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2016年10月31日月曜日

棚卸しをしてより鋭く、より柔らかく、より的確に

自分のしてきたこと、考えてきたこと。

そんなものをまとめて、掘り下げて…

こういう作業をすると、日頃の自分がいかにぼんやりとした中にいるのか、ということを思い知らされます。

「自分に注意深く」ということを人にも言ってきたのに、自分のことは棚にあげてしまっていました(笑)

しっかり棚から卸したいと思います。

でも、この作業は必ず自分を次のステップに導いてくれるという手応えも感じながら出来ているので、ワクワクしています。

この作業が進むことで、自分のすることが鋭く柔らかく的確に子どもたちに届くと信じてもう少し頑張っていきます。

2016年10月30日日曜日

「得意なことに苦手なことを結び付ける」のか「苦手なことに得意なことを結び付けるのか」

「得意なことに苦手なことを結び付ける」ことと「苦手なことに得意なことを結び付ける」というのは、実は別物だということを意識したことがありますか?

苦手なものを先に持ってくるとやはり、「嫌だな」という思いが先立ってしまいます。

その為に「得意なことに苦手なことを結び付ける」という意識をもって物事に取り組むことが必要になります。

例えば英語の学習の場面で言うと、単語の覚え方。

「apple  りんご」という覚え方をしている人って多くないですか?

それって苦手な英語から入ってしまっているんですね。
「りんご  apple」と、使い慣れた日本語を先に持ってきて覚えるんです。

それだけでも違う、ということがあります。

更に言うなら「アップル」と読み方も片仮名で覚えてしまうんです。
英語らしい発音は後から、と割り切って。

漢字も読めないものはなかなか形も覚えられないですよね?

同じように読めない単語は綴りを覚えにくいものです。

そういう覚え方もあるんです。
(中学や高校の英語の先生が聞いたらオイオイ…と言われそうですが)

英語に限らず、得意なことと結び付けながら学習する習慣や支援があると良いですよね。

2016年10月29日土曜日

自己犠牲はいかん

支援に一生懸命になるのは良いと思うんです。
でも、自分を犠牲にしながらというのは頂けない。
はっきり言って、そんなのは誰のためにもならないんですよ。

人って敏感ですよ。

自分を不幸にしながら、関わろうものならすぐに察知されます。

すると「この人は私のために不幸になっている」「不幸にしてしまっている」と、途端に遠慮し合う関係の出来上がりです。

ましてや、それでお互いに「私たち可哀想ね」なんて傷を舐め合うのは支援でもないし、共感でもないです。

仕事は、幸せになるためにすべきです。

2016年10月28日金曜日

言葉として説明できる観察をしていくのが仕事

息子が指差しを(理解というにはまだ早い)始めたようです。

絵本を読み聞かせている時に、絵や文字、注目してほしい場所を指さししていたら、指の後を目で追って、ちゃんと見るべきところを見て、笑ってくれています。

息子の方でも、興味のあるものに向かって手を伸ばしてみたり、叩いたりしてみたりすることが増えてきて、それを僕なんかが手に取ったり「これ?」と聞くと喜びます。


離れたものを指さして注目できるようになるのはもう少し先かな?

でも一つずつ、彼のペースで出来ることが増えてきているようです。
この姿もまた、僕のエネルギーになります。



さて、この指さし。
コミュニケーションの際には多用しますよね。

息子の場合は指から離れたところをとらえることはできません。
でも、僕らは「ほら、あそこの」とかなり遠くのものを指さしながらコミュニケーションを進めることができています。
(すぐに伝わらなくても、伝えよう、理解しようと努力できます)


目の前の人がどのくらい自分から離れたものなどを捉えることが出来るのかを観察するのも支援では大切だと思います。


再三書いてきていますが、支援といいつつもどこか人付き合いの延長線上にある部分で、日ごろのやり取りでは、意識せずとも「この人は、このくらいまで伝わる」ということを感覚的に把握できていると思います。

でも、それだけでなくて、言葉で「このくらいのものまで捉えられます」と第三者に説明できるように捉えていくのが仕事だと思います。
距離とか指さしの話だけでなく。


そして、そうすることで他の人が支援に入った時にも対応出来たり、関係性を築く助けになったりするのです。

完全に均一化された支援というのはほぼ不可能です。
やはり支援者と対象者の関係性というものがありますから。
その関係性を築くのに言葉に落とせるような観察の仕方が必要なんです。
人が変わって、多少やり方が変わっても、「その人の像」の捉え方さえ擦り合せできれば、落ち着いた生活のためのサポート体制というのは作りやすくなると思います。




