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2017年9月10日日曜日

何故?支援にきめ細かさが必要な理由

きめ細かさを欠くと、対象児者やその家族らが孤立に向かってしまいます。

支援が粗いと「クレーム」みたいなのはあるかもしれません。
でも、それは支援を受けるための本来の要望とも困り感とも違います。

そこには「やり取り」があるようですが、実は無いに等しいのです。

粗い支援が続くとどうなるか?

相手は諦め始めてしまいます。

そうやって上手に甘えることを忘れていってしまいます。

きめ細かい支援が出来ていると、コミュニケーションも円滑になり、いろんな話が出来るようになります。

そういうところに支援を継続していくための、困り感を解消するための、あるいは「実はこういうことで困っています」が引き出すためのヒントがあるのです。

そうやって人と繋がり感を持っていくことの大切さをお互いに体験していくのです。

支援の本質は自立と自律を目指すことにあります。
でも、それは「自分で立てよ」と突き放すことではありません。
自立や自律は「なんでも自分でしなくてはいけない」ではありません。

自分で出来ることは自分でして、分からない、困ったときには上手に甘えて「ここを教えて」「ここを手伝って」と言えるようになることが大切です。

そのために、必要な時に大いに上手に甘えて自己肯定感を育んでおく必要があるのです。
その自己肯定感を育むために必要なのが、きめ細かさ。

2017年9月9日土曜日

たまには「毒」を吐いてみる♪

「どーせ安い給料やし」
「どーせ安い仕事やし」
「何事もなくやり過ごせれば良いし」

こんなので次の仕事があるの思ってはきけません。

仕事っていうのは自分の時間と労力、クライアントのお金と時間と労力を使うものなんだから。

言ってみれば「命」「価値」使ってるんだから。

僕は自分の「命」「価値」を無駄にするつもりは無いし、仕事で関わっている人たちの「命」「価値」も無駄にはしません。

面倒臭そうに仕事をして評価してもらおうなんて厚かましい。

例えば。

時給1000円なら1000円分の仕事をすれば良いんでしょ?

それも悪くはない。

でもそれだと「他の人でも出来る仕事」でしかないんですよ。

何も時給1000円で10000円分の仕事をしろ、ということではなくて。
1001円分で良い。

その1円に自分が請け負った価値を盛り込めるか?でしょう。

そもそも「時給1000円分の仕事で良いんでしょ?」というスタンスの人で1000円分の仕事をしている人を僕はほとんど知らないです。

1000円出すのも惜しくなってくるような仕事ぶりの人か、それ以上してくれる人かどちらかしか知らないです。

少なくともそういう目で見ています。

そして頑張る人は大いに評価したいんですよ。

2017年9月7日木曜日

「トレーニングをしているんだよ」

僕が部屋を覗いたとき、脇目も振らずに壁に向かってゴムボールを壁に向かって投げていた小学校一年生のY君。

Y君「322、323、324…」
どうやら投げた回数を数えている様子。
スタートを見ていないので0からスタートしたのかは分かりませんでしたが、かなり長い時間やっていたのではないかと思います。

楽しそうにしているのなら、良しとするところですが、投げ方数え方にどこかトゲがある気がして、ちょっと介入。

永田「こんにちは、何しているの?」
彼の口調を真似て(カクカクしたような独特の口調なんです)尋ねてみました。

Y君「ボールを投げているんだよ」

永田「なんでそんなに沢山投げているんだよ?」

Y君「トレーニングしてるんだよ」

永田「なんでトレーニングしているんだよ」

Y君「それはね、ゴニョゴニョ…」
理由は聞き取れなかったです。
(うん、トレーニングしたいあるいは、しなきゃならない彼なりの理由があるんだな)

永田「そうなんだ。でも、ここでそのトレーニングしちゃうとちょっと危ないかもしれないんだ。回りに人もいるし、モノにあたったら壊れてしまうよ」

Y君「どうしたら良いんだよ」

永田「他のトレーニングはないのかよぉ?」

Y君「でも、あと15分これをしないといけないんだよ」(タイマーを手に持っていました笑)

