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2017年8月31日木曜日

「夏休みを頑張った」子どもたち

今年の夏休みも、もう終わりますね。

この終盤、僕は子どもたちに向けて「頑張ったね」という言葉を掛けたいという思いが沢山湧いてきました。
実際に掛けもしました。

この「頑張ったね」、夏休みの宿題などすべきこと、しなくてはならないことへの取り組みに対して、というだけではありませんでした。

「夏休みの過ごし方として」
「夏休みに抱えたり直面したりした葛藤」

こういうものに「頑張って」向き合おうとする子どもたちの姿が印象的な夏でした。
「頑張った」というより「踏ん張った」という感じの子も多かったように思います。

もちろん、これは「僕の見え方」の話で、本人達にすれば息抜きもリフレッシュも出来ていた、ということも有り得ます。

それでもすべきことや、しなくてはならないことを、沢山課せられていて、「忙しい休み」という、なんとも不思議な過ごし方をしていた子が多かったというのは、1つの事実のように思います。

別に誰が良いとか悪いとか、正しいとか間違いとかではなくて。

それぞれに子どもへの見立てや意図や思いを持っているのでしょうから。

僕は、と言うと「頑張るというのは続けること」という考えを土台にしていますから、それに従って「今、この子に対して何をすればバランスが取りやすくなるかな?」ということを行動の、支援の指針にしていました。

何かを課すにしても、支援するにしても、本来は休みにゴロゴロする権利とかもある子達、ということだけは頭の片隅に置きながら関わっていくようにしたい。
そういうことを強く考えた夏休みでした。

子どもも大人もお疲れさまでした。
また夏休みとは違う日常が始まります。
みんな風邪引かないように!

2017年8月30日水曜日

9月1日開所予定の「あっぷっぷー」

今日は、9月1日に新規で開所する放課後等デイサービス「あっぷっぷー」という事業所を開所前に訪問してきました。

代表の方は「全国の評判の良い事業所を見て勉強してきた」というとても勉強熱心な方。

施設内には、絵カードをはじめ、視覚的な支援もなされていましたし、療育活動のための道具も既に揃っていました。
(まだまだ揃えていくようです)

「あっぷっぷー」では、先日、別記事でも書きましたが、平時は「サッカー療育」をしていくそうです。
サッカーを療育に、療育にサッカーを。

これも面白い取り組みだと思います。

集団とか人混みが苦手、と言われることの多い子どもたちに集団スポーツを通してソーシャルスキル、コミュニケーションスキルの育みを目指すということのようです。

僕が地域の中でプールや学習をしていくことと、ツールは違いますが通じるものがあると感じたところでした。

サッカー自体は宗像市内の運動施設を使っていくようです。
「あっぷっぷー」の施設内のことを前述しましたが、例えば土日、長期休暇、1日外でサッカーする訳ではないので、屋内活動の体制も整えている、という位置付けです(それから児童発達も取り組むのだとか)。

基本はやはりサッカーを、ということです。

特色の濃い事業所で、他事業所と方針のバッティングも、あまり心配無さそうで、子どもたちの新たな選択肢になりそうな予感がします。

代表の方も仰っていましたが、他事業所との併用という子がメインになりそうです。

また1ヶ所、頼もしい仲間が増えました。
これで宗像市の支援もまた変化するでしょう。
その中で、それぞれが「どこを」「何を」担っていくのか。
それを考えていかなくては。
ネットワークの網の目を細かくしていかなくては。

出会いも大事だけど、別れ方も大事なんだよ

「出会いに感謝」とか「良い出会いを」とか、そういうフレーズはいっぱい耳にするんです。

でも、そうやって良い出会いに感謝したり、相手の良縁を願ったりなんて言うのは、正直言って…当たり前。
相手が自分にとって大切な人なら尚更。

「出会いに感謝」をお祭りみたいにしちゃう事ってありますよね?
あの雰囲気が僕は正直言って苦手です。
どうもあの雰囲気で相手との時間を味わうということが薄まっている気がして。

