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2017年1月31日火曜日

「自分へのご褒美」は反対です。

「自分へのご褒美」

この言葉、僕はあまり好きじゃない…いや、嫌いなんです。

はぁあ?ってなります。
「贅沢しちゃった」ってだけだろ?って言いたくなります(笑)

でも、今日はその言葉について少し考えてみました。

「自分へのご褒美」って言葉が、これだけ世間に受け入れられているのって、「認めてくれる人が少ないから」じゃないかな?と思います。

それで仕方なく「自分の頑張りを自分で認めて労おう」っていう事なんじゃないかな?と思います。

だとしたら、少し寂しいし危険な気もします。

自己防衛の反応なのかもしれない、と。

僕は関わる子どもたちが「自分へのご褒美」なんて言わなくても済むように、しっかりと見て、しっかりと伝えてあげたいと思います。

2017年1月30日月曜日

アコーディオンカーテンを使った一工夫で場づくり

場づくり、構造化の仕方も様々、という話。

今日は、僕が関わっている「CoCokaraひのさと」という施設の自習室の様子について。

放課後の時間帯、子どもたち向け(元は子どもたち向けのつもりでしたが、最近では社会人の人も利用して下さっています)に自習室としてスペースを無料開放しています。


オープンになっていて、いろんな人が常に出入りする一角を自習室として使うのは、場づくりとしてとても難しいです。
バスを待つ人、待ち合わせ、お喋りする人、買い物する人…目的も様々な人が出入りしていますから、学習と息抜きの境界も曖昧になりがちなんです。

「学習スペース」という役割と「居場所」という役割を並行して提供していますから、カチカチのルールで縛ることは、したくないんです。
モラルとマナーを持って過ごす、という部分出す。


ここ最近、一部の子どもたちの過ごし方がエスカレートしていて、まるで友達の家に集まったかのように、においのするお菓子を広げながら学習したり、息抜きなのでしょうけれど、カードゲームを大きな声で笑いながら楽しむようになってきてしまいました。

さて、どうしたものか。


アンケートを取ったり、子どもたちに直接話しかけたり…いろんなアイディアが関係者の中からは出てきました。

そういうのも良いんだけれど、こちらが雰囲気として用意できないかな?というのが僕の考え方でした。
もちろん、決まったことは実行していくのですが、試験的に設置してあるアコーディオンカーテンを半分閉める、ということをしてみました。

すると、子どもたちの意識が急に変わりました。

カーテン越しに遊ぶ子と勉強する子が、いるんですけれど、いい具合に住み分け出来始めました。

カッチリとスペースを区切ってしてしまうと、敷居が高くなりすぎる気がして、半分にしてみましたが、正解でした。

カッチリと「ここから先はお静かに」みたいなことをしなくても、場づくりは可能なんです。
明文化されたルールも最低限で大丈夫なんです。
それぞれにとって「自分たちの居場所」ですから、ちょっとしたさり気ない提案で十分なんです。



それから、少し不思議なことが起こりました。

自習室スペースの方が話し声が大きくなったんです。
息抜きしている子たちの方が声が小さくなって。


自習室にいる子たちは、数学について声を出して、お互いに教え合っています。
息抜きしている子たちは、小声で何やらお喋りしています。

そして自習室スペース側の声に興味を持った子が「なんだって?俺もそこ苦手だから教えて」と移動したり。

思いもよらない事が起こって、僕も面白かったです。


子どもたちは「成長したい」っていうエンジンを持っているんです。

2017年1月29日日曜日

「かさこマガジン」はインフォメーションではなくてコミュニケーションツール

今日、僕の元にもカメライター「かさこ」さんのセルフマガジンが届きました。
独立を考え始めた頃に、フリーで仕事を展開していくことについて考えたり、調べ始めた時にたまたま彼のブログを見つけて、ファンになり、講義も一度受け、マガジンも頂いています。



たまたま、今日は先の記事にも書いたように「伝えるコツ」セミナーを受講してきました。

自分の活動を認知してもらえるような発信方法を考えましょう。、っていう講座。


発信者の都合だけでなく、受け手の存在を考えていくこと。
自分の活動あるいは組織を人格化するという事。
活動を客観的に振り返る事。
人を引き付けるキャッチーな表現、デザインで発信をしているか。
活動の目的を明確化する。
受け手のことを「不特定多数」と考えず、具体的な「誰か」を想像する。

そんなことをみっちりと4時間学ぶセミナーでした。



帰宅して「かさこマガジン」が届いていたので、目を通したら、このセルフマガジンはまさに今言ったことを形にしたものだな、と思えました。

「かさこマガジン」は、かさこさんに関するインフォメーションではなく、かさこさんと読み手のコミュニケーションなんだと感じました。


僕は、かさこさんの2時間ぽっきりのブログ術講義を受けた影響もあり、ブログを毎日のように更新していくことを実行しています。
(日付のことで言うと毎日ではないけれど、2016年は全部で400記事以上かけました。)

かさこさんのブログは歯に衣着せぬ表現ですが、講義は淡々とした印象だったことをよく覚えています。


講義、冊子、ブログ…こういうツールを使って、「かさこ」という人格を発信しているのだな、と今日のセミナーで結び付きました。



確信があるわけじゃないけれど…

講義だけでは「まぁ、そうだよな」くらいかもしれない、本当に淡々とした感じだと思います。
冊子だけだと、「いろんなことしている人ですなぁ」くらいかもしれないです。
ブログだけだと「なんか、ため込んでこじれちゃった人?」みたいな記事の時もある気がします(笑)

