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2016年9月30日金曜日

体系的に話をしていく

息子に歯が生えはじめてきました。
白い小さなものが歯茎から顔を覗かせています。
それ以外にも、日々成長を感じています。

健診に行くと、様々な発達について医師の見解が聞けるのも面白いです。

物事を体系的に伝える術が短い時間の間にてんこ盛りなんです。

やはり、仕事で話をする以上、主観で物事を見たとしても、それを伝える時には客観的に、聞く人も納得できるよう、体系立てて話をする必要があります。

自分の見立てを他の人にも伝えられてこそプロだと思いますし、それでこそ輪が広がるというものでしょう。

継続的に付き合えば付き合うほどに細かいものが感覚的にキャッチ出来るようになってきますが、それらを感覚のままにしていても、サポートの輪が広がることはありえないのです。

だから勉強して、論理的に話せるくらいになっておかなくてはならないのです。

勉強、頑張ります。

楽に長く人付き合いを

郵便の再配達を依頼して、配達に来てくださった局員さんが顔見知りの方でした。

仕事先で顔を合わせる方だから、自宅で会うのは初めて。

お互いに「あっ」という感じ。
そしてちょっとした小話を玄関先で交わしました。

こういうお付き合いというか交流って意外とバカにできないと思っています。


ちょっとした積み重ねでお互いのことを知っていけると思います。
顔色、声、姿勢…いつもの様子を知っていくんです。

その「いつも」と違う感じがするときに気に掛ける。


人付き合いが希薄になっている、とか言われていますけど、そういうことで十分なんじゃないかな?と。
いろんなところに顔を出したり、声をかけに行ったりするのももちろんあっていいのですが、それがないから希薄というのはちょっと乱暴かなと。


そして、こういう交流の仕方でいえば、僕の周りは比較的充実している気がしています。

僕に直接関わりのない人たちを眺めていても、バス停で待っている人たちが時折言葉を交わしていたり、スーパーで会釈し合っていたりしますし。


あるいは、ぼくもあまり好きではないですが、電話やメールといった一見すると見えにくいところで人付き合いを重ねている人となるととても多くなるはずです。

忙しい中で取れる手段でちょっとしたやり取りをしていて、実際に顔を合わせた時にそれなりのコミュニケーションが取れて、お互いの様子が知れればいい気がしませんか?


効率的、とかそんなことではなくて。
無理して長続きしないお付き合いよりか、楽に長く付き合えば良いんじゃないかな?と思います。

2016年9月28日水曜日

ワクワクさせられるか?

何かを出来るようになるためには、練習が必要です。

その練習って、楽しいものばかりではなくて、嫌だったり、辛かったりすることも多いです。

そんな時に絶対に必要になるのが「ワクワク感」です。
「これが出来るようになったら、こんな風になれる」と、出来るようになった自分を想像してワクワクすることが必要なんです。

