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2017年11月29日水曜日

続・彼をいら立たせているのは…?

先日「彼をいら立たせているのは…?」で紹介した小学生男児Sとの続編です。

あれから1週間、僕の中でもたくさんの葛藤と検討材料が浮かんでは消え、を繰り返していました。

1週間経ち、再び彼との時間を過ごすことになったわけですが、ブログを読み返しているうちに、「ここかな?」というポイントを自分の中で感じました。

そこに留意しながら今日は学習サポートをしました。

そのポイントは「彼の声に耳を傾ける」でした。

苛立ちながら「僕の話を聞いて」という主張を散りばめていることに気付き、今日はとにかく口を挟まずに聞くことに専念しました。

それから前回、宿題にものすごい時間を要して、おやつを食べられなかったという経緯もあったので、初めに「先におやつを食べてからにしない?」と提案しました。
(今日も到着後、僕の姿を確認すると「先生!宿題するよ!」と寄ってきました)

その提案に乗ってくれて「美味しかった!」と満足気な表情になったところで学習室へ移動しました。

まぁ、移動したあともスタートするまでに道草はありましたが、気の済むまで道草を食って良いよぉ、という旨だけ伝えると反対に学習モードに入ってきました。

と言いつつ、その後も他の部屋の様子が気になっては襖を開けて聞き耳をたてたり、冬休みにしたいことを思い付いては話を始めたり…

色々ありましたが、「うん、そうかぁ」「へぇ、それは良いね」と相槌を打ち続けて待ちました。

そんな風にひたすらに彼の声を受け止めることを心がけていたら、合間にちゃんと問題を解いていくんですよね。
学習について僕は、一言も注文を出しはしないのに。

先週、読むと言うより解読に近いくらいのことをしなければならなかった文字も読めるものを書いているし!

算数の約分し忘れがあったものの、計算自体は間違いなし!←これもパッと見、?約分出来るか?と悩むような数字のものでしたし。

そして、やり終えたあとに「スゴいじゃんか」と伝えるとにんまりと笑っていました。

片付けをして学習室を出る間際「ありがとうございました。あ、それからおやつを先に食べる提案までしてくれて嬉しかったです」とな。

もちろん1週間で、彼も色々と考えてきたのでしょう。
あくまで「やり取り」。
お互いに考えて迎えた今日だったからこそだと思います。

ただ、準備と方向性が見当違いでなかったことは確認出来て良かったです。
これは僕自身の励みになりました。


僕も彼の姿に歯痒さを覚えましたが。

彼の歯痒さで、当然彼自身が一番感じていたわけです。

多分先週は、その一点が僕から抜け落ちていたんですね。

良い学びを得ました。
ありがとう、Sくん!

安心して布団に入り、希望を持って目を覚ます

今夜は急遽中学生のお宅にお邪魔する予定が入りまして、22時過ぎの帰宅になりました。

中学1年生の男の子なのですが、夏休み後半からくたびれ感が凄いのです。
恐らくいわゆる「中1ギャップ」によるものです。

中学生になると、生活リズム、環境、人間関係、学習…様々なものが小学校の時分とは変わってしまいます。
それも急激に。
そのギャップによる苦悩や葛藤を総称して「中1ギャップ」と呼ぶようです。

ですが、「中学生」という像が僕が中学生だったころと比較して劇的に変化をしているか?と言えばそうでもないようにも見えます。
学習内容にしても、部活動の話を聞いていても、さほど驚く話は出てきません。


そんな中で、劇的に変わっているものがあるとすれば、それは、「中学生」という像ではなく、むしろ「社会」の方が変わったのではないかと思うのです。

インターネットの普及がまずは大きいと思います。
これは、ありとあらゆるものの速度を上げたと言っても過言ではないと思います。

手紙もメールになり、電話も携帯できるようになり…いつでもどこでも短時間でコミュニケーションを図れるようになりました。
裏を返せば、「人は待つことから遠ざかった」と思うのです。

人気店など話題になる場所へは行列を作って「並び」ますが、「待つ」ということではないようです。
並んでいる間には携帯ゲーム機やスマホで時間もつぶせますし、その場にいない人とコンタクトも取れて、「待つ」ということをあまり体験していません。


この社会全体の傾向として「待つ」ことから遠ざかったことが、子どもたちから「間」とか「余裕」とか「ゆとり」を奪っているように思えてなりません。

「ゆとり世代」なんていう言葉も若者を揶揄して言われますけれど、そもそもそれも当時の大人が勝手に設定したもので、そのしわ寄せを若者に押し付けているものですから、可笑しなものです。

子どもにとっての「間」とか「余裕」とか「ゆとり」はそういうものではなくて、のびやかで健やかでしなやかであるべきです。


彼のことに話を戻しますと、その「間」「余裕」「ゆとり」の無い、ある種の流れに飲まれまいと必死になっているようにも見える瞬間があります。

彼の抱える大変さは、彼自身の傾向とか癖とか、経験不足とか…そういうものも要因にはあるでしょう。
それでも、それとはまた別のところで「流れに乗らなければ」という義務感と「乗れるかな」という不安と「そもそも僕どうしたら良いの?」という混乱とに晒されているきがしてなりません。

これは、支援者としてかかわる以上、見過ごすことはできません。
この圧力で彼は生活リズムも体調も崩しがちになる日が続いていて、自分というものに対して実感を持てなくなっています(僕には明らかにそう映っています)。

目に見えるところとしては「自学」の手伝いなのですが、今挙げた圧力に押しつぶされないようにするということが僕の目的でした。

また、そんな我が子の姿を見ると保護者も心配になります。
電話でお話ししていただけで、声に強張りを感じました。
きっと心配で心配でたまらないのでしょう。

潰されまいと、もがく我が子をなんとか守りたい。
でもどうしたら良いのか…

そんな中で僕へ投げられたSOS。

取り付く島もない、という濁流の中にいたのかもしれません。

“島”と言えるほど頑丈なものではないかもしれません。
中州程度なのか、もっと弱弱しい辛うじて流れずにいる樹木程度なのかは分かりませんが、彼と彼の家族にとっての拠り所になれたら、という思いです。

