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2020年9月4日金曜日

相手に寛容さと興味を持たなくては、その先にできあがるのは閉鎖的なものでしかないでしょう?という話。

こういう仕事の仕方と業種の中に身を置いていると、いろいろな価値観を持っている人と出会います。

「子育て観」「教育観」「子ども観」「社会観」…

福祉と教育では取る立場と専門性が違います。
医療と福祉も、福祉と保育も…どれもこれも微妙に違います。

その上、「ここからここまで」っていうような線引きが学問と違って、現場にはなくて、狭間のような位置に身を置いている人もいます。
一人一人の価値観でその場で判断をして動くと言うこともあるかも知れません。

僕なんかはまさにそんなイメージかも知れません。
基本的には今ぐるんぱは一人でやっていますし、対象にする子どもも多様ですし、福祉の立場を基本的には取りながら“学習サポート”を提供したり、余暇活動の一環としてプール活動を提供していたりします。
隙間を縫うイメージですので。


“活動”とするか“仕事”とするかでもスタンスは変わるでしょう。

もちろん仕事以外でもプライベートな生育歴や自身の子育て、そういうものでも価値観は変わってくるでしょう。

一人として全く同じ価値観を持っている人はいないと言うことです。

活動や事業に「共感する」ということを言ってくださる方は、僕の周りにもたくさんいます。
それでも“全て”ではないはずなのです。

共感してくださる方であっても、僕の取る行動の中で、(今のはどうなの?)と思う場面はあるかも知れません。
逆も然りです。

僕が共感する人の行動でも、その人の全てを盲信的に観ることはありません。
「いいなぁ」と「そうかな…?」と思うことがあるわけです。


価値観が重なるところは良いのです。
問題は「そうかなぁ?」となったときです。

そのときに「信じられない!」という拒否感だけで相手を批判しても勿体ない訳です。
(僕だって「信じられない!」と思われることがあるだろうし、誰かの話や行動を観て「信じられない」と思うことはあるにはあります)

驚きつつも「ほぉ、そういう考え方もあるのか」「あなたはそういう学びをしてきた人なのね」と言う具合に、驚きの後には相手に寛容さを示すことが必要なのだと、個人的には思います。

もちろん、議論は起こって良いと思います。
そこで相手をコテンパンにするのではなく、相手の意図するところの本質を探るような配慮をしていかなくては、相互理解は深まりません。

相手の価値観や学び、専門性、立場を否定するだけでは、差別と変わりません。
多様性だとか個性だとか、そういう言葉を大切にするってそういうことからなのではないかな?

相手に寛容さを示しながら自分の歩みを進めていかなくては、結局その先に出来るものは閉鎖的なものでしかないと思うのです。

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