支援でも教育でも、何かを練習させたり、身に付けさせたりしようと思ったら、まずは対象の人に、その想像をさせることが大切、という風に考えています。

想像して、成長することをワクワク出来るか?
これが出来るのと出来ないのとでは大違いです。

僕も、子供たちをワクワクさせられるか?を考えて活動していきたいと思います。

2016年9月27日火曜日

何故出来ないのか探る

例えば、字を書く、というとき。

ペンを持つ、書くスペースを見る、ペンの行き先を見る、手を動かす…。

細かくしていけばキリがないですが、いろんな要素が集合して、字を書くことが出来る訳です。

僕らは日常では、無意識に1つの動作として捉えている節がありますが、実はそうじゃないんですね。

こうやって、細かく見ていくことが療育の入口だという風に思っています。

細かく見ていく中で、どの要素が欠けて、動作としての躓きになっているのか探っていくわけです。

字を書くということが上手く出来ない時に「何故出来ないか」によって、やり方は全く違ってくるんです。

ペンを持つことなのか、座ることなのか、ペン先を見るのか、紙を見るのか…。

どの部分が抜け落ちているのかを探って、その取りこぼしきている部分に働きかけさえ出来れば必ず前に進みます。

そういう目をもっともっと磨いていきたいと思います。

2016年9月26日月曜日

引き出しを作るには、やったことを封印してしまわないこと

支援に於いて「自分には引き出しが無いから出来ない」と言って何もしなければ、引き出しは増えません。

上手くいくとか、いかないとかの差は大したことありません。
するか、しないか、の差に比べたら。

上手くいかなくても、してみたことは必ず自分の引き出しになっていきます。

だって、今、目の前にいる人との関係性では上手くいかなかったかもしれないけれど、他の人との関係性では、上手くいく方法だったのかもしれないじゃないですか?
あるいは、人とは言わず、場面が変わるだけでも上手くいくかもしれません。

1度や2度、一人や二人に上手くいかなかったからといって、その引き出しを閉めっぱなしにすることも無いんです。

それは、自分の引き出しにしておけばいいんです。

支援って、言ってみれば人付き合いの延長線上にあるものだから、人同士の相性だってありますから、何が上手くいくか?なんてことは、なかなか分からないです。

だから、やったことは全部自分の引き出しにしてしまって良いんです。

「あのときは上手くいかなかったけど、今回はどうだろう?」くらいに前向きで良いと思います。

あの時、上手くいかなかったから、と封印してしまうのは、もったいないです。

2016年9月25日日曜日

失敗を乗り越えたら良いものが出来ているはず

成功体験、ということについて先日書きました。
今日は失敗の仕方について。

失敗にも価値を持たせられるか?
それがとても大切だと思います。

生半可に取り組めば、失敗すら中途半端です。

本気で取り組めば、失敗にも価値が生まれると思います。

本気で取り組んで、失敗を前向きに捉えられると良いのかもしれません。
難しいですが。

僕自身、不器用で本当にいろんな場面で失敗してきています。

でも、思うんですよね。

「本当に許されない失敗ってほとんどないな」と。

人の命に関わるとか、そんな失敗にはまだ出会ってませんし。

ほとんどの失敗が一時的に恥をかくくらいで済んでいるんです。

それならいっそのこと、「失敗はする」くらいに前提に据え置いて、本気で失敗も含めて取り組む方が良いと思います。

そして、成功するまでやれば良いんです。

失敗を経てから仕上げたものって、乗り越えているわけだから、必然、良いもののような気がしませんか?

2016年9月24日土曜日

役割をもう一度確認

福祉と教育は、明らかに立場も役割も違います。
福祉で出来ない部分を教育で、教育で出来ない部分を福祉で。

絶対的にその区別は必要です。

で、僕自身、障がい児教育と障がい福祉の中間的位置で仕事をしているわけですが、自覚としては「福祉より」だと思っています。

学力を上げる、という事で言えば学校の先生方や塾講師の方達には、指導力は及ばないです。

ですが、教育という視点から手が届かない、という時にはしっかりと引き受ける準備があります。

つまり、「学習に向かうため(教育へ繋ぐため)の準備」が僕の役割です。

準備をしていき「学習の機会を創出する」というイメージです。

一緒に練習をして、学校なり家庭でも学習に向かえるだとか、人との関わりを重ねられるようになるだとか、そういうものを身に付けてほしいのです。

福祉の場で出来ることに限界はありますし、教育の場でも出来ない部分を請け負い、福祉で出来ない部分を教育に返して…。

そういう連携が欠かせないんだとおもいます。

成功体験を得るための一番の近道

成功体験を作るには何かを最後までやり遂げていくのが一番の近道です。

「成功体験」の大切さは、いろんな場面で言われるというのに、「成功体験をさせるには体験させなくてはいけない」ということが、すっぽ抜けている人が多いと思います。

何かを体験しようと思ったら、失敗と背中合わせの状態になることは当然です。

そういう状態だという、ある種の覚悟のようなものを支援者は持たないと、何も出来ないということになります。

覚悟を持たずにやるから、肝が座らず、いざという時に焦ったり、失敗をさせまいと妙な先回りをしてしまったりすると思うんです。
あるいは失敗したと見るや、そこで中断させてしまう。

