ページビューの合計

2018年5月29日火曜日

顔浸け出来たよ!

小学校1年生のR君。
彼はとっても慎重で、ちょっぴり怖がり屋さん。
そんな彼とのプールも数か月が経ち、いよいよ水へ顔浸けの練習を始めました。

先週からゴーグルをかける練習を始めて、最初はゴーグルをかけることで変わる視界に少し戸惑っていましたが、今週はその様子もなく、「かっこいい?」と聞いてくるので「うん、かっこいいよ」と答える、そんなやりとりからスタートしました。

とは言え、ゴーグルをかけて、顔を浸けるのにはとっても勇気がいるものです。

まだ小さな身体からありったけの勇気を振り絞るようにして「大丈夫」と自分に言い聞かせていました。

これだけ慎重な彼ですが、僕の中には、「顔浸けは出来る」という、ある種の確信がありました。
何故なら「浸けるのはドキドキするけど、水を頭から被るのは平気」というのを確認していたからです。
シャワーでも、泳いでいる間に押し寄せる波を顔に浴びても…そういうのは平気なのです。
ただ、自分から行くのはドキドキ、という…そういう感じなのです。

だから、後はこちらの運び方次第。

ビート板を持ってばた足をしている彼に向けて波を送って…はしゃいで難なく乗り切る。
(うん、大丈夫)

そこへ「それー!雨が降ってきた!」と水をかけて…まだまだ余裕。
(うん、いけるな)

更に「うわー、雨がひどくなってきて嵐になってきた」と彼のビート板をつかんで揺らし…それも「大変だ~♪」と笑顔で乗り切り余裕。
(よし、いくぞー)

そして「あ、船に穴が開いて沈む~」と彼のビート板を少し下げてみて…。
↑この時はまだ顔が沈まない程度。
ちょっぴり慌てるも直ぐに、「わー!!」と遊びに戻ってきました。

ここまで来て、僕の選択肢は2つ。

1つは僕が先に「穴を見てくるね」と確認して、その後に真似をさせる。
もう1つは、彼に「穴を一緒に見に行こう」と一緒にやる。
このいずれかの方法で、顔を浸けるきっかけが作れたら、と思っていました。

ところが、彼が自ら穴を直す!みたいなことを言って(唐突だったから僕が彼の言葉を忘れてしまいました…勿体ない(^^;)自ら顎を引いて水を覗く素振りを見せました!

惜しい!
永田「ええ?それじゃ見えんくない?」
R「そっか…」
少し迷って、えいや!と顔を浸けました!

永田「どう?見えた?」
R「うん!」
永田「すごいやん!潜れたやん!?」
R「すごかった!?」
永田「すごかったよ!もう一回してみぃ」

えい!出来た!

こうやって、彼は水中デビューしました。

一回経験してしまえばトントン拍子です。
元々が、顔が濡れたりしても大丈夫な子なので。

遊びの要素を減らしても、「せーの」の掛け声に合わせて顔を浸けられるようになりました。

慎重派な彼ですから、恐らく次回の最初は「この前みたいに出来るかな?」みたいな不安を抱えてくるでしょう。
そういう感じの子です。

でも、間違いなく彼自身の経験として積ませてあげられたと思うので、後は少しずつ繰り返していくのみ。

ちょうど、直に始まる学校でのプールに向けて担任の先生から「顔は浸けられますか?」とお尋ねがあったようで。

学校のプールまでに、数回あるから、もしかしたら「他のプールでも出来る」と本人が思えるくらいまでになるかもな、と思っているところです。

2018年5月26日土曜日

運動会の応援に行ってきた2018春

今日は宗像市内の小学校の多くが運動会でした。
その応援に行ってきました。
さすがに教え子たちのいる学校全ては回り切れませんでしたが^^;
朝は雨が降っていて、どうなることかと思っていましたが、どの学校も決行して、途中からは見事な空になって、その空の下で子どもたちは一生懸命に競技に表現に励んでいました。

子どもたちの様子を見に行くこともですが、学校で保護者と会ってお話するのも、こういう日の楽しみなんです。

僕が関わっている子どもたちの多くは特別支援学級在籍で、保護者の皆さんも「上手くやれるかしら」というようなドキドキを行事前には語る方が多いのですが、いざ当日を迎えるとほとんどの保護者が、子どもたちの頑張りに対して本当に温かで柔らかな視線を向けていますし、僕を見つけると「あ、先生!さっきのかけっこ見てくれました?」と笑顔で声をかけてくれますし、「次はこれです」とプログラム表を見せてくれます。

僕は、僕自身が子どもたちと過ごす時間が好きですが、やっぱりこういう親子の絆とか、親心とか、あるいは子どもたちの夢中になる姿とか、そういうものが好きなんだと思います。


中には「毎年食べてくれないんですけどね」という前置きをしつつ「お弁当に、あの子は好きじゃないの知っているんですけど、私のつくったコレを食べて欲しいと思って、毎年運動会の日にチャレンジしやってるんです」というなんとも温かいエピソードを聞かせてくれた保護者もいました。

