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2016年1月29日金曜日

世論として「死刑にしてしまえ!」なんて言葉はいらない

3歳児の暴行死事件で暴力団組員が逮捕されましたよね。
「ガンをつけられた」が暴行の理由だとか。
直前まで虐待の形跡が見られなかった、との話が出ていたが、理由もなく「ガンをつける」3歳児はいなかろう、と思います。
形跡は残らなくとも子どもにとって男は「怖い存在」であったことは間違いないと思います。
やはり許されるべきではない、と思います。
子どもの命を奪ったことは、身勝手極まりないと思います。
亡くなった子どもについては、その身勝手さによってこれからの時間を奪われたことが気の毒というのはもちろんです。

ただ、それ以上に、
「3歳にして人を憎むことを知ってしまった」
「3年という短い生涯の最期を人を憎みながら逝く」
というのが、あまりにも辛く悲しいです。
「どうぞ安らかに」なんて言えません。

この手の事件があると必ず「こんな奴、死刑にしてしまえ!」という声が、特にネット上では上がってきます。
どうしても許せない、という気持ちがそう言わせるのでしょう。
一つの主張としては仕方ないと思います。

でも僕はそこまでは言えません。
僕よりも10も若い男が、あんな事を「しなくてはならなかった」理由があるのか、と思うと「死刑にしてしまえ!」とは言えません。
「やってしまった」のではなく「しなくてはならなかった」のだと思います。
「死刑にしてしまえ!」という言葉が何を生むのか分かりません。

「やっぱ世間はこんなもの」と男が歪んだモノを持ち続けるだけです。
現行の法律で死刑になる確率は低いです。
恐らくまた刑期を終えて社会に戻ってきます。

そのときに「世間はこんなもの」と思いながら刑期を過ごさせるのか…と思います。

仮に、もし男に死刑判決が下り、執行されたとします。
今の風潮の中で、「世間はこんなもの」と言わせながら死なせるのか?と思います。

じゃあ、いつ反省するのか?
いつ自分のことを振り返らせるのか?

いえ、男の自業自得だということ、僕も分かってはいます。

でも…


死刑になってもならなくても「死刑にしてしまえ!」という風潮の中で刑を執行しても、意味がないのです。

刑は反省があってあるべき。
あるいは救いとしての刑であるべき。



僕は死刑制度反対派でもなんでもないです。
もちろん「死刑で仕方ない」という事件もありますし、僕自身そう思う事件もあります。

でも声をあげて「死刑にしてしまえ!」と言うのは違うと思うのです。

それはそれで、それぞれの中で秘めておけばいいもの。

世論として「死刑」という言葉は必要ないと思います。
他の声の上げ方をしなくては。

犯人の男が一人、世間を憎み続けるだけ。
あるいは憎しみながら逝くだけ。


この記事に関してご批判もあるかと思います。
身内でもない人間がきれいごとを並べているように、聞こえるかもしれません。

でも身内の人が犯人を憎むのと世論として「死刑にしてしまえ!」と言うのでは意味が違います。
僕はそう思います。

広い意味で「人を育てる」という仕事に携わっている以上、この立ち位置は譲れません。

「死刑にしてしまえ!」は不健全。
その言葉の後ろに良いものは育たない。



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