基本的に支援ってこういう流れの中にあると思うのです。
それから、こういうことを何らかの形で記録に残していくことも大切だと思うのです。
でないと、仮説が外れたときに進路変更をする際の材料が不足して、支援の組み立てが出来なくなってしまいます。
例えば、こんなことがありました。
知的障害を持ち、言葉の少ない子どもの事例です。
「パニックを起こす」→「抱きしめてあげる」→「パニックが収まる」
という状況がありました。
支援者側としては、抱きしめることでパニックを鎮められたと捉えていました。
パニックの起こり方次第ですが、ケガなどの危険があるなら、それを防ぐことも大切なので、この手立て自体は、良いと思います。
でも、先があります。
パニックは抱きしめることで鎮められるということは確かなのですが、パニックの回数が頻発するようになってきました。
そのときに役立ったのが記録でした。
ある条件の時にパニックが起こりやすいことが分かりました。
それは、特定のAさんという支援者が支援に当たっているときでした。
Aさんがこの「抱きしめる」という手立てを講じていたのですが、それを支援者の意図とは違う形で子どもの方は、学習を重ねていたようです。
「パニックを起こす」→「Aさんが来てくれる」→「Aさんと関わる時間が得られる」
と。
パニックが人と関わるための方法になってしまっていたようです。
そこでAさんから、その子に対して「泣いたり暴れたりしなくても呼んでくれたら行くからね。」と伝えてもらって、人の呼び方を学習してもらうようにしました。
数ヶ月後、その子は、パニックを起こすことも減って、用事があるときや、暇を持て余してるときには、Aさんを含めて、人の袖や裾を引いて合図を送れるようになりました。
人って、自分の行動とその後の結果を結びつけて、学びを得ていくものですが、どこに着目するかで、学びは変わります。
よく「その人の立場で」「その人の視点で」と言います。
それって、こういうことだと思うのです。
相手がどう捉えたか。
それを考えることです。
良かれと思って講じた手立てが、中長期的に見たときにずれていたかも、と言うこともあり得るのです。
あるいはその場には相応しくないと言われるような行動を引き起こすことにつながっていることもあり得ます。
そういう時に記録があると、仮説、実践、検討がスムーズに行えます。
あ、パニック自体は表出行動の一つだと思っているので、それ自体を封じるということには、僕は慎重にありたいと思います。
そのパニックの出方、場面ということには気を配りたいと思います。
それから、パニックの原因や引き金が何になっているのかな?ということには敏感で痛いと思います。
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