永田「そんなに続けなくても大事なんですねじゃないかな?」

Y君「まだまだ足りないんだよぉ」

永田「そしたら、すこーしやり方を変えてくれないかい?他の子が少し怖がっちゃっているんだよ」

Y君「…」

話をしている合間にもボールを投げてカウントも進んでいきました。

考えているようで、気持ち弱い投げ方になりましたが、次第にまたトゲトゲが出てきます。
(まぁ、根っこ見つけないうちだと、こうなるよな。でも、一応は抑えようと心掛けるのね)

その後、もう少し様子を見て、何度か声かけをしました。
やはり何か彼なりの理由があるよう。
それは確かだと思います。

僕のタイムスケジュール上、ここまでで今日は一旦終了。

さて、何が彼をトレーニングへと駆り立てるのか?

2017年9月6日水曜日

「こちょこちょ」で気持ちを動かす

「こちょこちょ」っていうのは、基本的には、されると不快になる行為です。

子どもは笑いますが、あれは楽しくて笑っているのではなく、「くすぐったい」という不快さを表す術が無くて「笑うしかない」という状態がほとんどです。
だから、「こちょこちょ」を続けられるとほとんどの子どもが終いには泣き出します。

「こちょこちょ」で遊ぼうと思ったら間の取り方とか強弱とかを考えて、「こちょこちょに頼る」のではなく、「こちょこちょを通してコミュニケーションを楽しむ」ための余裕を作らないといけません。
身体に触れ合うので、スキンシップとしては良いのですが、加減が大事なんですね。

今日はその「こちょこちょ」を学習サポートの場面で使うということを試みてみました。

宿題に乗り気でなかった小学校2年生の男の子A君。

方デイの先生から「永田先生と宿題しておいで」と言われるも「えー、面倒。後でする」とだだっ子になり始めました(笑)

永田「よーし、行こうか」

A君「えー、嫌だー、こんな人とやりたくなーい(ニヤニヤ)」
そう言いながら、僕の脇腹を指先でツンツン突いてきました。

永田「なんだってぇー?」
A君の脇腹をツンツンし返しました。

A君「あははは!『こんな人としたくない』って言ったとぉ」
ツンツン(ニヤニヤ)

永田「(今日はこれだな)言ってくれるなぁ」
今度は短くこちょこちょ。

A君「(逃げながら)しないよー!しなかったらどうする?」(ニヤニヤ)

永田「しなかったら…こうする!」
捕まえてこちょこちょ!

A君「あははは!うわー!やめろぉ!」
学習室に逃げ込む(笑)

永田「よし、やるよぉ」(さてどう来るかな?)

A君「しなかったら?」(ニヤニヤ)

永田「こう!」(こちょこちょ)

A君「しないよー(ニヤニヤ)」

僕が彼のランドセルから宿題のプリントを出しました。

するとまた、「しなかったら?(ニヤニヤ)」と聞きながらプリントを持って座り始めました。

永田「どうなると思う?(ニヤニヤ)」

A「こう!」
僕の脇腹をツンツン!

永田「分かってるやんかぁ♪こう!」
こちょこちょ

A君「わははは!…こんなん簡単やし」
と取り組み始めました。

あとはスラスラとやり終えて、「ほらー、余裕やったし」と決め台詞を吐きながら僕の脇腹を最後までツンツンしてきた。
「本当やね~」とツンツンしながら返しました。

実に嬉しそうな顔をしながら学習室を出ていってくれたのが、僕も嬉しかったです。


冒頭に書いたように「こちょこちょ」は本来不快なものだけど、スキンシップなんですね。
うまーく使えば学習サポートの手立てにだってなるんです。
今日は、僕自身の確認のための記事でした。











2017年9月4日月曜日

相手をより鮮明に思い浮かべることで的確さを高めていく

一歳の息子のご飯を作るときにも僕ら大人のご飯を作るときにも、意識して食材の大きさを切り分けるということはあまりありません。

こういうことをブログで堂々と書いてしまうと妻から怒られてしまいそうだけど(笑)

だけど自然に大きさは変わります。

それは、息子のご飯を作るときには息子のことを。
僕ら夫婦のご飯を作るときには妻のことを。
鮮明に思い浮かべるから出来ることだと思っています。

支援やその準備でもそうだし、他の仕事でも、こういう食事のことでもそうですが、対象児者、顧客、パートナー…など相手を思い浮かべながら取り組むから良いものが出来るのです。

