまで。

もしかしたら関わり「続ける」ことでしか問題、課題が見えてこないものなのかもしれないし。

表出する行動に対処することであぶり出されることかもしれないし。

「何事も起こさない支援」よりも、「何かあっても投げ出さない支援」を目指したいと思います。

そうやって、支援の方法を探すことも支援、と思うくらいにじっくりと関係性を作っていきたいと思います。

障がい児者の余暇の時間、余暇活動を事例から考える

昨日のGAKUねっと主催の座談会に来られなかったという方から、話の内容をテキスト化して欲しいとの依頼がありましたので、GAKUねっとのメンバーに相談したうえで、僕の判断でまとめて掲載してみることにしました。

大まかに言うとこういう話をしたのですが…喋りなれないからですかね、この方がすっきりしているように見えますが(苦笑)
喋りについては練習、修行していきます。

ただ座談会では「生きた」話が出てきて、それについてその場で僕の考えをお話させてもらったりもしました。
僕の話下手を差し引いても絶対にライブの方が良いと思うし、学びは何倍もあるはずです。
今後も定期開催していく座談会ですので、是非お越しください。

では、以下概要です。


【余暇を考える必要性】
まずは「余暇」という言葉について。
「余暇」と辞書で調べてみると「仕事の合間のひま。仕事から解放されて自由に使える時間。(三省堂大辞林)」という風に記されています。
また、余暇研究の第一人者にJデュマズディエという人がいます。
その人曰く余暇の機能として休息、気晴らし、自己開発という3つがあるとのことです。
つまり仕事から解放されて自由に活動を選択できる時間にバランスよく休息、気晴らし、自己開発をしていくことが人生を豊かにする足がかりにあるように思います。

現代社会において、余暇の必要性はいろいろと考えられるようになってきたと思いますが、実生活としてはやはりまだまだ後回しにされがちですし「自由に選択をしていく」ということが前提にありますから、他者の介入によるものでなく本人で築いていくことが求められます。
ですが、障がいを持っていると自身だけで築いていくことが難しいことも実際問題としてはあります。
自分で築くことが難しいけれど、自分らしさを獲得したり守ったりするためには必要なことです。


【休息を通してつながり感を育んだ中学生】

プール指導を通して出会った当時中学生。彼は重度の知的障害を伴う自閉症を持っていました。
家庭でも学校でも、利用していた福祉サービスの事業所でも、とにかくどこへ行っても落ち着かない、という状態でした。
もう少し具体的に彼の様子を話すると、朝起きてから夜寝るまでスケジュールがいっぱいでした。
隙間時間が出来ると自傷、他害、破壊行為、反芻行為、水へのこだわりがあり、更に行動と行動の切り替わりの場面では大便をしないと気が済まない(そうしょっちゅう大便なんて本来出るものではないので、お尻から出血をしながらするという状態でした)、いわゆる問題行動と言われるような行動がどんどん表出してきてしまう子でした。

そんな子とプールを通して関わることになって半年、プールでの関係性が落ち着いてきたので、ご家族や他の連携している方々に「休憩の練習をさせてみませんか?」ということを提案してみました。
もちろんそれまでも彼のスケジュールの中に「休憩」という時間は設けてありました。けれど彼にとって「休憩=じっとする」という作業でしかないように見えました。
その「休憩」の時間というのが、周囲にはいつも家族あるいは支援者がいて、問題行動が出ないように抑えるようなやり取りや、「監視」に近いくらい張りつめた中で時間をやり過ごすことになっていました。
そこに「寛ぐ」という感覚を取り入れたい、ということを僕からの提案ではしました。

引率者にプール開始の10分前に到着するように連れてきてもらい、10分間、引率者と僕で「楽しく」会話をして、その場にいてもらうという事を始めました。
その間、彼にはプールの受付ロビーにおいてあるソファに腰を掛けてもらっていました。
そこで僕らが雑談をしていると直に立ち上がってプールに向かおうとするのですが「まぁまぁ。まだ時間前だからもう少しお話させてよ」声をかけて、冗談を言いながら僕らが笑っている場にいられるように仕向けていきました。
何もしない時間、が心地よく感じてもらうためです。