僕自身の覚悟の仕方は、と言うと「失敗したところで止めさせない」「失敗したとしても、立て直すところまで付き合う」というところですかね。

それもしつこいくらいに。

周りの諦めは必ず伝わってしまいます。
だから諦めない。
何度でも、こっちがめげない姿を見せて、こちらが味わっているものを届けるんです。
こっちは諦めないぞ、と。

こっちが諦めたら「諦められた」と感じるでしょう。
すると「元々の課題でも失敗したし、人とのやり取りも最後まで出来なかった」と二重の失敗体験と諦めをすることになるんです。

鬱陶しいくらいに、しつこく付き合って最後までやり遂げて「出来た」と「人って悪くないな」って思ってほしいんです。

「見守り」だって主導権は手放さない

集団で何かに取り組むとき、主体性はそれぞれの人に持って貰うものですが、主導権というのは大勢が持つものではありませんし、持つ人がいなくなってもいけません。

それは、いわゆる「見守り」という場面であっても同じことです。

子どもに主体的に過ごさせてもアクセル踏みっぱなしにならないようにしなくてはいけません。

ある程度の枠組みやルールを示して、その中で過ごすことをして貰うことが必要です。

それが無いのは無秩序、ということです。
ルールが曖昧で何でもアリという環境で、一見楽しそうにしている子どもも多いですが、それは興奮しているだけなんですね。

どうやったら自分らしいところに戻れるのか分からなくなっている興奮に近いのではないでしょうか?

主導権を持つ人は、場にいる人それぞれの「らしさ」を知って、そこから外れないように「見守り」をしていくべきだと思います。

2016年9月23日金曜日

当たり前のことで褒めるのは止める

こういう記事はこれまでにも書いてきていますが敢えて。

「褒める」ということが子育てや教育では大切、ということをよく耳にすると思います。
と言うより、そういう風潮が蔓延していると言った方が良いかもしれません。

褒めること自体は、僕も必要だと思っています。
でも、僕は本当に褒めてあげたいところでしか褒めたくないんです。

して当たり前、出来て当たり前、そういう場面で褒めても自己肯定感を育むことにはならないと考えています。
いえ、むしろ場合によっては自己肯定感を奪うことにすら繋がるとも思っています。

人間関係もこじらせますし。

当たり前のことで褒められても嬉しくないですよね?
その子、その人にとって適切な課題を設定して、それを達成したときに褒めて「達成感」を味わってもらうのが、褒めることの根っこにはあると思います。

簡単だったり、して当たり前のことで褒められるとどうですか?
「こんなこと出来て当たり前だし」と素直に喜べないことがありませんか?
なんでそんな気持ちになるのか?

