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2016年11月5日土曜日

「これだけ」は「こんなに」かもしれない

「これだけなんだから」と、つい口をついて出てきてしまうことってあると思います。

でも、それはこちら側の見方なんですよね、当然。

「こんなにたくさん」と目の前の相手は捉えているかもしれません。

例えば宿題の問題がたった一問の算数の計算問題だとしても、目の前の子どもが「これだけ」と捉えているかは分かりません。

その一問を解くために、もしかしたらものすごい思考を要するかもしれないのです。

もしも頭の中を見ることができたなら、驚くほどに思考を巡らせているかもしれません。

そういうことまで考えて言葉かけ、課題の設定をしていかないといけないと思います。

こういうことから見ても支援に「気持ち」は欠かせない要素だと思います。

居場所は人

「居場所作り」とは言うものの、やはり人なんだと思います。

どんな人がいて、どんな事が待っているのか。

別に特別なものを用意しなくても良いし、ご機嫌取りの接待をする必要も当然無いし、あるいはなーんにもしない日があっても良いんです。

温かく(時に厳しいときもあることは含みます)、寛容さを持って関わることを大切にしたいです。

周りの関わり方が上手いとか下手とか、そんなのは関係ないです。
するか、しないか。

何かすれば、子どもの方は、それこそ寛容さを持って来てくれます。

その中で、僕はこういう人間だよ、と必ず教えてくれるものです。

2016年11月4日金曜日

自分の世界で精一杯生きている息子

満面の笑み、全力の泣き顔、美味しそうに離乳食食べて、穏やかにおっぱいを飲んで、健やかに寝て…

まだまだ小さい世界だけど、精一杯生きている彼。

直向きとか、無垢とかっていう言葉は彼のための言葉だと思います。

彼の1秒1秒の表情、仕草が愛しくてたまりません。

今月で9ヶ月。
彼の父親になって、毎日がどれだけ穏やかになったことか。

ありがとう。

彼の寝顔を見ながらそんな思いが溢れてきた朝。

ぐるんぱ、支援の受け入れ可能な時間

プール指導、学習支援、受け入れ可能な時間はいつですか?

と、このところお尋ねいただくことが多いので、一度、今時点で受け入れられる日をお知らせ致しますね。

原則1回60分、月3回をベースに指導致します。3回以上は応相談で。

以下、開始時間を書いていきますので、そこから一時間単位でお考えください。

月曜日…19時~(月曜日はプールの休館日のため学習支援のみ)

火曜日…17時30分~、19時~

水曜日…ただいま空きがありません。

木曜日…19時~

金曜日17時30分~、19時~

土曜日…16時30分以降、相談の上。

日曜日…相談の上。

その他、相談、面談は支援の合間にお受け致します。

お気軽にお尋ねください。

問い合わせ先

永田携帯
090-5724-0660

メール
gurunpa.munakata@gmail.com

その他にもFacebook、LINEもアカウントがあります。
どちらも「永田淳哉」で検索ください。
愛犬と共に写ったプロフィール写真が目印です。

2016年11月3日木曜日

深める、って楽しいということを子どもにも知って欲しい。

1つの事を長い時間続けられないという子とは結構出会うことが多いです。

その多くの子が、「深め方が分からない」ために、次から次へと興味の対象が移り変わっているように見えます。

やり方が分かる、楽しみ方が分かる、楽しさが分かる…

そんな風になってくると、落ち着いてある程度の時間、1つの事に取り組めるようになってきます。

コロコロと遊びを変えながらも、表情を変えずに過ごしていようものなら、楽しんでいるところに水を差す気がする。
飽きっぽいから仕方ない。

などいろんな事を考えてしまうと思います。

でももし、「楽しみ方が分からない」というのだとしたら、教えてあげないとずっと楽しめずに「これは出来ない」「あれも出来ない」という思い込みに本人が巻き込まれてしまいかねません。

何か一つでも「深める」体験が出来て、それを楽しいと感じることが出来さえすれば、次から次へとその楽しみ方が波及することだって有り得ます。

「見守る」ということは、もちろん語義の通り、様子を見守ることもあると思います。
でも、様子を観察して成長に繋がりそうなことを探すための時間にしないと意味がないと思うんです。

「何事も無くて良かった」という見守りだけではなくて。

いえ、「何事も無くて良かった」の見守りなら良いんですが、「何事もしなかった」にだけは絶対にしてはいけないと思います。

2016年11月2日水曜日

「たのしさ」を伝えられるようになったきたよ

今日は、「えるそるむなかた」での学習サポートに行って来ました。
その中で、小学校低学年の女の子とお喋りをしながら宿題のサポートをしていました。

最近、少しお姉ちゃんへの階段を上っている彼女。
お話の仕方も上手になっています。

楽しかった、という気持ちを「楽しかった」という言葉だけでなく、話し方の抑揚、表情を使いながら「楽しさ」として、聞き手に届けることが出来るようになってきています。

勉強で問題が解けるようになる、という成長も見ていて嬉しいですが、こういう面の成長を見るのも、たまらなく嬉しいですね。

ボディイメージ、手指の動かし方、鉛筆の握り方、目の使い方、…その子も学習の上では練習していきたいことが色々とあるわけですが、こうやって、いろんなやり取りをする中で楽しく身に付けていって欲しいと思います。

この子との付き合いのような時間を過ごすと改めて「丁寧にすれば、日常生活は本当に療育になり得る」ということを思えます。

練習を訓練っぽくさせない、僕自身も気を付けていきたいこと。

2016年11月1日火曜日

たった一人の「誰か」になれるか

「誰かが言うだろう」「誰かがやるだろう」の「誰か」になれるか、というのはとても大切なことだと思っています。

肝心なことを「誰か」に任せて、外野としてジャッジを下すなんてことは、どうも性に合いません。

「誰かがするだろう」で、みんなが手を引いてしまって、「誰もしなかった」なんてことになることを想像したらゾッとします。

でも、だからと言って大多数の人を悪く言うつもりもありません。
自分の立場、考え方、その他諸々が絡み合ってくる話ですから。

僕だって自分の力量、考え方、立場がもちろんありますから「これは僕の出る番ではない」と思えば、やり過ごします。

ただ、「あぁ、何とかしたいけど、誰かがするだろう」なんて立場は取りません。
自分自身が何らかの関わりを持てるかもと思えば踏み込むし、僕じゃないと思えばやり過ごす、それだけです。

そして「誰か」に任せたら、もうそこは任せます。
自分はやらずに、人にやらせてジャッジを下すなんてせこいことはせず、委ねます。
もちろん、その中で協力出来る点が見出だせたら協力出来るようにはしていたいと思います。

「たった一人の誰か」になるためには並々ならぬ覚悟が要るものです。
ジャッジばかりする人は、その覚悟の重さを知らないのだと思います。

いざと言うときに「たった一人の誰か」になれる準備は常にしておきたいものです。