プールの中では体を仰向けにして浮かばせて、下から体を僕が支えて沈まないように手伝います。
そのまま10分ほど体を揺らしながら水の中を漂わせる、という事をしていました。
初めはすぐに立とうとしたり、体をこちらに委ねることが出来ずにカチカチでした。
起き上がろうとすればその都度、「まだプカプカしていて良いから。おやすみぃ」と声をかけながら仰向けの姿勢を続けてもらいました。
作業にならないように、出来るだけ指示はぼんやりとした言葉を選んでいました。

最初に効果が見えたのはロビーでの場面でした。いつものように雑談をして笑っていたら、座り方がくずれて体を休め始めました。
そして、それから直に僕らが笑っているときに「フフ」と声を漏らして笑い声を発しました。

さらに時間が経って、プールの中での「プカプカ」の時にも脱力出来るようになって、こちらが体を八の字に揺らすと「ぐにゃぐにゃ」と体がしなるようになりました。
そして心地よさそうに目を閉じてうっすら笑顔で10分間過ごすことが出来るようになりました。
そして1年がかりで働きかけを繰り返していき、プールの中で「寛ぐ」という感覚を身に着けることが出来ました。

すると、そのころと同時期に各方面から「夜でもないのにソファで居眠りを初めてしたんです」「支援員が離れても大丈夫になってきた」「鼻歌を歌っていたんです」という声が続けざまに届き始めました。

寛ぐことを覚えて変わったのは体調面もでした。
それまでしょっちゅう体調を崩して何に取り組んでも中断してしまい、定着しにくかったK君でしたが、メキメキと力を付けて日々の生活がガラリと変わりました。

そうなると、彼を見る周囲の目が変わりますから、それまでの張りつめたような危険物取扱注意というような関係性も解消されてきます。
家族や周囲の人たちと彼のつながり感が育まれて、彼自身安心感を得てゆったり過ごすことが出来る、そういう好循環が生まれたケースがありました。



【気晴らしで自分の居場所を見つけた男性の話】

20歳で初めてプールを習いに来た成人男性の話。
彼は小中高と特別支援学校を卒業して、それから就労支援を受けていましたが、特別支援学校の高等部を卒業してからわずか2年の間に3か所も事業所を変わっていました。そして、出会った当時もその3か所目も辞めることが決まっていて、直に4か所目を探し出すとの事でした。
聞けば、彼は学生の間には大きな問題、トラブルのないまま過ごしてきていたのに、就労に切り替わった途端にトラブルメーカーのレッテルを貼られるまでになってしまったとのことでした。
いずれも人間関係のトラブルが原因で、事業所から受け入れ継続が難しいと言い渡されたとの事でした。
「3か所目の事業所も行けなくなり、時間を持て余すことになるから体を動かせたい」とのことからプールの受け入れをしました。
幸いプールが性に合っていたようでドンドンと泳法も獲得していきました。
最初はビート板を使っても全く泳げなかったのですが、3ヶ月で、クロールや平泳ぎ、背泳ぎまで獲得して、半年経ったころには1時間の間に1キロ近く泳げるようにまでなっていました。

その間に、4か所目の事業所も決まりました。
事業所に行き始めて2か月、とても落ち着いて過ごせているという事と、事業所での仕事が忙しいことを理由に一端プールをお休みすることになりました。
元々が時間を持て余していたという理由であったので了承して「何かあればいつでも連絡をください」と外から見守ることにしました。
すると3週間経って保護者から「プールを再開したい」と連絡が来ました。
まだ事が大きくなったわけではないけれど、トラブルが見え始めたとの事でした。
利用者間でケンカをする日が出てきたのだそうです。
それで、再開をしたらまたパタンとトラブルが収まったとの事でした。

そして、彼は泳ぎを獲得して、更に人を避けながら泳ぐという事も出来るようになって、僕とのプールを卒業していきました。
彼は今も家族やヘルパーさんにプールへ連れて行ってもらい休日などにプールを楽しんでいると聞いています。
トラブルが止まったことで4か所目の事業所で仕事もほとんど休むことなく行けているとの話も聞いています。