もちろん、かさこさんのプライベートなど知らない部分もたくさんあるから、人格、っていうにはほど遠いのかもしれないけれど、僕が触れてきた講義、冊子、ブログ、この3つがあるからそれぞれが生きてくる、というのは大いにある気がしています。


僕も自分の仕事、活動についていくつかの媒体と自分自身で発信をしていますが、それらを上手に咬み合わせて発信をしていくことを心掛けたいと思います。


今日はセミナーと「かさこマガジン」、発信のための勉強材料がいっぱい届いた日。

2017年1月28日土曜日

伝えるコツセミナーを受講してきました

インフォメーションとコミュニケーションは違う。
今日は大きな学びでした。


「伝えるコツ」セミナー、全国的に人気のある、この講座が宗像で開催されるとのことで、参加をしてきました。
NPOや市民活動をするうえで、どのように発信をして伝えていくのか。

それを勉強する講座でした。


どんなに良いことをしていようがキャッチしてもらえる発信を出来なければ、気づいてもらえないし、気づいてもらえなければ活動の価値が理解されない、と。



活動に、団体に人格を持たせるイメージを持つことが必要だと。


インフォメーションでなく、コミュニケーションのように発信も考えていくと良い、とのこと。


もちろん、チラシやパンフレットといった媒体を抜きにはできないけれど、「人格を持たせる」発信方法、と考えた時、僕はこの毎日のように更新しているブログが一番のコミュニケーション的発信力を持っている気がします。
なので、これからもブログを「僕らしく」更新していこうと思えました。

2017年1月27日金曜日

Eちゃんの葛藤と挑戦を讃えて

お風呂ではガンガン顔を水に浸けているというEちゃん。
でもプールで息継ぎの練習となると、全く別物のようです。

まずは僕が顔を浸けてブクブク…とするのをじっと見てもらい、「はい」という合図で交代。

ちょびっ!

唇を水にチョンと浸けるだけでも大きなドキドキが彼女の中には芽生えるようです。

お風呂で出来るのに…なんで?

たまーに、そういう声が保護者から寄せられます。

いろいろ考えられると思いますが、Eちゃんの事で言うと、「意識的に数秒顔を浸ける」というのと、「お風呂で瞬間的に潜る」の違いが分かっているからだと思います。

その上お手本の僕は、「ブクブク…」と息を吐いていますから、「出来るかな?」と不安も出てくるでしょう。

こういう不安のある子はゆっくりと段階的に練習していきます。

唇を浸けることに抵抗が無くなったら、次は鼻まで…という具合に。

Eちゃんは、今日、鼻を浸けるところまできました。
顔浸けを練習始めて4週目。

最初の頃はバタ足の方に意識を持っていき、紛らせて顎を浸けることから始めて、下唇まで、上唇まで、鼻の下まで…ときて、今日は鼻の穴を水に浸けるところまで。

頑張っています。

「ここまで」と僕自身の顔を指差して、彼女の同じ部分も指差しながら一緒に練習しています。

たまーに、「これでも良いでしょ!?」という感じで唇までで済ませて視線を送ってきますが、僕は遠慮しません(笑)

「えー?」
「またまたぁ!ご冗談でしょ?♪」
「それ、口じゃん!鼻までぇ」

と要求していきます。

そして応えてくれたら、目一杯讃えます!
ここは「褒める」んじゃないんです。
「讃える」んです。
「えらいね~」じゃなくて「スゴい!」です。

顔を浸けたことを褒めるんじゃなくて、葛藤をしながら挑戦をした姿勢を讃えるんです。

そうして、彼女自身の体験にしていくんです。
それで「やってみるぞ!」っていう気持ちが育っていけば良いな、と。

顔浸け以外の様子も。

他の泳ぎはとっても順調で、楽しみながら泳いでいます。
ビート板キックでは25メートル泳げるようになってきたし、斜めにスモールゴールを用意したら泳ぎながら方向転換も出来るようになりました。

背泳ぎも足を着かずに25メートル続けられます(まっすぐ進めないので何度か僕が軌道修正しますが)。
手も左右交互に持ち上げて水を叩く、から少しずつ「水をかく」ことが出来るようにもなってきています。

泳ぎ以外の事で言うと、プールからプールサイドに上がるときの腕の使い方も上手になってきました。
周囲の人の「頑張っているね」という応援が自分に向けられていることにも気づき始めています(それがたまにドキドキに繋がっているらしいのが、また見ていて微笑ましいです)。

良い感じでプールの時間を自分のものにしていっているEちゃんです。

さぁEちゃん、鼻を数秒浸けられるようになったら、いよいよクロールの入り口です。

2017年1月26日木曜日

僕自身の追求していきたいこと

「日常生活、学校生活において何らかの不安や困難さを抱える子どもと、その家族へのサポート」これが、ぐるんぱの活動。

相手に届けるものとして、便宜上、こういう言葉で活動を表に出してしています。
役割としての話です。

僕自身は何を追求していくか?ということになると、また少し違うものを手探りしながら、日々の活動をしていく必要があると思っています。
支援の質を高めるためにも、していかないといけない作業だと思っています。

