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2021年5月25日火曜日

状況とセットにする

行動って結構、そのときの状況とセットになっています。

例えば、朝に人と会ったときには「おはようございます」だし、別れるときには「さようなら」と言うし。

状況、っていうのには、時間や場所、周囲の人や物、そういうものが含まれます。

また、状況とセットだから行動が身につくとも言えるでしょう。

だから、状況あるいは環境を整えると、自然に行動が引き出しやすくなります。
これが自然性が強くなると、いわゆる習慣というものになります。
習慣にしようと思うのなら、それを実現しやすい環境を用意していかなくてはいけません。

根性論で、「やりなさい!」と声を荒げて繰り返し言うことでは、習慣化はしません。
繰り返し同じことを言って、イライラを募らせているのであれば、環境が不十分なのかも知れません。


よくぐるんぱの学習では「家ではやらないんです。」という声が聞かれますし、その次には、支援者と子どもの「やり取りが肝」みたいに言われます。
もちろん、「やり取り」はその時々のbetterを選択するように、僕自身もスタッフにも伝えています。
でも、「取り組みやすい環境(状況)」を作っていると言うことの方が大きいです。
学習サポートの時間、取り組めるような習慣を作るために準備をしています。

ただ、その環境準備というのも、決して特別なことをしているわけではありません。
特別な道具を用意したりして環境を用意しても、生活には根ざしません。

家庭などに帰っても似た状況を用意しやすいような、そのくらいのものの中でやっています。





たまにご家庭から相談が寄せられます。
可能な限り、寄り添いながら提案をしていきます。

お気軽にどうぞ、相談だけでもまずは♪


2021年5月23日日曜日

意識的に、努力してやろうとすると上手くいかないこともある

意識的に取り組んで自らのスキルにしていく、ということはよくあります。

ですが、意識すると上手くいかなくなってしまう、ということも案外あるものです。


知的障がいを持っている子どもが何気なく口にした言葉が面白くて、もう一度聞かせて!と言うと、上手く言えないこととか。
自然にと言うか自動的にと言うか出てきた言葉でも、意識すると上手く言えなくなってしまうのです。

スキップしていた子どもに、「上手だね、もう一回して見せて」と声をかけると躓くように不自然なスキップをしてしまうことがあります。

指示されて意識的に行うというのは、指示された行為を、一旦頭の中でイメージしてたどって再現するという手順が必要になります。

一方、自然に行った行為については、どういう言葉を使わなくてはいけない、と言う具合に、心というか頭というか・・・そういう場に用意しておく必要が無いですし、動作についてもどこをどう動かすというイメージを用意する必要がないので、流れに任せるだけでできるものなのでしょう。


ということは、ですよ。
何か獲得したいものがあるとしたら、リラックスした中で引き出すようなイメージを持つ方が良いと思いませんか?
学習然り。
運動然り。

意識的に行うものは、案外崩れるのも早い気がします。
無意識に出来ているものほどいつまでも自然に出来ます。


呼吸だって意識を向けるだけで途端にリズムが変わりますw

意識して歩いてみるだけで姿勢や歩幅、手の振りが変わる人が多いはずです。


訓練を訓練っぽくしない。
そういう心構えで学習もプールもしていきたいと思っています。

意図はこちらが見失わなければ良いのです。

2021年5月22日土曜日

仮説を立てて、実践して、検討して・・・

目に見えた姿から仮説を立てて、それを基に実践をして、その結果を受けて検討をして・・・

基本的に支援ってこういう流れの中にあると思うのです。

それから、こういうことを何らかの形で記録に残していくことも大切だと思うのです。
でないと、仮説が外れたときに進路変更をする際の材料が不足して、支援の組み立てが出来なくなってしまいます。

例えば、こんなことがありました。
知的障害を持ち、言葉の少ない子どもの事例です。
「パニックを起こす」→「抱きしめてあげる」→「パニックが収まる」

という状況がありました。
支援者側としては、抱きしめることでパニックを鎮められたと捉えていました。

パニックの起こり方次第ですが、ケガなどの危険があるなら、それを防ぐことも大切なので、この手立て自体は、良いと思います。

でも、先があります。

パニックは抱きしめることで鎮められるということは確かなのですが、パニックの回数が頻発するようになってきました。

そのときに役立ったのが記録でした。
ある条件の時にパニックが起こりやすいことが分かりました。
それは、特定のAさんという支援者が支援に当たっているときでした。

Aさんがこの「抱きしめる」という手立てを講じていたのですが、それを支援者の意図とは違う形で子どもの方は、学習を重ねていたようです。

「パニックを起こす」→「Aさんが来てくれる」→「Aさんと関わる時間が得られる」

と。

パニックが人と関わるための方法になってしまっていたようです。

そこでAさんから、その子に対して「泣いたり暴れたりしなくても呼んでくれたら行くからね。」と伝えてもらって、人の呼び方を学習してもらうようにしました。

数ヶ月後、その子は、パニックを起こすことも減って、用事があるときや、暇を持て余してるときには、Aさんを含めて、人の袖や裾を引いて合図を送れるようになりました。

人って、自分の行動とその後の結果を結びつけて、学びを得ていくものですが、どこに着目するかで、学びは変わります。

よく「その人の立場で」「その人の視点で」と言います。

それって、こういうことだと思うのです。

相手がどう捉えたか。
それを考えることです。


良かれと思って講じた手立てが、中長期的に見たときにずれていたかも、と言うこともあり得るのです。
あるいはその場には相応しくないと言われるような行動を引き起こすことにつながっていることもあり得ます。
そういう時に記録があると、仮説、実践、検討がスムーズに行えます。


