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2015年12月6日日曜日

縄文時代の福祉から考える

新聞に面白い記事が掲載されていました。
もともと考古学者で我が子がダウン症であったことがきっかけで、古代の障がいについて興味を持ったという、上角智希さんが講演したということでした。

そもそも古代の障がいに興味を持つという視線が新鮮だったのですが。

縄文時代の入江貝塚から小児麻痺と思われる20代の女性の人骨が見つかったということも話されたそうです。
自由に歩けなかったであろう人が、あの時代に20代まで生きたのは周囲のサポートがあったからに他ならないと言います。
実際、その通りだと思います。

もともと人をサポートするってそういうところに原点があると思うのですが、法制度を整備に整備を重ねて、不自由さを生んでいる気がします。

僕が展開を目指すことは、「弱者を食い物にして」という声が出てきかねないことですが、法整備によって不自由になった隙間を埋めることが出来たら、と思うのです。

いろんなお声は、受け止めます。
そして秤にかけ続けます。

その中で必要だと思うものは貫くし、「そうだよな」と思えば潔く引っ込めます。
そうして必要とされるものを目指していきます。


縄文時代のサポートというのがどんなものだったか今日の記事だけでは想像しかねますが、恐らくその女性のケースで言えば、その人のことをものすごく考えながら周囲も働きかけをしていたに違いないし、本人も生き抜くために周囲との協調性というものを身に着けていったに違いないと想像します。

そうやって相互に寄り添う姿勢がとても大切だと思います。

今、たとえば街中で「みんなの○○」なんて言って、「誰にでも優しい」みたいなものが溢れていますが、この「みんなの○○」というのが危ないと思っています。

どこかに「こうしておけば良いだろう」という匂いが漂っている気がしてなりません。

絶対、そんなことってあり得ませんから。

もちろん施設として、設備としてそういうものを設置する意味とか意義は僕も承知していますが、思考が停止してしまうのが怖いということです。

「これで大丈夫」と言って精査をやめてしまうのは良くないです。

「これでも適応できないケースがあるかもなぁ」と思いながら改善していくことを考え続けなくてはいけないと思います。

例えばですが、トイレに「おむつ交換台」が設置されている場所がありますよね?

それも子供用なのです。

お年寄りで自分で交換できない人もいます。
それこそ麻痺を持っていてオムツに排泄する人もいます。
それ以外にもオムツを使用する人はいることでしょう。

あのおむつ交換台では本当に子どもしか交換できないのです。

そしてプライバシーが全く守られない、開けっ広げな場所に交換台がついている場所もあります。

「うちはこれだけバリアフリーに取り組んでいます」と酔いしれている場合ではありません。

もちろん無いよりかはあった方が良いです。
それは間違いないことです。
そして一人一人に合わせたものを用意するのも不可能だというのも分かります。

でも、おむつ交換台を大人も対応できるサイズで設置するとか、出来れば個室になるような作りだといいと思います。簡易的な間仕切りでも構いませんし、とにかくプライバシーを守るとか、そういうちょっと考えて作れば利用できる人がぐっと増えることだってたくさんあるのですから、考えることをやめてはいけません。

僕も、出会った子や親、その他の人と付き合いをする際には「これでいいや」と思わず常に精査し続ける視点を持ちたいと思っています。

ちょっとでいいです。
周りを見回してみてください。


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