障がいがあろうがなかろうが、地域社会で生活を送っていこうと思った際には、ルールを守ることは必要なんです。
でないと、居場所がなくなってしまいます。
僕はプール指導もしていまして、地域の屋内プールを「一利用客として」使わせてもらっています。
その際には特別な時間枠を設けてもらったり、専用コースを設けてもらったり、なんてことは一切しません。
一般の他のお客さんと一緒に、同じルールの中で使っていきます。
プールの中を小さな社会に見立てて、その中で上手に過ごす練習をしてもらいます。
でも、子どもたちはたまーにあるんですよね。
ルールを守れなくなってしまう場面が。
普段は守れている子が、何らかの要因があって、いつもと違う状態でプールに来て、ルールをつい破ってしまう、ということが。
プールサイドを走ってしまう。
飛び込んでしまう…
というようなことが(このくらい、正直なところ序の口です笑)。
もちろん最初のころには、プールでの過ごし方を知らない、分からない、という子もいるので、その際にはとにかく、都度伝えます。
(言葉であったり、絵であったり、一緒に体験するなり…方法はその子によります)
問題は、「普段は守れている子が守らなかった場合」。
僕ははっきり叱ります。
「おかしい」と。
そして、あまりにひどい場合にはその場でプール指導を中断して、プールサイドで「残り時間見学」ということも辞しません。
但し、その際に「嫌な思いをした」という体験だけにしてはいけません。
別に「罰」というわけではありませんから。
「ルールを守れないと使えない」という学びなんです。
それは別にその子に限った話ではなく、僕にも当てはまるし、他のお客さんだって同じなんです。
だから「ルールを守れない人は使えない」「今、プールで楽しめている人はルールを守っている人たち」ということを理解してもらわなくてはいけません。
これは障がいの重度軽度なんてことには関わりありません。
発語がなくとも、言葉での理解が難しい子であろうとも、その子に理解できる方法を使いながら伝えます。
そして、そのことをやるときには僕も一種の覚悟のようなものを持って行います。
見学という行為が「罰」にならないように、細心の注意を払いながら。
ルールを破った時には「だめ」と伝え、そのことと切り離して、今度はルールを守ることを伝える。
半端なことはしません。
一時見学させて、ほとぼりが冷めたら入る…それだと「本当は入りたいのに入らせてもらえなかった」という嫌な思いと「結局は入ることができた」という実に半端なことになりまして、ルールを守れないということがズルズルと複数回にわたってしまいかねません。
そうなると「永田とは楽しくない」ということになってしまいます。
あるいは「ルールを守らない→『半端な罰』」ということが習慣になってしまうと大変です。
なので、「何かを教える」時は本当に覚悟を持たないといけないんです。
僕も仕事を始めたころは、イマイチ踏み込めず、半端なことをすることも多かったです。
何回にもわたってプールサイドで子どもと鬼ごっこしていた時期もあります(笑)
でも、本当に彼らの居場所を作るという、僕なりの覚悟を持てるようになってきて半端なことも減ってきたと自負しています。
「罰」を使う人は「嫌な思いをする→その行動が減る」と思っているようです。
でも、「罰」となると大人が思うほどには効果は長続きもしませんし、行動の定着も期待できないんですよね。
むしろ「罰」の使い方によっては「しても良い行動までしなくなる」ということがります。
知っている子では、「してはいけない場所への落書き」をして罰を与えられたら「絵を描かなくなった」ということがあります。
ちゃんと「なぜここに絵を描いてはいけないのか」「絵はどこに描けばいいのか」などルールを教えられなかったためです。
「ルールの中でお絵かきを楽しむ」という学びが得られなかったんですね。
支援者側からすると「罰」で、即効性がある気がします。
だから多用したり、エスカレートしたりしがちなんです。
でもそれって「ビックリして固まっている」くらいのものなんです。
決して自分の行動を振り返ったり、考えたり、味わったりすることにつながっているわけではありません。
そんな風にならないように、「ダメなものはダメ」と教えて、「どうすべきか」ということを教えていくことを心がけたいものです。
お問い合わせ
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宗像市日の里4-4-11
ぐるんぱ
永田淳哉
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