ページビューの合計

2016年9月5日月曜日

余裕が無くなると、自分が余裕が無くなっていることにすら気付けなくなる

生後半年ほど(我が子と比べても、そう変わらないから間違いないと思う)の子をベビーカーに乗せて押している女性がスーパーのレジで、僕の前に並んでいました。

購入しているものは缶ビール一本のみ。

旦那さんのかな?
それか子どもが寝た後の楽しみかな?

とくらいに思っていました。
(ミルクを使っていることだって想定できるし、ビールを飲むこと自体は構わないと思います)

でも、違いました。

その女性、会計を済ませて店を出たら直ぐにベビーカーを押しながら缶ビールを開けたのです。

家も近いのかもしれないです。

良いお母さんなんだと思います。
(実際に買い物の合間、店を出てからも子どもによく話しかけるようにあやしていましたし)

ほんの一場面見ただけで、そのお母さんが良いとか悪いとかは言えません。
生き方もあるし。

ただ、多くの人から見て、ベビーカーを押したママさんが缶ビールを飲みながら夕方の外を歩く姿は異様に映るはずです。

その一種の「異様さ」の中に自らを投じて、他者の目線に気づけなくなっている余裕の無さ、あるいは自覚していてもせずにいられない(後者なら直ぐに治療、ということになるのでしょうが)という状態であることは間違いないように思えます。

「大変!」「困った!」「助けて!」

こういう言葉が言い辛くなっている人に周りは気付いて、本当の意味の見守りができるような、声をかけられるような…そんな町であったり、輪であったりが広がれば良いのに…

支援者として、地域の1人として、1人の女性のパートナーとして、一児の父として…とにかくいろんな立場の僕が、今日の光景を見て寂しさを感じていました。

声をかけようか、と思う反面、最後まで責任を持てない関わりはするな、という板挟みを味わいました。

彼女の帰る先に温かい家族がいることを願います。

0 件のコメント:

コメントを投稿