まず、慰めっぱなしにはしません。
子どもたちがまた歩き出せるよう励ますタイミングを図りながら慰める、をしていくのです。
慰めるっていうことは大切ですけど、「子どもたちをいつまでも悲劇のヒロインにしておきたくない」という思いが僕の中にはあります。
20代前半、僕はとても辛い時期がありました。
それこそ死にたいほどに。
(いや、死ぬかと思うほど、かな?)
あの時期、本当にたくさん慰めてもらっていました。
でも時間がある程度経ち、落ち着きを取り戻してくると、「慰められている自分」がまるで情けない存在のように思えてきた時期があったのも事実です。
その後にはたくさん励ましてもらいました。
僕の周りには幸い励ますのが上手な人がいたから、また歩けるようになりました。
そういう経験から、慰めると励ます、の使い分けには敏感です。
対等(なんかもっと良い表現があれば良いけど直ぐに思いつかない…)に、目の前の子どもたち青年たちとも付き合いたいと思います。
だから“上から”慰めるだけでなく、“同じ高さ”に並ぶことを意識した「慰める→励ます」をします。
今日は中学生の男の子との学習。
とにかく自信を失くしてしまっている彼。
何事からも足が遠退き、いろんな物事の敷居が高くなっていっているのでしょう。
待ち合わせの場所に到着したら、彼の方が先に到着していたのですが、車の中に立てこもり中。
約10分お母さんが話をして、なんとか車から下りてきました。
下りてきて、話さえ出来る状況を作ってもらえたら、僕の出番。
(ここで下りてきてもらえないと僕の出番はなかなか来ないのです。出来るだけ僕は出張らない方が良いと思っています。親子で乗り越えられるのなら、その方が良いから。)
今日は親子で「乗り越える」体験も出来ました。
それも良かったです。
そこから時間を計算して、どう過ごすか組み立てます。
30分!今日の見立てはこのくらい。
その中で、話を聞いて、それに対して必要と思われる慰め、そこから励ます…。
そしたら、多分、後半は学習するしないはともかくとして、“僕の知る彼らしさ”を見ながら過ごせるようになる、という見立てで支援スタートしました。
慰めていくと、途中で背中の力が抜けたり、方の力が抜けたり…あとは顎あたりから力が抜けたりするのが目に見えて分かるタイミングというのがあります。
他にもいろいろと判断材料はありますが。
それを待って励ます。
ということをしました。
すると、今日は後半、自ら学習道具を広げて学習を始めました。
今日は「もし、分からんところがあったら声かけて」くらいにしました。
せっかく自分の足で歩く体験をしているのに、手出し口出しするのは野暮でしょ?
そうすると本当に分からないところだけ、尋ねてきて黙々と取り組みます。
そして、とても穏やかな表情、姿勢、声(鼻唄をうたっていました)で過ごします。
質問する際もキラキラした目で、尋ねてきます。
その間に、僕は保護者宛にお手紙を書きます。
どんな思いや考えをもって僕が彼とやり取りをしたのかを伝えておくために。
それも含めて僕の考えるサポート。
帰りには親子とも、ホッとした表情で車に乗って帰っていきました。
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