それは自分自身の評価と他者からの評価に差があるから。
「過小評価」されていると感じるからですね。

過大評価されるのも大変ですが、過小評価されて味わうのは、惨めさです。
これは一旦、その人の中に根を下ろすと厄介です。

褒められることで過小評価されていると感じる訳ですから喜べません。
当然です。

褒めた方は「褒めているのに喜んでくれない」と焦ります。

そして、やりがちなのが「ご褒美」。
褒めて喜ばないからモノを与えて喜ばせようとするんです。

ここが落とし穴。

モノを貰う(特にこういう場面で貰えるのは、好きなものであることがほとんどです)から、そりゃ、嬉しいです。

でも、それは「もらって嬉しい」に刷り変わっているんです。

評価されていることと結び付いているとは限らないんです。
切り離して考えていることが多い。

こういう落とし穴にハマっていると、次第に立場が逆転し始めます。
「モノをくれないとやらないぞ」と。
「あげるからやって」と。

そうなると自己肯定感云々ではなくなってしまいます。

褒めても喜んでくれないときにすべきは、モノをあげることではなく、課題の設定し直し。

して当たり前のことは、当たり前に流して、褒めるべき事で褒める。

そういうことを習慣にしないと、段々と本音を言えない関係にまでなっていきます。

する側になると、される側の気持ちを見失いがちですが、褒める前に「褒めるべきか」を考えるのも大切。

2016年9月22日木曜日

学習支援の考え方

昨日の下書き云々の記事を読んでくださったという方とお話をしていまして、「いわゆる学習サポート、学習支援ということについて勉強しようと本を読んでも、あんなことは書かれているのを目にしたことがない」というお声を頂きました。
「なんでああいうサポートの仕方なの?」とも。

そういう疑問ももっともだと思いますので少し書いてみようと思います。

この方にもお話をしたのですが、「いわゆる学習サポートについて勉強しても」ということですから、本に書かれているようなやり方は、ご存知の方も多いでしょうし、ネットなんかでアイデアは直ぐに検索できます。

他で知れることなんて書いても仕方ないんですね。
せっかく「ぐるんぱのあしあと」を読みに来てくださっているわけですから、僕ならでは、というか、個人的な経験談、エピソード的なものの方が面白いかな?と思って、書いているんですね。

僕も学習サポートの仕方は勉強として、本を読んだり、ネットで調べたりしますし、それで得たノウハウや知識を使うこともあります。

でも、子どもを目の前にしたときに様子を見ながら、その子の物事の捉え方、取り組み方を知っていこうとすると「あ、こんなことしてみたらどうだろう」と閃くことがあります。

それでハマると嬉しいんですよね。
それを記事にしているんです。

それにその場でパッと出来るものの方が本人の日常に結びつけやすいんですよね。

結局、事前準備を要するものだと、支援者がいないと出来ない、ということが多くなるんです。
もちろん、そこから徐々に離れていく段取りを組むことも含んでの学習支援ですが。

出来るだけ掛ける手を少なくして、自分で出来るイメージを持って欲しいんです。

そういう想いを持っての「ぐるんぱ」の支援なんです。

これは個人的な想いと経験から来る、僕の、ぐるんぱの価値観なんです。

2016年9月21日水曜日

何故下書きをするのか?と考えたら、下書きをさせない、というのもアリだと思った話。

絵を描くときでも、文章を書くときでも「下書き」をすることがあると思います。
あるいはしたことがあると思います。

何故下書きをするのか?

失敗しないようにするためですよね?

「失敗体験をしない(させない)」と捉えると下書きは必要と言えます。

でも反対に「自信がないから下書きをしている」とも捉えられると思いませんか?

だから下書きはラフになりがちだし、薄くなるんです。

自信があれば下書きは不要なんです。

学習の場に目を移すと、特に算数や数学では、余白などに途中の計算などをすることがあると思います。
それを薄く、こちょこちょっとしている子どもって多いと思います。

その「こちょこちょ」した感じをさせない、というのもありかな?と思いました。
こちょこちょしているのは、自信の無さの現れなんじゃないか?と。

計算を解かせるときにボールペンを使って、濃く、消せない、という状態を強制的に作ってしまうのです。

「消せない」と思うから、慎重になりますし、濃いから(符号などの)見落としも減るんじゃないかな?と考えてみました。

今日、それをある子に提案したら、上手くハマりました。
いつもは小さい字で、ダー!っと書いてしまう子がゆっくりと確かめるように問題を解き始めました。

そしたら「ゆっくりだったけど間違わずに出来た」と自分で達成感を味わっていました。

これでしっかりと自分で、落ち着いて確認しながら解くことが定着してきたら、鉛筆で、しっかりとボールペンと同じように書く練習をする…。

上手くいかないかな~?