プール指導、学習支援請け負います。
その他、生活全般の相談もお寄せください。
お問い合わせは↓

090-5724-0660(永田携帯)
※支援中など出られない時もあるかもしれませんが、折り返しいたしますので、お気軽にどうぞ。

メール:gurunpa.munakata@gmail.com

叔父の言葉で仕事を頑張れている

親戚に、とにかく元気な叔父がいます。

「俺ももうすぐ70、気が付いたらジジィだぜ」
「俺、いまだに食事は8割肉だよ」
「この前なんかノロにかかって、ゲロゲロのフラフラだったんだよ」

遠方に住んでいて2年ほどもう会っていないけれど、会えばいつもこんなノリで明るく話してくる叔父。

僕はこの叔父が大好きなんです。
エネルギッシュで、ちょっとクセがあって、気が短いけれど、愛情深くて…

最近、いろんなところでお仕事をする機会を頂くのですが、叔父の言葉が支えになっています。


「謙虚に、まじめに働きな。それが淳君(叔父は今でも僕のことをこう呼びます)の良さだから。そしてこのまじめさはうちの家系の誇りだから。そうして愛される仕事を目指しな。時にはつらい時期もあるし、あなたのことを利用しようとする人もいるかもしれないけれど。それでもやり方を変えてはいけない。愛される働き方をしていかないと。気高くいなさい。」

と。


2年前、最後に叔父と会って食事をしていて、少し酔った叔父が僕に静かに話してくれました。

こんな親戚に囲まれていることを本当に最近になってうれしく思います。
(小さいころはこの叔父が怖くて仕方なかったですが笑)


いつだったかな?叔父と電話した時も
「今度は俺、痛風になっちゃってさ。ヴぅ~って、もう言葉に出来ない痛みなんだよ。それなのに満員電車で踏まれてよ。目玉飛び出そうになって、踏んだやつ殴りたくなったよ」
なんて言っていた叔父。


僕にもこんな血が流れてます。
どうぞよろしくおねがいします(笑)

2016年10月26日水曜日

子どもへの指示の出し方

指示の出し方として、「○○して」という目の前のやることについて指示を出すということが基本にあります。

でも、この指示の出し方だけだと、「次を見通す」ということがなかなか備わらない、という可能性も否めません。

目の前のことだけで、物事を完結させてしまうんですね。

でも、日常生活というのは、ある種の流れです。
物事一つする度に、ぶつ切りにしてしまっては生活力というところに結び付きません。

常に誰かについていてもらわないといけない、という段階から抜け出せなくなるんです。

だから「○○して」という指示が通るようになってきたら、次の段階として「○○して、次は△△して」というような流れになるような指示の出し方をしてみるんです。

すると、流れというか幅というか、子どもへの指示も減って、子どもが主体性を持って動く力が少しずつ養われます。

次にすべきことを見通して、自ら判断して(あるいは一連の流れとしてでも)行動を取れるようになると、本人も周囲も生活の幅はぐんと拡がります。

難しいことかもしれませんが、「この子はこれで良い」というある種の思い込みを捨てて、伸びしろを信じて、次の段階を考えていくことが支援者としてのすべきことかな?と思います。

2016年10月25日火曜日

反社会的行動に対する支援が「罰」にならないように

「いけないことはいけない」と、ルールを守ることの大切さを学ぶことは大切だと考えています。
障がいがあろうがなかろうが、地域社会で生活を送っていこうと思った際には、ルールを守ることは必要なんです。
でないと、居場所がなくなってしまいます。


僕はプール指導もしていまして、地域の屋内プールを「一利用客として」使わせてもらっています。
その際には特別な時間枠を設けてもらったり、専用コースを設けてもらったり、なんてことは一切しません。
一般の他のお客さんと一緒に、同じルールの中で使っていきます。
プールの中を小さな社会に見立てて、その中で上手に過ごす練習をしてもらいます。

でも、子どもたちはたまーにあるんですよね。
ルールを守れなくなってしまう場面が。
普段は守れている子が、何らかの要因があって、いつもと違う状態でプールに来て、ルールをつい破ってしまう、ということが。

プールサイドを走ってしまう。
飛び込んでしまう…
というようなことが(このくらい、正直なところ序の口です笑)。


もちろん最初のころには、プールでの過ごし方を知らない、分からない、という子もいるので、その際にはとにかく、都度伝えます。
(言葉であったり、絵であったり、一緒に体験するなり…方法はその子によります)

問題は、「普段は守れている子が守らなかった場合」。
僕ははっきり叱ります。
「おかしい」と。

そして、あまりにひどい場合にはその場でプール指導を中断して、プールサイドで「残り時間見学」ということも辞しません。


但し、その際に「嫌な思いをした」という体験だけにしてはいけません。
別に「罰」というわけではありませんから。
「ルールを守れないと使えない」という学びなんです。
それは別にその子に限った話ではなく、僕にも当てはまるし、他のお客さんだって同じなんです。