【自己開発で成長する喜びを知った】

ここまでプールの事例を出してきましたが、学習支援の事例も取り上げたいと思います。
僕の行う学習支援は学力向上や受験合格ということを、僕自身は据え置いていないので「余暇支援」の中に位置づけています。
実際に、子どもたちの余暇の過ごし方の中に「家庭学習」というものは間違いなく存在していますし、「学習=世界観を広げる」ということを知ってもらえるような支援を心がけています。
彼は知的にはほとんど発達の遅れはないものの、学校生活で躓きがあり授業についていくことが難しい子でした。
まじめな彼はとにかくジョークが通じません。
僕もちょっとしたジョークを言ってよく彼を怒らせていました(笑)
でも、学習をしながらジョークを織り交ぜて対話をすることで、僕との学習を楽しんでくれるようになりました。
知的好奇心が育まれて、「自分で調べる」ということにも積極的になっていってくれました。

ある時そんな彼が「先生、聞いて!『妻がつまづく』…ギャハハハ」と自分でダジャレを言って自分で笑い出しました。
僕もダジャレが好きでしょっちゅう言ってはいました。
ですが初歩的な「カレーは辛ぇ」と言っても「当たり前じゃん?」と切り返してきていたS君が「妻が躓く」と言って笑ったのは驚きを通り越して感動したのを覚えています。
本当にどうでも良いダジャレですが、言う方も聞く方も知識がないと成立しません。
「妻が躓く」も「妻」という言い回し、「躓く」という言い回しを知っていなければなりません。
「妻が転んだ」でもダメだし、「永田先生が躓いた」でもダメ、ということを(永田が躓くのは画としては面白いかもしれませんが)彼も自ら言っていました。


学習にはユーモアの土台を作るという側面があることを彼から学びました。
ユーモアがあると笑いが生まれます。
笑いが生まれると人が集まります。
そして、いろんな人に触れて価値観を育てていくというのもまた、余暇の大切な側面だと思います。

【まとめ】
「休息」「気晴らし」「自己開発」、これらを満たしながら余暇を過ごした先に、「自分らしさ」や「自立」、「自己肯定感」に繋がるものがあると信じています。
さらにそれらが満たされていくと、人生は豊かになっていきます。

今日もまた素敵な出会いが!

今日はGAKUねっとの座談会でした。

今回は僕が話題提供者として前半、余暇のことについてお話をさせていただきました(舞い上がってしまって、予定していた時間よりも早めに話終えてしまいました笑)

まぁ、勉強になりました。
人前で話すということも、そうだし、後半の座談会でも違う立場の方たちから「生きた」話を聞くことが出来たので。

そして今日、何より収穫だった(収穫というと失礼ですね(^^;)のは、Hさんとの出会いでした。

終わったあと、具体的なケースを通してお話をさせていただきました。
子どもたちに対して、真っ直ぐに深く関わっていくことを目指して実践している方で、話を聞いていて学びの多い方です。

僕はもう勝手に「仲間」と思っていますので、Hさん、宜しくお願いします♪

今回、僕はこうやって繋がりを得ました。

GAKUねっとを通して、いろんな人と人が繋がって、網の目状に張り巡らされた支援で子どもたちをキャッチして、網目を細かくしてこぼれる子どもたちが少しでも少なくなる、そういうネットワーク、場になれば良いのかな、と思っています。

今後も、メンバーが話題提供しながら定期開催していきますので、面白い話も聞けるし、人とも繋がれますよ!
是非お越し下さいね!

メンバーの皆さん、本当に今日はお疲れ様でした。
サポートありがとうございました!

2017年3月25日土曜日

応援と恩返しとして

中学校を卒業した女の子が、今日、僕との時間も一区切りとなりました。

学習で数ヵ月お付き合いをして過ごしてきた子です。(学習だけじゃなくて、随分たくさんお喋りもしました)

本当にありがとう。

風邪引かないようにね。

今日は最後の時間で「これからの家庭学習、こんな風にしたら良いかもよ」という話をして、その後はお喋りし合って、たくさん笑いました。

僕のブログを読んでくれている、というのは知っていたけれど、思っていたよりも随分しっかりと読んでくれていて驚きましたし、本当に嬉しかったです。

彼女には、してあげられなかったこともたくさんあったと思います。

それでも僕との時間を丁寧に過ごしてくれました。
本当に良い時間でした。

彼女への応援と恩返しとして、僕はコツコツとすべきことに取り組んで、その様子をこれからもブログで発信し続けようと思います。

そして、卒業してと変わらない場を用意して、何かあれば彼女を受け止められる場として居続けられるよう努めていきます!

