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2016年9月7日水曜日

味噌汁の食し方に感じた共感の入口

またまた共感、ということについて。

妻の作ってくれた味噌汁が、いつもと味が違いました。

そして美味しかった!
(妻の名誉と、何かの拍子に妻がこの記事を目にして、後から文句を言われないために書くけれど、妻の料理はいつも美味しいです笑)

妻によると普段は顆粒の出汁の素で、済ませるところを、息子の離乳食用に昆布と鰹節で出汁を取る機会があり、その残りを使って味噌汁を作ったのだそうです。

なるほど。

そして、その違いが分かることを誉めてもらえました(笑)
(正確に言うと、その違いが分かる味覚に育てた実家の母を)

まぁ、とにかくそういう味噌汁に関してやり取りがあったわけです。

それが共感とどう関係があるか?

僕の中では大有りなんです。

共感って、要は味わうことなんじゃないかな?と思うわけです。

自分や周囲に対して注意深くなって、共感する対象から伝わってくるものを味わうんです。

無頓着に、エネルギー補給さえ出来れば!なんて掻き込むようにして食事をしていても、違いには気づけなくなります。

あるいは自分の状態についても段々と無頓着になっていってしまう気がするのです。

一番身近な自分という存在について無頓着な人が、他人に共感など出来るはずないと思いませんか?

立場は全く違いますが、メジャーリーグで活躍するイチロー選手は、カレーを食べ続けているのは有名な話です。

自分の食べる早さ、味の感じ方…自分の状態を推し量るそうです。

自分に注意深く、自分に共感していくことの達人なんだと、僕はそう見ています。

そんな風に、自分自身のことを知っていくことで、共感する技術って培われていくと、僕は信じています。

味噌汁でなくても構いませんが、食事を味わいながらしてみてはいかがですか?

2016年9月6日火曜日

言葉を拾うのではなく、どう聞こえるか。とても大切な耳の傾け方。

楽しい話にしろ、大変な話にしろ、聞くときには、話し手の想いに耳を傾けることが何より大切です。

話の内容云々ではなくて、どう聞こえるかが肝心だと思うわけです。

「こういうことがあった」
「こんな思いをした」

と、様々な話し方をしてきます。
でも、その話は話し手の「体験したこと」であり「共感してほしいこと」とは限りません。

でも、話し手の言葉の端々、語気、表情、雰囲気に「共感してほしいこと」は含まれているはずです。

同じ事を体験しても感じ方は、人それぞれです。

ある人にとっては面白おかしい出来事が、ある人にとっては素敵な事であったり、ある人にとっては腹立たしい事であったり、ある人にとっては寂しい出来事であったり…するわけです。

話し手がどんな思いを持って話をしているのか、どこにどのように共感してほしいのかに耳を傾けることが大切なんだと思います。

そして、その部分を掴むためには「どう聞こえるか」という感覚的なこともあるいは必要なのではないか?と思います。

2016年9月5日月曜日

余裕が無くなると、自分が余裕が無くなっていることにすら気付けなくなる

生後半年ほど(我が子と比べても、そう変わらないから間違いないと思う)の子をベビーカーに乗せて押している女性がスーパーのレジで、僕の前に並んでいました。

購入しているものは缶ビール一本のみ。

旦那さんのかな?
それか子どもが寝た後の楽しみかな?

とくらいに思っていました。
(ミルクを使っていることだって想定できるし、ビールを飲むこと自体は構わないと思います)

でも、違いました。

その女性、会計を済ませて店を出たら直ぐにベビーカーを押しながら缶ビールを開けたのです。

家も近いのかもしれないです。

良いお母さんなんだと思います。
(実際に買い物の合間、店を出てからも子どもによく話しかけるようにあやしていましたし)

ほんの一場面見ただけで、そのお母さんが良いとか悪いとかは言えません。
生き方もあるし。

ただ、多くの人から見て、ベビーカーを押したママさんが缶ビールを飲みながら夕方の外を歩く姿は異様に映るはずです。

その一種の「異様さ」の中に自らを投じて、他者の目線に気づけなくなっている余裕の無さ、あるいは自覚していてもせずにいられない(後者なら直ぐに治療、ということになるのでしょうが)という状態であることは間違いないように思えます。