あ、パニック自体は表出行動の一つだと思っているので、それ自体を封じるということには、僕は慎重にありたいと思います。
そのパニックの出方、場面ということには気を配りたいと思います。
それから、パニックの原因や引き金が何になっているのかな?ということには敏感で痛いと思います。

2021年5月16日日曜日

「お父さんの方が楽しそうw」

「お父さんの方が楽しそうw」とプール指導中に言われました。

嬉しいですねぇ。

端から見てまるで親子のように見えたんでしょう。
そのくらい教え子との距離が近いように見てもらえるんは本当に嬉しいです。
目指していますから♪

それに、僕自身、この仕事が好きだし、楽しまないと子どもたちを楽しませるというか、夢中にさせることは出来ないでしょうから。


学習サポートも同様です。
なかなか学習自体を楽しくって言うのは、難しいものです。
それでも「この時間を楽しく」というのは可能です。

その子その子に合わせて話題を選んだり、間を取ったり、遊んだり・・・
そうやっていくと楽しくなったり、取り組むものに夢中になれるものです。


最近、学習中には、簡単な手品を披露する機会が多くなっていますw
なぜなら僕自身がハマっていて楽しいから。

子どもたちが「え?」となる姿、表情が嬉しいから。

最後に「俺にも教えて」と種明かしして、「家族に見せてくる」といって帰ってくれるとなお嬉しいです。


親子、家庭、そういうものが温まるのであれば、なんだってしちゃいます♪


そう。
そういうことも含めて、自分自身が楽しめているから、この仕事が好きなんですよね。

2021年5月15日土曜日

療育の視点を活かす。

今、就労支援にも携わっているわけですが、療育活動を提供してきた経験が結構活かされています。

青年たちの様子を観察して、見えてきたことを集めて、そこから特性を見極めて、手立てを考えていく。
もちろん事前情報で、大まかな情報は手元にあるのですが、それでもあくまで「今まで」の姿です。

そこに書かれている姿と今、僕に見えている姿が一致しているのかいないのか、変化があるのか無いのか、そういうことを見ていくことからスタートし、具体的な手立てや提案に変えていきます。

この際、特性だけで無く、青年の一人の人格を含めて考えていくことが大切で、そのときの手立ての発想を膨らませるのに、療育経験は重要だなと、感じています。

特性だけを拾い上げて、無機質な手立てを講じるのでは無く、「その人理解」を併せて深めて考えていくということを意識的に行うことをしてこそ、だと思っています。


作業が出来れば良い、と言うわけでは無くて、就労機会を提供しつつ、そこにその人の人生を、より豊かにすることにつながる要素を盛り込んで、考えていきたいものです。

2021年5月12日水曜日

コロナ重症患者の家族になって改めて医療現場の大変さを感じています

実は、僕の父がコロナウィルスに感染し、あっという間に重症化してしまって、これを書いている今現在、救急救命病棟で治療を受けています。

肺炎の状態がとにかく悪化の一途で、これから約2週間、睡眠状態にして活動量も減らし、口から挿管して酸素をガンガン入れるのだそうです。
そうして生命を維持しつつ、肺の炎症を抑えていくことを目指すというのが大まかな治療方針だそうです。



今月初旬の連休中に発症し、検査、陽性、宿泊施設で療養、入院、転院(そこでも個室対応→ICU→救命)・・・短期間であっという間に今の状態になってしまいました。

基礎疾患がある人ではありますが、普段はまだ会社員として毎日働きに出ていた元気な人が、という驚きが家族としてはあります。
進行の早さには、驚きを通り越して戸惑ってもいます。


療養施設、入院、転院、担当部署の変更、その都度連絡を現場のスタッフの型からは頂きます。
そして、多くの患者さんの対応の合間に、ドクターも丁寧な説明を電話でくださいます。
それもかなり遅い時間であることもあります。
本当にニュースなどで大げさに報道されているわけでは無く、現場は大変なのだと思います。
大抵、電話口の背後では物音が聞こえてきて、次から次へと対応が求められているのだろうな、というのが伝わってきます。