研究者を気取る訳じゃないですが、自分の中に「芯」が要るのだと思います。
僕自身が、ぶれない為の土台になると確信しています。

まだ「芯」と呼べるほど尖ってはいないかもしれませんが。

・「自他の境界」をどのように認知、獲得していくかについて

・社会、地域での「個」の存在、役割について

・「選択出来る文化」をどのように作り上げるか

この3つは、大切に温めていきたいし、常に意識のどこかに置いておきたいと思います。

そのために、「出来るだけ地域で」「個別・小集団」というキーワードで「個」を意識しやすい環境下で支援を提供していきたいと思います。

独り言のような記事

2017年1月25日水曜日

葛藤を乗り越え始めたS君

今日は「えるそる むなかた」での出来事をもう一記事。

今月から仲間入りしたS君。

「えるそる むなかた」での過ごし方、立ち位置がまだ掴めず、先週大きな葛藤を見せてくれました。

さて、今日はどうかな?

こちらの心配をよそに、学校へ迎えに行ったら軽い足取りで車に乗り込み、車内でもいろんな話を聞かせてくれました。

到着してもスムーズに過ごせていました。

永田「今日はどうする?宿題あるなら見るけど…する?もしするなら、いつする?先に少し遊んでからでも良いよ(バドミントンをしたい、と迎えに行った時に希望を言っていました)。自分で過ごし方組み立ててみて」

S君「宿題先にする」

そういうと座卓の上に宿題を広げ始めました。
数ヶ所「これは?」と確認してくる場面がありましたが、しっかりと慎重に宿題も進めていけました。

途中で他の子達が帰って来て賑やかになると「僕は大勢の人の中は苦手なんだよ(ボソッ)」と言いながら、声の大きな子に視線を送ったりもしていましたが、他の子達から「この子名前なんだっけ?」と興味を持たれることには嬉しそうな表情を一瞬見せていました。

うん、これなら大丈夫だ。

宿題が終わったら男性スタッフと外へバドミントンに行きました♪

同年代との関わり、次の目指すところはそこですね。
丁寧にサポートをして、広げてあげたいです。

学習でも、遊びでも、イキイキと取り組む「えるそる むなかた」の子どもたちと、僕もタッグを組んで、彼の居場所作りを丁寧にしていきます!

先週の葛藤は、確実に活きています。
全部でないにしろ、納得していくために必要な儀式みたいなものだったのかもしれません。

「えるそる むなかた」にはデビューしたての彼ですが、別のデイサービスでも関わりを持っていたこともあり、気がつけば彼との付き合いも半年くらい(不定期ではあるけど)。

お互いに、どんな人間なのかが分かってきて、結構遠慮無いやり取りさせてもらってます(笑)
来週も楽しみです♪

Oちゃんの初めて

中学生のOちゃん、ゆっくりと着実にプールでステップアップをしていっています。

手で水をかく、という感覚が少しずつ掴めてきて、背泳ぎで水をしっかりと捉えられ始めました。
本人もその「泳げている」感覚が嬉しいようです。

プールの様子も伝えたいのですが、今日は別のお話。

彼女は、送迎までしている生徒なのですが、今日はお母さんから素敵な話を聞けました。

Oちゃんママ「筋肉痛を経験しました。生まれて初めて。木曜日に足の辺りを痛がっていて、直に治る、ということが続いて。最初は、これまでにもいろいろあったから心配したんですけど、木曜日に足を痛がって、直に治るんで、…ん?もしかして?って思ったんですよ」

陸で身体を動かすと大変だし、ケガのリスクもあります。

水の浮力も借りながら運動して、水の水圧も受けながら身体を動かす水泳は、身体に良いことがいっぱいなんです。

彼女もその恩恵をバッチリ受けながら、頑張っています!

余談。
今日は帰りの車の中で「永田先生と結婚したかった、なんで奥さんと結婚しとるとよぉ!」と♪

おじさん、恥ずかしいぜぃ!
仲良く頑張っていこうね!

きれいに音読するのは…

「えるそる むなかた」での学習サポート。

小学3年生女子のRちゃん、今日は時間の間、目一杯勉強に取り組んでいました。

彼女の宿題の1つに音読がありました。
「ありの行列」というお話を音読するのを聞いていました。

文句を付けられないくらいに上手に読んでいました。

永田「とっても上手やね。聞き取りやすかったよ」
と正直な感想を伝えました。

Rちゃん「ありがとうございます。あのね、きれいに読むとね、みんな聞いてくれるんだよ」
と、答えてくれました。

Rちゃん「みんなに聞いてもらえるなら、読もうって思えるし」
とも。

僕が小学生の時分なんか、音読を面倒臭がって、ミミズみたいな声で済ませようとしたり、しっかり読んだって「やっつけ仕事」みたいな読み方をしたりしていました。

音読に「聞き手」は存在していませんでした。
その日の音読の様子を評価する母がいるだけで、その母でさえ「聞き手」ではなかったんです。

きれいに読むのは伝えるため。

素敵だなぁ。

2017年1月24日火曜日

11ヶ月の息子の入浴について

息子ももう11ヶ月。

最近は、週のうち4~5日は僕が入浴をさせています。

風呂の中でもじっとしていないので、僕が身体を洗ったりしている間は、僕の足下で「あひるさん」やら洗面器やらで自由に遊ばせています。

シャワーがかかろうが、多少滑ろうがお構いなしで遊べるたくましさがついてきました♪

彼を洗うときも、わざとシャワーを頭から浴びせる場面を作って水慣れも順調です。

浴槽に入っても、基本的には縁につかまり立ちをさせて、一緒に遊んでいます。

洗面器で湯をすくって、頭からザバー!!ってしてやったり(笑)
水鉄砲で湯をかけたり。

とにかく楽しんでいます♪

少し前から仰向けで浮かぶ練習も始めてます。
湯の中で仰向けにされたら、じっとしていられるようになってきて、じっとしていれば、呼吸も問題無いことが、段々と結び付いてきたみたいです。
(最初は動こうとして、却って湯を飲んで慌てることもありましたが)

