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2016年9月12日月曜日

分からないときには真似をしてみる

こんな相談を頂きました。
「『子どものことを良く見てあげてくださいね』なんて言われても、子どものことはよくみているつもりなんだけど、見れているのか自信がないし、そもそもどこをどう見たら良いのか…」

ごもっともですね。

親子としてと支援としてでは見方が違いますから。

支援者は支援者の目で見ていくことだろうと思いますから、やはり保護者には保護者としての目線で子どもを見てほしいと思います。

で、そういう目線を持って何を見るか、というのははっきり言って、その人次第ということになるでしょう。

その人の中でのアンテナを張っていけば十分です。

そこで、実際にどんなことをしながらアンテナを張れば良いかというと「真似をしてみる」んです。

時おり(特につまずきを感じる場面で)真似をしてみると、やり難さや不自然さといった違和感を感じることがあると思います。

それに気づくのがはじめの一歩かと。

それからどうしたら、その違和感を取り除けるか考えていくイメージです。

その気付き自体が、その人の目線で良いという話です。

家族としての違和感、支援する人間としての違和感…それぞれ違います。
それについて考える、というのが子どもを見ていくということだと思います。

上手く説明出来ないけれど…。
なんとなくにでも伝われば。

雨の日の過ごし方が広がるかも!?

今日の宗像は大雨です。

雨の日の過ごし方って、障がいの有無に限らず難しいですよね。

出掛ける先も限られるし、買い物も雨の中荷物を運ぶのも大変だし…

その点、屋内プールは選択肢の1つになる、という声を保護者の方から頂きました。

泳げるようになってきたら、雨の日に「外で遊べないからプールに連れていって」と子どもが言い出したのだとか。

さすがに急なことで保護者の方の準備が出来なかったようですが、今までにない選択肢を子どもが見出だしたのが嬉しかったとのことでした。

ぐるんぱのプール指導は、一般のプールを一般の利用客として利用しながら指導していきます。

なので、余暇の時間に結び着くのだと自負しています。

習い事でスイミングスクールに通うとこうはいかないのかな?などと思ったりします。

プールに関してもお問い合わせお待ちしております。

2016年9月10日土曜日

今日の困ったこと、作文で書かせてみました

今日も放デイでの学習サポートをさせていただきました。

子どもが帰る時間になり、見送りをする際に1人の男の子が手を恥ずかしそうに控えめに振ってくれていました。

もう、今日は、それだけで満たされました。

どうやって距離感を詰めようか、と考えていて、今日の学習サポートでは、悩みに悩んで作文をすることにしたんです。

それが奏功したかな、良かったです。

作文は「今日の困ったこと」というテーマ(笑)
まだまだ文章を組み立てる前の段階として、僕の質問に対する答えだけを書いていくもので、原稿用紙を見たところで、とんちんかんな仕上がりですが、彼の思考の流れはしっかりと聞き取れたし、書き残してくれましたので、作文としての役割は十分でした。

そして何より、距離感を詰めるという僕自身の課題解決への糸口になりました。

彼の書く文字と表現の仕方、そういうものも見られました。

間違いなく次に繋げられるやり取りが出来て本当に良かったです。

また来週も会えるのが楽しみです。

自分らしく足掻けるか

Facebookを見ていると「自分の過去の投稿」というのが表示されるときがあります。

僕は、それをわざわざシェアし直すということまではなかなかしませんが、表示されたらだいたい見直します。

面白いんですよね。

自分の視点の変化、あるいは変わらないところが一目瞭然というか…

別の言い方をするなら、何を捨てて何をも持ち続けてきたかが分かるんです。

ただ、どの投稿も懐かしさもあってか、「僕らしさ」を感じます。

日々、雑務や所用に追われて「自分らしさ」を見失いがちという人は、過去の自分の軌跡が分かるものを用意したら良いかと。

「過去にはこだわらない」というのは、1つ大切な考え方かもしれませんが、自分らしさを見失って、いじけているよりかは、過去も含めて自分を振り返って、自分らしさってなんだったかな?と思い出す方がいい気がします。