終えた後、少しほっとした親子の顔を見られて僕も一安心。

…とは言え、まだ対処療法的支援しかできていないのも事実。
継続的に彼のサポートをしていく必要があると思っています。


安心して布団に入って、希望を持って目を覚ます。
そういうのが一番。
それを目指したいところ。

2017年11月26日日曜日

石井十次に学ぶ。今を生きるということ。

午後は歴史の勉強。

春日市からすっ飛んで帰って、GAKUねっと主催のディスカッションミーティングへ合流。

今回は相談支援員のA松さんによる福祉の歴史の話。

石井十次という江戸末期から明治にかけて児童福祉のために尽力した方の話を聞きました。

福祉の精神というか…目まぐるしく社会が変わる中でも普遍的な精神ってあると思うんですよね。

そういうものについて改めて考えさせられました。

そして、石井十次さんに限らず、福祉ということに限らず、今の僕らのしていることは、先駆者、開拓者たちの働きを土台にして成り立っています。
偉大な先輩方の願いを継承しているのだとも思います。

苦労や、時には犠牲(こういう表現が適切かは分からないけれど)もあり、その上にある今を無駄には出来ません。

今日は、本当に学びの多い1日でした。

パパ座談会

午前中、春日市クローバープラザで座談会に参加してきました。

パパの育児、育児休業、仕事復帰…法制度、風土、文化…

いろんなキーワードを頭に浮かべながら参加してきました。

父親として、子どもを(それに伴い家族を)支援する立場として、他の男性がどんな思いを持ちながら育児へ向かっているのか、どんな状況に置かれているのかという声を聞けたのは、本当に良かったです。

海外の育児についての報告もあり、大企業に勤める人たちの体験談もありました。

それぞれ置かれている環境が違うから、結局のところ「出来ることからしていき開拓するしかない」というところなのでしょうが、何事においても先駆的な役割を担う人の負担は大きいものかもしれません。

その先駆者の存在は大切だと思いました。
そして、その先駆者を守る体制、環境を作ることも同じくらい大切だと思いました。

僕の場合、仕事としては家族の中に障がいを持っている人がいるという家庭と接することが多くて、父親の受容というのは母親とはまた違った経緯を辿るというところを目にします。

そういう場合、父親の立場や思い、願いに寄り添うということのヒントもたくさんあった気がします。

2017年11月25日土曜日

彼をいら立たせているのは…?

小学5年生のS君。
最近ずっとピリピリしている感じが僕の中ですごーーーく気になるのです。

彼に対して、今の僕の関りが良いのか悪いのか…そんなことも考えさせられます。

当然支援というのはある程度計画があるわけですが、日々の関わりの中では支援者自身の、その時々の見立てや手立てで時間が流れていくことも多いです。

だから子どもの様子の捉え方にしても「僕から見て」というところが出発点になります。

この「僕から見て」というのが難しい。

「僕から見て」必要と思うことが子どもにとってどう影響するのか。

初見ではなくて、継続的なかかわりの中で見えてくる変容を考えると、そうズレているとも思わないのですが、その時々を切り取ってみると「良かったのだろうか?」と頭を悩ませることになるのです。


最近、書字が著しく乱れていて、彼自身が書いた文字なのに本人でも読み間違えをするほどになっています。
文章であれば前後の文脈から読めないこともないのですが、算数でもそうだから大変です。
数字の読み間違い、写し間違い、書き間違いが多発。
今まで難なくこなしていた計算で躓きが目立つようになってきてしまいました。
本人も歯がゆさを抱えている様子です。

毎回「先生、宿題見てください!」と愛らしい声で呼んでくれるのですが、最近は僕との学習を始めても直にイライラを募らせています。

単純な割り算、引き算のひっ算でも桁を間違えたり、数字を「0」と「6」の違いが曖昧になっていて計算ミスをしたりします。

この字の乱れがイライラの引き金になっているものだから、都度気になる文字を「慌てなくて良いから書き直してごらん」「読めないよそれじゃ」と伝えています。
それはそれで「またか」とイライラを募らせてしまうようですが。

「僕から見て」その訂正は必須。

ただ空欄を埋めれば良い、というものでもないし、本人もそれで良いとは思っていないから伝えるのですが…
あまりにいら立っている彼を見ると、「一旦、ここはやり過ごした方がいいのか?」と思ってしまうこともあるのですが、「いや、気づいていること、思っていることを伝えないのは、それこそ彼に失礼」と自分に言い聞かせながら、彼とやり取りを重ねています。

その一方で「僕も意固地になっている?」と振り返ることもあるのですが…

半ばケンカ腰になりながら彼も僕に「なぁーんでーー?」と突っかかってきます(笑)
僕の方も「僕は別に困らないけれど、それであなた自身納得していないでしょう?」と突き返します(笑)

イライラしていて面白くもないから集中力も低下していて、他のことが直ぐに気になる。
僕と話していても突然他へ注意が反れたり、自分の話を始めてしまったり…
しばらく待ってみても、エスカレートするばかりで、自分で戻ってこれそうになくなるのです。

すると「ほら~、また目の前のことを雑にしている」と僕もつい口にしてしまいます。
(これは良いのか悪いのか、しっかりと振り返るべき点だと思っています)


少し前まで、彼はそんなことがなかったのです。
多少波はありましたが、落ち着いて、目の前の人としっかりとやり取りをして、僕との学習もイキイキとしていました。

ケンカっぽくなりながらでも終わったときにはホッとした顔を見せるし、その直後には「先生、後でスピード(トランプの)しよう」と誘ってきます。
だから「アカン」関りではなかったのかも、と救われますが。

それで満足しているわけにもいかない。

何があったのか、何が彼をそう苛立たせるのか…
それを知らなくては。
そこに寄り添わなければ。

目に見える課題というか躓きの一つとして書字の乱れがあり、僕の立場から比較的働きかけをしやすいところと踏んで、彼とのやり取りのツールに選んでいます。
とにかく「出来た」という体験を積みなおしてほしいし、「そうだ、僕はできる」というように思い出しても欲しいのです。


そういう思いと「この関わりが彼をいら立たせている」ということの間で珍しく揺れた時間でした。
いえ、まだ自分の中で「いざとなったら方針転換だ」と考える余裕は残していますが。

さて、次回、彼とどう向き合うか振り返りと検討だ。

寒い!っていうだけで

僕は寒さにめっぽう弱いです。
暑さには比較的強いですが。

寒い!
それだけで頑張らないといけない感じってありませんか?

