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2018年1月28日日曜日

「現実」という言葉で子どもに窮屈な思いをさせてはいないか

さすがにネバーランドがあるとか、ドラコンボールの世界のように気を溜めて空を飛んだりかめはめ波を放ったり出来るようになるというような夢を見るような歳でもないし、まだまだ甘いにせよ「現実」の大変さやら理不尽さにも触れた経験も多少はあります。

でも!

でも!

僕は今でも夢を持ち続けています。

子どもをネバーランドのような場で囲ってしまうようなことは、それこそ虐待に近いとさえ僕は考えますが、夢を奪うようなこともしたくないです。

子どもたちの夢は基本的に応援したい、という立場を取ります。

「その夢があるなら、その為に必要なことはしていこうね」

という話もします。

いざ、選択するという段になって「誰もあの頃に言ってくれなかった」ということにはしたくないからです。

ただ、こういう話をする時に、自分の中で、とてもとても大きい葛藤が生じるのを感じます。

「現実」を教えるという一見すると至極真っ当な、でも実は大人の個人の身勝手な価値観で、子どもに窮屈な思いをさせてはいないか?
と。

「現実」は甘くないことも確かに多いです。

結果や数字を求められることも多いし、何かをしてみて「思っていたのと違う」ということも少なくないです。

「現実」という言葉を使うにせよ、子どもが夢も希望も意欲も失うことのないような、そんな関わりを目指したいと強く思います。

夢は持ち続けて良いと思っています。
だけど、持たなきゃいけないものでもにいです。
夢って自然に持っていったり、「あ、やっぱりこれ!」と変わったりしながらじっくりじっくり育むものだと思うのです。

暴力のように「現実」という言葉を振りかざすことはしたくないものです。

この数日、何故か子どもたちと「将来の夢」ということに繋がる話をする機会が続いています。

スゴくスゴく考えるのです。

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