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2017年4月30日日曜日

永田的、苦手克服のために「紛らわし」を上手に使うための6つのポイント

「紛らわし」
この言葉に良い意味を見出だすのは難しいかもしれませんね。
根本とか本質から目を背けているニュアンスが漂っている気がしますし。

でも、上手に使うことで、苦手を克服できることも大いにあります。

僕自身の使うときのポイントは以下の通り。

・紛らわしは、「苦手なこと」の回避ではない
・紛らわしを使いながら「苦手なことそのもの」に取り組んでいく
・対象児者の「イヤイヤ」が出る兆しが見えたときに使う
・「イヤイヤ」が出始めたら、それと同等程度のパワーバランスで紛らわしを使う(抑圧になってもダメだし、弱いと却って嫌な印象が強まるだけになるかも)
・「紛らわし」を使っているという自覚を持ちながら行う
・目を背けさせるのではなく、「苦手なこと」を楽しめる、という方向性を持たせる

この辺りでしょうか?

上手に使うと新しい体験作りがしやすくなります。

先日、ある子が「ここへ行くときには、必ずここを通らなければならない」というこだわりを持っていることが分かりました。

まぁ、別に他の道を通らなければならない訳でもないのですが、万が一「その道が使えない」ということになったときに不自由するだろうと思い、そのパターン崩しをしてみることにしました。

普段は通らない方の道へ誘導しようとしたら、瞬間的に体を強ばらせたのを感じたので、手を繋いで元気に手を振りました。

続いて「幸せは~歩いてこない~♪」と歌を添えました。

手をブンブン振りながら「幸せは~♪…」

端から見ても楽しそうでしょう?

そうやって周りも微笑んじゃうくらいの空気を作ると当然本人たちは自然と楽しくなってきてしまいます。

そうやって普段は通りたがらない道を歩く体験をしていくんです。

紛らわしを「苦手なことを回避する」為に使う人もいます。

でも、それって先送りになるだけで、いつか不自由することが来るかもしれないんです。

「先送りにしたり、ずっと付き合うから良い!」って思うかもしれませんが、困っているから先送りにしているんでしょう?

ずっと付き合う、と言っていても愚痴をこぼしているじゃありませんか?「うちの子はこういうこだわりがあって…。」みたいにして。

そういう不自由さをなんとか出来んかな?と考えていくのが、ぐるんぱの、僕の根っこ。

2017年4月29日土曜日

Eちゃんと神経衰弱を練習!

毎週金曜日に一緒にプールをしているEちゃん。
このブログでもお馴染みの彼女と、今日は、「放課後等デイサービスいーりすむなかた」で一緒になりました。

こちらの事業所は、少人数でゆったりと関わることを目指しています。
「えるそるむなかた」の2号店ですね。

4月より、「えるそる」と「いーりす」両方の子どもたちと関わらせてもらっています。

その「いーりすむなかた」で、子どもたちとパズルや塗り絵をして、途中でEちゃんと神経衰弱の練習をしてみました。
その過程をご紹介。

トランプを職員さんから借りて、「Eちゃん、一緒にトランプしませんか?」と尋ねたら、ノリノリで僕の横に座ってくれました。

最初は1と9のカード8枚を使ってスタート。
ルール説明として、こちらで数回めくって、数が一致したら「ピンポーン」、違っていたら「ブブー」と伝えました。

次に彼女にチャレンジしてもらいました。

初めは、手当たり次第にめくろうとするから手を添えてストップを掛けながら、一組ずつ確認してということを練習。

3~4回繰り返したら、2枚の数を確認するのだということが分かったみたいで、同じ数字の時に、こちらに見せてくれるようになりました。

「そうだね、正解、ピンポーン」
そう伝えたら、カードを脇に置き始めました。
たまーに違うのでも取ろうとしてしまうから、その都度「ブブー、もどして」ということを繰り返し伝えていきました。

次の段階は更に5のカードを加えて、やはり同じことの繰り返し。

カードが16枚にまで増えても、めくってペアが出来たら取る、ということが出来るようになりました。

ここで、カードを増やすのは一旦終い。

今度はゲーム性を深めることに。
今までの流れ、基本的にEちゃん1人でやるバージョン。
今度は永田と交互に。
2枚めくって、合致していようがいまいが順番に取る、ということをルールに加えてみました。

これが彼女にとっては難しかった。

Eちゃんがめくり永田…でなくて、もう一回取りたい!
そこに待ったを掛けて、永田。

え?っていう顔で僕を見るEちゃん(笑)

「はい、次どーぞ。」

Eちゃんめくる。
更にめくりたい…けど、止められる。

しかも、僕がめくったカードが合致したら取るものだから、悔しい!