思うんですよね。
寒い!っていうだけで“勝手に”頑張ってしまう気がする、と。

暑いときには「あづーーいーー」と身体もだら~ってなりながら愚痴をこぼせるのですが、寒いときには身体をギュッとして、口も結んで、なんだか愚痴も出てきにくくなる気がします。
(気がする程度ですよ?)

愚痴をこぼそうと思えばいつでもこぼせる僕でさえ、そんな風に感じるのだから、言語で表現できない子の中には、この寒さが続くというだけで、もう気持ちの行き場を探しにくくなっていやしまいか?

そう思うことが、この冬は多いです。

僕の捉え方かな?


明日も寒いのだろうな…

2017年11月24日金曜日

決してスピリチュアルな話をしているわけではない。子どもの姿の捉え方の話

今から書くことは、決してスピリチュアルな精神世界の話ではないです。
僕の、子どもの姿の捉え方。
それから、経験則による話です。

子どもの情緒の様子は身体の状態に表れます。
子どもに限らずですけれどね。
分かりやすいのは「緊張したらお腹が痛くなる」みたいなこと。
他にも「憂鬱なことがあると頭痛や微熱が出る」というのもよく聞くし、よくある話。
それと似た話です。

小学生女児のEちゃん。
プール、本当によく頑張っています。
今日はそんな彼女がいつもと少し様子が違いました。
プールのロビーで顔を合わせた時にも「ん?少し固いかな?」という違和感がありました。
表情も頬の辺りが固い感じに見えたし、歩き方も上半身が緊張していていつもより動きが少なかったように思いました。

お互い更衣を済ませて、プール室で合流したら、やはり固い。
体操の時に手を繋ぐ場面があるのですが、そこでもカチカチでした。
すると、入水して直ぐに「あーーー」と大きな声を上げるという行動がありました。
それでも「そうか、今日はそういう感じなのね。まずは泳いでみようか。泳ぎにくかったら過ごし方変えるからね」と前置きして、泳ぎ始めてみました。
泳ぎ始めてみたら、いつも通りに戻れるということもあるかもしれませんしね。

1周目。
ビート板キック。
途中でビート板を抱え込むように身体を丸めて中断する場面も。
うーん、厳しいかなぁ。
2周目。
背泳ぎ。
足を動かすのを止めて足を組んで、やっぱり身体を丸めることが。
背中辺りを触れたら、“いつも頑張るときよりも下の方”が固くなっていることに気が付きました。
これは、一旦中断だな、と判断。

そこから彼女には仰向けで浮かんでもらって、僕が下から支えて、身体をゆらゆら揺らすという体操(?)のような体ほぐしをしました。

身体が緊張していると、揺らしても身体がカクカク動くんですよね。
それが徐々にほぐれてくると、滑らかにうねるようにゆらゆら出来るようになってきます。
5分ほどしたら、だいぶほぐれてきたので、元々のプールのメニューに戻りました。
ゆっくりゆっくり。
戻って直ぐには声が少し出ましたが、直に落ち着いて、とっても柔らかく泳げるようになりました。

僕はこういうプールもします。


彼女の緊張していたのはちょうど、へその裏くらい。
本当に腰と背中の間くらい。
彼女が“いつも”頑張ったときに固くなるのは、もう少し上の肩甲骨辺りから肩、首。
割と上半身の中でも上の方ですね。

今日みたいな時、僕はこう考えます。
「いつもより深いところで頑張っているな」と。

慣用句で「腑に落ちる」という言葉がありますよね。
この「腑」は肝を指しています。
あるいはこの慣用句の話で言うと「心の底」を意味します。

慣用句やことわざって、結構的を射ていることってありませんか?

納得が深まると「腑に落ちる」と言うように、気持ちが深まると身体の低いところに「何か」変化が起こることが多いように思います。
緊張もちょっとしたものならちょっと手が震えるとか、唾液が増えるとか、目に見えるところで起こり始めるのですが、緊張が強まると、お腹とか目に見えにくい深いところで「何か」が起こり始めるのだと思います。

今日のEちゃんの固くなっていたのは、まさに「腑」「肝」のような、“深い”ところ。
我慢なのか、踏ん張りなのか、辛さなのか…そこまでは分からなかったけれど(個人的には「つかれたよーー!」って聞こえてなりませんでした)。

「肩ひじ張って」という段階よりも、もう少し深いところまで気持ちを下ろして頑張ってきてしまっていた感じでしょうか。
身体が固くなっていたのは、そこに蓋をしていた感じですね。

それが身体の状態で表れていて、上半身の動きは少ないし、低い場所が緊張していた、というように僕は考えます。

プールという場は、多くの人にとって、もちろん彼女にとっても、リラックスできる場になります。
それで、蓋をして頑張っていたところの蓋が外れて、声として表出したのではなかろうか?と思います。

そう考えると、そのまま帰すわけにもいかないし、彼女の「声」を聴いたら、僕のすべきことは、ゆらゆら体操というところに行き着きました。

気持ちが身体に表れるのなら、アプローチしやすい身体からアプローチして、気持ちに働きかけれるのではなかろうか?と。


こういう話も僕自身の感覚としてではなく、共有できるように、整理して体系立てて話せるようになれば良いのだろうけれど。

どうもスピリチュアルな匂いが漂う気がして、自分の表現の無さが情けなくなる(笑)