楽しみです。

「 あったかママすぽっと」にお邪魔してきました

今日は、メイトムで行われた「あったかママすぽっと」の茶話会にお邪魔してきました。

2時間程度、テーブルを囲んで気になること、困り事、こんなことがあった…という
ことを互いに寄り添うようにして聞き会う、そんな場でした。

ときに真剣に、時に笑顔を交えながら。

暗くなり過ぎず、砕け過ぎず。

茶話会とか座談会とかって、そういうバランス感を保たないと深みも継続性も帯びないと思うんですが、それがある素敵な場作りをされているので、と勉強になりました。

日頃の「相談」という形になる前の「つぶやき」に似たことも聞こえてきて、こういう声を拾う場の必要性も感じたので、少し考えていきたいと思います。

どうも、お邪魔しました。
またお邪魔させてもらいたいと思います。

歩いて気づいた歩き難さ。丁寧に身の回りを振り返ることが大切

とある事情があって、夕べは日の里を3時間強歩くことになりました。

僕も愛犬の散歩があるので、よく歩いている方だと思います。
時間さえ許せば、朝晩一時間ずつくらい歩く日だってあるくらいですから。

でも、3時間も続けて歩き続けることってなかなか無かったんですよね。
すると、普段は気にならない、感じないことを感じるようになります。

この体験が良かったです。

僕自身、日の里での生活は満足しているので、不満とか生活しにくいとか、そういうことでなく、一つの視点、気付きとして以下を書いていこうと思います。

まず、路面の状態の悪さ。

歩き始めや普段の散歩程度では足腰も疲れない(元気)な為に、気にならないのですが、あれだけ歩くといささか疲れてきます。

そこまで歩かないと気づかなかったわけですが、アスファルトのひび割れ、継ぎ足し、凹凸、段差…それらの多さと、それらが生む歩きにくさに敏感になりました。

足腰の弱い高齢者、まだまだ未発達な子どもたち、車椅子…歩き難さを無意識的にでも感じている人は多かろうな、と。

次に夜道の暗さ。
歩き慣れていて忘れていました(笑)

日の里にもバス通りなるものがありまして、その通り沿いはある程度の明るさが保たれています。
夜の散歩は、極力そういう道を選んで歩きます。

ですが夕べは、他の道も歩きました。

すると暗い暗い。

これって平時は良いけど、有事の時には大変なんじゃないかな?
前述の歩き難さと併せて考えると余計に。

星がよく見えるとか、自然の多いところが日の里の良さだとか、良い面に目を向けるとそれはもっともなんですが、家々が立ち並ぶ住宅街で感じる必要は無いのかもしれない、と思いました。

少し大きな公園だとか、少し移動すればそれらが楽しめるとか、そういう町作り、区分けでも良い気がします。

日の里、というか宗像も多くの自治体と同じように高齢化に悩み「誰もが住みやすい」的な町を目指しているのですから。

そして、今朝になって気づいたんですが、靴底が汚れていました。

ガムやらゴミやらを踏んでいたんでしょうね。
普段は無意識に避けているものを暗さゆえ避けられなかったんでしょう。
足元の悪さに意識が向くから尚更、ゴミ類を避けるなんて後回しになっていまし、普段はそんなこと意識して歩くことはありませんから。

これはどちらかと言うと、暗さや道の件のハード面に対して、僕らの心掛けや町への愛着だとかソフト面の話になると思います。

実家のある小郡市希みが丘では、「ペットオーナーの会」なる組織があります(母も立ち上げ当時のメンバーだったりするのですが)。
そこが数ヵ月に一度地区内を「犬の糞拾い」と称してゴミ拾いをしています。
マイクで「ペットオーナーの会です。糞拾い、ゴミ拾いをしています。」と呼び掛けながら。