なんでー??という彼女の主張が始まりました。

そこで、今日のところは譲歩。

彼女が一組取るまでやらせてみて、それから僕の番。

ここで今日のところは折り合いがつけられました。

これから更に深めようと思ったら…。

「ピンポーン」の時は続けられる。
「ブブー」の時は交代。

そういうルールなら彼女も分かりやすいかな。

それから、めくる順番の人が誰か分かりやすい仕掛けもあれば良いかな?
たすきとか。

まぁ、欲張らず追々。

彼女がみんなの輪の中でゲームをする日を夢見て。

2017年4月28日金曜日

「きちんと」「ちゃんと」「しっかりと」

仕事ではなく、地域の子どもたちの公園での会話。

楽し気に遊んでいるのですが、見ていると一人の男の子が女の子たちから怒られ始めました。

A子「(男児)君、『きちんと』ルール守りぃよ!」
B子「ちゃんと見ててよ」
C子「しっかり走ってよ」

見ているに、男児は手を抜いているわけではないけれど、女の子たちの連帯感、夢中度とは温度差があるのはある様子。

B子が責めてくるまでは黙っていた男児。

ところがC子から言葉を浴びせられたところで、我慢の限界だったのでしょう。

男児「お前ら、うるせぇよ!だいたい『きちんと』とか『ちゃんと』とか『しっかりと』とか分かりにくいし!俺、やってるし!男子でやるときは、こういうやり方やし!」

と鬱憤を晴らすように反撃。

「きちんと」「ちゃんと」「しっかりと」

その人の価値観に左右される表現ですよね。

そこをすり合わせるためにも、具体的な表現が必要かもしれません。

そして、子どもたちの落ち着いた生活にはそれが必要。

「家族としての歩み」を支える

今日は久しぶりに自宅のパソコンから更新中です。


今日は「家族としての歩み」ということについて考えてみたいと思います。
特に「親」や「夫婦」のことに視点を当てて。


人は生まれてから死ぬまで、というサイクルの中で生きています。
その中で各々が人としての役割を持って生きていくのです。
それが存在意義とか存在感とか生きる意味とか、そういうものに繋がるのです。

それは「家族」という単位でも同じことだと思います。
結婚し、家族が増え、自立し、年老いた家族はこの世を去り…サイクルの中にあります。
その家族の中で家族のメンバーはそれぞれの役割や責務を持っているのです。
父として、夫として、母として、妻として、長子として、末っ子として、長男として、長女として…とにかく、殆ど多くの人がそういう役割の中に所属しているのです。
(「家族」という単位に無自覚な人でさえも所属していることが殆どです。)


個人で課題や危機に直面した際に、課題を克服したり、危機を乗り越えるなり回避していき、成長をしていくことが求められる場面があります。

家族単位でもでも同じこと、あるいは似たようなことが起こり、求められます。
家族が、あるいは家族の誰かが課題や危機に、もしくは節目に直面した時に、お互いにその状況に適応し、対応をしていくのです。


「親」や「夫婦」としての役割は子供の成長に合わせて変化していくモノなのかもしれません。

幼児期の子の「親」「夫婦」と、思春期の子の「親」「夫婦」の役割は違ってきます。

その時期ごとの課題や問題、危機に適応し対応していくのです。

その「時期」も家族によって構成や生活習慣、慣習が違いますから、訪れる課題や問題や危機も違ったものになってきます。


家族での歩みをサイクルと考えた時、今、自分たちがサイクルのどのあたりにいるのか、ということを考えてみることは突破の糸口になり得るかもしれません。

あるいは支援者は対象の家族が、どういうサイクルを持ち、どういう位置に立っているのかを考えることが支援していくうえでは必要なのかもしれません。


特に、障がい児者が家族にいたり、不登校児が家族の中にいたりすると、その課題や問題、危機というのは一過性のものではなく、継続性が含まれていることも多く、家族メンバーも各々の役割や責任を見失ってしまったり、あるいは障がい児や不登校児がいない家族とは違ったプラスアルファの役割や責任を負うことも現実としてはあるでしょう。