出会ったら共にどういう時間を作っていくか、そこに感謝も含まれていくと思っています。
わざわざ感謝祭みたいなことをしなくても。

さて、本題。
とにかく、こんな風に「出会い」にフォーカスする機会は多いです。

でも「立つ鳥水を濁さず」という言葉があるように、別れ方って結構大切です。
「去るもの追わず」もそうですが。

別れに関することわざ、慣用表現は多いです。
それだけ大切だということ。

別れる理由って様々ですが、別れが作るのは「相手の印象」です。

どんなに良好な関係を築いていても、別れ際に上手に別れられなければ、お互いにとって、広がりは見せません。

反対にケンカ続きでも、上手に別れられれば「あの人は良い」という印象を作って離れるわけだから、何かあればまた繋がるだろうし、「あの人なら…。」と何かの折りに、別の人を繋ぐことにだってなるかもしれません。

別れ方1つで、その先が変わるんです。

いろいろな思いもあるでしょうけれど

「必要なことははっきり伝える」(でないと同じ事を繰り返します。お互いに)

「場をかき混ぜない」(そういうことをすると孤立します)

「半端な距離感を取らない」(別れるということは関係性が変わることですので、線引きをしないと次に進めません)

本当に出会いを良いものにするという意識のある人は、別れ方も上手。
これは間違いないです。

別れたらそれきり、ということもあるでしょう。
それならそれで良いんです。
凄まじい別れ方もあるでしょうし。

それでもやっぱり「立つ鳥水を濁さず」「去るもの追わず」は大切。

プライベートでも仕事でも。

これが出来る人は出会いも恵まれます。
節度ある人が周りには残っていくから。

と、偉そうに書いたけど、僕自身、出会いも別れも丁寧に、を目指したいです。

何故「そこ」なのかを考えて

何故「ぐるんぱ」なのか?
何故「福祉サービス」なのか?
何故「家庭」なのか?
何故「施設」なのか?
何故「学校」なのか?
何故「塾」なのか?
何故「家庭教師」なのか?
何故「そこ」なのか…。

今の世の中サービスは溢れています。
公的サービス、民間サービス、あるいは家庭。

選んでいることもあれば、選ばされていることもありますし、選べないこともあります。

でも、結果として「そこ」に所属しているわけです。

当人はもちろん何故「そこ」なのか?を意識するでしょう。
(特に初めは。徐々に潜在的になるでしょうけれど)

でも、受け入れる側は、なんとなく受け入れるのでは不十分です。
相手がその時々で何故「そこ」に所属することになっているのかを忘れてはいけません。

もしかしたら、相手の方では、その理由が言語化されておらず、ふわふわとしていることもあるかもしれません。
でも、それを汲み取っていくことも受け入れる側には必要なこともあります。

例えばぐるんぱの事で言えば。
入り口は「個別が良い」「福祉サービスと別枠で支援が必要」「対象年齢」「対応時間」とかが挙がってきやすいです。

次第にぐるんぱのことを知ってもらっていき、もしかしたら続ける理由は、入り口のそれとは変わるかもしれません。

何故「そこ」なのか?をキチンと押さえていくと無用なトラブルも当然減りますし、相手の安心感、満足感にも繋がって、穏やかな関係性が出来上がるように思えます。

また、こういう「何故『そこ』なのか?」という理由を集めて、撚(よ)って束ねていくことで、受け入れる側はブレない方向性や芯みたいなのが固まってくるように思えます。

2017年8月29日火曜日

朝から夕方まで一歳児と過ごしてみて気付くこと

息子が体調不良の為に保育園をお休みしていました。
仕事も夕方までお休みして、1日一緒に過ごしていました(18時~支援。妻とバトンタッチです)。

保育園をお休み、と言っても息子はすこぶる元気(子どもって余程じゃないとぐったりしないですよね。僕も子どもの時分はそうでした)