すると、立ち上げ当時に比べて地区内のゴミは明らかに減りました。
糞のやらせっぱなしも減りました。
ノーリードで散歩する人もほとんどいなくなりました。

小郡市が良いとか、宗像が悪いとかでなく、ちょっと動いてみるだけで変えられるものもある、ということです。

思いがけず、住み慣れた町への気付きが得られました。

日常を惰性でなく、丁寧に見つめ直すってたまには必要ですね。

それでも、こういったものがありつつも、僕が住みやすいと感じるのは、ご近所さんとか人の繋がりがしっかりしているからだと思います(うん、きれいに着地させた笑)
いえ、本当に今挙げたものを差し引いてもこれは住みやすさに繋がる要因となり得ています。

僕も子どもをここ日の里で育てていきますし、仕事もしていきます。
今いる、ここがどんな場所か、何があって、何が足りないのか…

考えながら、僕の思う文化作りをしていきたいものです。

2016年9月19日月曜日

下手な鉄砲でも撃てればよし!それがスタート。数撃つのはその後。

下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる、という言葉がありますが、その鉄砲も撃つこと自体が大変なことがあります。
勇気が湧かなかったり、そもそも撃ち方が分からなかったりして。

まずは撃つことをしてみないと。
なんなら暴発でも良いから(笑)

それで少しずつ撃ち方が分かってくるんじゃないかな?

撃てるようになってきたら、数を撃ってみたら良いんです。
慌てなくて良いから。

で、数を撃つ内に、どんな弾が当たるのか当たらないのかをしっかり見届けて、自分の財産にしていくんです。
ずっと数を撃つやり方ではやっぱりダメです。

撃ち方を工夫して、当たりやすいものを見つけていかないと。
でないと、疲れてしまって続けられなくなりますよ。

撃つための方法、撃ち方…とにかく自分の軌跡を追いかけながら下手な鉄砲を撃っていくのが大切なんじゃないかな。

一番勿体ないのは、撃とうとしないこと。
それは出し惜しみ。

2016年9月18日日曜日

講演会を出来る人のスゴさはここ!

今日の大和先生の講演会、僕もものすごい勉強になりました。

内容の事で言えば発達障がいのことについての入り口?的な話だったので知っていることも多かったですが、やはり最前線で活躍される方は情報も早い!

へぇ…そんな風に変わってきてるのか。
なるほど。

と唸ることも多かったです。

いえ、そんなことでなく…勉強している、現場で活躍されている、その中で得た知識と経験とを本当に上手に体系立てて、多くの人に理解してもらえるように整理をして、言葉に落とし込めていて…自分の中にあるものを、自分の中にだけでとどめてしまうのではなく共有する…

こういう活動こそ、本当に理解の輪を拡げたり、仲間を増やすのには必要なことなのだと思いました。

勉強だけして話すのでは、臨場感に欠けるし、勉強不足で現場の様子だけだとどうしても感覚の話に偏りがちになります。

そのバランス感を保って話すには、やはり両方必要なんだと思います。

僕もあそこを目指したい。
…素直にそう思わされた講演会でした。

僕の土俵でそれを展開する。
一歩前進のために必要なこと。

もっともっと自分の日頃の活動の振り返りをしていくことから。

「えるそる むなかた」「といろ」共催の講演会&個別相談会

今日は、「えるそる むなかた」さんと「といろ」さん共催の講演会ならびに個別相談会でした。

僕は先述の通り、個別相談会を担当させていただき、学習や生活面についてお話をしていきました。

今後の関わりが生まれるのかどうか分からないケースに時間内で話をする、その難しさを感じましたが、宿題として勉強していきます。

話の着地点を見出す、あるいは着地をさせずに考えてもらえるような種を撒くのか…

いつもとは違う保護者との向き合い方になりました。

今日お話しした方に限らず多くの方が「我が子との関わりがこれで良いのか自信が持てない」という声がたくさんあります。

基本的には、「間違いはない」です。
一生懸命に関わろうとして、特にこういう場にまで足を運んでくる方たちですから。

親子としてしっかり繋がれていると思います。

その繋がり感の後押しになれればいいな、と思います。

僕自身、本当に貴重な場を頂けました。
今回の企画、6回シリーズなので、積み上げてより質のある相談会に育てたいと思います。
また宜しくお願いします。

2016年9月17日土曜日

落語に学ぶ、相手に伝える方法

つい今しがた、TVで三遊亭円楽さんの落語を見ていました。

こう言うと上から目線のような気がしますが、他に言葉が見つからないので…

さすが!の一言でした。

学ぶものが多いです。
話始めの導入の際には、羽織を着ていて本題に移る間際にゆっくりと羽織を脱ぎ始めるんですが、その流れの自然なこと!

