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2018年1月23日火曜日

「怒られたくないからする」

「怒られたくないからする」というのは、動機としてはなんだか寂しい気がします。

判断の中に自分がいない気がするのです。

「怒られるから」「褒められるから」ということでするとかしないとかを判断するのは、小さい内ならまだしも、成長と共にそこから脱して、自分自身で価値判断をしながら歩みたいものです。

自分という存在をしっかりと捉えて、自分という存在をしっかりと信じて、「僕は(私は)、こうしたい」という意思を持って行動規準を持てるようになれれば良いなぁ、と自分自身についても思いますし、子どもたちについても願います。

「怒られたくないからする」

ある子が宿題についてそう漏らしました。

その子の話によると、お手伝いも、一人でお留守番も、食事を食卓に座ってするということも「怒られたくないからする」のだそうです。

なんだか、ちょっぴり寂しい気がします。

彼に対して、朗らかにしなやかに働きかけたり語りかけたり、そして何より耳と心を傾けたりしていきたいと思うところです。

もちろん、今の彼は今の彼で素敵です。
ただ、「あと一歩!」というところで楽しめ切れなかったり、「あと一歩!」というところで物事を手放してしまったりしているように見えるように僕には見えるし、思えます。

子どもとの関わりの中では、叱責が必要なこともあります。
けれど、褒める、認める、讃える、愛でる、というようなことが、叱責の10倍ぐらいあって良いと思うのです。

特に支援者としては。

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