だから「ルールを守れない人は使えない」「今、プールで楽しめている人はルールを守っている人たち」ということを理解してもらわなくてはいけません。

これは障がいの重度軽度なんてことには関わりありません。
発語がなくとも、言葉での理解が難しい子であろうとも、その子に理解できる方法を使いながら伝えます。

そして、そのことをやるときには僕も一種の覚悟のようなものを持って行います。
見学という行為が「罰」にならないように、細心の注意を払いながら。

ルールを破った時には「だめ」と伝え、そのことと切り離して、今度はルールを守ることを伝える。

半端なことはしません。
一時見学させて、ほとぼりが冷めたら入る…それだと「本当は入りたいのに入らせてもらえなかった」という嫌な思いと「結局は入ることができた」という実に半端なことになりまして、ルールを守れないということがズルズルと複数回にわたってしまいかねません。


そうなると「永田とは楽しくない」ということになってしまいます。
あるいは「ルールを守らない→『半端な罰』」ということが習慣になってしまうと大変です。


なので、「何かを教える」時は本当に覚悟を持たないといけないんです。


僕も仕事を始めたころは、イマイチ踏み込めず、半端なことをすることも多かったです。
何回にもわたってプールサイドで子どもと鬼ごっこしていた時期もあります(笑)

でも、本当に彼らの居場所を作るという、僕なりの覚悟を持てるようになってきて半端なことも減ってきたと自負しています。


「罰」を使う人は「嫌な思いをする→その行動が減る」と思っているようです。
でも、「罰」となると大人が思うほどには効果は長続きもしませんし、行動の定着も期待できないんですよね。
むしろ「罰」の使い方によっては「しても良い行動までしなくなる」ということがります。
知っている子では、「してはいけない場所への落書き」をして罰を与えられたら「絵を描かなくなった」ということがあります。

ちゃんと「なぜここに絵を描いてはいけないのか」「絵はどこに描けばいいのか」などルールを教えられなかったためです。
「ルールの中でお絵かきを楽しむ」という学びが得られなかったんですね。

支援者側からすると「罰」で、即効性がある気がします。
だから多用したり、エスカレートしたりしがちなんです。

でもそれって「ビックリして固まっている」くらいのものなんです。
決して自分の行動を振り返ったり、考えたり、味わったりすることにつながっているわけではありません。

そんな風にならないように、「ダメなものはダメ」と教えて、「どうすべきか」ということを教えていくことを心がけたいものです。


お問い合わせ
090-5724-0660
gurunpa.munakata@gmail.com

宗像市日の里4-4-11
ぐるんぱ
永田淳哉

2016年10月24日月曜日

「有名にならないと!」の言葉に突き動かされて

ここ最近感じていること。

「自分探し」なんて言葉があって、中には旅に出てしまうなんて人もいます…(僕も少々心当たりが笑)

でも、結局のところ「自分」は外に求めるものじゃないんですよね。
自分と向き合う作業が必要なんです。
僕なりにそういうことはある程度日常的にしてきたという自負があります。

でも、「もっともっと突き詰めていくような作業が必要だ。細く細く突き詰めていって、そこから波及するのは構わないけれど、芯になるものは細く突き詰めていくのだ」と、ある方に教えていただきました。

なるほど。

こういう教えを頂くと、まだまだ自分がぼんやりしていたことを思い知らされます。

細く細く突き詰めて「その道のプロフェッショナル」になる。
プロ意識は持って仕事にあたっていますが、またそれとは別の次元の話…連続的ではあるけれど。

もう一度、これまでのものに加えて自分自身を見つめなおす作業をしていきます。



その方が同じときに「今の活動のような草の根的活動ももちろん大切。でも有名になることで出来ること、有名にならないとできないこともある」ということを教えてくださいました。

確かに。

必要とされる人になるために、「ここに永田という人間がいる」と知ってもらう必要もあるし、知名度が上がれば新たな人のつながり、引き合わせに恵まれるであろうということも併せて教えていただきました。

もともと割とエンジンかけっぱなしのタイプですが、「永田さん、有名にならないと」の言葉に突き動かされて、エンジンのかけ方、ベクトルの向け方を変えて、すべきことをクリアにしてまた活動をしていきます。

自分の活動、信念のために多少苦手なことも伴うと思いますが、目的をしっかり持って、目標を設定しながら頑張っていきます。

有名になるための活動ではなく、やはり子どもたちの文化づくりのため、支援の輪を広げるために。
そのために必要なこと、一つずつ積み上げます。


Y先生ありがとうございます。
永田頑張ります。
鍛えてください(笑)