そして落語ですから、身振りと言うか動きのある表現が言葉と併せてあります。

その動作と言葉の表現で、聞き手に場を鮮明に想像させるんですね。

僕なんか、聞きながら段々円楽さんが、円楽さんに見えなくなっていました。

登場人物の二人の男に見えてくるんです。

人に伝える、ってこういうことなんだと思います。
自分の頭の中にあるイメージを相手に共有させる。

子どもたちにしても、保護者にしても、誰かに僕の考えなり意見を伝えるというのは、円楽さんの落語のように鮮明に相手に届ける必要があるのかもしれません。
あるいは、相手に想像を膨らませるような話し方である必要があるのかもしれません。

語気、言葉の選び方、身振り…そういうものにもっともっと注意深くなって、相手に伝わる方法を模索していきたいものです。

学習サポートとしての役割

明言させてもらいます。

僕の学習サポートは、学力を上げることが目的ではないです。

子どもたちの生きやすさに繋がるサポートです。

学習を通して学力だけでなく、いろんな姿が見えてきます。

「この子、こういうところは身に付けておいた方が良いだろうな」
「この子は、こんな特性があるのか、そしたらこうやれば良いんだという気付きをあげたいな」

…そんな感じです。

結果勉強が必要です。
勉強という日常的に必要なもので、取りこぼしてきたものを拾おうということです。

生活しやすさ、生きやすさに直結するものを目指したい。

そう思います。

遊べ!感じろ!それが学びになる

今日の「えるそる むなかた」さんでの学習サポートは、少し雰囲気を変えて「外遊び」にさせて頂きました。

学習そのものにももちろん意味はあります。
でも、部屋にこもって、机上での付き合いだけになると見えるものと見えないものに偏りが出てくるんですよね。

それを修正するためです。

体の使い方、ルール、集団でのやり取り、性格…いろんな面を見つめ直すきっかけになりました。

遊びも主導権を持つ人間がいて、狙いを持って(狙いが外れることがあっても良いけど)展開することで、学びになります。

リーダーシップを狙いを持っていない人に持っていかれると、あっという間に無秩序状態になって、賑やかさが騒がしさに変わるし、ワイワイがザワザワに変わるし、楽しいが困ったに変わってしまいます。

整った、落ち着いた自由の中で、子どもたちにはいろんなものを感じてほしいと思います。

特別な道具やゲームである必要はないですが、狙いは必要で、狙いは持っているだけで、場の展開がしやすくなります。

こちらの狙い通りのものを感じてくれなくても、場が整ってさえいれば、子どもにも周りにも収穫が必ずあります。

今日は、そんな想いで外遊びに出ました。

さ、見えたもの、見えなかったものを精査して、必要なことをまた積み上げますぞ。

2016年9月16日金曜日

駄々をこねる意味ってなんだろう?と考えてみる

もちろん、時期やその子によって駄々をこねる意味は違うと思います。

違うとは思いますが、根本的には葛藤であることは間違いないだろう、と個人的には考えています。

イヤだイヤだ!
(でもやらなきゃ)

イヤだイヤだ!
(でもやってみたい)

