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2017年7月18日火曜日

善意だけでは足りない

善意ってありがたいし、思いの外、世の中にはあふれていて「世の中捨てたもんじゃないな」と思うことも多いのですが、「それだけじゃ足りない」と感じることも多いのも事実です。

僕自身も善意というものを立てて、何かに取り組むこともあります。
でも、善意のままに任せて何かに足を突っ込むということは、まずありません。


その物事について「覚悟を持てるか」ということは、一旦考えます。

この「覚悟」には備えとか、リスクとか、責任とか…そういうものを含んでいます。

それらを持たずに、取り組むのはかえって足を引っ張ったり、失礼であったり、あるいは危険であったりします。


僕も仕事柄、善意にあふれた人に会う機会はとかく多いです。

「ボランティアでも手伝いますよ」という声を頂くこともあります。

ありがたい言葉ではあります。

でも、そういう時には「いえ、お手伝いいただくからには、費用弁償程度はお支払いします。」と申し出ます。

それがある種の篩(ふるい)になっています。

無礼なことであるというのは百も承知です。

ただ、この申し出をすると相手の「覚悟」が見えます。

「いや、そんなお金もらうほどには責任持てません」なんて言葉が返ってくることもあります。

いやいや、金銭が発生しようがしまいが、責任感は持ってもらわないと困ります。
だから、そういう言葉が返ってくるときにはお断りをします。




被災地支援でもそう。

この場合、有償ということはありえないのですが、それでも「覚悟」は持たないと。

何を目にするか分からない。
汚い。
危険。
被災者の思いに触れる。

こんなものが付きまとうのが被災地でのボランティア。

「覚悟」がないと、迷惑になったり、自分自身が傷ついたり、誰かを危険にさらしかねないんです。


「今から被災地にボランティア行ってきまーす、イェーイ」なんてSNSに投稿している場合じゃないんです。



もちろん、投稿者の心のうちは分からないけれど、覚悟を持っているのかもしれないけれど。
「被災地がボランティアを受け入れを開始しました」というニュースが流れると決まって、「イェーイ」する人がSNSに現れる。

その投稿を見て「俺も行ってみようかな」という輪を広げるきっかけにはなるかもしれないです。
でも、「気軽に誰でも行ける」というニュアンスは排除しないと、被災地支援に行くということは自分もいつ「要救助者になるかわからない」ということ。

善意は大切。
それが第一。

でもそれとは別の次元で「覚悟」を持っていかないと。

「善意」とか「ボランティア」という聞こえの良いフレーズに乗っかった自己満足じゃダメ。



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