僕が思うに、支援というのは、あくまで“支援”であり、それは“補完的”であるべきだと思うのです。
やはりベースは家庭です。
それがほとんどの子どもにとっての幸せだと思うし、そうであって欲しいと願っています。
ただ、その家庭というのが実に多様で、支援者の役割も多様になってしまうのですが。
僕も実際に日頃の学習やプールを通して見えてくる子どもの姿から「うーん、どこまで踏み込むかな…」と思いながら、かなりいろんな事に踏み込んでいるように思います。
踏み込んだからには投げ出さず、関わったからには責任を持って“支援”をしていきます。
だけども、やはり“補完的”であるべきとも考えていますので、支援開始当初はこちらで担ったことも、少しずつ家庭に戻せるものから戻していきます。
タイミングであったり、家族の心の準備であったりを待ちながら。
そう。
“待つ”というのがとても大切だし、辛抱がいるものです。
これを支援者の自己満足で「家庭より自分の方が」なんて傲りを抱いてしまって、家庭を置き去りにしてしまうようではいけません。
なんだか厳しいことを言っているように捉えられてしまうかもしれませんが。
「誰の子なの?」
ということです。
家族は支援を受けながら歩んでも構いませんが、支援任せにしてはいけません。
支援者も同様で、家庭が機能している内は、あるいは機能している部分は家庭に子どもを置いておくべきなのです。
その距離感の中で、信頼関係も絆も温かさも育んで、願いや目標などを共有していけたら良いと思うのです。
これが正解だとは言わないけれども、少なくとも僕の支援観の柱のひとつであることは間違いないというものです。
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