なので、元気な息子を1日遊びながら気づいたことをツラツラと書いていくことにします。

もう、父親目線満載の誰も楽しくも学びもない完全日記的記事になります(笑)

・オノマトペの達人
擬音語の多さにびっくりします。
カ行が上手に発音出来ないでいますが、出せる音を駆使して、外から聞こえる音を実に上手に真似をします。

・見立て遊びの達人
見たもの、体験したことをよく覚えています。
それを、まるで目の前にあるかのように再現してくれます。
今日はブロックを「トントン」と言いながら指で叩きながら包丁で切るような動作をしてから僕の口に運んできました。

・しっかりと仕訳が出来る
途中で汗をかいていたのでシャワーを浴びさせようと脱衣所に連れていったとき、洗濯籠に貯まっている洋服を見て「ちゃーちゃん(お母ちゃん)」「ちゅーゃん(お父ちゃん)」と言いながら服を持ち上げます。
それがほとんど間違えることなく、どちらの服か言い当てるんです。
恐るべし一歳児。

・身体を使った遊びも大好き
部屋に転がしているサッカーボールを蹴ったり、その上に座ったり。
片足立ちにチャレンジしてみたり、「ばん!」と言いながら床を踏み鳴らしたり。

・真似が大好き
部屋で仕事をしていた僕が伸びをしたら真似をして「んー!」と伸びをして、面白いのか何度も繰り返していました。
愛犬がワンワン吠えたら「めっ!」と注意しに行ったり、大人の真似をたくさんします。

なんかたくさん発見があって書ききれないけれど、思いがけず二人で過ごした時間は喜びでいっぱいでした。

段々と夕方から夜にかけて忙しくなってきたので、我が子と過ごす時間が短くなってきました。
仕事をする身としてはありがたい限り。

でも息子との時間もやはり愛しいのです。

という訳で、9月以降たまに保育園を休ませて一緒に過ごす日を作ろうかな、と思っています。
こういう時に調整が出来るのはフリーの特権♪

2017年8月27日日曜日

発達支援むなかた主催の保護者セミナー

今日は「発達支援むなかた」主催のセミナーに午前中は参加してきました。

お二方の講師が話をされました。

1人目の先生は、スポーツという観点から療育に切り込むというお話は、プールを行っている僕としても実に面白い話でした。

宗像で9月1日に新しく開所する「あっぷっぷー」という放課後等デイサービスは主に「サッカー療育」ということを行っていくようです。

サッカーを通して感覚統合、ソーシャルスキルトレーニング、情緒のサポート…そういうものを含ませ、子どもたちの発達、成長をサポート、見届けていく事業所を目指すとのこと(こういう解釈で良いのかな?僕はそう捉えました)。

話をセミナーに戻します。

二人目は北九州で療育を行う先生の話でした。
こちらは発達障がい児への実際的な手立てを事例を含めて紹介することが中心でした。
子どもたちの捉え方、というところで、新しい視点と自分の支援の確認が出来ました。

やはり事例の話が面白いです。
個人的には「トイレの水流の話」が面白かったです。
聴覚過敏で水を流せない、確かにたまに出会います。

僕自身は、セミナー中に「何故だと思いますか?」の問いかけに対して、僕は(習慣の話?)(音?)(手先の器用さの問題?)…いろいろと考えていました。

「トイレの水が流せない」という場面を切り取っても、本当に理由も、そこへの働きかけも様々になります。

そういう確認になりますね、こういう問いかけは。
支援者として、セミナーに参加するとき、その場でこういう問いかけに正解することが大切なのではなく、いろいろな視点を持って考えられる場面を用意して頂けるのは面白かったです。

