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2017年11月7日火曜日

「お母さん」という存在

「お母さん」という言葉。

存在であって、一つの概念でもあります。


息子がこの「お母さん」について、ちゃんと理解し始めていることに気が付きました。

もちろん、「自分のお母さん」を見れば「ちゃあちゃん」という一人の女性を認識します。
他の女性を見ても彼にとっては「お母さんではない」のです。
当然です。

じゃぁ、他の人だとどうなのか?
今日、散歩で出会った親子を見ても彼の中に、「お母さんと子ども」という関係性は見えないようです。

僕が目の前の親子について「女の子」という呼び方と「お母さん」という呼び方をそれぞれすると、「お母さん」が自分のお母さんだと勘違いをして、きょろきょろと「自分のお母さん」を探し始めました。

けれど、保育園で「お友達のお母さん」を見て、その時に「お母さん」と言っても、自分のお母さんだとは思わないようです。
「○○ちゃんのお母さん」という認識を持つようです。

毎日のように顔を合わせる子同士、よく見ているんですね。
お互いのことを。

お友達にとって大切な、唯一無二の存在であるということを見取り、自分にとっては「お友達のお母さん」であるということを察するのです。
自分にとっては「お母さんではない」ということも。


それが初めて会う、短時間の交流相手だと、その関係性まで見取ることができないのでしょうね。
もう少し。

がんばれ、息子よ。

2017年11月5日日曜日

イメージを流していく

もうかれこれ一年半、僕のもとに作文の練習に来ている子がいます。

「文章」というものが苦手な子。
書くのも読むのも。

「文字」「単語」「文節」「文」までは、しっかりと踏みしめるように捉えるのだけど、「文章」になった途端、するするとこぼしてしまいます。

流れを掴めない。
流れを作り出せない。

そんな感じです。

思考としては、とても面白いものを行っていることが見てとれます。

けれど、どこか断続的で断片的。

今までもイラストを使ったり、図を描いたりして、彼の取り組みへのサポートをしてきましたが、なかなか手応えのあるものが掴めずにいました。

それが今日、まるで今までの点が繋がったかのように、伝わって、目に見える形で(原稿用紙上に「文章」として)表れました。

もう、これは嬉しかった。

本人も驚きと喜びいっぱいの顔でした。

そこで僕のすべき事は「実感を味わってもらう」こと。

ー出来た?ー
「出来た」

ー書けたろ?ー
「うん、書けた」

ー誰が書いたんだぃ?ー
「僕が書いた」

ー驚いたかもしれんけど、それだけ書ける力があったろ?ー
「うん、あった」

ー嬉しかろう?ー
「うん」

ーいやぁ~今日は、良かったね~。気を付けて帰ってね。ー
(ニコリ)

良い顔して帰ってくれた、こんなに嬉しいことはないですね。

2017年11月3日金曜日

なんてきれいな想像力

今日もある男の子とプールに行ってきました。

そしたら、僕が関わっている青年がご家族とプールへ来ていました。

当然、僕はあいさつをします。

すると、一緒に来た男の子が「永田さん、知ってる人なん?」と聞いてきました。
関わっている人だよ、と教えてあげると「ふーん、目がクリクリしてるよね。きっと子どもの頃は可愛い顔だったろうね」と。

もう、キュンキュンしちゃいます。

その青年、顔立ちも特徴、特性のある方なので、地域の中で一緒にいると中には「あの人なんだろう?」みたいな視線を投げ掛けてくることもあります。

そういう方と対面して「目がクリクリしてるよね。きっと子どもの頃は可愛い顔だったろうね」と言えるって、素敵だと僕は感じました。

プールで、どんなことをしてるの?と聞かれたので説明しても「バリすごいやん?プールが本当に好きなんやろうね」と。

彼のことを知っているかのように、想像力を働かせていきます。

なんか、そういう目と心を持ってるってだけで、「あぁ、この子は大丈夫だな」と思えます。

さぁ、頑張るぞ!

2017年11月2日木曜日

悪者に共感することは難しいのかもしれない

座間市で9人の遺体が見つかった事件。
極端だし、身近でもないので例に挙げるものとしては適切ではないかもしれませんが。

あの報道を最初に知って思ったこと。

「なぜ?分からん」

でした。
動機は捜査で明らかになるのかもしれません。
恐らく報道もされていくことでしょう。

その中で僕は流れてくる情報(限られてはいるけれど)の中で、容疑者に共感できるポイントを見いだせるのか?ということを考えています。

亡くなった被害者の方の情報はまだ、報道量としては少ないように感じます。
それでも、被害者側、あるいはその遺族の気持ちのほうが共感はしやすい気がします。


本当に極端な話でした。

こんな極端なケースでなくても、子どもたちと関わっていると、身近にトラブルやケンカというものとは結構遭遇します。

その際、絶対的な悪、みたいなものはなかなかないけれど、《大人から見て》「あなたが悪いでしょう」ということは、たまにあります。

その時、(これまた《大人から見た》)被害者(児)がいると、そちらに「辛かったね」「悲しかったね」と共感を示すことは比較的しやすいように思います。

前者の子どもたちには「諭す」「叱責する」ということが多くなって、「共感する」ということは、ついつい忘れがちにならないか、と考えています。


自分の価値観、とそぐわない「悪者(にされる人)」に共感するということはとても難しいものです。
それでも、その「悪者(にされる人)」だって「心」を持っていて、「心」に従って行動をとっているはずです。
たとえ、その行動が衝動的であったとしても、「心」があるはずなのです。

