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2018年2月28日水曜日

「そだねー」

カーリングの女子日本代表の選手の「そだねー」がブームになりつつありますよね?

そのブームは子どもたちの間にも来ているようです。

えるそるむなかたの学習サポートでお邪魔しているとき、部屋で支援員さんと小学1年生のS君とのやり取り。

支援員「S君、そろそろ宿題しよーかー」
S君「そだねー」
支援員(苦笑)「Y君、おやつは座って食べようか」
S君「そだねー」
支援員「S君、宿題進んでないよー」
S君「そだねー」

ドッと場が笑い声でいっぱいになりました。

もちろん僕も乗っかりました♪

永田「口ばっかりで手が止まっとーよー」
S君「そだねー」

ドッ♪

おぬし、なかなかやるなぁ♪

2018年2月27日火曜日

子どもたちの成長を喜び、それを分かち合うこと

「こんなことが出来るようになりました」
「家でもこんな様子が見られます」

こんな風に保護者の方たちから、子どもの成長の様子を伺えるのってとても嬉しいです。

今日はCちゃんとのプールでした。

プールを始めて数ヵ月。
毎週、毎週少しずつ身体を拭く練習をしてきています。

そしたら今日、(僕の前で)初めて足を拭く動作が確認出来ました。

今まで、手を添えながら一緒に拭いてしていて、今日、彼女自身が手を動かす感覚を感じて、手を離してみました。

そしたら不器用ながらもゴシゴシと手を上下に動かして太ももの辺りを拭くことが出来ていました。

そのことを保護者へお伝えしたら、家庭での最近の変化を聞かせてくださいました。

もう、たまらんですね。

このちょっとした、本当に僅かなことかもしれませんが、この動作が他の扉をも開くきっかけになるかもしれないんです。

すごいね!拭けたね!

これを一緒に味わって…意欲と自信に結びつけてあげたいと思います。

太ももだけだったのが、スネまで拭けるようになって…
足だけだったのが、胴体も拭けるようになって…
腕も拭けるようになって…
頭も背中も…

そうなった頃、彼女の生活がどれだけ幅を持っているか、奥行きが増しているか、世界が広がるのか…

ワクワクします。

僕も自分の息子の成長を共に喜んでくれる方に恵まれています。
そして、それがとても嬉しくあります。

同じように、仕事で出会う子どもたちの成長をご家族の傍で分かち合えるような、そんな支援者でありたいです。

また来週待ってるよ、Cちゃん♪

2018年2月26日月曜日

「良い」「悪い」「適切」「不適切」だけで終わらせないで

子どもの言動に着目して「良い」とか「悪い」とかいうジャッジをしたり、「不適切」な言動を「適切」な言動へと転換するための手立てを講じることは…

まぁ、簡単ですよ。
比較的。

もちろん、地域生活を送る中で不自由さや孤立に繋がる言動については、具体的な手立てを講じていかなくてはならないでしょう。

だけど、それだけで終わらせては、“育ち”は起こらないと思います。

支援は“育ち”を促すものでありたいものです。

支援は、プラモデルを組み立てるのとは違います。

対象児者が“育ち”を、支援者と共に得ていき、後々は彼らも僕ら支援者も自ら歩を進めることの出来る、エネルギーのような、活力のような、意欲のようなものが内に芽生える…

僕は支援をそういうものにしたいと思っています。

支援者(特に実践者)は、評論家にならない心がけが必要だと思います。

褒める、と言ってもやり方は様々

褒める、ってとても大切なことだと思います。
「出来たね」「やったね」「すごいね」とその時々、場面、子ども一人一人によってかけるべき言葉も違いますし、その子へ向ける眼差しも違います。

プールを頑張っているEちゃん(ブログにも久々に登場です)、成長しています。

以前は「出来たね」「すごいね」というような周りにも本人にも明らかな“褒める”をしていましたが、ある種の信頼関係のような関係性も進んで、最近で(出来たね)を眼差しで送って、薄っすら笑みを交わすことで、出来たことを確認できるまでになってきました。

いろんな方法で“認めている”ということを伝えていきたいと思っています。

「これ」でないと認められている気がしない、というような錯覚。
「この方法」でないと確認できない、というのでは、コミュニケーションに偏りがある気がするのです。

「この方法」だけなら、多くの人と交流する必要ないですからね。

人の数を掛け合わせただけ、コミュニケーションもあるわけですから。


2018年2月21日水曜日

あれ「も」これ「も」

放課後等デイサービスえるそるむなかたでの学習サポート。

小学2年生のKちゃんと大学生の支援員さんのやり取りがとっても素敵でした。

Kちゃん、ここのところたまに「宿題に苦戦しているようです」という支援員からの報告もあったので、若干気にかけていた子でした。
けれど、僕が彼女のいる部屋に到着したときには大学生の支援員と一緒に宿題に取り組んでいるようでしたので、僕は他の子のそばへ。

僕がその子との学習を終える間際になって、何やら様相が変わってきました。

徐々に駄々をこね始め「もう!!!」と感情を爆発させ始めました。
鉛筆を投げて、つけていたマスクを投げ捨て、友達に当たり散らし、プリントも投げて…

Kは、今日は体調もイマイチだったのかもしれません。
マスクをしていましたし。

そんなKに大学生の支援員は上手に寄り添っていました。
しばらくは黙って彼女のやることを見守り、プリントを破ろうとしたときには「それはダメだよ」と優しく声をかけ、また見守りに戻り…。
(それを破かせてしまうと『破けたら戻せない』からプリントを目にする度にぶり返しちゃうだろうから、止めていいと思いました)