仰向けで目をキョロキョロして、僕と目を合わせる余裕も出てきました。

昨夜のこと。
僕が思いがけず湯の中でバランスを崩して、大きな波を立ててしまいました。
その波に持っていかれて、晴哉がうつ伏せでドボン!

「おっと!」と思って救出に。

そしたら、身体が浮いた時点で顔を横に捻って呼吸していました。

直ぐに引き上げましたが、感心してしまいました。

もちろんまだ「息を止める」なんて事はできないから、湯を飲んでしまってはいました。

それでも「ケホッケホッ」と咳き込むだけで泣きはしませんでした。

乳幼児のお風呂での事故で、大事に至るのは、顔が水にかかり慌ててしまい、パニック状態で水を大量に飲んでしまうことが、大きな原因です。

その事もあり、少しずつ段階を踏みながら練習してきましたが、思いがけず成果を確認出来ました。

あと半年~1年くらいかけて、浮かんでいる状態で身体を自由に動かせるということを身に付けさせられないかな?とおもっています。

そうすると、今回みたいにうつ伏せで水に落ちても、自分で仰向けになる、ということに繋げられるかもしれないな、と思っています。

1つずつ。
一歩ずつ。

大きくなっていって欲しいと願っています。

※ここまで来るのに、本当にいろんな準備をしてきています。
安易に真似して事故に繋がることのないようにお願いします。

語れる夢を持つことをスタートにする

夢とか熱意とかから物事をスタートさせたって良いと思います。

考えなしに突っ走るんじゃないですよ。
本当に大切な育みたい夢なら、その夢についてとことん考えないと。
考えるのが面倒なら夢じゃないんじゃないですか?
夢って、ずっとそのことについて考えてても飽きないようなものの気がします。

だから夢とか熱意とかから始めても、無鉄砲とは違うんです。
勢いとかノリみたいなものに夢を紛らせてはいけないんです。
大切に育てないといけないんです。

でかいことを言うようですけど…僕には夢があります。

1.望む人が選択肢を持てて、選択出来る文化を作りたい

2.NHKのプロフェッショナルに出られるくらいの仕事が出来るようになること

3.世界一美味しいオムライス(自分や家族が「オムライスは、もう外で食べられない」と言えるような家庭的で温かい)スを作れるようになる

なんか、小さいことを挙げ出したらキリがないくらいに夢があります。

今挙げた3つは、いつも頭のどこかにもたげている、夢であり目的であり生きる指針のようなもの。

夢を語るのを恥ずかしがっている場合じゃないんです。
暇じゃないから。
時間も有限だから。

夢を語ったときに応援してくれる人に、周りにはいて欲しいです。
夢に近づきたいし、夢を叶えたいから。

夢を鼻で笑う人には離れていって欲しいです。
足手まといだし、そういう人は仲間にも友人にもいりません。

出会う子どもたちにも夢を持って欲しいと願うのに、自分が夢を語れなかったら寂しいじゃないですか♪

秘めていても応援してもらえないじゃないですか?
「あいつ何がしたいんだ?」って回りから白い目で見られておしまい、なんてイヤです。

僕は、実は欲張りなんです♪

「夢を語るなんて若いな」なんて言わせないくらいに夢に向かって、とことん考えていきます!

2017年1月23日月曜日

「さて、この違い、どうしたものか…」と考えていくことが大切なんじゃないか?

こういう話を書くとフェイスブックなんかでも「いいね!」はつきにくいし、バッシングが来ることもありますが…今日はそんな話。



今日、ある方が「障がいがある方との関わりは苦手な方だと思う。そんなことを考えると自分は本当は冷たい人間なんじゃないか?と考えてしまうことがある」というような声を聞かせてくださいました。


とても優しい方なんだと思います。
そういう葛藤を持てるって。



僕の考えを。

存在、あるいは存在の一部を否定することが差別、と僕は位置づけています。



僕のことで言うとやはり今のところ「健常」という括りの中で生活していて、身体的、知的に障がいがある人とは異なる部分があるのは紛れもない事実。

「同じ」だなんてきれいごとを言うつもりはありません。


ここ数年の僕の中のトレンドのように頭の中にいつもある「文化」というキーワード。
それを使うのであれば、健常者には健常者の、障がいがある人には障がいがある人の、ある種の「文化」があると思うんです。

お互いが違う文化の中で生きていることを認知して、必要に応じて擦り合わせをしたり、譲歩したりされたり…困り感に合わせて、その関係性を都度検討していけばいいんです。




「あなたたちと私たちは違います」と言うこと自体が差別なんじゃなくて、その違いを否定することが差別なんです。
障がい云々の話でなくても、得意不得意を取り上げて否定すれば、それだって差別と同義です。


