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2017年1月6日金曜日

点字ブロック上でのやり取りを見て

つい先ほど、視覚障害のある方が白杖を持って点字ブロックの上を歩いていました。
その向かう先に一人の男性が立っていて、点字ブロックの上に立っていました。
(別に、その男性はケータイをいじるなど何かに夢中になっているわけでもなく、ただ立っていた)


白杖が、男性の足にあたって男性はすぐに気付いて道を譲り、視覚障害のある方はそのまま歩いていきました。

何かしら言葉で、恐らくお互いに「すみません」的な言葉を交わしたと思われます。


この出来事を見て思ったことは2つ。

1つ目は「譲り合う」はやはり地域生活には欠かせないということ。
いろんな子どもたちと付き合っていると「譲る」ということが難しい子どもと出会うこともあります。
そういうことは当然、少しずつ譲れるようになるような練習を重ねていきます。

プール指導をしていると面白いですよ。
遊泳コースを使うので、泳ぐ人、歩く人、泳ぎを練習する人、お喋りをしている人…いろんな人がいろんなペースで利用しています。
すると真っ直ぐ泳げないという状況になることもあります。

「譲ってもらう」ことが当たり前になってはいけないんです。
こちらが進路を変えて泳ぐ、あるいは追いつかれたときには譲る、ということもしながら「お互い様」を学んでもらいます。

そういうことって、何気なく僕らもしているかもしれませんが、経験の積み重ねで出来るようになるものなんです。


2つ目は、意識改革が必要、ということ。
僕だって普段意識がどれほどか怪しいもので、これは僕自身への訓戒の意味も込めて。

多くの人が、広い歩道であっても無意識に点字ブロックの上に立ち止まってしまうというレベルなんです。
悪意があるわけでも何でもないし、それこそ「譲る」ということが行われれば大抵の場合、すーっと過ぎ去ることです。

でも先ほどの件を考えると「すみません」という謝罪(謝罪というほど大げさなものではないかもしれませんが)が交わされるわけです、お互いに。

「すみません」という言葉自体は大切な言葉で、使い方によっては人を上手に結び付けてくれるものだと思います。
だけれど、「すみません」が続くと、やはり気持ちは重くなってきます。
人と人の交流が億劫になることに繋がっていきます。


ずっと気を張っているわけにもいかないけれど、無意識レベルで「誰か」のために気遣いが出来ると、お互いに楽になるし、お互いのことをより知れることに繋がる…そう思います。


僕が地域で活動する意味ってこういうところにあると思っています。

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