すると直に嗚咽を漏らすようにして泣き始めました。
Kにしてはとても珍しい泣き方でした。
でも…こういうと変かもしれないですが、その泣き方はこの場面では必要だったように思います(時間があればもう少し思い切り泣かせてあげたいところでした)。

その嗚咽が治まったころ、今度はK、鉛筆削りを取ることを大学生に「要求」したり、涙と鼻水で濡れたマスクを投げ捨てて新しいマスクを「要求」したり、そばに置いていたランドセルを片付けることを「要求」し、周りの友達にも静かにすることを「要求」していました。

この様子、僕は「宿題『も』思い通りにいかない」「周囲の環境『も』思い通りにいかない」「自分の思い(すら)『も』思い通りにいかない」…
あれ『も』これ『も』「思い通り」にいかない苛立ちと悔しさと寂しさ…そんな風に見えました。
それが後半は「要求」を通して、自分の「思い通り」を作っていって自ら落ち着こうとする様子のように見えました。

それに大学生がただただ付き合っていました。
それがなんか良かった気がします。

宿題も終わらせなくても良しとしたのも彼女のナイス判断だったと思います。

あれ「も」これ「も」思い通りにいかない日ってありますよね。

きっとKにとって、今日はそんな日で、それに寄り添ってくれた大学生先生は、必要な存在だった気がします。

2018年2月20日火曜日

アンバランスを正当化しないように

例えば更衣の場面。
“更衣が一人で出来ない”と一言で言ってもいろんな理由があるわけです。
目の使い方が分からなくて着替えられないのか、手の使い方が分からなくて着替えられないのか、で当然働きかけも違います。
あるいは両方ということだってありますから、どちらから取り組むのが良いのか、両方法を並行していくことが良いのか…

もしかしたらそういう機能的なことでないことが、躓きを生んでいることだってあるのかもしれません。

そういうことをトータルで見ていくことが、実際の支援には必要なんです。


バランスよくサポートをしないと、“出来るようになった『けど』”ということになってしまうと思います。


「どこかが治まるとどこかが飛び出てくる」みたいな話が出てくるケースに出会ってきましたけど、それって結局支援の在り方がアンバランスだったということでは?と思うのです。

なんかまるで「その子が持っている特性」かのように話をして、支援の正当化を図ろうとしてはいけないと思うのです。

支援の内容、タイミング、スピード、その他の環境…バランスを取りながら支援をして、上手くいかなかったことを、子どものせいにしなくていいような支援を考えていきたいものです。


今夜はつぶやき。

「支援」とか「実践」とか「そのほかの言葉」で「子どもの存在」を薄めちゃならない。支援者の集いについて(まだ書くんかい!しつこくね!?)

もう一記事、昨日の支援者の集いの件について。

様々な経験、得意分野、価値観、実践を持つ人間が集まった場で、いろんな話が飛び交います。

僕も「なるほど~」や「うーん…そうなのかな?」ということが当然あるわけです。


熱意を持った人の話や実践を聞いていると「共感」が行われたり、場でも話に出ましたが「感化」が起こったりするのだと感じます。
僕も、この仕事を続けて来られたのは、そういうものに突き動かされたということも恐らく原動力になっています。


これから場を継続していくにあたっては、いろんな人たちが現れることと思います。
いろんなものを持ってくるのだと思います。

「熱意」「やる気」「勇気」「希望」のようなエネルギーに満ちたものを持った人たちが来ることと思います。
(それだけじゃなくて「迷い」「落胆」「失意」みたいなものを持っていても「参加してみたい」という方は歓迎しますよ)


共感も感化も行われて良いんですが、一色にならないようにはしていきたいと思います。
「支援者の集い」の色、みたいなのはモザイク色で良いと思うので。
(そんな染まる人たちではないか^^;)


実践も支援観も子ども観も、無数にあるのだなぁ。
と当たり前のことを考えて、思うままに考えなしに、まとまらぬままに口を開いた場面もありました。
でも、そういう場にしていきたいと思います。


で、これ、今朝になって凄い感じていたのですが、昨日は「『支援者』の集い」で、支援者が集まって対話をする場面でした。

もちろん子どものことを真剣に考えている人たちの集まりなのでさほど心配はしていませんが、この対話が「支援者のため」“だけ”ではいけないと強く思います。
たくさん話して、専門用語も口にして耳にして、充実感を得ていきますが、これが「子どもの存在」に繋がるものにしていかないと、「対話」じゃなくなってただの「お喋り」になってしまうのだと思います。

「酔いしれるなよ」
「で?それ誰のためなの?」

勤めていたころに上司にずっと言われてきた言葉を思い出しました。

そう。
多分、それぞれの人がいろんなことを感じて帰って、共感も感化も、あるいは反発心もあったかもしれませんが、「その人のまま」で良い、という事なんだと思います。

子どもたちに向けて「ありのまま」を願うのと同じように支援者自身も「ありのまま」で良いのだと思います。
(もちろん学びは得ていくとして)


まぁた、まとまりのない雑記をしてしまいました(笑)