実はずっと○○○していた。僕なりの願いと責任と自覚があったから

実はずっと夜中にバイトをしていました。
一部の方にはお話をしてきていたことですが。

23時~25時(翌1時)という短時間ではありますが。
パチンコ店の閉店後の清掃をしていました。
帰り着くのがだいたい2時。

月によって出勤日数は違いますが、だいたい20日くらいは出ていました。
多い月は25日出た月もありました。

こんなことを突然、ブログで打ち明けてどうした?と思われる方もいらっしゃるでしょう。

でも、これだけは言いたかった。

「事業立ち上げるってことを舐めんなよ!」
「現場の苦労舐めんなよ!」
「子どもの居場所をかき混ぜんなよ!」

僕は僕なりに、そうやってバイトもひっそりとしてきたし、このブログだって、移動の合間にスマホから更新したりして、身を削りながら時間を削りながら仕事に、ぐるんぱの活動に真剣に向き合ってきています。

支援の質もまだまだ。
至らぬことも多い。
勉強すべき事、やるべき事も山積。

そういうことにも真剣に向き合ってきています。

これは胸を張って言える。
「僕はマジです!」と。

ボランティアじゃ食っていけません。
だから集客は大切。

だけどね、「子どもの居場所」ありきでしょう?

先に「お金」とか「経営」とかを考えてはダメ。
いえ、必要ですよ?
お金も経営も。

でもね、自分たちが良ければそれで良いっていうのは、絶対間違ってる。

自分たちの事業が軌道に乗れば良い!と他を貶めたり、邪魔したりして、既存の子どもの居場所を奪うようなことをしてはいけないですよ。

「子どもたちが笑いながらいる」それだけでも素敵な場ですよ。

全く同じ役割の「居場所」なんてのは無いわけです。
「居場所」なんて言いつつ、人ですから。
「事業は人なり」ですよ。

だから、新しい仲間は歓迎します。
でも、だからと言って、既存の子どもの居場所をかき混ぜるのはよろしくない!

僕がバイトしてきたのも、僕の活動が「子どもの居場所」になって欲しいという願いと「子どもの居場所」になってきているという責任と自覚故です。

立ち位置として、他の事業所とバッティングすることもほとんどありません。
「だからそんな呑気なこと言えるんだよ」と言われるのも悔しいので、僕もバイトしながら、決して楽をしてきたわけではないことを知ってほしかった。

「苦労しないとダメ」なんて古くさいことは言わないです。
しなくて良い苦労はしなくて良いですよ。
ただ、自分が苦労したくないために誰かを貶めるのはアカンです!

子どもたちの居場所が増えるのは嬉しい。
既存の子どもたちの居場所もやはり嬉しい。

子どもたちは福祉サービスの制度の上ではサービスの「利用者」と位置付けられてしまいます。
でも、それを大人の利己的な理由で「取った」「取られた」なんて言いながら、まるでモノのように「利用」するのは止めていただきたい。

居場所か否かは提供する側が決めるものではない。
良ければ人は来るし、悪ければ離れる。
ただそれだけ。

2017年11月22日水曜日

学習サポートの合間に

今日のえるそるむなかたでの学習サポートの合間に、他の支援員さんと子どもの様子を見にプレイルームへ。

そしたら小学1年生S君(先ほどの記事の子とは別の子) が支援員さんとドンジャラ(懐かしい!)をしていました。

その顔の楽しそうなこと。

支援員さんにお任せして一旦退散。

5分後見に行ったら、もうリラックスしきっててろーーん、って横になりながら楽しんでいました。

こういう時間も子どもには大切。

本当に良いの~♪?

今日もえるそるむなかたでの学習サポート。

小学1年生のS君。

彼はもう、本当によく頑張っています。
「もうヤダ!」という葛藤を何度も何度も乗り越えて引き算が出来るようになってきました。

今日も引き算のプリントを一生懸命に解いていました。

その様子がもう愛らしくて!

思わずスマホでパシャリ。

S君「ええ!?撮らないでよ」

永田「頑張ってたからつい撮っちゃった、ごめーん」

S君「消してよ」

永田「分かったよー」(せっかく頑張っている姿。大切にしたいし、自分の頑張りも大切にして欲しいなー。よーし。)

永田「そしたら消す前に…」
LINEで他の支援員さんたちに送っておこう、と思いラインを起動。

S君「え?LINEで消せると?」

永田「消す前に他の人に見てもらおうと思って。いい?」

S君(コクリ)

永田「良い写真だけどなぁ」(ボソッ)
彼の様子を伺うと写真を熱心に見ています。
(もう一押しかな)

永田「よし、送れた。本当に消して良いと?良い写真だけど」

S君(迷いながら頷く)

永田「本当の本当に良いの?頑張ってるところなのに?」(ニヤニヤ)

S君「うーん…」

永田「いーとー?もう、これと同じ写真は2度と撮れないよ。この頑張っている姿の写真が、だよ?消す?消さない?」

S君無言。

永田「今なら間に合うけど、消さないでおく?」

S君(コクリ)

よし!

永田「良かったー。消さないでおいて。良い写真やけん、良かったー。」

僕のスマホを覗き込むようにして写真を見ているとき、うっすらと笑顔を浮かべていました。

もちろん他の手立てと平行してということになりますが、自分の頑張った姿は大切にして欲しいんですよね。

2017年11月21日火曜日

自分のものにして、日常にして

先週から新しくプールに来始めたCちゃん。
未就学児の女の子。
今日で2回目。

お母さんと共にプールに到着。
挨拶をした後、まずはお母さんへ。
「前回終えてから体調とか情緒とか変わりありませんでしたか?」
と尋ねてみたところ、
「なかなか寝なくって」と。

21時ころに寝たのだけど(お母さんのお話しぶりだといつもよりかは遅めなのかもしれません)、夜中の2時に目覚めて5時まで起きていたとのこと。

うーん、それはよろしくない。

先週プールを終えたときにはとてもいい表情をしていたのですが、嬉しさ余って、ドキドキもあって、興奮しちゃったのかもしれませんね。


永田的に表現するならフワフワしたまま帰しちゃったかな?というところ。

そこで今日は少しメリハリをハッキリとつける作戦で。

基本的には楽しく。
これは外しません。
ただ、今日は「お助けマン」の登場を少しゆっくり目に。

まだまだ水の中でははしゃいで、水の怖さも知らぬ年齢。
前回は初回ということもあって、お助けマンの登場が早くて、あっぷあっぷなる場面がほとんどありませんでした。

けれども、今日は少し遅らせて、「やり過ぎちゃうとあっぷあっぷなっちゃうよ」というところを目指しました。

ビート板を手放したり、プールサイドの縁につかまっていても手放してしまったり…そういうことをしてしまうのですが、まずはあっぷあっぷしてもらおうか、と。

「あっぷあっぷなっても助けてくれる」「だから私はしたいようにするわ」と、一見楽しんでいるようですが、そこ(彼女の中に)にほとんど僕の存在が入っていなかったのかな?と思いまして。

お助けマンを遅らせたらどうなったか?