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2016年10月23日日曜日

相手が自分に何を伝えたいのかをキャッチする話の聞き方

何かしらの出来事や状況を、誰かに伝えようとしたとき、話の内容は大差なくても、聞いてくれる人によって、伝えたいこと(キャッチして欲しいこと)は異なるものです。

仕事や子育て、人間関係、病気のような大変さを伴うことについての話もそうですし、楽しくて嬉しくて幸せな出来事でも同じことです。

「結婚します」という報告でさえ、伝える相手によって話し方を変えます。

例えば両親へ「結婚します」と言えば、「認めてください」とか「これから支度で迷惑かけるかもしれないけどよろしく」というものが含まれます。
恩師などへの報告となると「成長を伝えたい」というものが含まれることがあります。
友人へは「俺もついに身を固める決意をした」という意味が。
元恋人となると…「あなたより良い相手に出会えた。あなたより幸せになってみせる」なんていう嫌みを含むことだってあるかもしれません(笑)

大変な出来事にしても、話し方によって伝わり方は異なります。
「困っている」「悲しかった」「辛かった」「頑張ってみるよ!」「ただ聞いて」「私も頑張るからあなたも頑張って」…

とにかく同じ状況でも、無意識的であるにせよ、相手に伝えようとするものは変えているはずなんです。

だから、話を聞く時には「話の内容は」ということと「この人が自分に伝えたいことは」というものは分けて耳を傾ける必要があるんです。

そのことが自分の役割に繋がるのだと思います。

2016年10月22日土曜日

子どもたちの感性に触れられたときが支援者としての喜びに繋がっています

今日は、午前中に放課後等デイサービス「えるそる むなかた」さんでの学習サポート、午後からは個別の支援1件、その後放課後等デイサービス「といろ」さんでの学習サポート。

そんな1日だったわけですが、子どもの感性にたくさん触れられた1日でした。
その一部を。
「骨ゴジラ現れる!」(骨ゴジラは作った子がネーミングしていました♪)







小学生の男の子作です。
次は中学生の子の趣味。
御朱印帳。
「僕(私)にはこれがある」
「こんなのが好き」
そういうもの、皆さんお持ちですか?
それを持っている彼ら。
その事について語る彼ら。
めっちゃキラキラしてますよ!

2016年10月21日金曜日

言外の部分を擦り合わせる術を探す

例えば話し合いの場で、特定の人への支援を考えて、一定の方向性を共通認識として持つことができたとします。

そういったときに「早急に対応する」必要が出ることも多いと思うんです。
でも、「早急に対応する」ということが必ずしも目に見える形とは限らないわけです。

観察をし直して、特性であったり個性であったりを再認識するということだって「早急に対応する」ということに含まれるのです。

支援の根底は何であるか、日常的関わりを通して何をしなくてはいけないか、ということを押さえさえすれば必ず支援は前向きに、建設的に行われるはずなんです。

そこを捉えられないと慌ててしまいます。

言葉になる部分、ならない部分がどうしてもあります。

日頃から、同じ方向を見るためにコミュニケーションが必要なんだろうな、と考えています。

2016年10月20日木曜日

お土産選びだって自己表現!

教え子が、修学旅行のお土産にストラップをくれました。

長崎名物カステラをモチーフにしたキャラクターの、ちょっぴりシュールなデザインのストラップです。

僕と彼との関係性がよく表れているな、と感心しました。
本当に嬉しいお土産です。

どこにでも売っているようなお菓子に地名だけ変えて商品化してるものでも、義理で渡すお土産としては良いはずなんです。

それを渡す相手である僕のことを考えて選んでくれた、と言うから嬉しいじゃないですか!

お土産を上手に選ぶためには、彼のように自分との関係性が整理出来ていたり、自分から見て「あの人は、こんな人」とイメージ出来ていたりしないといけないんですよね。

普段、大人しくて表向きには表現の控えめな子でも、ふとした時に内面は表出するんですよね。

自己表現、いろんなやり方があります。

それを周りは上手にキャッチする準備だけはしてあげたいですね。

自分自身の持ち味は?

昨日の講演会&個別相談会、来訪頂いた皆様、「えるそるむなかた」「といろ」のスタッフの皆様ありがとうございました。

大和先生、お疲れ様でした。
次回は振られても支援者目線でお話出来るように準備しておきます(笑)
(完全に頼りないお父さんイメージでしたね笑)

さて、自分自身の振り返りとしては、1回目の個別相談会の時よりは幾分か方向性があったように思います。
(放課後等デイサービスなどで、実際に対面している子の保護者とのお話が中心になったこともあります)

カッコつけて無理に着地させなくても良い、というところで、自分自身肩の力を抜けていたのも大きかったです。

次回に向けて、というところでは、「自分のフィールドで個別相談にあたる」というところが僕の課題ですかね。

実践としてはある程度積んできているつもりです。
余程でない限り臆せずに対応に向かえる度胸も着けてきました。
前職場から含めて今までで言うと、もう100名を超える幼児から成人までの障がいを持った人たちと、その家族の生活を見ながら継続的な関わりを持ってきました。
原則個別で支援にあたり、それこそ「一人ひとりに適したものを」と、考えたり実践し抜いて来ました。

