今夜は急遽中学生のお宅にお邪魔する予定が入りまして、22時過ぎの帰宅になりました。
中学1年生の男の子なのですが、夏休み後半からくたびれ感が凄いのです。
恐らくいわゆる「中1ギャップ」によるものです。
中学生になると、生活リズム、環境、人間関係、学習…様々なものが小学校の時分とは変わってしまいます。
それも急激に。
そのギャップによる苦悩や葛藤を総称して「中1ギャップ」と呼ぶようです。
ですが、「中学生」という像が僕が中学生だったころと比較して劇的に変化をしているか?と言えばそうでもないようにも見えます。
学習内容にしても、部活動の話を聞いていても、さほど驚く話は出てきません。
そんな中で、劇的に変わっているものがあるとすれば、それは、「中学生」という像ではなく、むしろ「社会」の方が変わったのではないかと思うのです。
インターネットの普及がまずは大きいと思います。
これは、ありとあらゆるものの速度を上げたと言っても過言ではないと思います。
手紙もメールになり、電話も携帯できるようになり…いつでもどこでも短時間でコミュニケーションを図れるようになりました。
裏を返せば、「人は待つことから遠ざかった」と思うのです。
人気店など話題になる場所へは行列を作って「並び」ますが、「待つ」ということではないようです。
並んでいる間には携帯ゲーム機やスマホで時間もつぶせますし、その場にいない人とコンタクトも取れて、「待つ」ということをあまり体験していません。
この社会全体の傾向として「待つ」ことから遠ざかったことが、子どもたちから「間」とか「余裕」とか「ゆとり」を奪っているように思えてなりません。
「ゆとり世代」なんていう言葉も若者を揶揄して言われますけれど、そもそもそれも当時の大人が勝手に設定したもので、そのしわ寄せを若者に押し付けているものですから、可笑しなものです。
子どもにとっての「間」とか「余裕」とか「ゆとり」はそういうものではなくて、のびやかで健やかでしなやかであるべきです。
彼のことに話を戻しますと、その「間」「余裕」「ゆとり」の無い、ある種の流れに飲まれまいと必死になっているようにも見える瞬間があります。
彼の抱える大変さは、彼自身の傾向とか癖とか、経験不足とか…そういうものも要因にはあるでしょう。
それでも、それとはまた別のところで「流れに乗らなければ」という義務感と「乗れるかな」という不安と「そもそも僕どうしたら良いの?」という混乱とに晒されているきがしてなりません。
これは、支援者としてかかわる以上、見過ごすことはできません。
この圧力で彼は生活リズムも体調も崩しがちになる日が続いていて、自分というものに対して実感を持てなくなっています(僕には明らかにそう映っています)。
目に見えるところとしては「自学」の手伝いなのですが、今挙げた圧力に押しつぶされないようにするということが僕の目的でした。
また、そんな我が子の姿を見ると保護者も心配になります。
電話でお話ししていただけで、声に強張りを感じました。
きっと心配で心配でたまらないのでしょう。
潰されまいと、もがく我が子をなんとか守りたい。
でもどうしたら良いのか…
そんな中で僕へ投げられたSOS。
取り付く島もない、という濁流の中にいたのかもしれません。
“島”と言えるほど頑丈なものではないかもしれません。
中州程度なのか、もっと弱弱しい辛うじて流れずにいる樹木程度なのかは分かりませんが、彼と彼の家族にとっての拠り所になれたら、という思いです。
終えた後、少しほっとした親子の顔を見られて僕も一安心。
…とは言え、まだ対処療法的支援しかできていないのも事実。
継続的に彼のサポートをしていく必要があると思っています。
安心して布団に入って、希望を持って目を覚ます。
そういうのが一番。
それを目指したいところ。
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