さ、いってらっしゃい!

2017年3月24日金曜日

「親切」は練習で身に付けられる!

「丁寧に」は「ゆっくり」「1つのことが終わってから次に」「ずれないように」「確かめながら」と、言い方を変えて伝えられます。

取り組む人の中で完結する心掛けのようなものだから促すことが出来るのだと思います。

対して「親切に」ということになると、とても難しいです。
察するということが必要だから。
言われてするものでもないから。
無くてもマイナス評価には繋がりにくいから。

「親切さ」を持って人と接すると喜ばれます。
期待以上のものを提供するということだから。
なくても「丁寧に」さえしていれば、期待通りということ。

困りはしないけど出来れば欲しい、という感じなのが「親切」。

ただ、伝えることは難しくても出来ない訳じゃないです。

練習出来ます。
どうするか?

それはもう「褒める」に尽きます。
「気が利いていた」という場面を逃さずキャッチして「いいねー!」と褒めるんです。
あるいは「ありがとう」と伝えるか。
「出来た」ではダメです、この場合は。

ジャッジするのではなく、受けた方は嬉しさを伝えるんです。

人を喜ばせたことを自分の喜びにしていく感覚を養うためです。

「丁寧に」を練習するよりかもずっと長いスパンで練習していかなくてはなりません。

でも、何らかの形で必ず身に付けられる、ということはハッキリとここに書いておきます。

2017年3月23日木曜日

二人のスタートラインが見えた!

これまでご家族でプール活動をしてきたという成人男性のプールを請け負いはじめています。

ご家族で取り組まれてきた歴史が長いので、どのように取り組むのか…悩み所でした。

前回は僕のそういうハッキリとしない部分と初めての時間というのが相まって、歩調が上手く合いませんでした。

今日は、どんな感じかな?と、少し僕もドキドキしながら向かったのですが、とても良い表情で来てくれました。

そして、ご家族で取り組まれてきたプールとも違う、という意識も持って、気持ちの準備をしっかりとしてくれていました。

ゆったりと過ごしつつも「泳ぐ」という意識を持っていて、自らビート板を用意して、途中で「どうするんだ?」とサインを送ってきてくれました。

男性の要求も前回よりもハッキリとしてきました。
こちらの要求も受け入れてくれるようになってきました。

お互いがどんな人間か掴めてきたのでしょうね。

スタートラインが見えてお互いにホッと出来た感じでレッスンを終えることができました。

初回は、思い描いた形と差がありましたが、無事に軌道修正♪

これから楽しみながら過ごせそうです。

改めて宜しくお願いします!

『今』感のある文章にチャレンジ中!

作文に取り組んでいるK君。
彼もまた今年小学校を卒業して、4月から中学生です。
いつもは夕方にやっている作文も今日は午前中から取り組んでいます。
(僕がこれを書いている今も、課題に向かっています。)

今日は、この時間で、明るいので普段はなかなか出来ない「外に出る」ということをしてみました。

今日出した課題は「外で見た景色を思い出して書いてみる」です。

ちょうど我が家の裏には池と雑木林がありまして、それをしばらく眺めて、戻ってきてから、「思い出して書いてみる」ということに挑戦中です。

白紙も渡して、まずはスケッチに起こすことから。
そして「描いた順に文章に起こしてみてごらん」と伝えて…黙々と取り組んでいます。

普段はなかなか筆が重く、文章の書く量も少ない彼ですが、「スケッチ」を取り入れることで、書き易くなっているようです。

僕がここまで記事を描いたところで「だいたい書けた」と申告があり、添削というか…読ませてもらいました。

文量は決して多くはないけれど、原稿用紙半分くらいで、見た景色を上手にまとめていました。
どこに何があるのか、どんな様子なのか…。

うん、なかなか良いよ♪

でも、僕は欲張り(笑)

永田「とても上手に書けているけれど、臨場感というか現場感というか季節感というか…『今だからこういう様子』ってのが欲しいなー。今の文章だと、いつ書いても同じ文章になりそうなんよね」