そういうことを含めて考えて支えていくことが必要だと思います。

「父親」「母親」「夫婦」「兄弟」「姉妹」…
その家族における役割、これまでの歩み、これからの歩み…個人と家族のサイクルを考える。

たくさん話をして、たくさん聞いて、たくさん考えて…

2017年4月26日水曜日

続く「はい」、完結する「はい」

ちょっと前に「声を使う」云々というき字を書きました。

それに関連して。

今日は、中学生のOさんのプール。

彼女のプールについてここで書くのも久しぶりかもしれません。
順調に楽しみながら彼女らしく積み重ねをしていってくれています。

彼女に限らず、息継ぎは水泳をする上でネックになる人は多いと思います。
彼女もまた、息継ぎで苦戦をしている一人です。

ビート板を持ってばた足して、顔は水に浸けて上げてを繰り返すメニュー。
通称「顔浸けビート板キック」

声掛け1つで続けられたり、途切れてしまったりするから不思議なものです。

同じ「はい」という言葉でもイントネーションの付け方で違うんです。

彼女が続けられるイントネーションをずっと探してきて、少し前に見つかりました。
僕はその声掛けをひたすら続けます。
彼女が水から顔を上げた時に「はい」と。

餅つきの合いの手のように、気持ちよく泳げるようにタイミングも大切ですが、彼女の場合はイントネーションの方がより重要みたいです。

この声掛けももちろん追々省いていくものですが、今はその前段階として面倒がらずに必ず声に出します。

僕の声が無くなっても、僕の声掛けのイメージを持って、彼女自身が反復練習出来るようになるくらいになること。

それを目指していきます。
その為に、印象的な必要がありますし、分かりやすくある必要もあります。

僕のイメージも伝わるような声。
そんな声を使っていくこと。

彼女が泳げるようになっていくイメージを細かく砕いて声に乗せて。

2017年4月25日火曜日

メイクハッピー&ピースにて

メイクハッピー&ピースにお邪魔してきました。

宗像市で長年学習サポートを展開してきた団体です。
今度6月には、今までの活動に加えて放課後等デイサービスを立ち上げられるとのことで、今は準備を着々と進めていらっしゃいます。

これまでの学習サポートで培ったノウハウを活かしながら事業展開を考えていらっしゃるようで、今日は思いや目指すもの、構想…いろんなお話を聞かせて頂きました。

僕の活動とも通じるものがあり、上手いこと連携をしていけたら良いですね、というお話もさせていただきました。

本当に多角的な視点で、子どもたちのことを考えていらっしゃるので、きっと素敵なメイクハッピー&ピースらしい、事業展開が行われるのではないかと、楽しみです。

僕も子どもたちのためにも、応援していきます!