プールや学習を通して当人たちと関わり、それをツールとして彼らの生活、家族らの生活をサポートしてきました。

やはり僕自身の、一番の財産はこの経験なんです。

教科書とは違う、現場の臨場感や緊張感と、その場での判断…

そういう経験こそ、僕の財産で、人に話すときにはそれらを存分に出して、「自分らしく」というのが一番なんだ、と気付きを得ました。

さ、来月もまた今月よりか「自分らしい」相談会が出来るように準備していきます!

2016年10月18日火曜日

自分の生き方が気に入っています。

僕は仕事のために生きているわけではない、ということはハッキリ周りにも伝えています。

生きていくために仕事をしている、と。

そして、この仕事をしているのは「自分らしく」生きていくため、です。

起きている時間の多くを仕事に費やさずを得ません。
それなら自分の好きなこと、納得できることに時間も労力も費やしたい、と思います。

いろんな生き方があると思うけれど、僕は自分の生き方を結構気に入っています。

2016年10月17日月曜日

「一人ひとり」と「一般的」のバランス感覚を大切に

「一人ひとりに適したもの」を考えていくことが基本的には大切だとは思います。

でも、その一方で「一般的なものから離れすぎない」ことも大切だとも強く感じています。

余りに一般的なものからかけ離れると、「個別」というところから一歩出た途端に出来ない、という段階から脱することが出来なくなると思います。

やはりどんなに障がいがあっても「社会の一員」なんですから。
それを見越した支援策を考えていくことはとても大切だと思うんですよね。

あるいは、最初は離れたところからでも、少しずつ近づけるような策をしていかなくてはいけません。

支援だって、一歩間違えれば「特別扱い」というだけになってしまって、それが成長の妨げにだってなってしまうんです。

そのバランス感覚を保ったり、磨いたりするためには、いろんな物事に触れないといけないと思います。
福祉とか教育とか、そういうもの以外にもアンテナを張って、自分がどこにどうやって立っているのかを確かめながら。

お問い合わせ
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2016年10月16日日曜日

「個性」は良いものであって欲しいから

「普通」というのが、自分の経験や教えられてきたことで成り立っていて、必ずしも他の人にも当てはまるものではない、ということは分かっています。

そして、その自分の「普通」と違う点を相手に見たら、それをその人の「個性」と位置付けるのだということも。

そうすれば、大概のことが丸く治まるんですね。

でも、その場が波立つことなく過ぎても、納得出来ているか?は、また別の話なんですよね。

だって「個性」と言えばなんでもアリにする訳にはいかないでしょう?

「周囲が困っていること」を「個性」として許容し続けてしまうと大変です。

「個性」というのは良さであって欲しいと思います。
実に個人的な意見かもしれないけれど。

そうあるために「出して良いとき」「ブレーキをかけるとき」で使い分けの練習は必要だと思います。

それを出会う子達には伝えていきたい。

2016年10月15日土曜日

目の前の子どもに向き合うことが大切だ、という理由

子供たちは真面目です。
一生懸命です。

そして、これは僕ら大人も(大人になればなるほどかもしれませんが)失敗はしたくないものです。

「失敗しても良いんだから」と大人は子どもに向けて投げ掛けがちですが、子どもからしたら、やっぱり「失敗したくない」でしょう。

それなら大人は言葉で言うのではなく「失敗したからどーした?何てことない」という雰囲気を作って待ってあげるのが一番のびのび出来ると思うんです。

「失敗しても良いんだから」と口で言っている人が、目の前の子どもが失敗したのを見て「あっ!」っていう雰囲気を出したらダメです。

そこでドン!と構えてユーモアを出して「あれ?僕、失敗したと思ったんだけどなぁ~」と子どもが首をかしげるくらいに普通にしておくことも、支援の方法としては立派な手立てだと思います。


TEACCHプログラムだとか、構造化だとか、行動療法だとか、とにかくいろいろありますよね?