なんでもお母さんの得意料理なのに、偏食のために食べてくれたことがない、という一品があるようで、「いつか食べてくれるかも」と、毎年作っているのだとか。

もう、こんなエピソード、聞いているだけで涙出そうですよ。

学校行事って、子どもたちの頑張りを見る機会にもなりますが、同じように保護者の皆さんも頑張っていらっしゃるんです。
頑張っているというか…愛ですよね、愛。

こういうものに触れられるのが学校に行く一番の理由かもしれません。
もちろん、子どもたちもみーんな頑張っていました。

みんなお疲れ様。

具体的でないとスタートを切ってはいけないという思い込みは捨ててみても良い

最近、こういう記事が続いているけれども。

ぐるんぱは立ち上げから2年半。
これまでしてきたことも、今していることも、これからしていくことも恐らくは、2年半前に胸の内にあったものだと思います。

だけど、諸事情で出来なかったこと、出来ていないこともありました。
それに、胸の内に“種”としてあっただけで、上手く表現できなかったこともあったと思います。

それが自分で動き始めて、やってきて「あぁ、そうそう。こういうことがしたかった」とか「こういうことがしていきたい」ということが具体的に、クリアになってきたように思います。

その証拠に、2年半前に比べて「ぐるんぱって何?」「永田は何がしたいの?」」という質問に対して受け答えが上手になってきたという実感があります。

この変化も間違いなく「ぐるんぱのあしあと」なわけです。


このブログの書き方も記事の傾向も2年半前とは違います。
ぐるんぱの名刺も、案内の資料も数回作り直してきています。

コンテンツとしては大きく変わるわけではないのですが、使う、選ぶ文言が少しずつ変わってきています。
デザインも少しずつ変わってきています。

それが「今の」ぐるんぱの姿です。
多分、というかこれからも間違いなく作り直していきます。

それは、ぐるんぱが異質なものへと変わっていくわけでなく、実績や実践からぐるんぱの意義がより具体的にクリアになっていくからです。


最初の頃は諸先輩方から「大丈夫?そんなんで」とお声も頂戴しましたし、「で、何がしたいの?」という顔を向けられたこともありました。
でも、そのころのことを今振り返ってみても恥ずかしいとは思いません。
むしろ「よく踏ん張って始めたな」と褒めたいくらいです。
あそこで、「そうか。もっと具体的に煮詰めてから」なんてしてても具体的にはならなかっただろうと思います。

やりながら多くのことを学んできました。

もしかしたら「見切り発車が、たまたま上手くいっただけだろう?」と突っ込まれるかもしれません。
見方によってはそう言われるかもしれませんが、やってみなきゃ分からなかったことが実に多かったです。
勤めていたころから大きく支援の内容を変えたわけではありません。
勤めながら学んできたことがベースにはあります。
そこに工夫を掛け合わせてきました。

そう、本当に始めてみて見える問題も多かったから。


今まさに、ぐるんぱの資料を作り直しているところです。
最初の頃のものに比べて言葉が具体的になっていることに気が付いたので、そのメモ程度の記事ですが。

2018年5月24日木曜日

点と点が繋がっていく

この2年半くらい、ぐるんぱの活動の他にも地域活動もいろいろとしてきました。
収入になるならない、という事とは別にボランティアもしてきました。

正直、収入が少ない時期には「しんどいな」と感じた日もありましたし、「なんとかしなきゃな」と焦った日もありました。
きれいごとばかりでなくて、食べていくことをしていかなくてはならないし、そうでなきゃ、既に始めている支援も打ち切らなければならなくなりますから…とにかくいろんなことを悩みもしました。

でも、この2か月、3か月くらいでしょうか。

これまで蒔いてきた種が目を出し始めて、今まで点であったものどうしが繋がり始めてきました。
応援してくれる人、認知してくれる人、協力してくれる人、興味を持ってくれる人…とにかくいろんな人と人、事と事、が繋がり始めて、とてもいい流れの中に今いるように思っています。

ぐるんぱは一回り大きくなれるかも。

そういう手応えも感じています。

一層丁寧に歩んでいきます。

出会う子どもや青年たちの生活が地域との結びつきを強くしていくのと同じように、ぐるんぱの活動も地域に根付くのに必要なことだったんだと、改めて感じています。

そう。
道草(に見えるだけなんだろうな)もとても大切。
最短距離でゴールを目指していても、前しか見えなくなるってことだろうな。
道草食いながら、周りの景色も楽しみながらの方が、根を張れるのかも。

2018年5月22日火曜日

「子どもたち」と「いのち」

先日、ある支援者さんとお話をしている中で「『子どもたち』と『いのち』について」話になりました。

詳細についてはここでは書きませんが、その支援者さんと関わりのある子どもたちとの間に「いのち」についての価値観で相違があるようで、悩んでいらっしゃる様子でした。

「いのち」に対する価値観って正直なところ多様で、「これが正しい」という価値観を見出すのは難しいのだとは思います。
ただ、その支援者さんと話してて一致したのは「いのちは尊い」という点。
そのことについて子どもたちに考えるきっかけを作りたいとのことでした。