子どもと関わる仕事をしていく以上、目の前の子どもの気持ちには都度寄り添って、考えて、思いを馳せて、共感をしていけるように心がけたいものです。

2017年11月1日水曜日

「疲れないよ」

ちょっぴり気になる小学生女児K。

「今日は永田先生とは勉強しませーん」

と出会い頭に言い放ち、別室へ行き宿題をしに行ってました。

他の子のサポートを終えて、様子を見に行ったら、頑張っていました。

K「先生とはしませーん」

永田「いいよーだ。でも、側でお仕事しても良い?」

K「うーん…もう少し離れたところでしてー」

(なんだろうな、今日のこの感じ)

永田(50センチくらい離れて)「ここなら良い?」

K(コクリ)

黙々と宿題に取り組んでいました。

無事に宿題を終えておやつを食べに居間へ。

おやつを食べる時、煎餅の個包装を自分で開けられたことを喜んでいた彼女ですが、食べるときの座る姿勢がちょっぴり気になりました。

食べ終えたら支援員さんに「外に行きたいなー」と伝えましたが、スタッフの配置の都合で直ぐには行けないというお返事が返ってきました。

K「そしたら永田先生もダメなの?」

永田「僕で良いなら良いよぉ」

K「うん、いいよ」(即答)

(これは良いんだね)

外に遊びにいくと言ってもお散歩です。
心地よい風に吹かれながら並んで歩きました。

永田「気持ちいいねー、疲れも飛んでいっちゃうね」

K「Kはね、疲れないよー」

なんか、頑張るぞーっていう、ある種の決意を含んだような凛とした響きを感じました。

何か芯を持って踏ん張ろうとしているのかもしれません。

「疲れることもあるし、休んでも良いから、何かあればお喋りしよーねー」とだけ伝えて、散歩をしました。

そう言えば彼女とゆっくりこうやって宿題以外で過ごすのは随分久しぶりでした。

「ここにねー」「あそこにねー」

と最近の発見を沢山聞かせてくれました。

ありがとうね

歩く姿勢がすこーし前傾で、やっぱり頑張っている感じ。

でも、わざわざこちらから掘り起こしに行く、という、タイミングでも無い気がしたので、今日は途中で鬼ごっこを二人でしながら過ごして帰しました。
しばらく見守ってあげたいと思います。

「疲れないよー」か。
なんか今日の彼女の声の響きが耳に残っているので、備忘録的に。

スキンシップについてしっかりと考えるべきです

スキンシップが心身の発達や情緒の安定などにとって、大切、重要であるということは言うまでも無いと思います。

親密な関係の人同士のちょっとしたハグでストレス値が大きく減るということがあるくらいです。
そのくらいスキンシップ、触れ合いというのは大切に考えなくてはいけません。

心地よさ、温もりや優しさの行き来です。

ただし、「ただスキンシップがあれば良い」というものでもありません。

特に支援としてスキンシップを取り入れる際には丁寧に行うべきです。

支援者はどこがどのように触れたのかをハッキリと明確に感じながら、確かめながら行うと共に、相手の表情、仕草から相手はどう感じていて、何を求めているのかを探りながら行うべきです。

敏感でなくてはいけません。

それだけ重要なことですから、身体に触れるというのであれば、何を思い、何を狙い、何故触れるのか、どのように触れるのか…準備をしてから行うべきです。

スキンシップが互いの関係をより健全で親密なものにするものであるように、支援者はしっかりと考えるべきです。

2017年10月31日火曜日

オシイなぁ♪

今日はまた息子の体調がいまいちで、保育園を休ませて、日中は一緒に過ごしていました。
(夕方の支援が始まるときには妻の実家へお預け)

こんなことを書いていくと、親バカ全開で恥ずかしい限りなんですが…

うちの子、おもろいです(笑)

最近、高いところに手を届かせる為に踏み台を使うことを覚えたようで、ますます油断が出来なくなっています。

本当に知恵がついてきてます。
(オシイ事が多すぎますが)

オシイ1
僕が昼食の支度を始めたら、退屈してきたのか、なにやら始めました。

まず、彼が向かったのは浴室。
(もう既に僕の中では可笑しいんです。1人になった途端浴室に向かって、当たり前のように戸を開けて入っていきますから)

次に出てきたとき、彼は「(よ)いしょ!(よ)いしょ!」と掛け声を掛けながら、入浴時に使う腰掛けを部屋まで運んできました(笑)

そして、リビングの床に置いて踏み台にして、腰掛けの上に器用に立ち上がり…

踏み台が無くても届く高さにあるオモチャを屈みながら取りました(笑)

オシイなぁ♪

オシイ2
今度は夕食の下拵えの為に僕がキッチンに立ったときのこと。

調理台の上に大好きなバナナが乗っていることに気がついた息子。

タッタッタッと寄ってきて、キッチンに入ってきて「(バ)ナナ」と催促。
その時はあげることの出来ないタイミングだったので、「ないない。今はあげられませ」と伝えました。

(もう、いいよ!)と言わんばかりに僕の足を叩いて(笑)引き下がった…ように見えましたが、違いました。

キッチンの下にスーパーのレジ袋やらを入れている引き出しがあるのですが、そこを開けて、ビニール袋を大量に取り出し始めました。

お、腹いせか?と思ったのですが違いました。

片付けやすいように結んであるビニール袋をいくつか持ってきて調理台の前の床に置きました。

そして、その上に立ちました!

「あれぇ?あれぇ?」と首をかしげる息子。

もう、笑うしかありませんよね(笑)

袋って結んでいるときは、かさがあるように見えるじゃないですか?
多分、柔らかさとか計算に無いので、この上に立てばバナナに手が届くと思ったんでしょうねぇ。

オシイなぁ♪