聞き手に頭を使わせるセミナー。

素敵だ。
目指したい。

こういう発信をしていく事業所が宗像に新たに出来ることを嬉しく思います。

互いに学び合い、向上していけると宗像全体の支援の質も底上げになることと思います。

楽しみですね。



開所に向けて事業所の見学等出来るようなので、また近々お邪魔します。

2017年8月26日土曜日

「キャンプ」それだけでワクワクしちゃう

昨日、今日、僕もお世話になっている「放課後等デイサービスえるそるむなかた」のキャンプでした。

僕もぐるんぱの支援があったので細切れになってしまいましたが、顔を出させてもらいました。

子どもたちとスタッフの皆さんの様子を見るくらいで、戦力になれなかったけれど、僕は楽しませてもらいました(笑)

実は今、「えるそるむなか」の職員研修も請け負っておりまして、この2日間の様子は9月以降の研修に大いに役立ちそうです。

さて、そんなキャンプでしたが、子どもたちにとって「キャンプ」という響きだけで、それはもうワクワクしてしまう訳です。

はしゃぎ過ぎてしまったり、緊張してしまったり、普段とは違う様子も、いつも通りの様子も、たくさん見せてもらいました。
ワクワクの出し方もそれぞれなんですね。

キャンプスタートと2日目の様子では、全然違う表情をしているのもまた面白かったです。

以前勤めていた職場では夏場、毎週のようにキャンプをしていて、随分と鍛えられたことを思い出しました。

子どもにとっても、支援者にとっても「丸一日」共に過ごすのは良い経験です。

またいずれぐるんぱでもキャンプは用意していきたいと思います。

お手伝いで育める心とは?

先日、放課後等デイサービスで、せっせとお皿洗いの手伝いをしている子がいました。

その表情はとてもイキイキしていました。

その様子を見ていて思ったんです。

「お手伝いは、身近な人へ協力したいという心の表れ」なんだと。

だから、お手伝いは「させられる」ものではなく、「したい」という土台が大切なんだと。

協力して、お互いに認め合って、自己を確認する。

お手伝いにはそんな意味が含まれているように見えました。

そう考えたとき、お手伝いに対してどう言葉を掛けたら良いのか見えてくる気がします。

もちろん、その時々、個々によって違いは出てくる話ですが、表情から察して「ありがとう」が良いのか「エライね」が良いのか、そういう使い分けはしていけそうです。

お手伝いを通して愛というものについても考えることが出来そうです。

協力したい、と思う程に好きな人がいるって幸せ。

お手伝いの中身ももちろん観察の対象にはしていきますが、「お手伝いをする」という心へ眼差しを向けることもとても大切なんだと思いました。

2017年8月24日木曜日

支援に必要な前提

職として支援をする僕らが子どもたちへ支援を提供、継続していくためには、ある前提が必要です。

「『自分は愛されている』『自分は愛されるべき存在だ』と子ども自身が知っている」

という前提が。

もちろん関わる以上、支援者なりの想い
、支援者なりの愛情を支援を通して伝えていきます。

ただし、それはあくまで「支援者」として。

じゃあ、その前提はどこで育むのか?

基本はやはり家庭。

いつ育むのか?

