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2016年3月17日木曜日

「共感する」って特別なことじゃない

「共感してほしい」っていう思いになることって結構多いと思います。
感動したこと、腹が立ったこと、嬉しかったこと、寂しかったこと…

でも、正直「誰かに共感するのって怖い」って思う事ありませんか?
特に相手の怒りや寂しさ、辛さ…と言ったネガティブな出来事や話については。

巻き込まれたくない、面倒ごとを背負い込みたくない…なんて理由が頭をよぎること、ありますよね。

だから、例えばイジメで「見て見ぬふり」という立場の人たちが出てくるんだと思います。
火の粉をかぶりたくない。
とばっちりを受けたくない。
何が起こるか分からない。

不安とか恐れに似た直感に近いものが意識的にも無意識的にも働くことがあると思います。


僕もこういう感覚が働きます、しかも割と頻繁に。


そういう時に言い聞かせるのが「『共感すること』と『体験を共有』することは違う」ということです。

相手の立場や気持ちに共感しても、それが自分自身に起こっていることではないと言い聞かせて一歩踏み出す勇気をひねり出します。


以前の記事でも書いた気がしますが、僕は「共感は健全あるいは建設的であるべき」と考えています。
相手に共感しても、追体験するように巻き込まれたような感情になって流されるのは共感とは言えないと思っています。

「あぁ、もうこんな世の中嫌だ!死んでやる!」ってなっている人に共感しようとして「そうだよね、こんな世の中嫌だよね。わかった。私もいっしょに死ぬ!」というのは共感とは言えないですよね?

(極端な例だけど)

そうじゃなくて。

「あぁ、もうこんな世の中嫌だ!死んでやる」に対しては、「そうだよね、嫌だよね」と共感の意を示した上で「でも、私はこんなこと体験して『世の中捨てたもんじゃない』って思えているよ。一緒にそういう体験してみない?」っていう運びだってアリなんです。

相手の「死んでやる」という言葉に引っ張られるのではなく、「死にたい、って思うほど世の中に絶望しているんだね」という気持ちに寄り添って、次を探していくのが共感だと思います。

相手が大切であればあるほど、身近であればあるほど「言葉に引っ張られる」こともあると思います。



「ピーマン嫌い」
「そうだよね、苦いもんね。私も前は嫌いだったから分かる~。でも、こんな風に食べたらおいしかったなぁ」
だって共感だと思いませんか?

相手の言葉を受け止めて、自分の想いや考えも伝える、それが共感だと思います。

「共感」っていう言葉を使って書いてきましたけど、これって要はコミュニケーションですよね。

そう思うと、共感って特別なものでもなければ、怖がるものでもないのかな?

最近そう思えることがあるようになってきました。

独り言。

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