僕の存在を意識し始めました。
手を伸ばしてきたり、目を合わせてきたり。

その結果、ビート板につかまって自分でバランスを取りながら水の上に浮かぶことが出来るようになりました。

「一緒にやっている」という感じを味わってほしいし、「どう出来てる?」でも良いし、「教えて!」でも良いし、「見てみて!」でも良いから、一緒にやりつつ「自分でしている」という実感を持ってほしかったんです。

僕が「させている」のではなくて。
彼女が「自分でしている」という実感が欲しかったんです。

そういうものを味わってくれた1時間になったんじゃないかな?

帰り際にとっても上手にお辞儀の挨拶をしてお別れしました。
また、来週ね。

さて、今頃、どんな様子で家で過ごしているかな?
ぐっすり眠っているかな?
まだ興奮しちゃってるかな?

ゆっくり歩調を合わせましょうね。



楽しければ、と言う事でもないんですよね。
やっぱり。

「楽しそうにしてくれている」というのは親にとっては励みになります。
僕もそうです。
我が子とのことを振り返ってもそうです。

でも思うんです。

それって、最初の数回だな、って。

どんなに子どもが楽しそうにしていても、例えば興奮して眠ってくれないことが続くと…迷い始めちゃうと思うんですよね。
「楽しそうにしているし、この子のためとは思うけど…きっと今夜も眠れないんだろうな」という具合に。

そうなると、頑張る(続ける)ことが大変になってきます。

そういうことも含めてプールは展開していきたいんです。
僕との関係が良ければそれで良いなんてことでもないし、子どもが楽しければ良し、でもないし。

プールに入るのは僕と子どもだけど、親子、家族も含めたプールなんです。

そういうこと。

2017年11月20日月曜日

家庭学習は「必要」なのではない「大切」なものなんだ

キッズクローバーひかりが丘での学習サポート。

特別支援学校の中学部に通う男児の宿題を見ていました。

今日の彼の宿題(漢字の書き取り)は大変だったと思いました。

僕が彼の元に到着したときにはもう、取り組んでいて、扉を開けて入室するや、いきなり中指を立てて「おい!」と、挨拶されました(笑)
永田「何それー?」
男児「キルって意味だよ」
永田「そんな挨拶があるん?」
少し顔を真剣にして聞くと、やはり「あまり良くないこと」であることは分かっているみたいでした。
男児「ごめんなさい」
宿題を覗くとまぁ、難しそうなことしてました。
永田「宿題が終わらないんやろ?」
男児「…」
永田「一緒にしようか?」
男児「…いいです」

そう言って取り組み始めたけど「なんで、こんなことしないといけないんだよ」「なんなんだよ、ひどいじゃねぇか」「ああ、遊ぶ時間もなくなるじゃないか」「もうしたくないよ」

終いには半べそになりながら、足を揺すり始めました。

永田「手伝おうか?」

男児「…ちょっと出てくる」

部屋を出て、他の部屋で過ごし始めました。
戻ってこられるかな?と、しばらく側で様子を見ていたら、他の子にちょっかいをかけ始めてしまいました。
イライラの捌け口みたいに、ちょっとしたキックやらパンチを友達に向けてしようとします。

ほとんど当てるところまではしないんです。
彼自身もイライラしていることも、なんでイライラしているかもしっかり自覚しているんですよね。
健気すぎる。

それでも僕には「本当は終わらせたいんだよ」「このままはイヤだ」というように見えたので、ちょっとアクションを起こしてみました。

永田「あれあれ~?八つ当たりしてるのかなぁ?」
男児「うるせぇなぁ♪」(僕が来たことを少し喜んでいるような反応)

八つ当たりの的にされていた子に変わって、少し彼の相手をしました。
最初は僕へもパンチをしようとしてきましたが、止めてあげる(他の方法もあるよね、という思いを持って)と、直におんぶしてきたり、抱っこっぽくしがみついてきたり…
(よし、上手に甘え始めたかな?)

そこで再度切り出しました。
(他の支援者からも「宿題は?」と繰り返し聞かれていて、プレッシャーにもなっていたし、そこから出してあげたかったし)

永田「一緒に部屋に戻ろうか?」
男児「全部答え教えてくれよ」
永田「僕が横で書くから、それを見て書いてごらん。どう?」
男児「全部か?」
永田「おう、全部だ」

部屋に戻って宿題の残りを始めました。
僕が紙に書くのを、それはそれは真剣に確認しながら。

全て終えて「良かったね」と声をかけたら「うん」と。
「おい」から始まった彼が「うん」という可愛らしい返事を。
まーるくなった感じがしました。

僕自身、家庭学習というのは大切だと思っています。
「必要」なのではなく「大切」なんです。

サポートをする、支援をする立場からするとそう思います。
だから、僕は「次の時までにしておいて」ということについては、すごく慎重になります。
「次」までは、子どもが1人で向き合うことになるから。
それが必要か?という問いを自分に向けてからにしています。