という気持ちのぶつかり合い、葛藤の現れではなかろうか?と。

これは昨日の記事に書いたブレーキとは逆にアクセルを踏みにくいがために、イヤだ!の方が目に見える形で表出しているパターンですね。

やってみようよ。
ほら出来た!
という積み重ねで、アクセルを踏む勇気を出す練習をしていくんです。

もう少し言うと、イヤだ!イヤだ!は、ドキドキの現れですから、それを真に受けて「嫌なんだね」と止めさせてしまうと、気持ちのぶつかり合いも出来ずに、気持ちのやり場が無くなって、却ってこじれていってしまう気がします。

駄々は上手にこねる練習をさせないといけないと思います。
駄々をこねさせないとしんどいだろうし、こねさせ過ぎると頑張る気持ちを立てる機会を失いかねません。

愚痴をこぼしながら頑張るのと一緒で、駄々もこねながら頑張れたら素敵ですよね。

2016年9月15日木曜日

ブレーキを踏むことを教える

気持ちの上のアクセルを踏むことより、ブレーキを踏むことを教える方が難しいと、個人的には感じています。
相談を受けていても、ブレーキの踏み方についてのことの方が圧倒的に多いと実感としてあります。

つまり「やってみようよ」と後押しする働きかけをするより、「ちょっと待った」の練習をさせる方が難しいということです。

なぜなら、アクセルを踏む時には夢中になれそうなものを用意してみたり、達成感が味わえたりして、気持ちが満たされることが多いですが、ブレーキを踏む時には、その意欲だったりこだわりだったりを一時的にでもセーブさせることになるので、本人にとってとてもしんどいからです。

でも、ブレーキは大切です。

周囲と足並みを揃えたり、マナーやモラル、ルールと言ったものを守ろうと思ったときに必要とされることが多いです。

ブレーキを踏めないときに、本人よりも周りが先に困り出すことも多いですよね。
それもまた、本人が困った感を味わえず、周りからの押し付けのような形になる原因かもしれません。

ブレーキを踏むとみんなと上手くやれる、そういう体験を実感出来るはからいを周りは用意すると良いのかもしれません。

そうすることで、ブレーキを踏むこと≠苦痛となり、ブレーキを践むこと=達成感へと繋がるのではないか、と感じます。

2016年9月14日水曜日

その対応、説明できますか?

支援をする際、その場での対応、というものを求められることも当然あります。

でも、それと行き当たりバッタリとは違います。

集められる情報は集めて、それらを総動員して選択肢を挙げて、より良いものを探していくことが必要なんだと思います。

だから、後から「なんであのやり方?」と尋ねられたら、説明を出来ないといけないとも思います。
もちろん、それが教科書に書かれるように整理されたものである必要まではありませんが。

それでも「なるほど」と周囲が納得出来るくらいのものであるべきとも思います。

そして説明を出来てこその支援ですし、地力になっていくし、何より輪が広がっていくのだと思います。

今日の記事は、僕自身へ向けて。

2016年9月13日火曜日

「家族」という視点が外れるとややこしくなる、という話。

我が子を理解したい、というのは保護者、親として当然の感覚です。
僕自身も我が子が生まれてから、彼のことを知りたくてたまりません。

本当にごくごく当たり前の感覚です。

そんな中、いろんな育児本を読んだり、人からアドバイスを受けたりして、「子ども」について学んでいくわけです。

知識であったり、技術であったり…他から学ぶものは多いです。

ですが!

目の前の「我が子」について書いてある本も、目の前の「我が子」に関するセミナーも世の中にはありません。

なので、本やセミナーで得た知識と合致しないことも当然あるわけです。

それなのに、仕入れてきた知識を活かさなきゃ!と、無理矢理に「我が子」を「子ども」に当てはめてしまうと大変です。

勉強することの落とし穴です。

「子ども」という型にはめるのではなく、「我が子」を見ていくことをしなくてはなりません。

「我が子」を知る手掛かりとして、「子ども」について勉強をしていく。
そういう感覚です。

それを忘れてしまうと、ややこしくなるんです。

僕も「我が子」や「仕事で出会う子どもたち」を知る手掛かりとして、「子ども」のことについて勉強していく視点を絶えず持ち続けたいと思います。