仲西さん、お声かけありがとうございました!
井本さん、仲西さん、長い時間丁寧に対応頂きありがとうございました。

2017年4月24日月曜日

宗像という土地での「日常」を考える

僕の仕事って、言ってみれば「子どもや、その家族の日常や権利みたいなものを保障する」ということだと思っています。

日常にメリハリは大切だけれども、日常が変化していくというのはとても大変なこと。

今、宗像は行政もそうだし、町全体としても世界遺産登録に向けて浮き足立っているところがあると思っています。

人もたくさん来るでしょうし、九州の地方都市としては町起こしの千載一遇のチャンスかもしれないので、それについて理解が無いわけではありません。

ただ、間違いなく町が変化をしていき、住民の日常に変化が及ぶ面があるだろうと思い、そこは危惧しています。

これまで、博多と北九州に挟まれたベッドタウン、みたいな役割が強かった町が観光地的な一面を持とうとするのです。

そういう町の中で、何をしていくべきか。

場合によっては、子どもや家族の現状の受容にだって関わってくる可能性があるのです。

じっくり考えていきたいと思います。

2017年4月23日日曜日

大人の効率化で子どもの経験が省かれている

「はい、ながたでございます」

幼稚園児の頃、母から教えられた電話を受けた際の初めの挨拶。

「はい、しょうしょうおまちください」

幼稚園児宛に電話が掛かってくることなど、ほとんど無いので大概が、親への取り次ぎになる訳です。

携帯電話もほとんど普及しておらず、家の電話もよく鳴っていました。

家の電話がなる頻度というか回数の母数が多いと、必然的に親が電話を取れない時も多くなり「じゅんや、代わりに出て!」と頼まれる事も増えます。

そうして辿々(たどたど)しく電話を取りました。
「はい、ながたでございます」
「お母さん(お父さん)ですね」
「しょうしょうおまちください」
「お母さん(お父さん)!○○さんからでんわだよ」
あるいは
「いま、でられないのでまたかけます」
と先方に伝えていました。

携帯電話が普及して、電話を受ける経験をする子どもって減っている気がします。

大概の連絡先欄に携帯の番号を記入し、用事があれば本人に直接連絡しますし。
それが双方にとって「効率的」であったりします。

学校の授業の一環で、どこかに電話をする機会はあるかもしれませんが、中には自分の携帯を所有するまで、電話を受ける経験をする機会が無いという子も多いのではないでしょうか?

僕自身の個人的な、30代になって思うところではありますが、幼い頃から電話を受ける経験をさせてもらっていて良かった、と思っています。

「おきゃくさま」と電話で話をして、丁寧に話さないといけない場面があることを肌で知り、上手に取り次ぎが出来たら電話越しの「おきゃくさま」からお褒めの言葉を貰って喜び…。

個人情報云々、安全云々…。
今の時代の価値観から言うと、「ザル」のようなこともたくさん小さい頃にはしていた気もしますが、あれはあれで良いものだったと思います。

効率化で子どもの経験も省かれている事ってたくさんある気がしてなりません。

前提と想定を分けて考えて準備をする

公園の遊具などは分かりやすいですが、あれには「正しい使い方をしてもらうという前提」があります。

遊具自体としては、その前提があれば取り敢えずは機能を果たします。

けれども、使い手のことについては「どんな人が、どんな使い方をするかという想定」を別にしていく必要があります。

そして、それに合わせて利用方法や注意書きを用意していくわけです。

例えばブランコ。

座面に腰を掛けるなり立つなりして漕いで遊ぶ、ということは前提。

座面を固定する紐なりチェーンを捩って勝手に高さを調整するという想定。
(これは一種の子どもたちの中で自然発生的に受け継がれる文化のようなものでさえあります)

子どもと関わる上で準備をしていこうと思ったら、前提については大人目線でも良いのかもしれません。
けれども、想定は子ども目線でどこまで想像出来るか、というのが鍵なように思います。

想定を膨らませるには目の前の子どもを知っていく、ということは当然のこととして、「自分が子どもの頃どうであったか?」という振り返りをするのもまた、大いに役立ちます。
あるいは「我が子はどうだったか?」という視点でも良いかもしれませんが。

子どもは日々成長し、日々変化します。
目の前の子どものことについて知っていることは「直前までの過去」の姿についてです。
準備をする際にはそういう前提を忘れてしまって、想定外に見舞われてしまう、というのはよくある落とし穴。

「親」という肩書きは、子どもがいて初めて得られるものなのだから

かれこれ1ヶ月半くらい、毎日「書くか書くまいか」「どうやって書こうか」と考えてきたことがあります。
これ以上考えたところで堂々巡りなので、書いてみることにします。

「親」という肩書きについて。

「これはお父さんの問題だから」
「これはお母さんの問題だから」
「これはお父さんとお母さんの問題だから」

と、子どもに対して言うなり思うなりする問題なら、それは子どもにも関係があるものです。

だって「お父さん」「お母さん」という肩書きは子どもがいて初めて得られる肩書きです。

子どもに触れられたくない、という理由で出てくる言い訳のようなものですが、「俺」「私」の問題ではなく「お父さん」「お母さん」の問題なのでしょう?

自分が起こした問題だから子どもには関係ないと思い込んでいるようですが、その問題が子どもに影響を及ぼしていると無意識ながらも自覚があるから「お父さん」「お母さん」になるんじゃないでしょうか?