課題を出す、出さない、出すならどんな内容で、どんな狙いで、ということを思わないと。

特別支援というのなら、なおのこと。
何のための特別支援なのか?ということ。

家庭学習で傷ついたり、挫折を味わうようなことにはして欲しくないものです。

なんか、今日の宿題は「難しかった」ように思います。
彼にとっても僕にとっても。

家庭学習は学びの定着、自信や意欲を育むきっかけ、安心感を掴むものであって欲しいと、支援者としては願います。

2017年11月18日土曜日

お絵かきを通して

今日もえるそるむなかた、いーりすむなかたでの学習サポートでした。

今日はほとんどの時間をいーりすむなかたの方で過ごさせてもらいました。

そこにいた小学校2年生の女児Kと、小学校1年生男児R。

二人ともいわゆる「学習」という感じよりも「楽しく学んでね」という段階で、宿題なども無かったようなので、お絵かきをして楽しもう!と思いました。

まずは彼らの気を引くために、アンパンマンやドラえもんや鬼太郎やQ太郎を描いてみました。
(別に何かを見て描くわけじゃないから似ていないんですよ(笑))

狙い通りに食いついてきてくれて、Kは自前の自由帳を出してお絵かきを始めました。

Rは、僕の膝の上にちょこんと座って眺め始めました。

(さて、Kには自分で描いて貰いつつ、やり取りで巻き込んじゃえ!
Rは、一緒に描けたらいいなー)

途中で、僕自身も何と聞かれても困るような普通の男の子の顔のイラスト描いてみました。
すると、Kが「何それ?」と。

永田「誰でしょ♪?」

K「わからん!」

永田「えー?わからんとー?」
(意地悪でしょ(笑))

K「えい!」
と、やきもきした彼女は、僕の絵を手に持っていた鉛筆でぐじゃぐじゃっと殴り書きしてきました。

永田「わ、ひどーい♪鬼みたいや」

K「鬼やないもん」(ニヤリ)

すると「鬼」というフレーズに興味を持ったのか、膝の上にいたRが少し身体を動かして反応しました。
確かに。
(よし、これでいこう!)

永田「よーし、鬼を描こうっと」

K「もーぅ」(自分の絵に戻っていきました)

僕が鬼を描くのをじーっと見ているR。

最初は鬼の顔だけを描いて見せたら、また「おに」と、自由帳を指差してもっと描くことを促してきました。

さらに描いてやると嬉しそうに「おに」と。

鬼の絵が並んでいくのが、どこか落ち着かない(というか気になる)K。
(「鬼みたい」と言われたからですよね)

すると、今度は鬼のイラストにくしゃくしゃっと殴り書き。

永田「あ、鬼退治された!」
K(ニヤリ)

そこで今度は鬼の全身に色まで着けました。

永田「おにーのパンツはいいパンツー♪」
と歌に乗せて描いていきました。

Rは、少し身体を揺らし始めました。

乗ってきたところで、鉛筆を持たせて一緒に手を取り、描いてみることまでしました。

実に楽しそうに軽やかに鉛筆を動かしていました。

Rは、知的にも障がいがあり、言葉も今増え始めている段階。
コミュニケーションが楽しくなり始めているところです。
文字や絵にも少しずつ興味を強めているところです。

(よし、いいぞー)

何枚か一緒に描いた後、彼に鉛筆と自由帳を使わせたら、四角い輪郭に顔を描き始めました。
(おにかな?)

たまに「おに」「描いてください」とおねだりしてきて描いてやり、合間に違う絵を入れたり、お喋りしたりして、Rはとても楽しそうでした。

KはKで、お姉ちゃん風を吹かせてRに、「○○だよ」と教えようとする場面も。
自分でエプロンの絵を描いて「○○先生」と、えるそる、いーりすで調理をよくしている先生に見立てようとした場面もありました。

よく、見ているんだね。

もう今日は、二人には難しいこと考えずにコミュニケーション取り合うことを楽しんでほしかった。

それだけ。

対大人じゃなくて、場にいた人で輪を作りたかった。
それだけ。

穏やかに、和やかに時間を過ごしてほしかった。
それだけ。

夕方、別件で立ち寄ったときに見たときもすごくいい表情をしていました。

うん、今日はそれだけで良いよね。

何かを頑張って行き着く良い表情。
ただただ楽しんで味わって行き着く良い表情。

その時々で、やり方は変わっても良い。
支援者としては、その表情に子どもが行き着くように働きかけして、安心と穏やかさを持って家庭に帰してあげられたら、それで良いのかな、と。

2017年11月16日木曜日

「なんで早く分かったと?」

放課後等デイサービスえるそるむなかたでのサポート中のこと。

小学校1年生のS君、女性支援員、永田の三者。
以下S、支、永とします。
「」は実際に飛び交った言葉。
()は僕の、その時の思考。

S「誕生日いつと思う?」
永「?」
S「ボクの誕生日12月のいつと思う?」
永「1」
(まったく情報がないけど…まずは「1」から順番に数字出してみるか。下旬だとしたら途中でシビレを切らすだろうな。どのくらいでシビレ切らすかな♡)
S「違うよ」
永田「2」
S「正解!」
永田「そうなんだね」

僕とのやり取りの直後に、ずっと横にいた女性支援員へ向き直って。

S「ねぇねぇ、僕の誕生日12月のいつのことと思う?」
(ほぉ~、君の中で『場』は1対1になっちゃうわけね。よーし続けてごらん)
支「2日」
S「え?なんで?」
支「何が?」
S「なんで早く分かったと?」
支「聞いていたからだよ」
S「?」(きょとん)

文字にしてしまうと見えにくくなるけれど、すぐ横にいた女性支援員さんへ同じクイズ出したのは、わざとではなかったと僕は見ています。
(女性支援員さんはどのくらいで当てられるかな?)というイタズラっぽい表情をしていたというのが一つ理由としてあります。
他にも女性支援員の「聞いていたからだよ」という最後の一言への反応の示し方も、何を「聞いていた」のかがピンと来ていない様子だったことからも確信に近いものがあります。

わざとではない、という前提の下ですが、これは今後の彼の支援を考えていくためのヒントになると思います。

ちょうど彼についてのケース会議を通して、「風を怖がっているようだ」「高学年の子たちの遊びについていけていないようだ」「モノの共有が難しいようだ」というような情報も僕の元に届いたところでした。
併せて、怒り出したり、人をたたいてしまったりすることもある、と。