それから差別って他人に向けられるものばかりではないということも思います。
「僕は周りとは違う」と認識した面があるとします。
その後に「周りの人はダメだ」と言えばそれはもちろん差別ですが、「僕は他の人と違うから、これくらい許されるだろう」みたいなことだって差別だと思います。
周囲の文化に寄り添う意思がないですから。

それからこれは自己肯定感の延長の話ですが「僕はダメだな」と自己否定することも行き過ぎると差別のような響きを帯び始めることがある、というケースに遭遇したことがあります。
自分で自分を差別するという、傍から見ていても辛い状況です。
自分の認知した他との違いを悪意を含んだように否定し始める…言葉では説明しにくいですが、そういう事態にまで発展することもあるんです。
かなり特殊なケースですけれども。



違いを認知したら「さて、この違い、どうしたものか」と考えていくことが、まずは必要なんだと思います。
葛藤を持てるって素敵だと思います。

2017年1月22日日曜日

自分の積んできた経験を普遍化する

個別に子どもらと向き合ってきて、それぞれの子と、その時々でやり取りを重ねてきて…間違いなく、この実践が僕の財産であり、支援をしていく上での手札を作っているんです。

多少の歩調合わせが必要な子も出てくることは当たり前として、出会った子とのやり取りで「行き詰まりましたので、すみません」なんて投げ出さずに求められる限り付き合っていける、という根気と一種の自信は身に付けてきました。

目の前に子どもたちがいれば、です。

対面したことのない子どもの事について、話をするというのは少し違います。
バックグラウンドを把握しきれない中で、話をするのは難しいと、今でも感じます。
知っている子について話すときの何倍も慎重になります。

こういう場合、自分の経験をもとに確認作業を進め、提案をしなくてはいけません。
しかも僕が関わるのではなく、他の誰かが関わる術としての提案をするとなると、「永田流」ではダメなんですね。

いえ、僕の日頃の支援も勉強と経験を重ねてきて身に付けたもので、我流の型破り、というものでも無いんです。

でも、少なからず「関係性」とか「永田の良さ(関わり方であったり、場合によっては身体的な要素なども含まれます)」とかを含んでの、日頃の支援になっているのも事実です。

その実践を会ったことのない子どもへ、僕でない人が支援にあたる、となった時に、その術が僕の手から離れても生きるように体型立てる、普遍化する。

そう出来るように整理を進める。

僕がしていかないといけないことなのだと、最近強く感じています。
それが出来たら、ぐるんぱももう一回り広がりを見せる気がします。

僕の支援者としての奥行きも出る気がします。

今年はそういうものを身に付けていくために恵まれた年になりそうです。

言葉の使い方も結局は自分自身に共感出来ているか?というところに繋がる話

言葉。

コミュニケーションツールとして、ごくごく日常的に使われるものです。
使ってみないと分からないものでもあります。

コミュニケーション。

人と人とを結び付ける、その為の行動、手段です。

障がいのあるなしに関わらず、子どもたちというのは、刺激的、乱暴というような分類をされる言葉を使いたがる時期があります。
学びの時期として。
「そんな言葉を使わない!」と子どもを叱ったことのある人も多いことと思います。

あるいは、言葉のチョイスだけでなく、語気、しゃべり方なんかについても気になって、指摘をしたことがある人もいるかもしれません。

「どこで覚えてくるのか…」と頭を抱える保護者も少なくありません。
そういうご相談が寄せられることは、珍しいことではありません。

これを辿っていくと、だいたいメディアに行き着きます。

(たまに子どもに聞いて回ります。
気になる言葉のルーツを、と思い子どもに聞いていってみたら、初めの数人は○○君が、△△君が、と言っていたのが途中でやはりテレビ番組名が出てきました。
他にもゲームが出てきたこともあります。)

刺激的、乱暴な言葉や言葉遣いになんで子どもたちが惹き付けられるのか?

反応が返ってくるから。

これに尽きます。

普通の言葉だとさらーって流れていくのだけれど、ちょっと乱暴な言葉だと「ん?ちょっと待って」ってなります。

それは対大人でももちろんそうですが、子ども同士でも同じです。

耳にすると「ん?」ってなります。
初めて聞くときには「どういう意味?」という反応かもしれません。
悪い言葉というより、純粋に言葉に対する興味として。
意味を知ってからは、傷付いたり、驚いたりして、「どうしてそんな風に言うの?」と嫌でも反応してしまいます。

そういう反応が、嬉しいのか面白いのか…相手を怒らせたり悲しませたり楽しんでいるようにさえ見えることがある…

確かに身近な大人にとっては悩みの種です。

「言われたらイヤやろ?」という話をすると「うん…」と答えてもなかなか治まらない、と。

怒られたり、喧嘩したり、友達同士でふざけあったり…
そういう相手の反応だけでないからです。
相手の反応から生じる「自分の中に起こる反応」を楽しんじゃっている子もいます。
少なくとも僕にはそう見える子達がいます。

「埋められる気」がするんです。
寂しさ、虚しさ、退屈さ…

それから「気持ち良くなってきてしまう」んです。
どんな刺激も次第に気持ちよさに繋がっていきます。
相手が過剰に反応すると、気持ちが「ザワッ」ってなりますよね?
その刺激が興奮となってしまうんです。
例えば自傷行為も、刺激が次第に気持ち良さ、快感に変わってきてしまいます。
それと似ているかもしれません。

