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2017年9月14日木曜日

「習慣」に対する思い

多分僕は、「習慣」ということにある種の信念みたいなものを持ちなが仕事をしているのだと思います。

生活習慣、学習習慣、余暇の習慣…

そういう「習慣」の定着ということが日常生活に思いの外影響を与えているとも考えています。

良いと思う習慣は維持して、うーん…と唸りたくなる習慣は取り除いたり良い習慣に転換することを目指したり、必要と思う習慣の定着を目指したりしていくことにかなり重きを置いているように自覚しています。

この「良い習慣」「悪い習慣」。
僕の主観と言えば主観なのかもしれないけれど、子どもたちの困り感に繋がるかどうかは一つ基準にしているつもりです。

食事をするときには座る。
テーブルに座らない。
片付けをする。
手洗いをする。
この時間には宿題をする。
…。

大人から、特に保護者から見て「身に付けさせたい習慣」はいろいろあると思いますが、「僕や他の支援者の元を離れても孤立しない」ために必要な習慣を身に付けて欲しいと思っています。

食事のマナーが悪ければ「あいつとは一緒に食事したくない」と言われます。
片付けることを知らずに出しっぱなし、散らかしっぱなしにすれば、危険も出てくるし、結局本人が「どこに何があるか分からない」という困り感を持つかもしれません。
身だしなみを整える習慣が無いと小さいうちは「可愛い」だったのが、「あいつとはいたくない」になり得ます。

そういうことです。

宿題をしない、提出しないと場合によっては「どーせアイツは言ってもしない」と、信頼感を失うかもしれません。

そういうことです。

僕の支援の仕方の事に話を移すと、プールの利用マナーやルールを守ることも習慣にしなくては、居場所になりません。

学習も「永田となら出来る」というところからスタートでも良いですが、目指せる子であれば、「自分で向かう」が習慣になるように家庭学習の仕方を提案していきたいと思います。
一生付き合っていくような関係を築けたとしても、一生一緒にするということは無理ですから。

そういうところでは、妥協したくないと思っています。

「まぁいっか、他の誰かが言うだろう」にはしたくありません。
他の人も「まぁいっか」と思って学びの機会を得られなかったら?
そう思うと怖くて仕方がありません。

気になるけど言わないのは見て見ぬフリのことです。
そうするくらいなら関わりを止める、くらいに思ってもいます。

必要な時に思い切った踏み込みが出来るかは、日頃の関わりに依るところです。
普段言わずにいて、大事になったときにだけ出しゃばるのは、お互いに傷つくだけですから。

何でもかんでも習慣化するというのではないけれど、習慣があることで解消出来る困り感も実は多いのです。
それが豊かな人生に繋がる可能性もあるのです。

そうそう、忘れそうになったけど、子ども達の習慣だけじゃなくて、大人が「溜め込まない習慣」を身に付けることもとても大切です。
こういう風になったらヤバイな、こうなってきたら疲れているんだな、と自分にベクトルを向けて「気づく習慣」も、そうなったときに愚痴をこぼしたり、運動したり、歌ったり…「発散する習慣」も必要かもしれません。

僕自身はそういう習慣が身に付いてきています。


妥協しないとか、丁寧に関わりを持つとか、気づくとか、動くとか、溜め込まないとか、ブログを更新するとか…こういう働き方、支援の仕方も「習慣」次第。

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