そういう体系化されているものももちろん大切ですが、そういうものの前にあるものを大切にすることだって、支援として成立し得ると思います。

体系化されているものも、もちろん勉強しなくてはいけないと思いますが、そういうものって、体系化するために実際的なケースや体験の積み重ねがあって作りあげられているのですから。

言葉として説明出来ない段階であったとしても、丁寧に目の前の子どもたちと向き合うと、体系化されているところと結び付きが出てくることもあるんです。

だから、普段の付き合いは丁寧にして、自分の中で構わないから「なんでこの方法を取ったか」ということを論理的に考えたり、振り返ったりすることが大切なんです。

2016年10月14日金曜日

愛を見出して仕事に当たる

無機質な作業、仕事って多いと思います。
そういうものに愛を見出だしたり、愛をもって向き合ったり出来る人って尊敬に値すると思います。

反対に、温もりを持って当たるべき仕事に馴れてしまったり、追われてしまったりして、無機的にしてしまっているケースもあると思います。

人がやる以上、人に向けてやる以上、仕事や作業には、なんとか温かさを込めたいですね。

そういう事が出来る人の周りには、人が集まるし、良い雰囲気が満ちると思うので。

2016年10月13日木曜日

人の寛容さが人を成長させると思う

日常から切り離されてしまうと、思考もどうも鈍るみたいです。

それでも今日も更新を。
いつもと違う思考でモノを書いてみるのも悪くないのかもしれません。

ある時点では非日常だったものが、日常へとシフトしていく、これが変化であり定着であると思います。

良いことも悪いことも。

でも、日常になっていく以上、受け入れていかなくてはならないんですね。

受け入れ方は人それぞれ。
それぞれの受け入れ方、受け止め方を受容する寛容さが必要。

寛容さが集まって人の成長、前進を支えているんだと思ったら、生きるってやっぱり良いものだと思います。

2016年10月12日水曜日

福祉に携わる人間としての責任

「もう、無理なんじゃないか」
「諦めちゃった」
「もうどうしたら良いか分からない」

こんな言葉と出会うことが少なからずあります。
時に怒りを含んだ声として。
時に悲しみを含んだ声として。
時に寂しさを含んだ声として。

以前はこういう言葉や声に引っ張られて、相手と同じように怒ったり悲しんだり、寂しがっていたように思います。

最近はさすがに引っ張られるようなことまでは無くなってきました。

やるべきことが少しは見えるようになったから、と思いたいところです。

引っ張られるのではなく、自分のすべきことと、責任を考えながら行動をとりたい、と思っています。

責任。
冒頭に書いたような言葉を例えば保護者などに言わせてしまっている現実が一部にはあるわけです。

それは決して誰か特定の人の責任という訳ではありません。

保護者が負うものでも、支援者が負うものでもなく。

そういう空気を作った文化の責任というか…
責任の所在を曖昧にするわけではありません。

その文化を作っているものとして、責任を担っていく。
そうさせまい!と責任感を持って、人と関わる。

そういうことが必要。

2016年10月11日火曜日

Amazonで買い物をして、お金や買い物の学習について考えてみたこと

先日お金の使い方について少し記事を書きましたが、その後もそれについて考える機会が続いています。

そしたら今日、自分がAmazonで買い物をして気づいたことがあります。

「買い物をする機会はあっても、お金を扱う機会は案外減っているかも」と。

どういうことかというと、現金で買い物をする機会は減る一方じゃないか?ということです。

僕もAmazonで買い物をするときはクレジットです。

コンビニもカードに現金をチャージして、実際に買い物したときにはカードをピッとするだけです。

おサイフケータイなる機能なんかもあって、携帯利用料と合わせて請求なんてこともあります。

紙や記録の上で数字ばかりが増減を繰り返すんです(笑)

こういう中で生活するとお金の感覚はなかなか身に付きません。
買い物をすることと、お金を理解することが切り離されてしまうんですね。

そもそも前述したカード払いやチャージ式なんかは「お釣り」という概念がすっぽ抜けるんですね。

良し悪しですが。
やはり現金をやり取りして買い物をすることが大変な人もいるわけで、そういう人が買い物しようとすると、これらの方法も便利であったりします。

どういう生活をして、何を身に付けておくべきか。
そういうイメージを持って学んだり体験したり、あるいはそれらをさせたりすることが生活力に繋がる気がします。

2016年10月10日月曜日

曖昧な表現が何を含むかを意識することで、支援が具体的になる

「心」とか「気持ち」とかいう表現を僕は割りと使うことが多いと自覚しています。

とても曖昧な表現だとも自覚しています。
でも、会話なんかでは柔らかさを含ませるために敢えて使います。

こういう曖昧な表現は、支援をする上ではあまり好ましくないかもしれません。
具体的に何を意味するのか分からないから。

でも、僕はこれらの言葉の中に「感情」とか「思考」とかを含ませています。

「感情」「思考」となると、支援の時に考慮していかなくてはならないポイントです。

なぜなら、それが障がい特性とは別の、個人の個性の部分をも意味しているからです。
ここが「特別支援」では大切。
だって「一人ひとりに適した支援を進めていく」ためには、人の部分を知っていかなくてはなりませんから。

「気持ち」とか「心」という言葉を例に出しましたが、曖昧な表現は普段は使っていても、求められたときには説明できるくらいに意識的にならなくてはいけないと思います。

でないと言葉が独り歩きを始めかねません。

僕自身も、普段使っている言葉が何を意味するのか?を考えながら、言葉は曖昧なものを表現として使ったとしても、支援としては具体的なものをしていけるよう勉強していきます。