いろんな事が起こります。
それ自体は仕方がないとして…。

子どもの方では(何なのだろう?)と疑問なり不安の種として心に落ちている問題なのに、「お父さんの問題」「お母さんの問題」という納得出来るような出来ないような言葉で踏み入ることを禁じられてしまうと、それはそれはしんどいものです。

不安を秘めて持ち続けるのは大変です。

それこそ破裂してしまいそうな程に。

子どもは無条件に親を愛してくれます。
だから、秘めて…。
でも、苦しくて…。

そうやって頑張ろうとしている子どもは多いです。

親になると子どもを守るという義務やら責任やらが生まれます。
当然。

でもその「守る」というのが一方通行だと思ったら大間違い。
子どもだって、大切な親、家族を守りたいと思ってくれているんです。

2017年4月21日金曜日

経験と勇気と自信と…。

経験する、というのは勇気も自信も必要です。

今日プールをしたEちゃんは、これまで「一緒に」クロールの練習をしてきました。
僕の腕に掴まりながら、両手を順に回して。

まだまだ泳げる、という段ではありませんが、来るべき時に備えて「1人で」泳ぐという練習も始めてみました。

直ぐに練習の意図は察したEちゃんで、最初は、これまで積み重ねてきた「自信」が後押ししたのですが、当然まだ出来るわけではなく…。
失敗してしまいます。
そこを克服する、その為の練習です。

2回目になると、まだ上手く出来ないことが見通せるので、葛藤が始まります。

この葛藤が大切です。
子ども自身にとっても大切ですし、支援者にとっても、その様子を知ることはとても大切です。

葛藤の仕方で、子どもの現状が把握できると言っても良いかもしれません。

勇気を支えるのは自信だし、自信を支えるのは経験だし、経験を得るためには勇気が必要だし…。

この循環の中で葛藤は起こっています。

その一種の心のカラクリみたいなものを見てあげると、どういう思いが表出して行動になっているのかが捉えやすくなると思います。

今日のEちゃんは、それが分かりやすかったです。

結局彼女は、僕からの注文に見事に応えて、素敵な笑顔を見せてくれました。

2017年4月20日木曜日

「姿」が含む「訴え」

学習の休憩中、分度器を手裏剣に見立てて遊び始めた六年生のH君。

H君「見ていてください」
永田「うん」
H君「ほら!」
永田「強そうやね」

しばらく投げては拾う、を繰り返していました。

H君「見ていてください」
永田「うん、見ているよ」

確かに僕は分度器を投げるH君、そして手裏剣の行く先を見ていました。

でも、何かしっくりこない様子のH君。
そこで、投げた後もH君を見続けてみました。

すると彼は投げた後にこちらに可愛い視線を送ってきていました。

目を合わせて笑顔を返すと満足気に、自ら学習机に戻ってきました。

彼が「見ていてください」というのは、「僕の『姿』を見ていてください」だったんですね。

「姿」「等身大」「心」…。
いろんな言い方があると思いますが。
「彼自身」の「訴え」が含まれていますよね。

こういうやり取りが大切、そう思います。
僕の関わりの土台。
学習にしても、 プールにしても。

問題が解けるようになる、泳げるようになる…。

そういうことも関係を深める要素ではあるけれど、土台はこちら。
間違いなく。

2017年4月19日水曜日

「遠足に備える、という話」の別の側面

先ほど書いた「遠足に備える、という話」の記事には、もう1つ別の側面があります。

記事中にも書いたように男の子は、集団の騒がしさが苦手です。

ですが、あの話をしているとき、彼の回りには一年生男の子が二人、中学生の女の子が1人、それに僕、支援員さんが二人同室にいました。
なかなかの人口密度です(笑)

その場で僕がしたかったことは、先ほどの記事に書いた通り彼の「準備」、ということが1つ。
それから、彼を「集団の輪に入れる」という事がありました。

彼の提供してきた話題で楽しげに話をしていたら一年生男の子は、気になって仕方がない様子で近寄ってきました。

「遠足」というキーワードは、チビッ子にはとても魅力的なんですね。
しかも、1人の一年生は六年生の子と同じ小学校。
ペアでこそありませんが、「僕も明日遠足」だと嬉しそうに輪に入ってきました。

