中学生の男の子。
昨年度、学校生活になじめたような馴染めなかったような…学校にも行けたり行けなかったり、遅刻したり早退したり…そういうことが目立っていた子です。
休校期間中には、さすがに退屈して「学校にそろそろ行きたい。家ばっかりはつまらない」と言っていました。
一人っ子で兄弟もおらず、両親も共働きで休校期間中は、家に一人になる時間もかなり多かったようです。
それは退屈だったでしょう。
僕との学習を週2日していて、それが「喋れるから楽しい」と後半は言い出していましたから、その退屈加減は相当だったのでしょう。
休校期間が明けて、1か月。
遅刻する日や欠席する日、帰ってきてしまう日…やはり、というか今年度も学校生活は彼ペース。
彼自身も悩んでいるように見えます。
本当は行きたいのに行けない。
「情けなくなる」という言葉さえ出てきます。
先日も、朝、家を出たけれど数分で折り返してきて「行きたくない、そんな気分じゃない」と言って、その日は休んだとのことでした。
そして、それから自分で後悔しています。
この後悔があるからか、周りの大人は「だったら、気持ちが落ち着いたら行けばいいでしょう、まずはあなたのペースで良いから」という立場を取る人が多いようです。
でも彼にとっては「だったら」ということで済む問題でもないようです。
彼の中には「でも…」が強くあるのでしょう。
彼のお母さんからも、彼からもほぼ同じような話が聞かれます。
さて、僕はどういう立場を取るか…
考えた末に僕が彼に向けた言葉は「まぁ、そういうこともあるわな。僕も仕事嫌だな、って思っちゃうことあるし。気持ちか身体かがそれだけくたびれてるんやろ。良いんやない、これまでもずっと話してきてるけれど、ずっと100なんてことはないんだから。100の日も80の日も10の日もあるし。その中で“あなたの生活全体”とか“あなた自身”のバランスを取りながらでいいよ。」と伝えました。
少し彼の眼の色が変わりました。
それまで俯いていた顔が上がりました。
「でも、みんな『がんばれ』っていうよ」と不安そうに返してきました。
「まぁ、それぞれの立場とかあるし、お父さんお母さんにはやっぱり我が子への願い、みたいなものもあるしね。僕も基本的には『きついならしなくていい』という立場はとらないしね『きついならどういうやり方ならできそう?』って尋ねるやろ?それって『どうやったらバランスが取れる?』ってことなんよね」
そういう話をしました。
ここのところずっと鬱屈として、学習もとてもスローペースで、学校から出された英語の宿題プリントも2週間かけて1枚終わらせるというくらいのペースだったのですが、その日はお話の後サクサクと取り組んでいました。
もちろんお喋りも楽しみながら。
「がんばれ」が「求められていることに応える」だと彼は思っていたのかもしれません。
このケースに限らず、大人が子どもに願いを持つこと自体は悪いとは思わないけれど、それがどういう意図で、どういうことなのか、というのが伝わっているかは、たまに確認することは必要なのかもしれません。
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