2016年10月9日日曜日

大切な友人へ

大学時代からの友人の結婚式と披露宴に招待され出席してきました。

そこら辺にいる「真面目」とは違って、自分の持っている真面目さを気持ちよく周囲に伝えていける力を持った彼。

そんな彼の結婚式と披露宴だから、出席者みんながそれぞれに場や自分や相手をもてなし合う、そんな雰囲気が満ちていました。
もちろん、みんなが新郎新婦を心から祝福していました。

彼の友人でいられたことを本当に誇らしく思いました。
ありがとう。

マサキへ
昨日はゆっくり伝えられなかったけど、本当におめでとう。
招待してくれてありがとう。
いつも良い男だけど、今までで一番カッコ良かったよ。

奥さまへ
ご結婚おめでとうございます。
マサキは優しいから、人の幸せに直結するようなことになると、特に慎重で真面目になって、もしかすると多少、優柔不断に映るかもしれません。
でも、それは関わり合いのある人たちの幸せを真剣に考えるために、彼が必要としている時間なんじゃないか?と、僕は思っています。
そんなマサキを「わははとラララ」で支えてやってださい。
するとマサキは益々良い男になります!
しょーもないことしたら、シバいて良いですからね(笑)

お二人へ
結婚式と披露宴の準備をしてきて、昨日も緊張や気遣いで疲れたでしょう?
ゆっくり休んでくださいね。
素敵な時間をありがとうございました。

良いことも悪いことも一緒に覚えた大学時代。
その友人の門出に。
心からおめでとう。

2016年10月7日金曜日

便利なもの≠ためになるもの

例えばトイレ。
流すのを忘れる子っていますよね?
習慣化してないんですね、多分。

こう言ってしまうと乱暴かも知れないけれど、日常生活なんて習慣の連続。

トイレで用を足したら流すなんてものは、無意識的に出来るようになるくらいで良いものです。

でも今、便利なものが多くて、流し忘れ対策で便器からお尻を離して一定時間経つと自動で流れるものがありますよね?

そういう便利なものが増えると「し忘れた!」という危機感が薄れて習慣化しにくくなってしまうと思うんです。

もちろん、あの機能が必要な人がいることも分かります。

でも、習慣化すべき人の習慣を奪うことにも繋がっているのも事実だと思います。

トイレに限らず、便利なものに慣れると今までしていたものが、面倒になったり、忘れがちになったりします。

僕なら(今、関わりのある子達になら)、お尻を便器から離して一定時間経つと「流してください」っていうアナウンス流したりするものにするかなぁ。
「あ、そうだ」と思わせることが習慣化に繋がると思うんですよね。

便利なものが、ためになるものとイコールではないことを改めて肝に銘じていかないと。

2016年10月6日木曜日

「いるかいないか分からない読者」を意識するのを止めたらブログは書きやすくなる

ブログってハッキリ言って、どんなに良い記事を書いたって、「読む人は読んでくれるし、読まない人は読まない」ものです。

今日、ある方とお会いしたら「実はたまにブログを読んでました」と言って頂きました。

初めてお会いした方から、そんな風に言って頂いて驚いたし、嬉しかったです。

僕の場合、この「ぐるんぱのあしあと」は、どうしても仕事絡みの記事が多くはなりますが、プライベートのことも書くこともあります。

要は「僕という人柄を知ってもらうツール」なんです。

同じサービスがあったとしたら、もうあとは、「人柄」が選ぶ要素になると思います。
僕自身、家作りをするにあたって、ハウスメーカーを選ぶ時にサービス自体は大差を感じませんでしたので、決め手となったのは担当者との馬が合うか、でした。

そんなことって結構多いと思うんですよね。
「なんだかんだ、最後は人」っていう場面。

その「人柄」が伝わるブログだったら、記事に何を書いても良いと思っています。

書きたいことを書いていれば必然的に傾向、みたいなものは定まってくると思います。

そうして傾向が出てくれば、その傾向にアンテナを張った人が読んでくれるようになると思うんです(その前に、「見つけてくれる」という段階がありますが)。

そして共感出来るとか、興味を持つとかしてもらえれば、リピーターとしてまた読みに来てくれるでしょう?