何かを続けていれば、必ず上手くいかなくて足掻く時が来ます。

その足掻く時に、自分らしく足掻けるか?は結構大切です。

僕は少なくともそう思っています。

2016年9月9日金曜日

日常生活を疎かにしてはいけない

日常生活って、とても大切だと思います。

療育だ、訓練だ、と言って、どんなに頑張っても、日常生活のささいなところを疎かにしていては、生活が整うわけもありません。

食事の仕方、起床や就寝時間、小さいところで言えば靴を脱いだ時に揃えるだとか、洋服をきちんと着るだとか…

そういうところを雑に流してしまうと、落ち着くものも落ち着かなくなります。

生活のなかにこそ、生活を整えるヒントや必要な要素があると思います。

逆に言えば、日常生活そのものが療育になり得ると思います。

療育や訓練そのものを目的にするのではなく、あくまでも日常生活を少しでも良くする、豊かにするために療育や訓練があるのです。

それらをしていることで満足感に浸って終わってしまうのは本末転倒というものです。

日常生活と療育や訓練、この歯車を噛み合わせることで、初めて意味を成すと思います。

2016年9月7日水曜日

味噌汁の食し方に感じた共感の入口

またまた共感、ということについて。

妻の作ってくれた味噌汁が、いつもと味が違いました。

そして美味しかった!
(妻の名誉と、何かの拍子に妻がこの記事を目にして、後から文句を言われないために書くけれど、妻の料理はいつも美味しいです笑)

妻によると普段は顆粒の出汁の素で、済ませるところを、息子の離乳食用に昆布と鰹節で出汁を取る機会があり、その残りを使って味噌汁を作ったのだそうです。

なるほど。

そして、その違いが分かることを誉めてもらえました(笑)
(正確に言うと、その違いが分かる味覚に育てた実家の母を)

まぁ、とにかくそういう味噌汁に関してやり取りがあったわけです。

それが共感とどう関係があるか?

僕の中では大有りなんです。

共感って、要は味わうことなんじゃないかな?と思うわけです。

自分や周囲に対して注意深くなって、共感する対象から伝わってくるものを味わうんです。

無頓着に、エネルギー補給さえ出来れば!なんて掻き込むようにして食事をしていても、違いには気づけなくなります。

あるいは自分の状態についても段々と無頓着になっていってしまう気がするのです。

一番身近な自分という存在について無頓着な人が、他人に共感など出来るはずないと思いませんか?

立場は全く違いますが、メジャーリーグで活躍するイチロー選手は、カレーを食べ続けているのは有名な話です。

自分の食べる早さ、味の感じ方…自分の状態を推し量るそうです。

自分に注意深く、自分に共感していくことの達人なんだと、僕はそう見ています。

そんな風に、自分自身のことを知っていくことで、共感する技術って培われていくと、僕は信じています。

味噌汁でなくても構いませんが、食事を味わいながらしてみてはいかがですか?

2016年9月6日火曜日

言葉を拾うのではなく、どう聞こえるか。とても大切な耳の傾け方。

楽しい話にしろ、大変な話にしろ、聞くときには、話し手の想いに耳を傾けることが何より大切です。

話の内容云々ではなくて、どう聞こえるかが肝心だと思うわけです。

「こういうことがあった」
「こんな思いをした」

と、様々な話し方をしてきます。
でも、その話は話し手の「体験したこと」であり「共感してほしいこと」とは限りません。

でも、話し手の言葉の端々、語気、表情、雰囲気に「共感してほしいこと」は含まれているはずです。

同じ事を体験しても感じ方は、人それぞれです。

ある人にとっては面白おかしい出来事が、ある人にとっては素敵な事であったり、ある人にとっては腹立たしい事であったり、ある人にとっては寂しい出来事であったり…するわけです。

話し手がどんな思いを持って話をしているのか、どこにどのように共感してほしいのかに耳を傾けることが大切なんだと思います。

そして、その部分を掴むためには「どう聞こえるか」という感覚的なこともあるいは必要なのではないか?と思います。