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2017年8月12日土曜日

「ケンカ」は「支援」になり得るのか?

お互い、であったり、場、であったりが対等だから「ケンカ」は成立するものです。

子ども同士のケンカも対等でないとなりません。
大人同士のケンカも対等でないとなりません。
子ども対大人のケンカも対等でないとなりません。

それに加えて「場」としてのバランスと言うか、調和がとても大切です。
これが崩れるとたちまち「いじめ」や「暴力」、「虐待」あるいは「○○ハラスメント」ということになります。

ケンカは人が二人以上いる場であれば、どこでも起こり得る可能性があるし、それ自体が悪という訳でもありません。

ケンカは自己主張のぶつけ合いです。

ケンカと暴力が混同されたり、良しとされずにケンカ自体を抑制する風潮もありますが…。

僕は子どもたちとケンカすることがあります。

ケンカは自己主張のぶつけ合い、と言いました。
子どもはケンカを通して相手との対等性について学びます。
自己中心性と協調性の折り合いを学びます。
発達には欠かせない行為です。

子ども対子どものケンカは「お互いの自己中心性の主張」であることが多い気がします。
大人対大人のケンカは「お互いの価値観の中での協調性の主張」であることが多い気がします。
子ども対大人のケンカは「自己中心性対協調性」であることが多い気がします。

そのケンカが「何対何」なのかを見極めることがとても大切です。
それが対等であるのか。

子ども対子どものケンカを見守る立場にある時には、対等に行われているかを見極めて、必要に応じて介入しなくてはなりません。

大人同士のケンカは…もう折り合いの付け方、着地点を見出だしながらやってくださいな。
基本的に僕の専門外ですが、子どもの関係する「夫婦喧嘩」にはかすっちゃうことありますけどね(笑)

子ども対大人のケンカは、大人が優位に立ちやすくありますから、「自己主張のぶつけ合い」ということを弁(わきま)えて意識的に大人が展開をしていくことが必要です。

子ども対大人のケンカについてもう少し。
仕事、支援としてケンカをする、ということがあっても良いと僕自身は考えています。
大人は感情を意識的に表出させて、いろんな感情に触れさせるということも僕は必要だと考えています。
感情的にならず必要なことを伝えるということも必要ですが、「人間味」みたいなところに触れさせることは大切です。

ただし、感情的になって、理性の範疇から離れた感情を見せるのでは「対等性」は保てませんから、あくまで意識的に。

エネルギーも覚悟も準備も必要になってきます。

「指導的」ではあっても「指導ではなく」あくまで「ケンカ」ですから、収束まで目指すのか、「お互いに考えような」というところを目指すのか。
「落としどころ」が肝心です。
子ども対大人のケンカでは対等性を保つために大人のリードが必要です。
(リードをする、ということで「対等」と言えるのか?と突っ込まれそうですが、支援としてのケンカでは、少なくとも必要です)

ケンカの先にあるものを見据えて、閉鎖的にせず、意識的に展開をしていくことが出来れば、「喧嘩上等」ってことになるんじゃないかな?

まぁ、いろいろご意見や批判はあるでしょうが、僕はそういう立場です。

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