これらの情報で、僕は彼の困り感は「見通しの立たなさ」から来るところが大きいように思いました。
風は、目に見えず、いつ吹くかわからなくて、音の出どころなども唐突で「見通しが立たない」。
高学年の子どもたちの遊びの展開のスピードやルールの複雑さから「見通しが立たず」は入れない。
モノの共有についても、事業所内の物品や支援員という人についても、占有出来るモノでもなく、所有権が「見通せない」。

そのストレスから怒り出しちゃったり、人を叩いちゃったりしてしまうという具合に僕は考えています。

この場面でも女性支援員が会話を聞いていたことを「見通せていなかった」訳で、彼の情報収集の視野と言うか、認知出来る視野の広さというか、生活視野とでも言うべきか…そういうものの広さが見て取れます。

この広さであるから、他の支援員から寄せられた情報や場面でも「見通せない」という点も遠からずかな、と思います。

彼に対して、どうやって、どのくらい見通しを立たせるか?というところで、困り感を幾分か解消できるのではないか?と思います。

風について見通すということは難しいかもしれないけれど、風が強いことで鳴る物音が、どこから出ているのかを説明する。
高学年の遊びについて整理して伝える。紙に書いたり、一度彼のために確認しながらしてもらうことを他の子に協力してもらう。
モノの共有は、ルール化できるところはルール化して、ルール化が難しくても彼がいつになったら自分の番になるのかなどを、「彼がわかるように」説明してあげる。

こういうことの積み重ねだと思うのです。
安心出来たり、楽しい体験を重ねられたり、みんなで一緒にみたいな体験を重ねたり…自信とか自己肯定感とか、自尊感情とか、そういものを育むことって。

決して特別な一手があるわけではなくて。
集団生活を通して社会性を育むっていうのは、一朝一夕で出来るものではないから、コツコツとさりげない手立てを積み重ねて、周囲と上手に過ごせる体験を積んで、他者への安心感とか、他者を信じるということをしていくことで、身に着けていくものだと思います。

支援者もまた、困り感に遭遇した時だけで見ようとしてもいけないのだとも再認識しました。
日常のコミュニケーションを通して、子どもたち一人一人の様子を把握して、そこから子どもたちの発達段階や困り感との関係性を読み解いたり紐解いたりしていくということをしていかなくてはいけないのだと思います。

2017年11月14日火曜日

どんぐりをポッケに入れて

最近、息子の洋服を洗濯していると、よくポケットからどんぐりが出てきます。

毎回じゃないものだから、つい油断して洗濯機の中で洋服と一緒に回ってしまうことも多いのですが(笑)

木の実とか石ころとかが大好きな息子。

でも、まだ自分でポケットにどんぐりを詰められるほどには器用じゃないから、恐らく保育園の先生にお願いして入れてもらっていると思います。

どんな顔で、どんな思いで、先生にお願いしているのか。

想像しただけでにやけてしまう親バカです♪

「しぇんしぇー(先生)れてー(入れてー)」という口ぶりが想像出来るんです。

来年なんかは多分、ハッキリとどんぐりコロコロを歌うんだろうなぁ。

11月19日の件

11月19日日曜日10:00から、河東地区コミュニティセンターで「えるそるむなかた」「いーりすむなかた」主催の場で、講師を務めさせていただきます。

今回は、障がいの有無に関係なく子どもたちと僕ら大人がどう向き合うか?みたいなことをテーマに話を考えています。
もちろん支援者としての僕の視点が話題の軸にはなりますが、僕の話をきっかけに、聴講者の方々が帰ってから身近な子どもたちと向き合い方を見つめなおしたり振り返ったり、愛しさを感じたりして貰えたら良いなぁ、と、そんな思いを持ちながら原稿等の準備をしてきました。

原稿が出来上がったので、これから聴講者向けの資料も整理しなおしていきます。

偉そうにできる立場ではないけれど、自分が学んできたこと、実践から得たことを惜しみなく話をしていきたいと思っています。

まぁ、話でも皆さんにお土産があれば、と思いますが、知り合いの支援者さんにもチョコチョコお声かけさせてもらっています。

それぞれにご都合もあるでしょうから、来れる方来られない方いらっしゃるかもしれません。
それでも、いろんな人が繋がれる場にはなるはずです。

子どもたちのことについて、考えたい、話したいという方、ぜひお越しください。
時間はたっぷりありますので、たんと語り合いましょう♪


日時:2017年11月19日㈰10:00~12:00(9:30受付)
場所:宗像市河東地区コミュニティセンター
参加費:500円
テーマ「子どもの求める大人像を考える」
講師:永田淳哉

お問い合わせは「放課後等デイサービスえるそるむなかた」「放課後等デイサービスいーりすむなかた」まで。

2017年11月12日日曜日

精一杯の主張

ある小学校中学年男子の話。
彼は知的障がいを伴う自閉症を持っています。
発語はほとんどありません。

それでもちょっとしたジェスチャー等を本人は使うし、こちらの言葉、指示は概ね理解してくれるので、コミュニケーションの術は豊富にあります。

プールをしていても、1つずつ噛み砕いて伝えていけば、それについてこようとする意志を見せてくれます。
彼も分からないときには表情で伝えてきてくれます。

それでも、やはり言語で伝えられないストレスというのはあるのだと思います。

僕も100%汲み取れているか?と問われれば答えはNOだと思います。
もちろん彼が何か伝えようとしてくれば、そのときには開けられるだけの引き出しを開けて、汲み取る工夫はしていきますが。

多分、心優しい彼の事だから、そうやって相手に考えさせてしまっている、ということすら考えているようにも思えます。
お互いにそうやって関係性を作ってきたという実感があります。

