ページビューの合計

2018年5月22日火曜日

「子どもたち」と「いのち」

先日、ある支援者さんとお話をしている中で「『子どもたち』と『いのち』について」話になりました。

詳細についてはここでは書きませんが、その支援者さんと関わりのある子どもたちとの間に「いのち」についての価値観で相違があるようで、悩んでいらっしゃる様子でした。

「いのち」に対する価値観って正直なところ多様で、「これが正しい」という価値観を見出すのは難しいのだとは思います。
ただ、その支援者さんと話してて一致したのは「いのちは尊い」という点。
そのことについて子どもたちに考えるきっかけを作りたいとのことでした。

なんでも、知っている子が虫やらザリガニやらを捕まえてはオモチャの様に扱うのだそうです。
投げてみたり、ブランコに乗せてみたり、滑り台から滑らせてみたり…
(やりますよね、そういうこと。僕も幼稚園の頃とか、アリの巣に水を流し込んでみたり、カタツムリを殻から出してみようとしたり、いろいろした記憶があります)

その支援者さんも子どもがそういうことをして遊ぶということはわかるようなのです。
幼児期には「生き物は死ぬ」ということが上手く思い描けずにやり過ぎてしまったり、遊んでしまったりすることがあるのは分かる、という感じでした。
ただ、年齢(話から察するに小学校の中学年から高学年のようでした)としていつまでもそれを許して良いものか、とか、「生き物が死ぬ」ということを知っている子が、虫やザリガニをオモチャの様にして、「車に轢かれるように道路に置いて、面白がって眺めていて、潰れたら『うおお!!』っと声を上げたりすることに違和感がある」とのことでした。

確かに。
幼稚園児くらいの子がするのとは、少し違う気がします。
僕も話を聞く限り、伝えるというか考えて欲しいなぁ、と思いました。

因みに「ザリガニだって生きてるとよ」と伝えたら「こいつ等は外来種だから、放っておいたらバランスが崩れるとよ」という反論をしてきたようです。
なるほど^^;

でも支援者さんとしては、論点はそこに置きたくないようで、あくまでも「いのちの尊さ」というところなのでしょう。
それはそれ、これはこれ…という訳にもいかないでしょうね。


少し話は変わりますが…
僕は20代前半の頃に、当時小学生だったご近所の子どもから「なんで人を殺してはいけないの?」という、ドキリとする質問をされたことがあります。

ドキリとしたものの、聞いていってみると、その子は「法律があるからとか、そういう事じゃない気がするんだけど上手く説明できない」というところで悩んでいたみたいです。

その時、僕も改めてそんなことを問われたことがなかったものだから、答えに窮しました。
それで、いろんな本を読んでみました。
絵本、エッセイ、小説、詩…
「いのち」をテーマにした作品はたくさんありますが、なかなか「人を殺してはいけない理由」というのをビシッと書いてある作品はありませんでした。

そんな中、故・日野原重明先生の言葉に「いのちは時間」という言葉がありました。
どんな生き物も、時間を持っていて、それがいのちである、という旨が書いてありました。

夢中になるもののため、家族のため、友人のため、恋人のため、自分のため…その生きもの毎に生きていくために時間=いのちを使うのだと。
その時間を奪うということが他の他者によって行われることは、奪われる人にとっては、悲しく、辛く、悔しいものなんだということを感じたものでした。

もちろん、これも日野原重明先生の言葉だし、価値観だし、それを承けて感じた僕の価値観ではあるけれども、僕は少なくともこの考え方が分かり易いし好きです。


その支援者さんと、子どもたちが「いのち」についてどう考えていくのか。

僕も幸い多くの子どもたちと関わる機会がある立場にいます。
自分の価値観の押し付けではなく、子どもたちの「自分育て」「自分づくり」の立ち合い人として、彼らの身近な大人の一人でありたいと思います。

きっと、その支援者さんと子どもたちは素敵な時間を過ごしているのだと思います。
(支援者さんは悩ましいし、つらいこともあるでしょうけれどね^^;)

0 件のコメント:

コメントを投稿