恐らく幼少期。

その前提を育まぬままに成長していくというのは、実に過酷です。

そういうところにも支援が必要なことはもちろんあります。

ただ、土台の無いところに建物を建てるようなものです。

とても不安定で危ういもの。

幼少期に作れなかった土台があれば、本人は、様々な人と触れ合い、自ら土台作りを目指すことになります。

周りの大人、支援者はそれをじっくりと見守り、必要があればいつでも手を差し伸べられるようにして待つしか無いのかもしれません。

支援、人を育てる、命を授かる、心、成長、発達、そして前提が欠けているところへの支援の在り方…

本当にいろんなことに頭も思いも向かう夜になっています。

支援者として、信念と熱意と丁寧さを持って、日々の支援に向かいます。

そう。
明日も日常。

こういう夜に、たまたま連絡をくれ、会いに来てくれた友人に救われます。

2017年8月23日水曜日

丁寧に過ごす、丁寧に生きる

社会全体を見渡したときには「療育」という言葉はまだまだ認知度は低い気がします。
関係者の中では当たり前のように使われますが。

その為か、どうも療育というものを特別なものと思い込んでいる人が多い気がします。

もちろん訓練あるいはトレーニングと言われるような取り組みを専門的にしていくことも療育には含まれるのですが、そういうものでさえ、日常に根差したものです。
日常を少しでも、より豊かにするということに繋がるものです。

いくら専門的なことをしていても日常(あるいはこれから先迎えることになる日常)と結び付かないことであれば意味はありません。

裏を返せば、日常に根差した支援であれば、それは療育と言えるでしょう。
専門的なことでなくても、靴を揃える、手を洗う、排泄が自立する、風呂に入れる、食器が洗える…こういうものを獲得していくことを目指すことも療育です。

むしろそういうものをせずにトレーニングばかりしようとしても、生活は整いませんし、豊かにもなりません。

何が言いたいか?

「療育」なんていう言葉にとらわれずに、日常を丁寧に過ごすこと、丁寧に生きること、それ自体が「療育」だと知ることが大切です。

そして、もう一発ジャブを入れさせてもらうなら…

そういう「丁寧に過ごす」「丁寧に生きる」ことが療育なのだから、「経験がない」「分からない」なんていう言い訳は出来ない。

出来ることやっていきましょ!

2017年8月22日火曜日

気持ちも視点もリフレッシュし続ける必要性について

リフレッシュやストレス発散について「大切だ」と聞かされるし、上手くいかずに次第に息苦しさや疲労感を感じ始める、という体験をしたことのある人は多いと思います。

じゃあ、息苦しさや疲労感を溜め続けるとどうなるのか?

一言で言うと「『らしさ』を失う」という事に尽きると思います。

普段はしない言動、普段はしない判断、普段はしない思考が、その人という人格を占拠してしまいます。

僕はこの仕事をして図太くなった、と言われることが増えました。

でも図太くなった訳ではなく、自分自身へのケアや、自分自身への向き合い方が上手くなってきて、何かがあっても自分自身をコントロールして「らしさ」を維持したり、戻したりする術を身に付けてきたように思います。

そうやって均一というか、振れ幅の少ない支援を続けてきている気がします。

そうして続けることで一歩前へ進めるのだと思っています。

だから、仲間が「らしくない」ことをし出したら気を留めることをしていきたいです。

チームとは程よい距離感を持ち合う集団

チームとは同じ目的目標に向かって共に歩む集団。

…というのは前提。

必要なのはメンバー同士がそれぞれ適切な距離感を持ち合うこと。

ナカヨシコヨシ

である必要なんか無い。
馴れ合いや慰め合いのための集団にせず、前へ進むために必要な時間を重ねていくことが大切。

ナカヨシコヨシがチームだとしたら、僕はあっという間に孤立(笑)

必要なことを適切な距離感を持ちながら打ち合わせたり、実行していくための仲間が僕の周りにはたくさんいて、それは間違いなくチームとして機能している。

2017年8月19日土曜日

声掛けで「あそび」を作れるか

プールで関わっている女の子。

明るく陽気な子です。
比較的ゆっくりと、ゆったりとした空間や場を好む子です。
そして何より真面目な子です。

その真面目さ故か、いわゆる「あそび」が少ないように見えます。
「ゆとり」と言うか「余裕」と言うか「のりしろ」的な「あそび」が持てるともう少し楽に日常が送れたり、生活の幅や奥行きが増えるのではなかろうか?という見立てをしています。