相手が反応することで「埋められる気」がして、その反応から「自分の中に生じる快感」に繋がる…

そして反応、刺激っていうのは、段々と麻痺してきて、エスカレートする方向に向かうことが多いものです。

言葉について気になる子どもたちを通して僕が今感じていることです。

で、僕自身がそれに対してどう「反応」しているか。

最初に言ったように、コミュニケーションは人と人とを結び付けるものです。
その言葉では結び付けないことを伝えます。

それから、好ましくない言葉の印象を吹き飛ばすくらいのインパクトを持って、面白いこと、すっとぼけたことを言ったりしたりします。

「イヤな気持ち」になる、させる言葉であるという認識は多くの子が持ち合わせています。
それでも刺激、快感を求めてしまっている…逆に言うなら、好ましい言葉や対応で刺激、快感に繋がるものを届けたら良いんです。

元々「イヤな気持ち」になるというのは分かっているのだから、好ましい言葉でもちゃんと反応が返ってくることを伝えたら良いんです。
健全な気持ちよさで満たしてあげるんです。

もちろん指導的な話であったり、叱責も必要です。
でも、そういう事だけでなく、やはり日常的に健全な言葉とコミュニケーションで満たしてあげることが絶対に必要です。
「いけないことはいけない」と伝えるのは大切だけど、それだけだと足りないんです。
「じゃあ、どんなのなら良いのさ?」という子どもたちの言葉になっていない問いに、身近な大人としての答えというか、価値観を示してあげないと。

説明でなく見せてあげないと。
必要があればピエロのようにおどけてみせたりしながら。
僕なんか年中道化してます(笑)
(余談ですが、ロビンウィリアムスの『パッチアダムス』は、心を穏やかに健全な方向に向かわせるための関わりについて学ぼうと思ったときには良い作品です。)

乱暴な言葉、刺激的な言葉は自分に対する刺激を与える、自傷行為に似ているかもしれません、という触れ方を途中でしました。
だから止めてあげたい。

不健全な刺激を自分に与えたり、自分の中に生じる空白を埋めたり…

そういうことを繰り返していると、知らず知らずの内に、自己肯定感を損なっていきます。

人との距離、自分自身との距離を作ってしまいます。
使ってみないと分からないし、使ってみて学びになります。

言葉の学びで必要なのは、やはり「共感する」ということだと思います。
特に「自分への共感」。
その尊さを伝えられるか?どう伝えるか?

今の僕の課題かもしれません。

2017年1月20日金曜日

Eちゃんのお母さんを見て思うレスパイトの位置付け

僕も楽しみなEちゃんとのプール。
今日は背泳ぎで、手を動かす、ということが出来るようになりました。
仰向けに浮かんで手を交互に動かすんです。
難しいんですよ~。

そんなEちゃんの頑張りも目を見張るものがありますが、お母さんとお姉ちゃんが嬉しそうに彼女のレッスンを見てくれているのも嬉しいです。

終わった後にお母さんと少しお話をしていても、出会った頃の印象と変わってきました。

元々素敵なお母さんなんです。

でも出会った頃のお母さんは、どこか自信がないというか、遠慮がちというか…いろんな経験と葛藤を繰り返してきて、お母さんの素敵さを隠してしまっていたのかもしれません。

そんなお母さんが、本当に素敵な表情を見せてくださるようになりました。


1週間のうちのたった1時間です。
その時間もお母さんは、プールを見学しています。
時間的に全くの自由という訳ではありません。

それでもレスパイトとしての役割も果たせていると、僕は思っています。

「レスパイト」ってどうも時間的な視点で議論されがちですけど、元々は休息とか息抜きという意味の英語から来ていて、精神的負担の軽減を目指すものです。

そういう事で言うと必ずしも親子を分離させる必要もないんです。

もちろん一時的に離れて過ごして、戻ったときにお互いにリフレッシュ出来てて「おかえりー」「ただいまー」と思えてたら良いんです。

何て言うか…時間的に云々というより、支援を通して親子のつながり感を作り出したり、思い出したりする後押しが出来るか?

レスパイトってそういうところにあるべき言葉だと、思っています。

2017年1月19日木曜日

気持ちを受け止める、という目に見えないものの届け方

溢れる感情をどう受け止めるのか。

正解もないです。

目にも見えません。

感じてもらうしかないものです。

支援者として、それをどう子どもに届けるか。

「本気で子どもたちと価値観をぶつけ合う」という方法を昨日は選択しました。

静かに問いを持って、子どもに考えさせるということも、僕自身の手札として無いこともなかったんです。

でも「算数のテストで、こんなに良い点数を取れた」と喜んで報告に来てくれて一緒に喜んでた子が、数分後に他の子の頑張りを「そんなもの」と言ってしまっていたのを聞いて、今日は伝えないと!と思いました。

彼の背景にもいろんな思いがあったことと思います。
その察しはつくけれど、その場で伝えないとクドイ大人の説教になると思いました。

永田「算数で満点取ることも大切かもしれないけど、もっと大切にしなきゃいかんものがあるやろ!」

子ども「さっきはスゴい!って誉めてくれたのになんで!?」
と泣き始めました。

うん、そのあなたの頑張りは僕も近くで見てきた大人の1人として、痛いほど分かる。
でも…

永田「それはそれ。自分がテストで良い点数取れたら、他の人の頑張りを『そんなもの』なんて否定して良いこととは繋がらんやろ!」

子ども「否定なんかしていないよ、認め方だって、人それぞれでしょう?」

そう、人それぞれだよ。
それを広げるために今日は引き下がれないよ!