K君、頷く。

永田「じゃ、今の文章をベースにして『今』って感じを盛り込んで再チャレンジ!よーい、ドン」

K君、頑張っています。

2017年3月22日水曜日

『僕』という呼称

僕は、一人称の呼称として「僕」を使っています。
それはブログだけでなく実際にも。
公私を問わずいつでも。

今日、ある子が「『僕』だって!」と笑いながら言ってきました(これまでも数ヵ月付き合いがある子なのですが、この春という時期がそういうことに意識を向かせるのでしょうね)。

「なんで『僕』なん?大人なのに。『俺』って言わないん?」と。

そうか、大人は『俺』なのね。

僕は「大人なら場に応じて使い分けないといけないわけよ。どこでも『俺』だとダメなんよ。食べ物屋に言って店員さんが『俺』って言うと偉そうでイヤやろ?僕にとって今は仕事の時間でさ。僕は選んで『僕』を使っているんよ。まぁ、僕は使い分けが出来るほど器用じゃないから、いつでも『僕』だけどね」と返しました。

「そうか、なるほどね。自分の呼び方意識したことなかった。いつの間にか『俺』って使ってた。俺、まだ子どもだわ」と感想を聞かせてくれました。

その時の表情。

彼、こんな表情持っているんだ…と、若干驚きました。

今日はこのやり取りが、その子との間に出来ただけで○。

「何気なく」でなく「意図を持って」自分の行いを子どもに噛み砕いて説明出来るように努めたいです。

「僕」…今さらだけど頭の中では「ボク」というイメージだなぁ。

2017年3月21日火曜日

老眼鏡ですか?が嬉しい

来年度、中学3年生になるS君。

お互いの関係性の中にあった緊張感も解れてきて、冗談を言ってくるようになりました♪

S君「これを春休みまでにしないといけない」
と学校で取り組んでいるワークブックを見せてきました。
座る位置の関係で、文字が読みにくく感じた僕は、車に置いてきた眼鏡をとってくることにしました。

永田「ちょっと待ってて、眼鏡を取ってくる。」
S君「ん?老眼鏡ですか(笑)」
永田「ほぉう。言うようになったなぁ」
S君(ニヤニヤ)「え?違うんですか?」

こんなやり取りが堪らなく嬉しいです。

学力だけじゃない、やり取りにエネルギーとユーモアを感じます。

2017年3月19日日曜日

「ビビってる?」「…うん」

別記事にも書いたH君。
実は小学校を卒業し、4月からは中学生。

前回の記事で体積の学習について書きましたが、実はあの記事の背景には別の側面がありまして。

あの体積の問題もそうだったんですが、中学校からの宿題が出ているんです。
春休みの間に解いておかなくてはならないのだとか。
内容は小学校の学習の総復習といった感じのものです。

その課題を通してH君の心模様がよく見えたのでちょっとご紹介。

H「ヘルプ!永田さん!」
永田「おぅ、おはよう。どうした?…ってか卒業おめでとう。」
H「うん、ありがとう。でもヘルプ!中学校から宿題出た!習ってないものもある!見て」
永田「そうなんだ。学習室行こうか」

学習室へ。

永田「さて、見せてごらん」
H「はい、これ。特に算数」
見てみると小学校の総復習で、これまでも彼とは学習の時間を共にしてきて、彼なら解けるレベルのものばかりでした。

永田「ふーん…ん?これ習ってるやん?」
H「え?中学校の勉強オレ、してないもん?」
永田「いやいや、中学校から出されてるけど、内容は、『春休みの間に小学校の復習しておいてね』っていうような内容やん?中身見た?」
H「うん、見たよ」
永田「もう一度見てみて。こことか単純な計算やん?」
H「あ、そうか。…でもここは?」
永田「ここは、こうやって工夫して計算しましょう、っていうのがあったでしょ?あれよ」
H「確かにやった気がする」
永田「でしょ?…中学校からの宿題ってだけでビビってパニクったんやろ(笑)」
H「そうかも(笑)」