「大変!」「困った!」「助けて!」

こういう言葉が言い辛くなっている人に周りは気付いて、本当の意味の見守りができるような、声をかけられるような…そんな町であったり、輪であったりが広がれば良いのに…

支援者として、地域の1人として、1人の女性のパートナーとして、一児の父として…とにかくいろんな立場の僕が、今日の光景を見て寂しさを感じていました。

声をかけようか、と思う反面、最後まで責任を持てない関わりはするな、という板挟みを味わいました。

彼女の帰る先に温かい家族がいることを願います。

2016年9月4日日曜日

「こだわり」に「こだわらない」目線を持つ

自閉症スペクトラムの特性の1つに「こだわり」と言われるものがありますが、社会生活において不適切なものはもちろん、こだわりから離れさせる必要があり、練習する必要もあります。

社会生活に不適切なものは、いわゆる「問題行動」と言われるので、周りは一生懸命に働きかけをすることと思います。

それは大前提としておいておくとしましょう。

社会生活に不適切、とまでいかない「こだわり」について。

周りが危機感をなかなか持てないものについてですね。

不適切ではないのだけれど、端から見てて明らかに不自由しているであろうことを目にすることもあります。

そういう場合に決まって耳にするのが「こだわりですから」という言葉。

実際「こだわり」なのは確かです。
でも、支援者はあくまで「あ、この人との関係性の中で、そうあるんだな」くらいの目線でまずは見ることが必要なんじゃないかな?と思います。

「そうか、この子のこだわりか」なんて真に受けるばかりではなく、そのこだわりに対して、一情報として頭に置いておくにしても、まずは真っ更にして関わりを持って見ることです。

意外と「こだわり」抜きで、やり取り出来ることもあると思います。

それを「○○さんとだから」と括るのではなく、「こんな風にも出来る」とその子のこととして受け止めて欲しいのです。

意外と本人よりも周囲が「こだわりにこだわっている」ということもある気がします。

そう思わないと踏み込めない自分がいる、っていう話ですが(笑)

台風、どうぞお気をつけて過ごされてください。

2016年9月3日土曜日

刀の納め方いろいろ。

やることがハッキリしないのは不安なことです。

そうすると、本来は抜かなくて良い刀を抜くはめになります。

刀を抜くこと自体は悪いことではないですが、抜いた刀を納める術も身に付けなくては他人や自分を無闇に傷つけることになります。

そうなると抜いた本人は、自分に驚くばかりです。

その時に、一緒に刀を納める練習をしてあげるのもまた僕の仕事だと思っています。

やるべき事に向かわせる、という前提で僕の関わりはありますが、ゆったりとした自由時間の中で、刀を抜いてしまったときの納め方。
勉強していきたいです。

やるべき事がハッキリしているときの方が刀は納めやすいですが、やるべき事が無いときだってあるんだ、そういう学びを頂きました。

2016年9月2日金曜日

「愛」の反対は「無関心」。「無関心」の反対は「興味を持つ」じゃないかな?

前職場で「子どもに興味を持ちなさい」とずっと言われてきたし、後輩が出来れば言ってきました。

仕事で子どもと関わる以上、ただ「可愛い」だとか「好き」だとかいうだけでなく「知る」ことがとにかく求められるのだと思います。

支援者は保護者には勝てない、保護者代わりにはなれない、ということは、このブログでも再三書いてきています。

ですが、関わっている時間に関しては「一緒に過ごす時間については、保護者よりも知っている」ということを思えるくらいに子どものことを見て、考えていくくらいの気構えでいたいと思っています。

思い上がりとかではなく、必要性として。
僕と子どもとの関係性として。

どれだけ興味を持てるか、知れるかが「優しさ」と「甘さ」の違い、だということを教えてもらいながら仕事をしてきました。

「仲良しこよしである必要はない。子どものことを知れば、信頼関係は出来る」

いつだったか言われた言葉。
僕の活動と子どもたちとの関わりの原点です。

いつもニコニコの関係、ではなくて、いざというときに子どもの力になれる関係性を目指したいものです。


哲学で言うところの「愛」の反対は「無関心」です。

ということは「無関心」の反対に「興味を持つ」ということが、「愛」だとか「信頼」だとかに繋がる糸口なんじゃないかな?と思ったりするわけです。

2016年9月1日木曜日

「みんな」という言葉は「みんな」じゃない

「みんなに優しい」「みんなの居場所」という文句は、いろんなところで見聞きします。

でも、この「みんな」って結構限定的なんじゃないかな?と思います。

「みんな」って、結局「平均的」なんですよね。

例えば「みんなの居場所」「みんなに優しく」っていう言葉に、いわゆる不良少年なんかはほとんど想定されていないわけです。

「みんな」っていう一括りにするんじゃなくて、やっぱりその都度、誰を対象にしているのかをしっかり考えないといけないと思います。

「みんな」は全然「みんな」を指していないです。

誰に対してなのかをしっかり見極めて、不足しているところは、別に都度対応していくことがやっぱり必要なんじゃないでしょうか?