僕自身も善意というものを立てて、何かに取り組むこともあります。
でも、善意のままに任せて何かに足を突っ込むということは、まずありません。
その物事について「覚悟を持てるか」ということは、一旦考えます。
この「覚悟」には備えとか、リスクとか、責任とか…そういうものを含んでいます。
それらを持たずに、取り組むのはかえって足を引っ張ったり、失礼であったり、あるいは危険であったりします。
僕も仕事柄、善意にあふれた人に会う機会はとかく多いです。
「ボランティアでも手伝いますよ」という声を頂くこともあります。
ありがたい言葉ではあります。
でも、そういう時には「いえ、お手伝いいただくからには、費用弁償程度はお支払いします。」と申し出ます。
それがある種の篩(ふるい)になっています。
無礼なことであるというのは百も承知です。
ただ、この申し出をすると相手の「覚悟」が見えます。
「いや、そんなお金もらうほどには責任持てません」なんて言葉が返ってくることもあります。
いやいや、金銭が発生しようがしまいが、責任感は持ってもらわないと困ります。
だから、そういう言葉が返ってくるときにはお断りをします。
被災地支援でもそう。
この場合、有償ということはありえないのですが、それでも「覚悟」は持たないと。
何を目にするか分からない。
汚い。
危険。
被災者の思いに触れる。
こんなものが付きまとうのが被災地でのボランティア。
「覚悟」がないと、迷惑になったり、自分自身が傷ついたり、誰かを危険にさらしかねないんです。
「今から被災地にボランティア行ってきまーす、イェーイ」なんてSNSに投稿している場合じゃないんです。
もちろん、投稿者の心のうちは分からないけれど、覚悟を持っているのかもしれないけれど。
「被災地がボランティアを受け入れを開始しました」というニュースが流れると決まって、「イェーイ」する人がSNSに現れる。
その投稿を見て「俺も行ってみようかな」という輪を広げるきっかけにはなるかもしれないです。
でも、「気軽に誰でも行ける」というニュアンスは排除しないと、被災地支援に行くということは自分もいつ「要救助者になるかわからない」ということ。
善意は大切。
それが第一。
でもそれとは別の次元で「覚悟」を持っていかないと。
「善意」とか「ボランティア」という聞こえの良いフレーズに乗っかった自己満足じゃダメ。
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