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2017年1月22日日曜日

言葉の使い方も結局は自分自身に共感出来ているか?というところに繋がる話

言葉。

コミュニケーションツールとして、ごくごく日常的に使われるものです。
使ってみないと分からないものでもあります。

コミュニケーション。

人と人とを結び付ける、その為の行動、手段です。

障がいのあるなしに関わらず、子どもたちというのは、刺激的、乱暴というような分類をされる言葉を使いたがる時期があります。
学びの時期として。
「そんな言葉を使わない!」と子どもを叱ったことのある人も多いことと思います。

あるいは、言葉のチョイスだけでなく、語気、しゃべり方なんかについても気になって、指摘をしたことがある人もいるかもしれません。

「どこで覚えてくるのか…」と頭を抱える保護者も少なくありません。
そういうご相談が寄せられることは、珍しいことではありません。

これを辿っていくと、だいたいメディアに行き着きます。

(たまに子どもに聞いて回ります。
気になる言葉のルーツを、と思い子どもに聞いていってみたら、初めの数人は○○君が、△△君が、と言っていたのが途中でやはりテレビ番組名が出てきました。
他にもゲームが出てきたこともあります。)

刺激的、乱暴な言葉や言葉遣いになんで子どもたちが惹き付けられるのか?

反応が返ってくるから。

これに尽きます。

普通の言葉だとさらーって流れていくのだけれど、ちょっと乱暴な言葉だと「ん?ちょっと待って」ってなります。

それは対大人でももちろんそうですが、子ども同士でも同じです。

耳にすると「ん?」ってなります。
初めて聞くときには「どういう意味?」という反応かもしれません。
悪い言葉というより、純粋に言葉に対する興味として。
意味を知ってからは、傷付いたり、驚いたりして、「どうしてそんな風に言うの?」と嫌でも反応してしまいます。

そういう反応が、嬉しいのか面白いのか…相手を怒らせたり悲しませたり楽しんでいるようにさえ見えることがある…

確かに身近な大人にとっては悩みの種です。

「言われたらイヤやろ?」という話をすると「うん…」と答えてもなかなか治まらない、と。

怒られたり、喧嘩したり、友達同士でふざけあったり…
そういう相手の反応だけでないからです。
相手の反応から生じる「自分の中に起こる反応」を楽しんじゃっている子もいます。
少なくとも僕にはそう見える子達がいます。

「埋められる気」がするんです。
寂しさ、虚しさ、退屈さ…

それから「気持ち良くなってきてしまう」んです。
どんな刺激も次第に気持ちよさに繋がっていきます。
相手が過剰に反応すると、気持ちが「ザワッ」ってなりますよね?
その刺激が興奮となってしまうんです。
例えば自傷行為も、刺激が次第に気持ち良さ、快感に変わってきてしまいます。
それと似ているかもしれません。

相手が反応することで「埋められる気」がして、その反応から「自分の中に生じる快感」に繋がる…

そして反応、刺激っていうのは、段々と麻痺してきて、エスカレートする方向に向かうことが多いものです。

言葉について気になる子どもたちを通して僕が今感じていることです。

で、僕自身がそれに対してどう「反応」しているか。

最初に言ったように、コミュニケーションは人と人とを結び付けるものです。
その言葉では結び付けないことを伝えます。

それから、好ましくない言葉の印象を吹き飛ばすくらいのインパクトを持って、面白いこと、すっとぼけたことを言ったりしたりします。

「イヤな気持ち」になる、させる言葉であるという認識は多くの子が持ち合わせています。
それでも刺激、快感を求めてしまっている…逆に言うなら、好ましい言葉や対応で刺激、快感に繋がるものを届けたら良いんです。

元々「イヤな気持ち」になるというのは分かっているのだから、好ましい言葉でもちゃんと反応が返ってくることを伝えたら良いんです。
健全な気持ちよさで満たしてあげるんです。

もちろん指導的な話であったり、叱責も必要です。
でも、そういう事だけでなく、やはり日常的に健全な言葉とコミュニケーションで満たしてあげることが絶対に必要です。
「いけないことはいけない」と伝えるのは大切だけど、それだけだと足りないんです。
「じゃあ、どんなのなら良いのさ?」という子どもたちの言葉になっていない問いに、身近な大人としての答えというか、価値観を示してあげないと。

説明でなく見せてあげないと。
必要があればピエロのようにおどけてみせたりしながら。
僕なんか年中道化してます(笑)
(余談ですが、ロビンウィリアムスの『パッチアダムス』は、心を穏やかに健全な方向に向かわせるための関わりについて学ぼうと思ったときには良い作品です。)

乱暴な言葉、刺激的な言葉は自分に対する刺激を与える、自傷行為に似ているかもしれません、という触れ方を途中でしました。
だから止めてあげたい。

不健全な刺激を自分に与えたり、自分の中に生じる空白を埋めたり…

そういうことを繰り返していると、知らず知らずの内に、自己肯定感を損なっていきます。

人との距離、自分自身との距離を作ってしまいます。
使ってみないと分からないし、使ってみて学びになります。

言葉の学びで必要なのは、やはり「共感する」ということだと思います。
特に「自分への共感」。
その尊さを伝えられるか?どう伝えるか?

今の僕の課題かもしれません。

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