永田「人それぞれだけど、自分の頑張り方に当てはまらない人を『そんなもの』なんて言い方するのは、僕は許さない。少し考えてみぃ!」

一度他の子の学習に僕は入り込み、味わってもらおうと思いました…が(笑)

子ども「なんで僕を見てくれないの!?そんなの自分でやらせれば良いじゃん!」

そこだ!
そこを分かってもらいたい。

永田「あなたが今頑張っていることを他の人から『そんなの自分でやらせれば良い』って言われたらどうね?そういうあなたがまずは自分でやれば良い!考えぃ!」

部屋を出てひとしきり泣いていたようです。

他の子の学習のサポートが終わってから、別室にいたその子に会いに行ったら、一瞬「あっ」って顔をしましたが、「僕は一緒に過ごす子たちに育てて欲しいと思ったものは絶対伝えるから。見てみないふりされたら寂しかろ?」と話しかけたら「はーい。…ねぇ、先生、先生これ見て!」とブロックを見せてくれました。

きっと何かを感じてくれているはず。

他者を認めること、自分を認めること、他者に認めてもらうこと。
どれが欠けても、残りのものを本当に出来るようにはなりません。

そして、この子が、例えば算数で目に見える点数として結果を得続けるためにも、そこを育む必要が絶対に出てきます。
キャパというか、寛容さというか…世界が広がって落ち着いて物事に向き合えてこそ、なんです。
テストで良い点数を取るのは反復練習によるものかもしれないけれど、認めたり認められたりの喜びをしっかり知っていかないと、そのうちに勉強する意味すら見失います。

そういう事を子どもたちには伝えていきたい。
学習は育みのツールです。
大人になる、とかそういうことでなく、自分という「個」を育むツールなんです。
そして「らしく」というのは、我を押し通すとか、突き進むことではなく、選択肢に気付き、一旦考えて、選択を出来る自力をつけるということだと思います。

他のやり方だとどんな風になったのか…巻き戻せないから面白いんだけど、ついつい考えてしまいます。

2017年1月18日水曜日

「分かりやすくなったねぇ」

今日はキッズクローバーでの学習サポート。
そう、マイケルジョーダン先生の日です(笑)

ただ、彼とのやり取りの紹介が続いていたので、別の子とのエピソードを。



中学生のHちゃん。
今日は漢字の書き取りが宿題で出ていました。
かなり難しくなってきているようで、弱気になってきている彼女。

その様子を見て一つ、僕がいないときでも学習の一助になればと思い、その場で(Hちゃんのすぐ横で)ちょっとしたアイテムを作りました。


一辺10センチの正方形を書き、縦横に区切って「田」の字にします。
漢字練習用のマスですね。

これくらいの大きさだと漢字の練習には程よいかな、と。
いろんな子で活用してもらうのに使い勝手のいい大きさである必要があります。
形をしっかりとらえるのにはこのくらいのサイズからスタートが良いと思い、取り敢えず10センチで作ってみました。

これだけの状態でも、ノートやプリントのマスよりかは大きめなので、練習はだいぶしやすくなるとは思うんです。

でも、子どもによってはもう少し具体的な方が良いかな、と。
もちろんHちゃんにも使ってほしいとの思いもあって、区切ったマスをそれぞれに色分けまでしてみました。
これで、線の長さや通る場所をよりはっきり捉えられるんじゃないかな?と。

これをキッズのスタッフさんにラミネートで加工してもらえば、ホワイトボード用のマーカーで練習が繰り返しできるんです。

これには、お手本を書いても良いし、本人が書いても良いし、ノートの下に敷いて使っても良いし…あとの使い方は支援者の工夫次第。


(本当は大きさも幾通りも用意して、徐々にノートのサイズに近づけるのが良いのかもしれませんが、それはそれぞれの子に合わせたものをスタッフさんに任せるとして…)

とにかくこういうものを用意してきました。


そして、面白かったのはこのアイテムを作っている時のHちゃん。

Hちゃんの横で作っていたら、興味津々で「何作っているんですかぁ?」と尋ねられたので、「見ててごらん」と応えました。
「あなたの宿題にも使えるものだよ」とだけ伝えて。

すると途中で「マスかなぁ?」と言い出しました。

永田「そうだよ、先生がいないときとかこれ使って漢字の練習してみてね」
Hちゃん「わかったぁ」

それから、マスを色分けし始めたら、「分かりやすくなったねぇ」と彼女が言ったんです。
使い方も説明していないし、完成している訳でもないんですが。
「漢字を練習するマス」という情報だけで、使い方や使っている姿を想像したのかな?

その辺は定かじゃないですが、そういう一言を言ってくれました。

制作の段階のことでいうなら大成功。
使い手が「使いやすそう」と思ってくれない事には使ってもらえないですから。
第一段階クリアかな?