もう1人の一年生も学校は違うけど「遠足」は気になる。
気になるけど、「遠足」は共通項でないから、「外遊び」のネタを持ち込んで、少し強引に輪に入ってきました。

ぎゃあぎゃあ、ワァワァなっていたら、中学生女の子もけん玉を持って参戦(笑)

六年生男の子を輪の中心に置き、彼とそれぞれの子との共通項を引き合いに出して場を作ってみました。

それはそれは賑やかで、一見バラバラなんですが、六年男子は必ず噛んでいる。
そういう場になりました。

忙しく目も耳も気持ちも、六年生男子は、周りの子に傾けていきます。

「集団の騒がしさが苦手」という割には、器用に切り替えをしているではありませんか。

僕との話題に付き合い。
一年生Aが同じ小学校ということに少し喜び。
一年生Bが外遊びネタで釣竿のオモチャを持ってきて使い方を尋ねられ…その竿が壊れているから「壊れているから直してみぃ」と僕から無茶振りされ。
中学生女の子のけん玉の達人ぶりに目を見張り。

うん、この過ごし方で良い。

輪の中にいる六年生男の子は、とても嬉しそうでした。

途中彼は、僕にオヤツを分けてくれ(笑)、一年生にもオヤツを分け…。

集団が苦手な子が、ですよ♪
良い時間だった。

遠足に備える、という話

予告したり、事前学習したり…。

そうやって物事に取り組むための心持ちを整えるのだと思います。

でも、やり方を間違えると「思い込み」に繋がったり、「楽しみを奪う」ことに繋がったりしてしまうことがあります。

ある男の子が「明日は遠足」ということを教えてくれました。

集団での騒がしさが苦手と本人は思っています。
確かにそういう集団で過ごすことが苦手という不器用な一面はあるけれど、「思い込み」もあって必要以上に苦手意識を持っているのもあるかな、というのが僕の見立て。

六年生になった彼は「一年生とペアにならないといけない」と話をしてくれました。
わざわざその事を取り出してくるということは、ドキドキしてるのかな?と思うわけです。

そこで、今日は「1年生にあそばれるばーい!こうやって振り回されるんよ。ブンブンって」(腕を振り回されている様子をコミカルに再現しながら)

すると彼はニヤニヤしながら「そんなんならんし」と。

いじわるな僕は「わからんよ~(笑)」と更に念押し。

「大丈夫って」(笑)

と彼は笑いながら話をしてくれました。
「ちょっと面倒」という本音と共に。

真面目な彼が、「きちんと」一年生をリードしていかなきゃ、と気負っているものをほぐすと共に、万が一「振り回される」事態になっても、「起こり得る」ことして心の準備が出来たら良いと思います。
そして永田のコミカルさを思い出して、ちょっとでも力が抜けたら良いなぁ、と願っています。



2017年4月18日火曜日

「問題」が起こるのは、大人のせいだと知る

子どもたちと過ごす上で、絶対ルールは必要だと思っています。

ただし、子どもたちがのびのびと過ごせるためのもの、というのは絶対です。

縛るようなルールを作るから却ってややこしくなるんです。

子どもたちが自ら考えて選択する余地は残しておいてあげないと窮屈になってしまいます。

子どもたちが、何か「問題(といわれるもの)」を起こすときには、子どもたちが「分かりにくい」「過ごしにくい」場になっていると自覚しなくてはいけないと思います。

大半が子どもの問題ではなく大人の問題。

何か起こるのは大人の準備不足。
そのくらいに思わないと。

子どものせいにしていても腕は上がらない。

2017年4月16日日曜日

ジャガイモは世の中の役に立っている

今日、作文指導で少し挑戦的な課題にチャレンジしてみました。
この春中学生になったK君への永田からの挑戦状のようなもの。

課題
「ジャガイモについて自由に書きなさい」

ジャガイモを目の前に置き、それについて思うこと、観察、考察、意見、連想するもの…。
自由に書きなさい、というもの。

これはとっても難しいです。

30分で時間を区切ることを伝えて、よーい始め!

