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2017年12月3日日曜日

指導的立場を取りながら…

先日から夜に急遽訪問したり、保護者と面談したりしている中学生1年生のケース。

これまで一年半程、主に作文を通して付き合ってきました。
学校作文とは違う、オリジナルな課題を毎回出して、「自分作り」「表現って自由なんだ」ということを軸にしてきたつもりです。

作文なのに、外に散歩に出てお喋りする時間を取ったり、部屋中に付箋を貼りまくってネーミングごっこしたり、いきなりとある企業に電話してみたり…
いろんな体験を盛り込んで過ごしてきています。

そんな彼が中学生になってから生活全般で困り感を滲ませ始めました。

夏休み後半からは体調も崩しがちになりました。
心的ストレスが要因であることは察しがつきます。

思春期にも入り、自己を見つめ直したり、考えたり…いろんな思いや葛藤や体験を持つ時期ではあります。
反抗期みたいな時期に入ってきている兆しも見えなくもありません。

けれど、それだけじゃなくて、なんだか「均(なら)される」ことへの窮屈感が彼の困り感を生んでいるように感じられてなりません。

それが彼から自分で考えたり判断したり体験していったりすることの楽しみを忘れさせてしまっているように「僕には」見えます。

僕のもとへ来ても最近は一つ一つ「指示待ち」になっています。

「入って良いよ」
「座って良いよ」
「なら書くもの出そうか」
…僕が声を掛けなければ座ったまま僕を目で追いかけているだけです。
恐らく10分でも20分でも待ってしまうのではないかとさえ思います。

ただ、その姿が「声を掛けて」と待っているようで、そこに寂しさや困り感が伺えるので、声を掛けてきました。

そんな関わりを続けてきていましたが、彼の様子への反応を丁寧にするだけでは足りないと感じ始めたので、今日は、少し「お話」をしました。

自分で考えたり判断したりすること、目的意識を持つこと、時間というものの尊さ…

彼の自由や生きやすさを守るために「指導的」な「お話」をする…

価値観の押し付けになりはしないか…?
中学生という彼に、この話、この話し方で良いのか…?

そんな思いも頭には過りました。
けれど、僕という人間の世界観を伝えることすらしなくなったら、彼が僕と過ごす意味はなくなってしまいます。

指導的立場を取りながら、彼の自由な選択権を守っていけるか…大切な時期です。

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