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2017年1月23日月曜日

「さて、この違い、どうしたものか…」と考えていくことが大切なんじゃないか?

こういう話を書くとフェイスブックなんかでも「いいね!」はつきにくいし、バッシングが来ることもありますが…今日はそんな話。



今日、ある方が「障がいがある方との関わりは苦手な方だと思う。そんなことを考えると自分は本当は冷たい人間なんじゃないか?と考えてしまうことがある」というような声を聞かせてくださいました。


とても優しい方なんだと思います。
そういう葛藤を持てるって。



僕の考えを。

存在、あるいは存在の一部を否定することが差別、と僕は位置づけています。



僕のことで言うとやはり今のところ「健常」という括りの中で生活していて、身体的、知的に障がいがある人とは異なる部分があるのは紛れもない事実。

「同じ」だなんてきれいごとを言うつもりはありません。


ここ数年の僕の中のトレンドのように頭の中にいつもある「文化」というキーワード。
それを使うのであれば、健常者には健常者の、障がいがある人には障がいがある人の、ある種の「文化」があると思うんです。

お互いが違う文化の中で生きていることを認知して、必要に応じて擦り合わせをしたり、譲歩したりされたり…困り感に合わせて、その関係性を都度検討していけばいいんです。




「あなたたちと私たちは違います」と言うこと自体が差別なんじゃなくて、その違いを否定することが差別なんです。
障がい云々の話でなくても、得意不得意を取り上げて否定すれば、それだって差別と同義です。


それから差別って他人に向けられるものばかりではないということも思います。
「僕は周りとは違う」と認識した面があるとします。
その後に「周りの人はダメだ」と言えばそれはもちろん差別ですが、「僕は他の人と違うから、これくらい許されるだろう」みたいなことだって差別だと思います。
周囲の文化に寄り添う意思がないですから。

それからこれは自己肯定感の延長の話ですが「僕はダメだな」と自己否定することも行き過ぎると差別のような響きを帯び始めることがある、というケースに遭遇したことがあります。
自分で自分を差別するという、傍から見ていても辛い状況です。
自分の認知した他との違いを悪意を含んだように否定し始める…言葉では説明しにくいですが、そういう事態にまで発展することもあるんです。
かなり特殊なケースですけれども。



違いを認知したら「さて、この違い、どうしたものか」と考えていくことが、まずは必要なんだと思います。
葛藤を持てるって素敵だと思います。

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