なんでも、知っている子が虫やらザリガニやらを捕まえてはオモチャの様に扱うのだそうです。
投げてみたり、ブランコに乗せてみたり、滑り台から滑らせてみたり…
(やりますよね、そういうこと。僕も幼稚園の頃とか、アリの巣に水を流し込んでみたり、カタツムリを殻から出してみようとしたり、いろいろした記憶があります)

その支援者さんも子どもがそういうことをして遊ぶということはわかるようなのです。
幼児期には「生き物は死ぬ」ということが上手く思い描けずにやり過ぎてしまったり、遊んでしまったりすることがあるのは分かる、という感じでした。
ただ、年齢(話から察するに小学校の中学年から高学年のようでした)としていつまでもそれを許して良いものか、とか、「生き物が死ぬ」ということを知っている子が、虫やザリガニをオモチャの様にして、「車に轢かれるように道路に置いて、面白がって眺めていて、潰れたら『うおお!!』っと声を上げたりすることに違和感がある」とのことでした。

確かに。
幼稚園児くらいの子がするのとは、少し違う気がします。
僕も話を聞く限り、伝えるというか考えて欲しいなぁ、と思いました。

因みに「ザリガニだって生きてるとよ」と伝えたら「こいつ等は外来種だから、放っておいたらバランスが崩れるとよ」という反論をしてきたようです。
なるほど^^;

でも支援者さんとしては、論点はそこに置きたくないようで、あくまでも「いのちの尊さ」というところなのでしょう。
それはそれ、これはこれ…という訳にもいかないでしょうね。


少し話は変わりますが…
僕は20代前半の頃に、当時小学生だったご近所の子どもから「なんで人を殺してはいけないの?」という、ドキリとする質問をされたことがあります。

ドキリとしたものの、聞いていってみると、その子は「法律があるからとか、そういう事じゃない気がするんだけど上手く説明できない」というところで悩んでいたみたいです。

その時、僕も改めてそんなことを問われたことがなかったものだから、答えに窮しました。
それで、いろんな本を読んでみました。
絵本、エッセイ、小説、詩…
「いのち」をテーマにした作品はたくさんありますが、なかなか「人を殺してはいけない理由」というのをビシッと書いてある作品はありませんでした。

そんな中、故・日野原重明先生の言葉に「いのちは時間」という言葉がありました。
どんな生き物も、時間を持っていて、それがいのちである、という旨が書いてありました。

夢中になるもののため、家族のため、友人のため、恋人のため、自分のため…その生きもの毎に生きていくために時間=いのちを使うのだと。
その時間を奪うということが他の他者によって行われることは、奪われる人にとっては、悲しく、辛く、悔しいものなんだということを感じたものでした。

もちろん、これも日野原重明先生の言葉だし、価値観だし、それを承けて感じた僕の価値観ではあるけれども、僕は少なくともこの考え方が分かり易いし好きです。


その支援者さんと、子どもたちが「いのち」についてどう考えていくのか。

僕も幸い多くの子どもたちと関わる機会がある立場にいます。
自分の価値観の押し付けではなく、子どもたちの「自分育て」「自分づくり」の立ち合い人として、彼らの身近な大人の一人でありたいと思います。

きっと、その支援者さんと子どもたちは素敵な時間を過ごしているのだと思います。
(支援者さんは悩ましいし、つらいこともあるでしょうけれどね^^;)

2018年5月21日月曜日

準備が大切

エイブラハム・リンカーンはこんな言葉を残しています。
「もし6時間で斧を使って木を倒せと言われたら、最初の1時間は斧を研ぐことにつかうだろう」と。

僕も出来るだけ、このスタンスで仕事に向かいたいと思っています。

支援中もそうですが、そもそも日常では不測の事態、というのがあるものです。
そういう「不測の事態」に備える必要があるのです。

その不測の事態に備えるために必要なのが「準備」ということになるわけです。
そういう時にも対処はできるだけの準備は少なくともするべきでしょう。

「不測の事態で、もうどうしようもありません」と投げ出すのでは、話にならないのです。
もちろんパニックなどに陥って、むやみやたらに手立てを打ち出すというのも違います。
却って、事態を悪化させかねません。

準備していて、「万全」ということは案外無いのかもしれません。
それでも、慌てずに「考える」という間が取れるくらいに落ち着いていられるだけの「準備」をしてから場に臨むというのが、良い気がします。


僕の周りにいる仕事のできる人たちは、もれなく準備に時間をかけています。
様々な状況に備えています。

その人たちも不測の事態に見舞われることはあるでしょう。
それでも、少なくとも傍目には、「落ち着いているように見える」のです。
それは間違いなく準備のたまものだと思うのです。

「明日の準備をしてから寝る」
先ずはそこからでいいと思います。

2018年5月18日金曜日

5月度支援者の集い

もうすっかり今回は告知が出来ずでしたが、今週日曜日に14時~17時、「放課後等デイサービスいーりすむなかた」をお借りして支援者の集いを行いますので、ご都合のつくかた、興味のある方は是非おいでくださいませ。

今回は告知不足もあるので、来られる方も少ないかもしれませんね^^;

申し訳ありません。


行ってみようかなぁ、と思われた方は永田まで一報くださいませ。
よろしくお願いいたします。