そこで数ヶ月前から泳ぎを通して、会話を通して、言語以外のアイコンタクトや表情を通して「あそび」を身につける道筋を探していました。

泳ぎの中では呼吸や身体を動かすテンポをコントロールして。
会話では敢えて、おバカな事を言ってみたり、会話で泳ぎと泳ぎの間をコントロールしてみたり、口調をゆっくりと柔和さに重きを置いて。
言語以外の事では、笑顔やおとぼけ顔、キメ顔(笑)をしてみたり、目が合う度に頷いたり…

とにかく「あそび」に繋がるものを探してきました。

そんな中で一番僕自身が手応えを感じたのはプールを泳ぎ始めるときの声掛け。

「よーいドン」もトーンや声量を変えてみました。
「よーいトン」にしてみることもあります。
「よーい、それぇ」
「よーい、はい」
「行くよー、それぇ」
「どーぞ」
…いろんなバリエーションを組み合わせて、その時の彼女のゆったりを引き出せる声掛けを探ることにしました。

それを始めて2ヶ月。
ようやく彼女と呼吸が合い始めて、その日、僕の方が、その時毎に合う声掛けを選択できるようになってきたように思います。

これまで、その声掛けが合わないと合図と共に、どこか慌てるような動作で泳ぎ始めていたのが、「さぁて行くかな」みたいな含みを感じる泳ぎ出しが出来るようになってきました。

毎回では無いけれど。

「あ!合図だ!行かなきゃっ!」っていう感じが「さぁて」くらいの「あそび」が出来ると窮屈感が減ってきました。

これを日常ベースに移行する算段を今度は考えていきます。


2017年8月18日金曜日

保護者のガス抜きの場を作ろうか

仕事柄、いろんな家庭環境、子育て観、親子関係には触れます。

それでも我が子の子育てについては、まだまだ(と言うか、ずっとなんでしょうけれど)手探りです。
そして自分でも意外なのは、子育てについて、第三者には話をしていないということです。

それほど深刻な悩みにも直面していませんが、不安や分からないことが全く無いわけではありません。
成長の喜びもたくさん感じています。

なのに、そういうことを他人に話をしていないんですよね、多分。

仕事では「些細なことでもどーぞ」と言って、本当にいろんな話を聞きます。
悩みに限らず、いろんな出来事を聞きます。

でも、自分は積極的に話をしていないんですね。
そりゃ、聞かれれば話するし、仕事の中で共通項が見出だせると思えば、話題提供はします。

自然に話するということは、少ないんです。

深刻な悩みに直面していなくても、そんなものなのかもしれません。

話す癖が無いから、話す習慣が無いから、気がついたら「抱え込む」という状態になっているのかもしれません。

恐らく話し出せば耳を傾けてくれる人はたくさんいるんです。
何故なら、みんな何かしら聞いて欲しいこと、を持っていて共感しやすいし、「人の悩み相談」「大変な話を聞く」というのを聞くのが好きな人はとても多いからです。
「聞きたい」し「役に立っている感」を得たい人は多いと思います。

だけど、やはり習慣(文化なのかもしれない)が無いから、抱え込むようになってしまうのだと思います。

「なかなか聞いてもらえる人がいない」というフレーズにはよく出会います。

潜在的には聞いてくれる人は多分いるんですが。

そこにニーズがあるのなら、ぐるんぱとして場を考えていって良い気がしています。

座談会みたいなのは宗像もいくつかあります。
個別となると、どれだけあるのか…。

保護者のガス抜きをして、親子関係や家庭環境が改善して、子どもにとって利益になるのであれば。

やはり基本は家庭です。

ガス抜きの場を用意することが支援になるのであれば、それもありかな。

子どもに直接的に働きかける以外の支援、子どもに関わる必要性の無いケースもある気がする今日この頃。

2017年8月16日水曜日

「上手だから堂々としてごらん」的な声掛けで狙うもの

僕の活動で言うとプールや学習、ということになるのですが。

子どもに取って欲しい行動や動作があるとして、どういう狙いをもって、どんな声掛けをしていくか、というのはとても大切です。
当然ですが。

例えば「胸を張る」という姿勢を取って欲しいときに「胸を張って」と直接的な表現と手を添えて、こちらが求める姿勢を伝えていく方法論でも良いんです。
それが必要でもあります。