ここまではずっとノリの良い感じでやり取りをしてきたんですが、この「そうかも(笑)」の解き、彼の顔がひきつるような表情が含まれていました。

ここでちょっと対応変更。
永田「中学校、ビビってる?」
H「そりゃ、そうやろ」
永田「そういう、ドキドキとか不安を聞いてくれる人、周りにおる?」
H「おらん…あ、○○では勉強の話は聞いてもらったことがある」
永田「そうか、生活全体のこととか気持ちのこととか、話したくなったらおいで」
H「うん」

数十秒間を置いて。

永田「よし、そうは言っても宿題しないとならんならするか!」
また少しノリの良いテンポに戻さないとズルズルしそうな印象があったので、引き戻しました。
まとめて話を聞くには場面が別に必要だと思うので、小分けに話を聞いていくことにしようと判断しました。

H「おう!」
(この辺りの察しの良さには感心します)

その後に体積の問題に行き着くのですが、それまでの「単純な計算問題」も一苦労でした。

普段の彼は、暗算のスピードなんか僕よりも早いくらいです。
分数の計算だって、少数だって、かけ算、わり算だって、だいたいはスラスラ解いていきます。
必要に応じて筆算だってしていきます。

でも、昨日は220-200みたいな計算も「2!」とか言うんです。
何度も「慌てんで良いから」と声かけしながら解いていきました。

新生活への不安が、そうさせるんでしょうね。
先の見通しが立たないから、目の前のものも見えなくなってしまうんです。

永田(偉そうに)「ビビり上がっているH君(笑)、何かあればいつでもきなさーい♪未熟者め、カッカッカ。では、思い切り遊んできなさい」
H君「永田さん…ナイスやね。じゃ、UNOしてくるわ!ありがとう」

(ねぇ、○○!勉強終わったからUNOしよう!)と部屋の外でいつもに、近い彼の声が聞こえました。

勉強をしていくのも大事です。
でも「らしく」で地力を出せる状態を作ってあげることこそ、まずは大切なことだと思います。
その後に「この子の実力は、今、こういうところにある」という見極めと支援をしていかないといけないんです。

春。
卒業、入学、進級、担任の変更、あるいは就職…

いろんなものが変わっていく季節。

そんな中で「毎年変わらない」という安心感を僕は届けたいです。

2017年3月18日土曜日

体積の勉強を再現!

体積の勉強。

水の入った容器に石を入れて、水位の変化から石の体積を求める問題。

要は変化後(水+石)体積から、水だけの時の体積を引けば良いわけですが、算数の問題として文章だけだと分かりにくいこともあります。

今日一緒に学習したH君。

口頭で説明してもピンと来なかったみたいなので、水を入れた軽量カップを持って外へ出て、実際に石を入れてみました。

永田「この増えた分が石の体積ってことやろ?」
H君「ドリンクバーで氷をどのくらい入れたか?ってのと同じか!」
永田「まぁ、そうやね。じゃ、戻ってやってみぃ。」

意気揚々と戻って問題を解き始めたH君でした。

(またプリントを見た途端混乱して、結局実験を振り返りながら、一緒にやりました)

日常と学習の結びつけの話でした。

2017年3月17日金曜日

ジャンケン!…じゃダメか

毎週金曜日に一緒に学習している4年生男子K君。

彼とは予習として、5年生の社会をしています。

その中で北方領土の話になりまして、テキストには、それらしいことが書いてありますが、彼にはすこし難しかったみたいです。
噛み砕いて説明すると「日本とロシアで揉めてるってことね。なんでそんな風になると?バカみたい。」と。

そうだよね。

K「俺が国王なら揉めない方法考えられるのに」
永田「例えば?」
K「ジャンケン!…あ、ダメだ。ジャンケンって、負けた方がだいたい文句言ってくるからなぁ」

と。

鬼ごっこで鬼を決めるようなルールの中ではジャンケンは有用だけど、ルールの曖昧さから来るすれ違いを解決する手段にはなり得ないことを知っているんですよね。

そして話し合いの先には「納得出来る」ということが必要なのだということも。

だから彼は「時間で区切る…?」「一年ごと…『まだ?』って言われそうだ」「午前と午後…どっちかが夜ばっかりで遊べないな」「1ヶ月ごと…季節があるか」「1日、は良さそうだけど忙しいなぁ」…「仲良く使えば良いやん!」

