人って本来は成長したい、と願っているものだと考えています。
子どもも大人も。
そう思えない、というのなら、それは僕から言わせると「いじけてるでしょ?」ってところ。
「どうせ…」と。
失敗体験がそうさせているのか、誰かと比べてしまっているのか…勿体ないことです。
話を戻します。
成長したい、という気持ちが健全に働いていると継続するためのエネルギーが湧いてくると思うのです。
特に僕は子どもと関わる仕事なので、その意識は子どもにも向けていきたいと思っています。
「本当は成長したいんだよね」と。
駄々をこねようが、すねていようが…「成長したい」という気持ちを少し出しにくくなっているだけだと信じながら。
その一方で、一見「成長したい」と健全に思えているようで、そうでないケースもあって、こちらは少し注意が必要です。
周囲が見落とさない気配りが必要です。
例えば、かけ算の練習をしようと思ったら、足し算が出来なければ話になりません。
それを足し算が定着しきっていないのに「かけ算?すごーい!やってみたい!」と興味を示すという子がいます。
そういう場合、「足し算が出来るようになったらね」とか「足し算が出来ないとかけ算は出来ないんだよ」と教えて上げるのが教える側の役割だと思います。
アクセルばかりでなく、ブレーキを踏むことを覚えさせるように、ちょっと待ってね、というのは必要です。
それを「興味を示したから」というのは教える側も面倒になっている以外の何者でもないとさえ思います。
「あなたにはまだ早い」と伝えてごねるようなら、それは「これは私には出来ない。他のものなら出来るようになるかも」と、すり替えているだけです。
好きなものを探す、という意味では、他のものにチャレンジしてみるのも良いでしょう。
でも、学習など積み重ねが必要なものに於いて、それは有り得ません。
階段を一段ずつ上らなければなりません。
「あ!こんなのに興味あるんだ!それならそっちから取り組もう!」は、無計画過ぎます。
僕は剣道をしますが、基本練習をしてそれから試合に向けて練習をしていきます。
素振りには興味を示さないからいきなり試合やらせてみるか!とはなりません。
そういうことです。
でないと、興味本位の一過性で、継続など出来なくなるのです。
地力をつけるにはちゃんと段取りを踏まないと。
成長したい、と思っているのか、他で紛らわしをしようとしているのか。
その見極めは、教える側の役割です。
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