…。
なかなか書けず、30分経った後に「一緒に言葉を見ていこう」と提案して、これまでに出てきた言葉を書き出してみることに。

書けなくても頭の中で呟きのようにして出てきた言葉はあるはずなんです。

それを拾い出して、その言葉を起点に、質問を繰り返しながら言葉を紡いでいきます。

このやり取りが面白いのです。

成果物として作文が出来上がるか否かは別問題。
やり取りに意味があります。

このやり取りになぜ意味があるのか?

これから書くことを読んで頂けると、幾分か分かるかもしれません。

K君から言葉を引き出していくうちに「普通すぎる」という言葉が出てきました。

ジャガイモとして、普通すぎるのだそうです。

永田「じゃあ、ジャガイモの普通って?」
K君「自然な感じ」
永田「自然?」
K君「整えられてない感じが」
永田「それがジャガイモの普通ってこと?」
K君「うん」
永田「じゃあ、『普通』を辞書で調べてみよう」
…。
『いつ、どこにでもあるありふれた様』という説明が出てきました。

K君、察しが良いのでなんか違和感を覚えてくれたようです。

『いびつ』であることが『普通』である、という点は着目すると面白いものです。
ジャガイモを2つ並べて形が異なってもジャガイモだと認識できるのです。
個性の話にもなっていきます。
体格も顔立ちも性格も違うけれど「人」として認知していくんです。
こういう話を論じれる可能性をK君は秘めているんです。
実際に会話でのやり取りでは、それに近いものに及びましたし。

それから、「ジャガイモは世の中の役に立っている」という言葉も彼から出てきました。
これが可笑しかった。

永田「ほう、どんな風に?」
K君「印鑑が(ポソッ)…。」
永田「?なんて?」
K君「印鑑が必要なときに作れる」
永田「あはははは!それ面白い!『世の中の役に立っている』で一番最初にそれが出てくるって、とっても良いと思う!あなたらしい!僕は食料としてのことかと思ったもん。他にも役に立ちそうかな?」
K君「水に浸したら蔓が伸びてくる…。」