仕事のことでいうと、その思い浮かべ方、想像の仕方がより鮮明になればなるほど、仕事は的確さを増していきます。

ここで言う「思い浮かべる」は、どちらかというと「今の姿」です。

その「今の姿」に対して「こうなって欲しい」という見通しと見立てを持って、取り組みをを提供するのです。

「こうなって欲しい」ということと、実際の結果に差があれば「何故?」を考えますし、自分が捉えていた「今の姿」に取り違えがあったということにもなるでしょうから、振り返りと観察のし直しをして軌道修正を図っていくのです。

とにかく「何故?」を持って観察して、その観察を基に「今の姿」をより鮮明に思い浮かべていくことで、仕事は間違いなく的確さを増していきます。

差が埋まらないなら、それは視点や焦点がズレているということ。

2017年9月2日土曜日

仲間意識?

放課後等デイサービスえるそるむなかたの玄関先での出来事。

5年生S君と3年生J君。
近くに水切りが出来る場所があるらしく、そこで使うための平らな石を一生懸命に楽しげに探していました。

J君「ここに平らな石がたくさんあるんよ」
永田「そうなんだ」(本当に楽しそうに話すなぁ。穏やかで心地良いなぁ)
J君「ほらね」
本当に水切りしやすそうな石が見つかりました。
S君「僕も水切りしたいなぁ」
J君「こういう平らな石がしやすいんばい」

しばらく石を探しながらS君とJ君は楽しげにお喋りしていました。

他の友達が外出から帰ってきたときに、その関係性が変化を見せました。

J君と普段から仲良しなY君が帰ってきました。

J君「Y!石探しておいたから水切り行こう!」
Y君「いいよー」
S君「僕も行きたーい」
J君「はぁ?あんた、さっきみんなが帰ってきたら相撲する約束してたやん?」
S君「でも水切り行きたい」
(ほぅ、今までの関係性がガラリと変わったな)
何も言いはしないけれど、Y君はJ君に誘われた手前、なんとなくJ君寄りで、あっという間に二人と一人に別れる構図になりました。
ここで、僕は今までのしゃがみながらJ君とS君の間に位置取りしていましたが、S君の側に立つ、という行為を選択。

永田「S君はダメなんだぁ。水切り行きたいよねぇ。(と呟いてみる)」

J君「約束破るん?」
S君「そうじゃないけど…なら一回戦したら来るから待ってて」
J君「ダメ!Y行こう!先生も早く!」

僕とは別の先生もS君を気にかけつつ、さっさと行ってしまったJ君とY君に着いていくことになってしまい、S君は室内に。

(その後、S君は相撲をせずにクッキングに参加して楽しんでいました)

J君の態度の変化、J君にとってのS君やY君の存在をどう汲み取るか?
S君の思いや願いをJ君に届くようにするにはどうしたら良いのか?

支援者の介入をどう考えるか?
(僕自身の介入の在り方、他の支援者の介入の在り方)

ここに登場する人(支援者含む)の持つ「仲間意識」という価値観の違いに着目したいです。

こういうことも支援員さんたちと共に考えていきたいと思います。
これが療育に繋がっていったり、子どもを見守ることに繋がっていったりすると思います。
子どもの成長に立ち会うために。

2017年9月1日金曜日

「ルールの確認」と「釘を刺す」

事前にルールを説明したり確認したりする行為と「ルールを守れよ」と釘を刺す
行為は、境界がとても曖昧だと思います。
隣り合わせのようなものです。

だけども、そこに含まれる意味は大きく違います。

「ルールの確認、説明」は、約束事です。
約束というのは信頼関係が無いと結べません。

一方で、「釘を刺す」は「お願いだからルールを守ってよ」とか「ルールを破ったらペナルティだからね」みたいに、「信じたい」あるいは「この人はルールを守れないかもしれない」という「まだ信じきれない」ということを含んでいるように思います。

この違いって思いの外、大きいと思いませんか?

ルールの確認、説明がくどくなると釘を刺すことになっていることがあるのです。

こういうところからも人と人との距離感というのは見て取れると思います。