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2016年11月7日月曜日

障がい理解という言葉の持つ曖昧さ

障がい理解。
僕も便宜上、この言葉を使うことはあります。
その一方で、この言葉の持つ意味の曖昧さや、無意味さを感じることが多々あります。

どういう事かというと、僕もそうだし、他の支援をしている方たちもそうだと思うんですが、結局のところ「障がいという部分」を見るだけじゃ支援は行き詰まってしまいます。

「その人全体」を捉えないことには、どんな手法を以て支援をしても、空回りばかりになってしまいます。

同じ症状を持っていたとしても(厳密に同じということは当然ないですが)、ある人にとっては不自由さに繋がっていることが、ある人にとってはそうでないことだってあるんです。

その人の生活、文化圏によるところがとても大きいんだと思います。

極端に言うなら、アメリカに住む人が英語を出来ないのは不自由ですが、日本に住む人にとっては英語が出来ないところでさほど困ることはないのと同じです。

人と歩調が合わせるのが苦手な人でも、職人として自分のペースで黙々と作業をするという場に身を置けば、人と合わせられないことは障がいにはならないわけです。

ただ、その一方でやはり診断がつくような障がいの、その特性というものに対する理解が必要になる場面だってあります。

自分自身で壁を乗り越える術に行き着き安くするためであったり、周囲にとっては、サポーターという立場になったときにスムーズに事を運ぶためであったり…

障がい理解を深める。
実にフワフワとした言葉だと、感じています。

いえ、もしかしたら僕なんか比べ物にならないくらい勉強していたり、考えていたりする人にとっては、結構「障がい理解とは、こういうものだ!」みたいに、定義のようなものを持っていたりするのかもしれないけれど。

取り敢えず、今の僕にとっては「その人を知る」ということに含まれていたり、延長線であったりです…

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