これまた種芋の話を持ってきて、食料の話でも斜め上をいかれた感じがして、僕はとっても嬉しくなりました。

成果物にとらわれない、作文指導でした。

2017年4月15日土曜日

ありのままを受け止めるためには、自分を癒しながら仕事に向かう必要がある

相手の様子が「見えているのか」、相手の様子を「見ているのか」、この違いは大きいとおもうのですが…。

たとえば、目の前の人が寂しそうだとして。

寂しそうな様子が「見えているのか」、あるいは、「寂しそう」という風に見ているのか。

中立な目線で見えているものなのか、自分の経験から、そう見てしまう傾向なのか。

もし後者だとしたら適切な支援を行えるか怪しくなってきます。

そうならない為にも「自分を癒しながら」仕事に向かう必要がある気がしています。

食べずにはいられない心

食べること、僕も大好きです。

でも、「自分がどのようにして食べ物を摂取しているか」ということには注意深くなっているつもりです。

食べ方、食べているもの。

同じように子どもたちが食事等をしているときには、その様子を注意深く観察します。

僕の関わりの特性上、そうしょっちゅうではありませんが、機会があると観察します。

姿勢やマナーということももちろん見ますが、「どんな心持ちで食べているのか?」というところに着目したいと思っています。

姿勢やマナーと言ったものも、その「心持ち」の表れだと思うのです。

先日、ある男の子のオヤツを食べる場面を見ていました。

スナック菓子を食べていたのですが、味わっている様子が無いんです。
ただ、口に放り込んで口の中を、お腹を満たしているだけ。

いえ、もしかしたらお腹も空いていなかったのかもしれません。

何かポッカリしているところの穴埋めをお菓子でしているような、そんな印象です。

美味しい?と尋ねてみても「うーん。」

美味しいんか!?美味しくないんか!?とツッコミたくなるような生返事。

「僕にも分けて」と言ってみると頑なに「イヤ!」。

でも、食べ始めると目線もどこか上の空。

彼の食べずにはいられない心。

何を埋めようとしているのか。

そこを見ていくのが、僕の仕事。

2017年4月13日木曜日

たまには髭の剃り残しも役に立つ

身だしなみは大切です。
それはもう間違いなく。
気持ちが立つか立たないか、というところにも関わるくらいに。

でも、今日は髭の剃り残しが役に立ちました(笑)
そういう話。

夕方から学習を一緒にしている男の子が算数の問題を解いているうちに、手に力が入り始めて、直に計算ミスが続くようになりました。

どうしたのかな?と思っていたら…。

「先生、首動かすのやめてくれませんか?」

?(計算の様子を覗き込んでいたのが目障りだったか?)
「ん?何か気になっちゃった?ごめんごめん。」

「音が気になります」

?音?
「何の音?」

「服と髭が擦れる音」

!?
改めて動かしながら(スウェットを着ていました)
「この音?」

「はい、段々イラついてきちゃいます」

「そうだったんだ、ごめん」

この後、話をしてみたら、いくつか気になる音があることが判明。
昨年の秋くらいから、ある音が気になり出して、その頃から音が気になる場面が出てきたとのこと。

そうするとイライラして、集中力を欠いてしまうことを自覚していました。

また、その事を今日の今日まで自分の中に秘めてきたということも話をしてくれました。

頑張ってきたんだね。

音を立てないようにしたら計算ミスがピタリと止まりました。
苦手なんじゃなくて、出来ない理由が隠れていたんですね。

これから、その事に照準を合わせてサポートを組み立てていきます!

「学習が苦手」と一言に言っても、本当にいろんな理由、背景があるものです。

カミソリを車に積まないとな(笑)
朝に剃っても夜だと伸びてきてるんですよね~。

でも、今日は、髭の事が無ければ(いつかは分かったことかもしれないけれど)、気付かなかっただろうし、先送りにされていた問題です。
でも先送りにしてはいけない問題。

自己の存在感で満たしてあげたい

新二年生の男の子と新五年生の男の子とのやり取りから。

二人の立場は完全に逆転してしまっているように見えます。
(潜在的な部分では決して逆転している訳ではない気もします)
二人の抱える課題?が妙な噛み合い方をしてしまっているだけなのかもしれません。

二年生「ねぇ、これ持っとって」
五年生「えー」
二年生「良いけん、持っとって」

そう言って二年生が押し付けたのは、自分の靴。
周りの子が裸足で歩いて楽しそうにしているのに釣られて、靴を脱いだようです。
また、ぬかるみに入った直後で、物凄い汚れた靴です。
でも、五年生は断りきれず手を出して受け取ってしまいました。

二年生「絶対持っとけよー」
と走っていってしまいました。
五年生「…はぁ」

3分もしたら二年生が戻ってきました。
どうやら裸足が痛かった様子(笑)

二年生「靴!早く返してって」
そう言って靴を五年生の手から取ろうとします。

五年生「こういう時は何て言うと?」

(お!いいぞ)

二年生「はよ!痛いんやけん、早く返して!」
再度靴を要求して、奪い取るような形になりかけて、永田がストップを掛けました。

永田「いやいや、その言い方はあんまりやない?…云々。」

二年生には、ものの頼み方と、その後のやり取りを考えてごらんという話を。
五年生には、自分の立場を守るための話を。

今日の場面では、こういう話になりましたが、課題の根っこは別のところにあるから、都度の積み重ねから気付きを得てほしいところです。
なんとなくにでも。

二年生は、このやり取りを通して、大人を巻き込みたいのかな?という気配があります。
僕の話の時には、口では反発するような言葉を言いますが、目はじっとこちらを向いています。
話が終わった1分後には満面の笑みで道端に発見した花について語りかけてきます。

五年生は、自分の立場を投げてでも、側に人がいてくれる状況を望み、作ろうとしている節があります。
必要以上に大きな声でやめて!と連呼し、まるで「僕はここにいます!」というかのように。

子どもたちの課題であり、これは周りの大人の課題でもあるのかもしれません。

彼らが行動や反応で埋めようとする穴を、大人が如何にして満たしてあげるのか。

その満たしてあげるモノさえ決まれば関わりの方向性は決まるのだと思います。

そうする、のには理由があるんです。
間違いなく。

僕個人のスタンスとしては、この子らの存在感を満たしてあげたい。
その為の方策を考えていきます。