実際に使ってみて、使い勝手がどうか?というのはまだ分かりませんが、使う本人が思い描きやすいものが作れたことは良かったです。



療育のための道具とかって買おうと思うと高いんですよね(笑)
僕もいろいろネットとかお店とかで見たりして良いなと思っても、なかなか買わない(買えない)です。

「似たものが作れないかな?」「あの子にはこれよりもこうしたほうがいいかも…」と参考にして作ってみます。
もちろん、モノによっては買った方が到底手作りできなかったり、長持ちしたり、使い勝手がいいものもあるので、毎度天秤にかけるわけですが…

出来れば、身近なもので作りたいんですよね。


家庭で継続的に療育に取り組むためにはお金をかけない、というのは原則になると思いますし。

それに、手作りしてみて目の前の子に「合う」「合わない」を確かめながら改良を進めることで子どもの認識も深まりますし。


教材は出来るだけ手作り。
前職場で学んだ大きな財産です。

2017年1月16日月曜日

「直感」は経験から

以前にも書いたことがあったけれど、「直感」は経験から培われるもの。

クローズアップ現代で将棋について特集されていた。
その一場面で。

「直感というのは、毎日3~4時間10年間で出来上がると言われている」と。

仕事でも、直感のようなものが働いて反射的に対応することもあるけど、僕が仕事を始めてまだ10年経っていない。

ってことは、ほとんどが日常生活由来のものか…?

仕事としての直感。
そういうものが作られていっていることを祈る。

2017年1月15日日曜日

断ったって相手は屁にも思っていないことが多い

年末の記事に、2017年の目標は「自分でなくても良い仕事は断る」というもの書きました。

断り下手な僕には勇気のいる目標です。

で、「誰かやってくれる人を探している」という言い回しで、お話が来ました。

『誰か』で良いんだな、と聞こえました。
なので思い切って、お断りをしました。
多分目標を立ててなかったら、去年の僕なら引き受けていたと思います。

そういうものだったので、勇気が要ったんですが言いました。
「すみませんが、お断りをさせていただきます」と。

不満そうな顔をするかな?
がっかりするかな?

そんなことを思いながら。

そしたら何のことないんですね。
相手は「そうですよね~、また永田さんにお願いしたいことがあったら来ますね」と。

『永田さんに』って話なら是非!

って感じでした。

断る方は勇気が要る気がするけど、相手は屁にも思っていないってことは、案外多い気がします。

実際、僕も断られても大したことない、ってこと多いし。

よし、この調子。
仕事は選んで。

自分のことを客観的に見られるようになり始めているS君の話

「あれもやりたい」「これもやりたい」という気持ちというか、好奇心というか…
その為に次から次へと時間を惜しむように手をつける癖のある男の子S君。

今日は、そんな彼の成長を見た気がしました。


放課後等デイサービス「えるそる むなかた」での学習サポート。


いつも「永田先生~これ見てください」と課題を持ってくる可愛い男の子S君。
いつも学習を本当によく頑張っています。

彼の課題は「一つずつ終わってから次に行く」ということ。
これに尽きるんです。
学習にしても、遊びにしても、人とのやり取りにしても。

そこがネックになって、いろんな場面で躓いちゃっているように僕には見えます。
なので、この数か月彼には、唯々そのことを求めてきました。
「一つずつ終わらせてから次に行きなさい」と。



彼のエピソードで言うと…

国語の課題をやっている途中で、「ここから先は時間が掛かりそうな問題だから、算数を先にしよう」といって中途半端にしようとするものだから、「やり忘れ」が目立った時期もありました。

「先生これ、確認してください」といって見せたら、自分はお手空きになると思うのか、遊びの方へ向かおうとすることもありました。

気になることがあると、荷物も広げたまま別の部屋にいってしまうこともありました。

トイレでさえ、流し忘れや手を洗うことをせずに「なんだって~?」と他の人のやり取りに首を突っ込みながら出てこようとしていました。

遊びもカードゲームをしていても座る位置は他の遊びをやっている子に近い位置に取ることが多く、どちらも中途半端に遊ぼうとすることもありました。

扉を閉めずに退室するなんて日常茶飯事でした。


その都度「一つずつ」「今、何をしているんですか?」「終わったと?」「やりっぱなしにしない」と僕から言われ続けてきました。
(それでも毎回寄ってきてくれるのが可愛いんです♪)


平たく言うなら「落ち着きがない」という感じです。

現在進行形のものもありますが、出会った頃に比べると度合いは随分と小さくなってきました。



今日も同じようなことを僕から言われもしましたが、途中で「あ、一つずつ」と自分で口に出して、踏みとどまった場面がありました。

扉を閉めに戻ってきた場面もありました。

「ちゃんと片付けてから出ていってください(片づけはせずに退室しようとしてしまった)」と自分の持ち物だけでなく「これはもう片付けて良いですか?」と部屋に据え置きの鉛筆削りを所定の位置に片づけて良いのか確認をする場面もありました。


どの行動も「当たり前」かもしれないけれど、彼がこういうことに気が付くこと自体が前進なんです。
次の行動に行く前に「終わっているか確認する」「振り返る」ということをする。

そうやって自分の立ち位置みたいなものを客観的に把握していけるようになっていく。

これが習慣になると、今、彼が抱えている躓きの多くが解消されると思われます。

学習面も遊びもやり取りも…深められるようになってくるはずなんです。


さ、3学期、いろんな子の成長がにじみ出てくる時期、たのしみです。
これを受けて次年度のことをこちらは考えていきます。