ただ、それだけに片寄りたくないんです、僕は。

「上手だから自信を持って」「堂々と」「えっへん!」という胸を張るという行動、動作に繋がりそうな表現を使って「その人らしい胸の張り方」をして欲しいと思います。

同時に、そういう言葉で前向きな姿勢を育みたい、という狙いもあったりします。

そういう言葉の使い方もある、という話。
多くの人が当たり前に日常的にしているんだけど、「無意識」にしてしまっている人が多い気がして、勿体ない気がします。


学習でしていることは?

先ほどの記事に対比して、学習支援についても。

僕の学習サポートは、やはり「サポート」なんです。

問題が解けるようになるためのテクニックを教える学習塾とは違って。

例えば算数や数学では、子どもたちが数や数字、数式にどんな概念や認識を持っているのかを知っていき、誤っていたり不足しているところを探っていきます。

科目を限定しないところの話で言うと、「集中出来ない理由」「ミスする理由」「自信が持てない理由」「覚えられない理由」なんかを探っていきます。

音が気になるのか、視覚的な問題なのか、経験不足なのか…

要は一斉授業の弊害みたいなことを取っ払って「その子に必要なこと」を取り組むんです。

学習に取り組む様子が気になれば、生活リズムの話や最近の出来事について話をして、整えなければならない点の洗い出しをします。

一見、学習に直結しないところにも落とし穴があることだってあります。

当然、僕自身の支援も振り返ります。
振り返るときには、数ヶ月前のことにも及ぶ場合もあります。

子どもたちの中にどんな種が撒かれて、どんな芽が出てきたのか、それを知っていくのが、「僕に依存しない学習サポート」には欠かせません。

「ボク(わたし)は、こういう感じなら落ち着いて取り組めるし、こういう感じなら分かりやすいんだな」っていう気付きを子どもたちには得てほしいのです。

プールでしていることは?

原始反射みたいなことは別として、子どもたちは基本的に自分の目に見える場所から順に身体の動かし方を覚えていきます。

視覚で確認しながら自分の意識と身体の動きとのマッチングをしていくわけです。

そうやってボディイメージを作っていって徐々に思い通りに身体を動かせるようになっていきます。

スポーツをしたことのある人なら多いと思いますが、鏡の前で動きを確認したり、ビデオカメラで録画して後から確認したりしますよね?

あれと似たことを発達段階でもしていくわけです。

プールをしていると、そういうことが必要になってきます。
泳ぐ本人も教えるこちら側も。

よく「プールをすると良いことは?」とお尋ねされます。
特に支援者の方から。
気になるのでしょうね。

で、僕の回答は「自己肯定感が育つ」とか「情緒、精神的にタフになっていく子が多い」ということが多くなるんです。
(相手によって答え方を変えるので「多くなる」という表現になります。)

でも、細かく見て「なんで自己肯定感が育つのか?」「なんでタフになるのか?」と聞かれれば、それは「身体の使い方を覚えていく」とか「泳げるようになる」ということになって…更に細かく見ていけば「目に見えない部分の身体の使い方も覚えていく」から、ということになっていきます。

僕がよく言う「やり取り」というのは、そういう「練習」を嫌なものにしないためにするものです。

練習は練習なのですが、「続けるための練習」なんです。
僕のプールは。
僕と泳いでなんぼ、ではなくて、僕の元から卒業していっても泳げるとか、泳ぎたいとか、そういうことが大切だと思っていて。

プールでしているのはそういうこと。

分かってもらえる人には、分かってもらえるであろう話。

(これが誰にでも分かるように書いたり話したり出来るようになることを目指さないとなぁ…)