と、しばらく考えていました。

問題解決のために、別の問題が湧いてきて、問題がすり替えられないよう配慮をしていく、彼の優しさと慎重派に脱帽でした。

「この子のことが可愛くて仕方ないんです」

「数ヵ月前まで私、本当に疲れてて、いろんなものが嫌だったんです。でも、今この子のことが可愛くて仕方ないんです。それでついつい甘やかしてしまうところはあるかもしれないんですけど…大変だし憎たらしいって思うこともあるけど、それでも可愛くて仕方ないんです」

お話するときの表情が、随分と明るくなってきたお母さんがいらっしゃいます。

今日、お話ししている中で一番良い表情していたのは、このフレーズを口にしているときでした。

なんて素敵なんだろう。

親子関係も素敵だし。

言葉のきれいなこと。

2017年3月16日木曜日

「らしさ」を見失うほど頑張る一歳児

昨日から息子の晴哉は託児所へお世話になっています。
いわゆる「ならし保育」です。
昨日今日明日は2時間ずつお世話になり、様子を見ながら時間を伸ばしていく予定です。

息子を2日間送迎する中での気付きを。
(他の子を見るのと違い、我が子を見るのは難しくて、「今思えば」みたいな視点が多くなってしまいます)

2日間の様子を一言で言うと「泣いて終わ
り」になってしまっているようです。

保育士さんの話によると、窓から列車が見えるとその時だけ泣き止み、列車が行ってしまうとまた泣き始めるのだとか。
そして扉を指で指して出たがるそうです。

なかなか大変そうです(笑)

朝、預けるとき、僕の元からはスムーズに離れていきます。
すると、もう僕のことは見えなくなってしまうようで振り向きもしません。

これまでだと振り向くことをしていたであろうところで、振り向かなくなっているんですよね。

我が家では、段階を経て晴哉の行動範囲を広げてきました。

すると彼は、新しいスペースに踏み入る前に一度、こちらを振り向いて「安全確認」をしているんです。

「僕、これからこっちに行ってみるけどいい?ちゃんと見守っててね」とでも言うように。
それから進んでいき、時折「お父ちゃん、見てる?」と確認しながら自分の行動範囲を広げていくんです。

これが彼の「デビュー」の仕方かな、と思っていました。
これまでも保育園の体験に行ってみたときも、そういう様子を見せていましたし。

でも、今回は「安全確認」を忘れるほどに頑張ろうとしてしまっている節があります。

ふと我に返ったとき、「あれ?」ってビックリしているように見えます。

「親」フィルターを通しているんですけれど、僕には彼がそういう風に見えています。

さ、晴哉、練習だ。
一緒に頑張ろうな。

2017年3月15日水曜日

「出来ない」のか「出来ないフリ」なのか

「勉強は大切」と多くの大人が口にします。
そして多くの大人が「勉強をさせる」ことに一生懸命になります。

つまり子どもの立場からすると「勉強を介して大人と関われる」ということにもなるのです。

大切な人になればなるほどに、その傾向は強くなる気がします。

「勉強しなさい!」
(うるさいなぁ)
となっても何度も、そのやり取りを繰り返すんです。
子どもは。

「うるさい」と思うならすれば良いのに、と大人は思うでしょう。

でも、本音の本音は「勉強しなさい」の言葉の根っこにある「あなたのことを愛している」という愛情を目に見える形で傾けてくれるのを待っていることもあるのだと思います。

1つ想像してみてください。
「勉強しなさい」に限らず、親が自分に無関心だったら?

あの手この手を使って「出来ないフリ」をしてでも、時間を共有したいと思っていて、してみるのに叱ることも心配することも励ますことも…何もないとしたら?

「うるさいなぁ」と言われても着いていく。
僕は目の前の子どもに寂しさだけは、味わって欲しくありません。

「個」に直結した学びを子どもたちに

無着成恭編「山びこ学校」。

まだまだ読み始め。
それでも書き残しておこうと思いまして。

生活の中にある言葉を、生きた言葉を引き出して、文章という形で残していく…

これは教育であり、コミュニケーションであり、社会そのものである…そんな感じです。

僕らは何故生きていくのか?
僕らは何故学ぶのか?

