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2018年9月24日月曜日

手応えとして、実感として持てるか?

ある男の子。
一緒に過ごしていると、「出来てた?」「これでいい?」ということを自信なさげに盛んに尋ねてきていた子がいます。

「いいね!!その調子だよ」と言っても「うーん…分からん」と答えるばかりで、「出来たね」と言っても「・・・」という感じだし…

人からの評価を気にしてばかりで、自分で実感として、自信として、自分のしたことを受け止める、受け入れるということが苦手なように見えていました。

評価以外の面でも「○○しちゃったけど大丈夫よね?」と(おぉ、そういうところも確認が必要か)とたまに驚くような確認をしてきていました。

そこでこちらから「出来てたろ?」という投げかけて、本人が「うん」とか「出来た」とかいう言葉を口に出せるような投げかけをすることにしました。

そういうことを続けてきて半年。
「今の見てたろ?良かったろ?」と彼の方から僕へ自信に満ちた表情で、話しかけてきてくれました。

この言葉、「僕に」認めて欲しいというより、「自分で」実感として、手応えとして味わえているニュアンスが強かったように感じました。



承認欲求っていうのは、誰もが大なり小なり持っているわけで、「自分ではない誰か」に認められるというのは嬉しいものです。

けれども、僕は「自分自身で」自分の行いを認めていくということは、とても大切だと考えています。

それが自らを成長させていくためのエンジンづくりの基礎だとも思っています。

自分づくり、土壌づくりだと思っています。

だから「すごいね」とか「頑張ったね」という表現よりも「ほら、出来たろ?」「続けられたろ?」みたいに本人に確認のために投げかけるという言い回しを選んで使っています。

特になかなか自信を持てずにいる子には。

「誰か」に認められるというのは確かにうれしいものです。
でも「誰か」が見ていないと出来ない、というのは不自由です。
寂しいですし。

だから「見ていても」「見ていなくても」出来るように、僕と過ごす時間は「一緒に」「分かち合いたい」と思っています。

僕からも称賛を送り、自分でも味わってほしいのです。

学習でもプールでも。




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