なので、プールではとても落ち着いて過ごせています。

ただ、そんな彼が最近、お漏らしをするのだとか。

お母さんの見立てでは「負の感情を表現」する術にしてしまっているのだとか。
言葉で伝えられないから、その代替手段として。

ある程度、場面や場所までは特定できているらしいのです。

ただ、そこで何を、あるいはどんな「負の感情」を表現したがっているのか、までは特定できずにいるのだ、という相談を受けました。
(実際には「近況報告」のような口調でお話をされましたが、お母さんの表情からは「どうしたんだろう?」「彼のことを知る手掛かりが欲しい」という相談事のように受け取れました)

これは、真剣に考えないといけません。

「僕のプールでは順調だから」なんていうスタンスでは、もちろんダメ。

手元にある情報、取りに行ける情報をフル活用して、彼の思いを探らなくては。

一旦、排泄が自立した子にとって、排泄を失敗するというのは、まず、感覚的に不快です。
そして、何よりもプライドが傷付きかねません。

彼がそのプライドを手放そうとしてまで伝えたいことがある、というその思いに近づかないといけないと思います。

彼のプライドを守るために、主張の方法を別の手段にすり替えることも必要かもしれません。

彼のプライドだけでなく、周りに誤解をさせないためにも。

ただ、慌てて早合点するようなことは絶対しちゃいけないと思うので、丁寧に彼の気持ちを探り、ほぐしてあげたいものです。

慌てちゃダメだし、わかった気になってもダメだし、放っておいてもダメ。

1つずつ、彼の様子から読み取り、汲み取っていきたいものです。

そして、彼自身を傷つけさせないために手立てを考えて講じていかないと。

2017年11月11日土曜日

11年目の11月11日

今日は僕にとって1尽くしの日。

僕もいい年になってきてしまったけれど、惚気させてもらおうと思います。

11年前の今日、僕と妻は初めて会ってデートをしました。
そこから11年、この変わり者によくついてきてくれたと思います。

本当にありがとう。

11年前まだ学生だった頃からの付き合い。

出会って、付き合って、時間を重ねて、結婚して、子どもも授かって、お互い父と母になって。

時には「い゛ぃ~!!」ってなるようなこともお互いにありますけど、基本的には仲がいい夫婦をしています。

さすがに出会った頃のような会うたびにドキドキということではなくなってきたのだと思うけれど、結構いつもお互いのことを考えて尊重し合って、尊敬し合って生きているように思います。

人として、男女として、夫婦として、一児の両親として、僕らは程よい距離感で付き合っていると思います。


2011年11月11日
11年目の11月11日
新元号の11年11月11日(こればかりは制度のこともあるからあと何回来るか分からんけれど)

このくらいかな、11月11日の前に11が来るのは。

111年目は厳しいだろうし(笑)
お互いあと90年くらい生きたら2111年…これも厳しいか。

やっぱりせいぜいあと1回か2回だろうと思います。
11が来るのは。


本当に変わり映えの無い1日でしたけど。
どこかちょっぴり特別感を心の片隅に持ちながら過ごせた1日でした。

さて、仕事仕事(笑)

修行ごっこ

ぐるんぱの最年少、4歳のS君とのプール。

プールは楽しいけどやっぱりドキドキもするのでしょうね。
今日も上手に出来るかな?という、感じですかね。

それと、彼から僕への自己紹介も含んでいるでしょう。
僕はこんな子だよ、今日はこんな感じだよ、という具合に。

そういう表れだと思うのですが、プール始まって直ぐに浴びるシャワーの際に、頭からシャワーをかぶりながら、両掌を合わせて修行ごっこをしています。

彼のプールへ向かう為の儀式になっています。

これをシャワーの時に必ず、ではなく初めだけするのが可愛らしい。

プールの練習を終えてから浴びる時にはしないんですよ。

修行ごっこをしている彼を見ると、とっても穏やかになるんです。

よし、この子との時間を楽しもう、って具合に。

2017年11月9日木曜日

子どもという存在は

大人が子どもたちのチャンスの芽を摘んではいけない。


子どもの葛藤を横取りしてもいけない。


感情を横取りしてもいけない。


子どもは成長したがっていると信じなくてはいけない。


子どもを孤立に向かわせることがあってはならない。


乱暴に手を引くようなことがあってもならない。


積極的な姿勢で待たなくてはいけない。


大人が信じることを止めてしまえば、子どもに残るのは虚しさと無気力への入り口。


僕らの誰もが一度は子ども時代を過ごしてきていることを忘れてはいけない。


子どもは一人の独立した人であると知らなくてはいけない。


子どもは愛されるべき存在であると知らなくてはいけない。


子どものは守られるべき存在であると知らなくてはならない。



おやつの時間で満たすもの

今日も放課後等デイサービスえるそるむなかたのサポートでした。

今日のおやつの時間は良かったです。
いえ、もしかしたら、えるそるむなかたでは日常的な様子なのかもしれませんが、僕はなかなか子どもたちがゆっくりとおやつを食べる時間に同じ場にいることが少ないので、新しい発見という感じがしただけかもしれません。

今日は、ポテトチップスを少しずつ、という感じで、おやつ自体は特別なものではなかったのですが、子どもたちにとっては「特別なおやつ」だったのかもしれません。

なんでも、実は、今日のおやつ、ある男子のリクエストだったようです。
リクエストした本人が、えるそるに帰ってきて、おやつのメニューを聞いたら「よっしゃ!」と大喜びでした。
それから、声を大にして「今日のおやつ、俺がリクエストしたんばい」と得意気に周りの子へ話をしていました。
ポテトチップス、子どもたちには人気ですよね?
(僕はあまり食べないのですが)

なので、子どもたちは「へぇ、いいねぇ」とか「やった、ポテチ」と喜んでいました。
その都度また「俺のリクエストばい」と主張する男子(笑)

直に「今度は僕もリクエスト」という声まで出てきました。
「僕、果物がいい」という話も。
それに乗っかって「私はねぇ」「俺はねぇ」と口々に言い始めました。

他にもおやつを食べながら、学校での出来事を話す子もいれば、家族での出来事を話す子もいて、とても賑やかで柔らかい時間でした。

おやつというのは単におなかを満たすだけじゃないんです。
心を満たすツールになるのです。