そんな問いかけと答えが同居しているようにも映ります。

哲学的なふわふわと輪郭の掴みにくいレベルではなく。
文を書いた一人一人の中に確実に思考の足跡として残されているものとして。

山間部という立地が思考を仕向けるのか、時代に依るものなのか、それらを含めた教育に依るものなのか、あるいはそれぞれの往復運動や循環によるものなのか…

生きるとか、学ぶとか、生活とか、社会とか…

それらの厳しさも温かさも。
ろくでもない一面も捨てたもんじゃないという一面も。
他者も自分も。
受容しながら歩もうという意志と決意。

それから子どもらしさも、か。

子どもたちの本音に迫り、寄り添う学び、育みをしていく、考えていく必要性を感じています。

自分に必要な勉強をしていくことと、何のために勉強していくのか

勉強には目的が必要。

それを学んでどうなりたいのか?みたいなことを持たずに勉強したって意味がないですよね?

サラリーマンだったら昇給、昇級のために必要な勉強なり資格があります。
目的はそういうものでも構いません。

僕の場合は、とにかく実践に必要な勉強をしていきます。

そして勉強した分だけキャパを広げて「今まで受け入れられなかった」人たちへの対応が出来るようにしたいわけです。

勉強にはそういう側面があると思います。
「コミュニケーションの幅を拡げる」という。

だから、勉強した気になって「お高く止まる」ようなことがあってはいけないんです。

勉強して付き合いの幅が広がるのではなくて、スライドしていくような勉強の仕方では応援して貰える人が増えません。

今まで付き合いのあった人とは、これまで通り。
今まで付き合えなかった人とも付き合えるようになった。

そう思えるような勉強をしていきたいし、出会う人、特に子どもたちにはそういうことを知って欲しい。
そういう思いを持って学びを得て欲しいと思います。

2017年3月14日火曜日

自分を癒しながら、自分を育てる

何か物事や出来事、情報に触れたときに穏やかにそれらを受け入れられなかったとしたら、それは何か自分の中で癒しがなされていないからかな、と思います。

イライラしたり、ソワソワしたり、悲しくなったり…

そういう気持ちになるのであれば、そうさせる「何か」を癒してあげないといけないのだと思います。

何もなければ流れていくものに、突っかかりたくなるのなら、そこには「何か」が必ずあるんだと思います。

自分の日常の中での「何か」かもしれないし、生育歴の中での「何か」かもしれないし…

そこを癒してあげると、自分を健全に育てることが出来るのだと思います。

癒しが進まないと、向き合うべきものに対峙した時に、向き合えなくなってしまうかもしれません。

僕がこうしてブログを書いていくのは、そういう側面もあります。

日々の出来事、考えたことを振り返って整理して、必要があれば自分を慰めたり励ましたり…

今より先に一歩進もうと思ったとき、僕には必要なことなんです。

2017年3月13日月曜日

例えば舞台を観に行って出演者のミスを全て見つけられるか?という話

劇でも、ミュージカルでも、コンサートでも良いのだけれど、ライブで演じるようなものを観に行って、舞台上の出演者のミスを全て見つけられますか?

本当に小さなミスも含めて。

恐らく不可能です。

それは彼らがプロだから。

同じ作品を何度も観賞して、違う点を見つけたとしても、「あ、今失敗した」と感じず、ライブならではの、ある種の演出、という風に感じるかもしれません。

それも彼らがプロだから。

それでも本人たちにとっては必ずと言って良いほどに反省点があるはずなんです。

より良いもの、その時の最高のパフォーマンスをしようと努めるのはプロとして当たり前です。

でも、上手くいかないことも当然あります。

支援もそう。

でも上手くいかなかったからと言って「あぁ、しまった!」なんてことをいちいち見せたいたらプロじゃないし、そもそも支援が進まない訳です。

でも内心は「あれ?」「チックショー」「しまった!」「なんでだ?」という思いがあったりするわけです。

そういう思いを「よっしゃー!」のウラに、何倍もしているんです。

なんともないフリをして、頭フル回転させて、前に進む方策を探すなり打ち出すなりしないと。

質を高めようと思ったら、演技者になっていかないと。