そう。
初めに書いたように「読む人は読んでくれるし、読まない人は読まない」んですよ。
何を書いたって。

だから変に、「いるかいないか分からない読者」を意識して悩むんじゃなくて、書きたいことを書いて傾向を出していけば良いんだと思います。

すると更新するのがラクになります。

で、知ってほしいなら更新することは続けていく。
これに尽きると思います。

2016年10月5日水曜日

数字、お金、買い物…

数字を理解すること、お金を理解すること、買い物すること、それぞれ全く違う要素です。
そして、それぞれを理解しないと本当に地域の中で買い物をするということはなかなか難しいです。

全部は書ききれないけれど、例えば。

0~9という数字とそれらを使った数の概念。
この概念が育たないと、自分の身の丈にあったものを選別出来ません。

お金は、今現在は1円玉、5円玉、10円玉、50円玉、100円玉、500円玉、1000円札、(2000円札)、5000円札、10000円札があります。
それらを必要に応じて、手に入れるものの価値と交換するわけです。
そう、お金の価値を理解しないといけません。
でないと、無駄使いしてしまったり、オモチャ代わりになってしまったりするわけです。

買い物、ということも。
自販機や対面でも、お金を渡して物を受け取るということを理解しないといけませんし、お釣りということもあります。
やり取りがここで発生します。

いろんなやり方はあると思います。
よく知った仲なら、買い物をしてもレジで物を見せ、お財布から店員さんに必要なお金を取って貰うというやり方だってあるのですが。
それだけでは地域で自立していく、ということにはなかなか結び付きません。

だから、買い物1つにしても、どんな要素が含まれていて、その子、その人がどの要素の練習が必要なのか見極めないといけないわけです。

買い物に限らず。
当たり前に出来ている、している事の要素を考えていくことこそ療育の入口だと思うのです。

2016年10月4日火曜日

急な休校時、子どもの居場所は?そういう時の居場所はやはり、家庭が一番。

台風がまた近づいてきていますね。
今年は多い気がします。
皆さん、どうぞ気をつけてお過ごしください。

さて、今日、ある方と話をしていまして。

「台風で学校が休みになったら」と。

そういう時に子どもの居場所をどうするか?
そういう時に事業所なり、僕のような活動が機能すれば良い、そう思っていました。

しかし、今日、その考えが変わりました。

「学校が休校になったときは、保護者も休める」そんな社会が良いと思う。

今日、お話をした方は、そのように仰っていました。

確かに変わるべきは社会なのかもしれません。

まだまだ勉強して、考えることがたくさんありそうです。

2016年10月3日月曜日

妻のことが好きですが何か?

ちょっとのろけます(笑)

僕は結婚して5年半。
妻と出会ってからは、来月で10年です。

一緒にいれば「ええい!」と思うこともありますが(笑)、喧嘩ということになるとほとんど無いです。
僕は、基本的に仲が良いと思っています(笑)
僕は。

いえ、回りくどいこと言わずにストレートに言うと、妻のこと好きです。
しかも極端に言うと「昨日より今日の方がもっと」と言うくらいに。

で、思うんですよね。
僕の息子は幸せだ、と。

子どもの事を愛するのは大前提。
夫婦の仲が良く、信頼し合えているのは子どもに良かろう、と。

子どもに直に向ける愛情だけでなく、間接的に伝わる愛情というか。

そういうものが育むものも必ずあると思うんですよね。

今日は、変な記事ですみません♪

2016年10月2日日曜日

ハイキングサークル「カルムの会」

実は、お世話になっている保護者さんと、共にハイキングサークルを立ち上げまして。

今日は、その記念すべき一発目のお出かけでした。
場所は宗像大島。

みっちり散策、登山を楽しんできました。

今日は、僕と二組の親子。

のんびり和気あいあいと楽しんできました。

障がいがあると余暇の過ごし方って、考えないといけないことも多いんですよね。

その選択肢の1つとして提案出来たら良いのかな、と。

数ヶ月に一度、というのんびりペースですが、継続的に集まって、顔を合わせて、楽しめるものになっていけば良いかな。

あまり大所帯になっても大変だけど、まだまだメンバー募集中です!

2016年10月1日土曜日

話を聞くことで相手を元気付けられるか?

出来ているか、は別として心がけているし、練習していきたいし、勉強もしていきたいと思っていることです。

特に仕事として話を聞く時には、そうありたいです。

どんな苦労話も、どんな悲しい話も、どんな腹立たしい話も。

話を終えたときに、話す前より元気付けられたら良いと思います。

大変な事って人に聞いてほしいときが誰しもあると思います。

でも話をするというのは、自分の声を通して、その時の出来事や感情を追体験することになりかねない危うさを含んでいると思います。

そこで、一層傷付くようなら、話はさせない方がいい場合もあると思うんです。

話をすることで、「スッキリした」とか「言うだけ言ったから頑張ろう」とか、前に進むエネルギーを得られるようであるべきです。

そうするために、話し手に巻き込まれずに話を聞くことを目指していきます。

溜め込まず「伝える」ことは大切。
でも、聞き手は「どう伝えさせるか」をコントロールしないと、大変な輪が広がるだけになってしまいます。