状況が状況だけに、もう任せっきりになってしまうわけですが、本当に感謝しかありません。


また全国で感染者数が増えてきていて緊張感を持っている人も多いですが、それでもまだ「ワタシは大丈夫」くらいに考えている人がいるのも事実。

医療現場を圧迫しないためにも自らの身を、守って頂きたいと思うのです。

父も受け入れ先を探すという段階で、少々時間を要しました。
そういうのが現実です。

こうして重症患者の家族となった今、改めて正しく構えることを訴えたいと思い、この記事を書いています。

必要以上に怖がることもありませんが、僕らが得られる情報の中で、出来る感染対策、健康管理は丁寧に行うべきです。


マスクを正しく着用、手洗い、うがい、手指消毒、密になる状況を避ける。


もちろんそれでも感染するかも知れません。
何しろ、目に見えないものを相手にしているのですから。

それでも、対策もそこそこに生活するというのは、あまりに無神経だと思わずには居られません。


僕自身、様々な特性を持っている方たちと関わる機会が多く、人によっては取れない対策というものもあるでしょう。
(例えば過敏等でマスクがつけにくいとか)

それでも、代替策については考えながら生活をして頂きたいし、そういう努力を続けている人やご家庭を知っています。
なので、無神経な行動だけは控えて頂きたいと、敢えて言葉に使用と思った次第です。


最後に・・・
正直、自分の中を整えるのに若干時間を要していたりします。
そのため少々スケジュール調整をお願いしたりしているところがあります。
関わりある皆さん、ご理解とご協力ありがとうございます。

2021年5月8日土曜日

文字をきれいに書くことの意味って・・・?

以前は手紙だったものをメールやLINEで済ませるようになって、レポートなどもパソコンで書くようになり・・・とにかく字を紙に書くという機会ってどんどん減ってきましたし、まだまだへっていくのだろうな、と感じています。

そんな中、学習の場では「字をきれいに書かせる意味は?」という問題が出てくるわけです。

学校では特に「字はきれいに」が強いです。

おそらく「受験」「試験」で読めないものは×というものに繋げて考えている先生が多いのだと思います。
それはそれで進路保障を考えたときには必要な理由です。
学習内容が分かっていても人に読んで貰えない筆跡では、成果物としては不十分というところでしょう。


僕は、いろんな子たちと学習する中で「“きれい”でなくとも“丁寧”に書いた方が良い」と感じています。
その方が漢字とか英単語とかは定着が早い子が多い気がします。

何人かの子どもたちの話を聞いてみると、漢字でも英単語でも教科書に印刷された文字の羅列を記憶しているというより、自分が書いた文字、練習したときのことを紐付けて思い出す子が多いようです。

そうすると丁寧に書いている子の方が、筆跡が安定していて、記憶に紐付けしやすくなっているのでは?と仮定しているところです。

きれいで無くてもいつも似た筆跡で書けることは一つ、大切な気がします。



もちろん、文字を丁寧に書くという作業自体、大まかに言うだけでも、目で見ながら、指先を使う作業に加えて、注意を払いながら行うという必要があります。
ですから、それだけで生活に必要ないろんな要素を見ていくことも出来ます。

他にも情緒も比較的よく表れるものだと感じてもいます。

落ち着かないときには字も落ち着かない雑な感じになりますし、情緒が落ち着いているときには、筆記も落ち着いて行えるものです。

受験とか試験とか、そういうこととは別のステージで、生活に結びつくものもたくさんあるので、僕はどちらかというとそういう観点を持ちながら子どもたちの書字を見守ったりサポートしたりしています。



2021年5月2日日曜日

なんでラジオ体操をするのか?

デイ・ワークセンター こみこみ では、毎朝、朝礼時に利用者、スタッフの全員でラジオ体操をするところから始まります。

“仕事熱心な”僕😂は、「毎朝ラジオ体操をする意味」みたいなことを考えたりするのです。

ただ「そういう決まりで、習慣だから」とするのでは意味も半減なので。

もちろん動きの少ない方や、薬の影響等で朝のエンジンが掛かりにくい方のサポートの一環という側面はあります。
それに、その「習慣をつくる」ということ自体も目的になっているということもあります。

でも、僕の中で一番の目的はこれ。

「事故を起こさない」

エンジンをかけるためのサポート。
それはそうなんですが、その先ですね。

例えば工場みたいな現場だと、ラジオ体操をやるところって多いらしいです。
でも、長年やっているうちに「これ必要?」みたいな意見が出て来ることがあるそうです。

で、止めてみると、その前と比べると事故率が上がるということが、統計上は出てくるというのです。

不思議ですが、そういうものだそうです。

無事に1日を終えるための習慣をつくる。
その一環なんだと、僕は認識しながら取り組んでいます。

習慣って大切です。
個人的にはとてもそう感じています。

ただ、何でもかんでも「習慣だから」「例年通り」と思考を止めるのではなく、何故習慣にしているのかを意識しながらやる必要性はあると思います。

出掛けにくい連休。

自分の持っている習慣について考えたり見直したりする時間はたっぷりあります。

ゆるりと愛犬の散歩をしながら考えておりました。