2017年8月15日火曜日

子どもを大切にする文化を守りたい

日本語ってその場にいる最年少者に主語を合わせる文化があります。

子どもがいれば「お父さん」「お母さん」「おじいちゃん」「おばあちゃん」「おじさん」「おばさん」…。

さらにその子より年少者がいれば、その子も「お兄ちゃん」「お姉ちゃん」になっていきます。

こんな風に最年少者目線で主語を合わせて、会話を展開する文化があるわけです。

これって、年少者目線を大切にしていた表れだと思うのです。

そうやって成り立ってきた日本語、日本文化を大切にしていきたいものです。

お盆で親戚集まりや出掛ける機会が増えると、そんなことも考えはじめてしまいます。

2017年8月12日土曜日

「ケンカ」は「支援」になり得るのか?

お互い、であったり、場、であったりが対等だから「ケンカ」は成立するものです。

子ども同士のケンカも対等でないとなりません。
大人同士のケンカも対等でないとなりません。
子ども対大人のケンカも対等でないとなりません。

それに加えて「場」としてのバランスと言うか、調和がとても大切です。
これが崩れるとたちまち「いじめ」や「暴力」、「虐待」あるいは「○○ハラスメント」ということになります。

ケンカは人が二人以上いる場であれば、どこでも起こり得る可能性があるし、それ自体が悪という訳でもありません。

ケンカは自己主張のぶつけ合いです。

ケンカと暴力が混同されたり、良しとされずにケンカ自体を抑制する風潮もありますが…。

僕は子どもたちとケンカすることがあります。

ケンカは自己主張のぶつけ合い、と言いました。
子どもはケンカを通して相手との対等性について学びます。
自己中心性と協調性の折り合いを学びます。
発達には欠かせない行為です。

子ども対子どものケンカは「お互いの自己中心性の主張」であることが多い気がします。
大人対大人のケンカは「お互いの価値観の中での協調性の主張」であることが多い気がします。
子ども対大人のケンカは「自己中心性対協調性」であることが多い気がします。

そのケンカが「何対何」なのかを見極めることがとても大切です。
それが対等であるのか。

子ども対子どものケンカを見守る立場にある時には、対等に行われているかを見極めて、必要に応じて介入しなくてはなりません。

大人同士のケンカは…もう折り合いの付け方、着地点を見出だしながらやってくださいな。
基本的に僕の専門外ですが、子どもの関係する「夫婦喧嘩」にはかすっちゃうことありますけどね(笑)

子ども対大人のケンカは、大人が優位に立ちやすくありますから、「自己主張のぶつけ合い」ということを弁(わきま)えて意識的に大人が展開をしていくことが必要です。

子ども対大人のケンカについてもう少し。
仕事、支援としてケンカをする、ということがあっても良いと僕自身は考えています。
大人は感情を意識的に表出させて、いろんな感情に触れさせるということも僕は必要だと考えています。
感情的にならず必要なことを伝えるということも必要ですが、「人間味」みたいなところに触れさせることは大切です。

ただし、感情的になって、理性の範疇から離れた感情を見せるのでは「対等性」は保てませんから、あくまで意識的に。

エネルギーも覚悟も準備も必要になってきます。

「指導的」ではあっても「指導ではなく」あくまで「ケンカ」ですから、収束まで目指すのか、「お互いに考えような」というところを目指すのか。
「落としどころ」が肝心です。
子ども対大人のケンカでは対等性を保つために大人のリードが必要です。
(リードをする、ということで「対等」と言えるのか?と突っ込まれそうですが、支援としてのケンカでは、少なくとも必要です)

ケンカの先にあるものを見据えて、閉鎖的にせず、意識的に展開をしていくことが出来れば、「喧嘩上等」ってことになるんじゃないかな?

まぁ、いろいろご意見や批判はあるでしょうが、僕はそういう立場です。